支配者は深淵の扉をこじ開ける

舞米

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53 【籠の中の鳥】

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僕の日常は、地獄と研究、そしてガイゼルという名の不可解な嵐の中で、奇妙な安定を保っていた。

訓練場での扱きは相変わらず僕の肉体を限界まで追い込むが、ガルドの加減のおかげで、もはや意識を失うことはなくなった。悔しいことに、体力も筋力も、何百年もの怠惰な生活では考えられなかったレベルまで向上していた。短剣の素振りも三千回をこなし、受け身も下手なりに衝撃を逃がせるようになりつつある。

夜の共同研究は、さらに深化した。

僕のダスト・スプライト同調能力と、ガイゼルの圧倒的な知識、そして彼の魔力補助。それらが組み合わさることで、『空間転移効率化』の理論は、ほぼ完成形に近づいていた。あとは、安定性を確保するための最終調整と、僕自身の精神力が、術式の完全な制御に追いつくのを待つだけだった。
ガイゼルとの関係も、相変わらず複雑怪奇なままだった。

彼は僕を「道具」と言い、「所有物」として扱い、僕の全てを管理下に置こうとする。銀の腕輪と足輪は常に僕の生命活動を監視し、彼は僕の体調に合わせて訓練メニューや食事内容を微調整していた。

だが、その一方で、彼の僕に対する接触は、明らかに「道具」に対するそれではなくなっていた。研究中に無意識に僕の髪を弄んだり、訓練後に僕の頬や額に触れて労うような仕草を見せたり。そして、あの僕の精神と繋がった時の、剥き出しの執着と、僕を失うことへの恐れ。

僕は、その矛盾した態度に戸惑い、苛立ち、そして…絶対に認めたくないが心のどこかで、奇妙な「絆」のようなものを感じ始めていたのかもしれない。

あの夜、彼が僕に読み聞かせた詩と、銀の鳥のオルゴール。
あれ以来、彼は時折、僕が興味を持ちそうな分野の希少な文献や、美しい工芸品などを、無言で僕の部屋に置いていくようになった。まるで、不器用な求愛の贈り物のように。もちろん、僕はそれを素直に受け取る気にはなれず、「こんなガラクタより魔導書を寄越せ」と悪態をつくのが常だったが。

その日も、地獄の日課はいつも通りに終わった。
今日の僕は、ガルドの投げ技を奇跡的に受け流し、初めて五体満足で訓練を終えることができた。まあ、その直後に別のメニューで床に突っ伏すことになったのだが。

ガルドは「ほう、少しはマシになったか」と珍しくほんの少しだけ僕を認め、いつもより少しだけ丁寧にそれでも荷物のように僕を部屋まで運び届けた。

「……風呂だ。明日はさらに負荷を上げる」
ガルドはそれだけ言い残し、去っていった。

カチャリ。鍵の音。

「……はぁ」
僕は、クッションの山に倒れ込み、大きく息をついた。

疲れた。だが、今日はいつもより疲労感が少ない。初めて訓練を「乗り越えた」という、微かな達成感もあった。

(……これも、あの男の計算の内か)
僕を壊さないギリギリの負荷で、確実に成長させる。完璧な飼育だ。

僕は、重い体を起こし、設置された豪華な浴槽に向かった。
汗と泥を洗い流し、新しい寝間着に着替える。
テーブルの上には、すでに温かい夕食が用意されていた。今日のメインは、僕の好物の、キノコのクリームスープだった。

(……餌付けが、うますぎる)
僕は、自嘲しながらも、それを美味しく頂いた。
腹が満たされると、心地よい疲労感と共に、強い眠気が襲ってきた。

今日は、ガイゼルはまだ来ない。おそらく、ギルドの会議か何かだろう。
ならば、彼が来る前に、少しだけ眠ってしまおう。
僕は、ベッドに潜り込んだ。黒猫が、すぐに僕の隣に丸くなる。

(……禁書庫、早く寄越せよな)
僕は、そんなことを考えながら、あっという間に深い眠りに落ちていった。

ここが「檻」の中であり、僕の命運は完全にあの男に握られているという「現実」を、その時、僕は、少しだけ「忘れて」いたのかもしれない。
それが、命取りの「油断」になるとも知らずに。

どれくらい眠っただろうか。
不意に、鼻をつく「甘い匂い」で、僕は意識を覚醒させた。

(……なんだ?)
僕の部屋で、こんな匂いがするはずはない。これは、香か? それとも…。
僕は、目を開けようとした。
だが、体が動かない。
金縛りにあったかのように、指一本、動かせない。

(……!)
魔術か!?


「……ようやく、お目覚めかな。眠り姫」
下卑た声が、すぐ近くで聞こえた。
僕は、声のした方へ、必死で眼球だけを動かした。
そこには、見知らぬ男たちが、三人立っていた。
黒い覆面をしている。だが、その目つきは、僕がスラムで何度も見てきた、獲物を前にした「獣」のそれだった。

彼らは、僕のベッドを取り囲み、僕を嘲笑うように見下ろしていた。

「……誰だ、お前ら」
僕は、かろうじて声を絞り出した。体は動かせないが、意識ははっきりしている。

「……どうやって、ここに」
ここは、ガイゼルの城の、最深部のはずだ。

「お喋りは後だ」
リーダー格らしき男が、僕の言葉を遮った。

「……まずは、大人しく眠っていてもらおうか」
男の一人が、何か小さな「瓶」を取り出した。中には、紫色の液体が入っている。

(……薬!)
僕は、最後の力を振り絞って抵抗しようとした。
ネズミを呼ぼうと、意識を集中させる。

だが、ダメだ。
この部屋には、おそらく、僕のスキルを妨害する「結界」のようなものが張られている。
あるいは、僕が吸い込んだ、あの「甘い匂い」自体が、僕の魔力制御を麻痺させているのか。

男たちが、僕の体をベッドに押さえつけた。
非力な抵抗は、簡単にねじ伏せられる。
僕は、何百年もの間感じたことのない、「絶対的な無力感」に襲われた。

鍛え始めたばかりの体力も、研ぎ澄ませた精神力も、この暴力の前では、何の役にも立たない。

「……さあ、これを飲めば、もっと『可愛く』なるぞ」
リーダー格の男が、僕の顎を掴み、無理やり口を開かせようとする。
紫色の液体が、僕の目の前に迫る。
甘ったるい、嫌な匂い。


(……やめろ)
(……誰か)
(……ガイゼル!)
僕は、心の中で、あの男の名前を叫んでいた。
僕を支配し、管理し、利用する、憎い男。
だが、今、僕をこの状況から救い出せる可能性があるのは、彼しかいない。

男の手が、僕の口に瓶を押し当てる。
僕は、必死で唇を閉じた。
だが、男は、僕の鼻を強くつまんだ。

「……っ!」
息ができない。
苦しさに、僕が思わず口を開けた瞬間。
とろりとした、甘く、そして焼けるように熱い液体が、僕の喉の奥へと、流し込まれた。

「――!?」
僕は、激しく咳き込んだ。
だが、液体は、すでに僕の胃の中へと落ちていた。
なんだ、これは。
体が、内側から、燃えるように熱い。
頭が、ぼうっとする。

「……よし。これで、しばらくは大人しくなるだろう」
男たちは、僕が薬によって抵抗力を失ったのを確認すると、僕の体を乱暴にシーツで包み、担ぎ上げた。

手足の銀の輪が、虚しく音を立てる。
あれは、ガイゼルにしか外せないはずだ。だが、今は何の役にも立たない。

「……どこへ、行く」
僕は、霞む意識の中で、尋ねた。

「……お前を、欲しがっている『お客様』のところへさ」
リーダー格の男が、下卑た笑みを浮かべた。

「……ガイゼルの『弱点』が、まさかこんな『綺麗な鳥』だったとはな。高く売れるぞ」

(……売られる?)
(……ガイゼルの、弱点?)
僕は、彼らの言葉の意味を、朦朧とする意識の中で反芻した。

そして、理解した。
僕は、ガイゼルへの「復讐」か「脅迫」のための「道具」として、攫われたのだ。

意識が、急速に遠のいていく。
最後に僕の目に映ったのは、僕の部屋の扉に、いつの間にか設置されていたらしい、小さな「転移魔法陣」が淡く光る光景だった。

彼らは、これを使って侵入し、そして、僕を連れ去ろうとしている。


(……ガイゼル)
僕は、再び、心の中で彼の名を呼んだ。

(……助けろ、とは言わない)
(……だが、お前の『所有物』が、こんな奴らに、好き勝手にされるのを、お前は、許すのか……?)
そこで、僕の意識は、完全に闇に沈んだ。


ただ、体の奥底で、あの忌ましい薬が、じわじわと、熱を帯びていく感覚だけを残して。








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