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58【壊れた境界線と、求められた熱】
しおりを挟む「……がい、ぜる……」
か細い声が、静かな部屋に響いた。
俺は、目の前の光景に凍りついていた。
ノアが、俺のシャツの裾を掴み、涙に濡れた紫の瞳で、俺を見上げている。
その瞳に宿るのは、恐怖でも、憎しみでもない。
ただ、壊れかけた子供のような、絶対的な「無防備さ」と、俺への「救いを求める」色だった。
俺の手には、薬の効果を打ち消すための解毒剤があった。
これを飲ませれば、彼の苦痛は和らぐはずだ。
それが、最も「合理的」な対処のはずだった。
だが、俺の体は動かなかった。
奴が、俺に「縋って」いる。
あの、常に反抗的で、俺の支配から逃れようともがいていた金色の鳥が。
今、自ら、俺に。
俺の中で、冷徹な計算と、熱い奔流のような感情が激しく衝突した。
こいつは、薬に侵されている。正常な判断能力はない。
俺は、こいつの支配者だ。所有者だ。
この状況を利用するなど、あってはならない。
俺の『道具』を、さらに壊してしまうだけだ。非効率だ。
だが。
シャツの裾を掴む、震える指。
涙で濡れた、白い頬。
熱に浮かされ、潤んだ紫の瞳。
浅く繰り返される、甘い吐息。
俺を呼ぶ、掠れた声。
その全てが、俺の奥底に眠っていた、黒く、粘つくような「独占欲」と「所有欲」を、激しく掻き立てた。
こいつは、俺のものだ。
俺だけが見ることを許された宝だ。
その宝が今、俺に、全てを委ねようとしている。
俺は、手に持っていた解毒剤の瓶を、音もなく、近くのテーブルに置いた。
そして、ゆっくりと、ノアの前に膝をついた。
「……ノア」
俺が名前を呼ぶと、彼の肩がびくりと震えた。
だが、俺のシャツを掴む力は、弱まらない。
むしろ、さらに強く、しがみついてくる。
「……あ……つぃ……」
彼が、途切れ途切れに呟く。
「……どう、したら……わから、な……」
薬による熱と混乱が、彼の思考を完全に奪っている。
彼は、ただ、目の前の俺に、本能的に「救い」を求めているだけなのだ。
俺の手が、動いた。
意思とは関係なく。
いや、これが俺の、心の奥底にあった「意思」なのかもしれない。
俺の手は、彼の涙で濡れた頬に、そっと触れた。
熱い。
まるで熱病に罹ったかのように。
俺の冷たい指先に、彼の熱が伝わってくる。
「……ん……」
彼が、心地よさそうに、目を細めた。
そして、俺の手に、自分の頬を、擦り寄せてきた。
まるで、飼い主に甘える、猫のように。
普段の彼からは、到底考えられない仕草だった。
その無防備な姿が、俺の中の最後の「理性」のタガを、外した。
俺は、彼の体を、ゆっくりと引き寄せた。
彼は、抵抗しなかった。
むしろ、待っていたかのように、俺の胸に、その顔を埋めてきた。
金色の髪が、俺のシャツをくすぐる。
彼の、熱い吐息が、俺の首筋にかかる。
「……がい、ぜる……」
彼は、俺の名前を、何度も繰り返した。
まるで、それが唯一の「安全な場所」を示す言葉であるかのように。
俺の腕が、彼の背中に回った。
驚くほど細い腰。震える肩。
俺は、彼を、強く、抱きしめた。
壊さないように。だが、決して逃がさないように。
俺だけのものだと、刻みつけるように。
「……ぁ……ふ……」
彼が、俺の腕の中で、甘い声を漏らした。
薬の効果が、俺との接触によって、さらに増幅されている。
彼の体が、俺の体に、熱を求めるように、擦り寄ってくる。
それは、もはや「懇願」ではなく、抗いがたい「本能」だった。
俺は、彼の顎に指をかけ、その顔を上向かせた。
涙に濡れ、熱に浮かされ、潤んだ紫の瞳が、俺を捉える。
その瞳には、恐怖も、抵抗もなかった。
ただ、ひたすらに、俺を求める「熱」だけがあった。
俺は、もう、止まれなかった。
止める気も、なかった。
俺は、彼の唇に、自分の唇を重ねた。
「……ん……!?」
彼が、驚きに目を見開いた。
だが、すぐに、薬による熱と本能が、その抵抗を溶かしていく。
彼は、俺の首に腕を回し、さらに強く、俺にしがみついてきた。
熱い。
彼の唇も、彼の体も、全てが熱かった。
俺は、彼を抱きしめたまま、ベッドの上へと押し倒した。
黒い絹のシーツの上に広がる、金色の髪と、白い肌。
熱に浮かされ、潤んだ紫の瞳。
俺だけを求める、甘い吐息。
それは、俺が今まで見てきた、どの景色よりも、
背徳的で、そして、美しかった。
「……がいぜる……もっと……」
彼が、掠れた声で、俺を求めた。
薬によって、思考が完全に溶けている。
だが、その「求め」は、俺の心を、強く揺さぶった。
俺は、彼の体に、深く、深く、触れていく。
彼が漏らす、甘い声を聞きながら。
彼が、俺の名前だけを呼び続けるのを聞きながら。
俺は、俺自身の、暗い「欲望」の渦へと、彼と共に、堕ちていった。
これは、『手当て』ではない。
『救済』でもない。
ただの、支配者の、歪んだ『所有』の、儀式だったのかもしれない。だが、俺の腕の中で、熱に浮かされながらも、必死で俺に縋りつく、この金色の鳥を、俺は、もう二度と、手放すつもりはなかった。
夜は、まだ、始まったばかりだった。
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