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4話
しおりを挟む晩餐会のホールは、水を打ったように静まり返っていた。
全ての視線が、ただ一点に集中している。
「影の当主」フェリクス・ラヴェンズワースが、今まさに、ヴァイパー子爵秘蔵のワイン――その実態は致死の呪毒――を口にしようとする、その瞬間。
ヴァイパー子爵の額には、脂汗が滲んでいた。
(飲め…そうだ、飲め!)
彼が手に入れたこの呪毒は、古代の魔術と希少な薬草を組み合わせて精製された、解毒不能の代物だ。いかに「完全無欠」と噂されるラヴェンズワース公でも、これを飲めば終わりだ。体内の魔力回路を内側から焼き切り、数分後には廃人となる。
(そうすれば、お前の持つ裏社会の利権も、王の信頼も、全て俺のものだ!)
フェリクスの蒼い瞳は、目の前の毒よりも冷ややかに、ヴァイパー子爵の浅ましい欲望を見据えていた。
彼は、嘲るかのように小さく口角を上げた。
そして、ためらいなく、グラスを傾ける。
深紅の液体が、その薄い唇の間を通り抜け、喉の奥へと流し込まれていく。
一口、また一口と、まるで極上の美酒を味わうかのように、ゆっくりと。
グラスが空になる頃には、周囲の貴族たちは息をすることさえ忘れていた。
(飲んだ!)
ヴァイパー子爵は、勝利を確信し、歓喜に打ち震えた。
フェリクスは空になったグラスを、カタリ、と音を立ててテーブルに置いた。
その仕草は、あまりにも優雅だった。
「…さて」
フェリクスが、何かを確かめるように、ふぅ、と息を吐く。
ヴァイパー子爵は、今か今かとその瞬間を待った。
苦悶に顔を歪め、喉を掻きむしり、その威厳に満ちた顔が崩れ落ちる瞬間を。
だが。
数十秒が経過しても、フェリクスに何の変化も訪れない。
「……?」
ヴァイパー子爵の笑みが引き攣る。
(なぜだ? なぜ倒れない? 効き目が遅いのか?)
フェリクスは、そんなヴァイパー子爵の焦燥など意にも介さず、隣に座るオフィールに向き直った。
「オフィール」
「はい、フェリクス」
甘やかな声で、オフィールが応じる。
その時、オフィールはごく自然な仕草で、フェリクスの胸元にそっと手を伸ばした。
それは、まるで恋人のネクタイの歪みを直すかのような、親密な仕草だった。
純白の、細くしなやかな指先が、フェリクスの礼服の胸元、心臓の真上あたりに軽く触れる。
他の貴族たちからは、また「愛人」が主に甘えているようにしか見えなかった。
(な、何を…! 人前で!)
(公爵様も、あんな男娼にうつつを抜かして…)
眉をひそめる者もいたが、誰もその行為の真の意味に気づかない。
オフィールの指先が触れた瞬間、フェリクスの体内では、恐るべきせめぎ合いが起こっていた。
体内に侵入した呪毒は、即座に彼の魔力回路と生命力を蝕もうと、蛇のように牙を剥いた。
だが、それよりも早く、オフィールの指先から、清冽で、しかし圧倒的な「浄化」の魔力が流れ込む。
それは、純白の光。
高位の魔物であるオフィールだからこそ行使できる、万物の穢れを祓う聖なる力。
フェリクスの体内で、オフィールの「白」が、呪毒の「黒」を瞬時に包み込み、分解し、無力化していく。
フェリクスは、その浄化の奔流を体内で感じながら、平然とした顔でオフィールの髪を撫でた。
「…どうだ、オフィール。今宵の料理は、お前の口に合うか?」
「いいえ。とても、まずいです」
オフィールは、こてん、と首を傾げ、フェリクスの胸に頬をすり寄せた。
その金色の瞳が、ヴァイパー子爵をちらりと見上げる。
「このワインも、ひどい味。まるで泥水みたい」
その言葉は、ヴァイパー子爵の耳には、自分への最大限の侮辱として聞こえた。
「なっ…!」
(効いていない、だと!? 馬鹿な! ありえない!)
ヴァイパー子爵は狼狽し、立ち上がった。
「公爵閣下! ご気分は…いかがですかな? そのワインは、少々『癖』が強いもので…」
声が裏返っている。
フェリクスは、オフィールの頬を撫でていた手を止め、ゆっくりとヴァイパー子爵に視線を向けた。
その蒼い瞳は、絶対零度。
威圧感、という生易しいものではない。明確な「殺意」が、ホール全体を支配した。
貴族たちは、まるで巨大な魔物の前に放り出されたかのように震え上がり、腰を抜かす者さえいた。
「癖、だと?」
フェリクスの低い声が、静寂に響き渡る。
「ああ、確かに。ひどい『癖』だ。まるで、どこの馬の骨とも知れぬ薬草師が、己の分もわきまえず、背伸びをして調合に失敗したような…」
フェリクスは、空のグラスを指先で弾く。キィン、と甲高い音が鳴った。
「―――泥水、だな」
オフィールの言った言葉を、そのまま繰り返す。
それは、ヴァイパー子爵の切り札であった呪毒が、フェリクスにとっては「泥水」以下の、取るに足らないものであったという、完全な宣告だった。
「そ、そん…な…」
ヴァイパー子爵は、顔面蒼白になり、後ずさった。
(俺の呪毒が…通じない…)
(なぜだ、なぜ「完全無欠」なのだ…!)
彼の狼狽は、彼自身が「呪毒」の犯人であると、満座の前で自白したようなものだった。
他の貴族たちは、愚かなヴァイパー子爵の行為と、それを赤子の手をひねるようにあしらったフェリクスの「力」に、ただただ戦慄するしかなかった。
(やはり、ラヴェンズワース公には、毒も呪いも通じないのだ…)
(あれが、影の当主の力か…)
(なんという御方だ…)
部下たちと同じように、貴族たちもまた、フェリクス・ラヴェンズワースという存在を「絶対無敵」の存在として、その恐怖と尊敬を骨身に刻み込んだ。
「…フェリクス」
オフィールが、フェリクスの袖を小さく引いた。
「飽きた。帰りたい」
「そうだな」
フェリクスは、まるで何事もなかったかのように立ち上がった。
そして、腰を抜かして座り込んでいるヴァイパー子爵を、ゴミを見るような目で見下ろした。
「ヴァイパー子爵。お前の『新たな門出』は、どうやら『終焉』だったようだな」
「ひぃっ…!」
「今宵の『泥水』の礼は、近いうちに、俺のやり方でさせてもらう」
フェリクスはオフィールの腰を抱き、呆然とする貴族たちの中を、悠然と歩き始めた。
彼が通り過ぎる道は、まるでモーゼの海割れのように、左右に開けていく。
後に残されたのは、絶望に顔を歪めるヴァイパー子爵と、ラヴェンズワース公爵への絶対的な恐怖だけだった。
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