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6話
しおりを挟むフェリクス・ラヴェンズワースが「掃除」を命じた夜は、奇しくも月が雲に隠れ、王都の闇がいつもより一層深くなる夜だった。
それはまるで、ラヴェンズワース家の暗躍を天が助けているかのようだった。
バルタス率いるラヴェンズワース家の私兵――「影」たちは、音もなくヴァイパー子爵邸を取り囲んだ。
つい数時間前まで、煌びやかな貴族たちが集い、虚飾に満ちた笑い声が響いていた邸宅は、今や主の絶望を映してか、不気味なほど静まり返っている。
ヴァイパー子爵は、自室に閉じこもり、震えていた。
(終わった…! あの男は本物だ!)
フェリクスの「泥水の礼はさせてもらう」という言葉が、死刑宣告として彼の脳にこびりついている。
彼は護衛を集め、邸の全ての扉を内側から固く施錠させた。
(だが、ここは王都だ! ラヴェンズワース公とて、公然と貴族を襲えるはずがない!)
(夜が明ければ! 夜が明けて、国王陛下に直訴すれば…!)
その淡い希望的観測こそが、彼が「影の当主」を全く理解していなかった証拠だった。
「―――時間だ。始めろ」
バルタスの低い号令と共に、「影」たちは邸内に侵入した。
鍵も、錠も、護衛も、何の意味もなさなかった。
彼らは煙のように現れ、風のように抵抗を無力化していく。
悲鳴を上げる暇さえ与えない。
ラヴェンズワース家の「掃除」とは、反逆者の存在そのものを、文字通り社会から「消し去る」作業だった。
護衛たちは的確に首筋を打たれて気絶させられ、使用人たちは一室に集められ、猿ぐつわを噛まされて意識を失っていく。
フェリクスの命令は「ヴァイパー子爵本人と、呪毒の流通に関わった者」の根絶やしだ。無関係な使用人まで皆殺しにするのは、効率が悪い。彼らは記憶処理を施され、王都から追放されることになるだろう。
「ひっ…! く、来るな! 私は子爵だぞ!」
自室の扉が音もなく開かれ、そこに立つ黒装束の男を見たヴァイパー子爵は、みっともなく床を這って逃げようとした。
「ヴァイパー子爵。我が主、フェリクス・ラヴェンズワース公爵閣下より、お前に賜る『礼』だ」
バルタスの声には、一切の感情がなかった。
「た、助けてくれ! 金ならいくらでも! 領地も…!」
「…お前の領地は、すでに我が主のものだ」
バルタスが冷たく言い放つ。
「何?」
「お前が晩餐会で公爵閣下をもてなしている間、すでに公爵閣下の名において、お前の領地の差押え手続きは完了している。お前の領民は、明日からラヴェンズワース公爵の庇護下に入る」
「そ、そんな…馬鹿な…」
ヴァイパー子爵の顔から、完全に血の気が引いた。
全て、仕組まれていた。あの晩餐会は、ただの罠の総仕上げに過ぎなかったのだ。
「公爵閣下より、お前に伝言だ。『不快な泥水を二度と口にできぬよう』―――」
バルタスが手を挙げる。
「や、やめ…! ぎゃあああああっ!!」
夜の闇に、一度だけ、獣のような絶叫が響き渡った。
だが、それはラヴェンズワース家の張った結界により、邸の外には一欠片も漏れることはなかった。
夜が明け、王都に朝の光が差し込み始めた頃。
ラヴェンズワース公爵邸の私室は、昨夜の血腥い出来事など嘘のように、穏やかな空気に満たされていた。
フェリクスは、昨夜の礼服ではなく、ゆったりとした室内着を身につけ、窓辺の椅子に座って書物を読んでいた。
彼の首筋には、純白の蛇がとぐろを巻き、安らかな寝息を立てている。
『月長石の蜂蜜酒』の効果と、フェリクスのそばという絶対的な安心感の中、オフィールは魔力を完全に回復させていた。
やがて、オフィールの黄金の瞳がゆっくりと開かれた。
「…ん…フェリクス…?」
蛇の姿から、ふわりと光が溢れ出す。
次の瞬間、フェリクスの首筋には純白の髪がはらりとかかり、彼の膝の上には、眠たげな顔をした人型のオフィールが座っていた。
「…おはよう」
「ああ、おはよう、オフィール。よく眠れたか」
フェリクスは書物を閉じ、オフィールの少しだけ跳ねた白髪を優しく撫でつけた。
「うん。すごく、よく眠れた。もう、不快な感じもしない」
オフィールはそう言うと、フェリクスの胸に顔をすり寄せ、クンクンと匂いを嗅いだ。
「…フェリクス、少し血の匂いがする」
その金色の瞳が、わずかに心配そうに細められる。
オフィールは魔物であり、その五感は人間の比ではなかった。バルタスがほんのわずかに持ち帰った「掃除」の残り香を、フェリクスが纏っていることに気づいたのだ。
「ああ、昨夜の『泥水』を掃除させたからな。その残り香が移ったらしい」
フェリクスは、オフィールを不安にさせないよう、穏やかな声で答えた。
「…もう、大丈夫なの?」
「ああ。全て終わった」
フェリクスはオフィールの細い顎に指をかけ、上向かせると、その唇に軽い口づけを落とした。
「お前を不快にさせたものは、もうこの世に存在しない」
「よかった」
オフィールは、その言葉の真意ヴァイパー子爵家が地図から消去されたことを深くは問わない。ただ、フェリクスが自分を守ってくれたという事実だけで満足し、嬉しそうに微笑んだ。
その純粋な笑顔を守るためなら、フェリクスはどれほどの血を流すことも厭わなかった。
コン、コン。
控えめなノックと共に、バルタスが私室の扉の外から声をかけた。
「ボス。昨夜の『掃除』、全て完了いたしました。ヴァイパー本人の身柄も、地下へ」
「ご苦労。…『霧氷花』の件は?」
「はっ。すでに専門の庭師たちをヴァイパー旧領地へ派遣しております。土壌の『浄化』が終わり次第、すぐにでも温室の建設に取り掛かれるかと」
そのやり取りを聞いていたオフィールは、フェリクスの首に腕を回し、喜びを隠せない様子で頬を寄せた。
「フェリクス、ありがとう」
「礼には及ばん。お前が望んだからだ」
バルタスは、扉越しに聞こえる甘やかな主たちの会話に、オフィール様がご機嫌なら、ボスの機嫌も良い。俺たちの仕事もやりやすくなると、安堵のため息をついた。
ラヴェンズワース公爵邸の部下たちにとって、オフィールの存在は、この冷徹な主を繋ぎ止める唯一の「光」であり、同時にボスの機嫌を左右する絶対的な指標なのだった。
「さて、オフィール。朝食にしよう」
フェリクスはオフィールを軽々と横抱きにして立ち上がった。
「自分で歩ける」
「いいから。お前はまだ、昨日の疲れが残っているかもしれない」
口実をつけて、ただ自分が触れていたいだけなのだが、オフィールもそれを知っていて、あえてフェリクスの首に腕を回した。
「そういえば、フェリクス」
「なんだ」
「『国王陛下』から、また呼び出しが来るんじゃない?」
オフィールが、楽しそうに言った。
「ああ。叔父上には、昨夜の『掃除』の結果報告と、ヴァイパー子爵家の後始末の承認を取り付けねばならんからな」
フェリクスは、面倒そうに、しかしその声には絶対的な自信をみなぎらせて答えた。
「まあ、また俺の膝の上で、適当にあしらってくれればいい」
「ふふ。しょうがないな、フェリクスは」
影の当主と、その唯一無二の白蛇。
二人の絶対的な信頼関係の前では、国の暗部も、貴族社会の陰謀も、全てが彼らの愛を確かめるための余興に過ぎなかった。
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