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30話
しおりを挟むその夜のラヴェンスワース公爵邸は、静かだった。
主であるフェリクス・ラヴェンスワースが、この数日間、王城あの老狐の叔父との政治的駆け引きと、その後のゲルハルトやオルブライト侯爵家関連の膨大な「後処理」に忙殺され、文字通り、心身ともに疲労困憊で帰宅したからだ。
彼は、食事もそこそこに、私室の寝室へと直行した。
もちろん、そこには、主人の帰りを待ちわびていたオフィールの姿があった。
「おかえり、フェリクス」
オフィールは、フェリクスが戻るまでの間、入念に身を清め、彼が最も好む、薄い白絹の寝間着だけを纏い、寝台の上で「完璧なご褒美」として待っていた。
主人が疲れている時こそ、自分の「魔力」と「体」で、彼を癒し、満たし、そして、自分も満たされるのが、二人の「日常」だったからだ。
オフィールは、疲労の色が濃いフェリクスの首に腕を回し、その冷たい唇に、甘く、ねっとりとしたキスをした。
「…フェリクス、おつかれさま。…僕が、疲れ、とってあげる」
その金色の瞳は、すでに熱っぽく潤み、明確な「誘い」の色を帯びていた。
その細い指が、フェリクスの堅いシャツのボタンに、ゆっくりとかけられる。
「…あ…」
だが、その指は、フェリクスの冷たい手によって、制止させられた。
「…すまない、オフィール」
フェリクスの声は、ひどく掠れていた。
「…今夜は、無理だ」
「え…?」
「疲れている。…もう、寝る」
フェリクスは、それだけ言うと、オフィールの誘いをこの数年間で、初めて明確に「拒絶」し、服もそのままに、オフィールを抱きしめるというより、枕のように抱きかかえると、その純白の髪に顔をうずめ、深く、重い寝息を立て始めた。
ものの、数十秒もかからなかった。
「…………」
寝室には、暖炉の火が静かに爆ぜる音と、主人の規則正しい寝息だけが響き渡った。
オフィールは、その腕の中で、目を見開いたまま、硬直していた。
(…ねた?)
(僕が、こんなに、待ってたのに?)
(僕が、こんなに、「準備」したのに?)
オフィールの思考が、混乱から、ゆっくりと「不機嫌」へと変わっていく。
性的な興奮は行き場を失い、体の中で、冷たい「不満」へと変わっていく。
フェリクスに触れられない。
フェリクスを満たせない。
そして何より、フェリクスに構ってもらえない。
(…つまらない)
(つまらない、つまらない、つまらない!)
オフィールの内で、性的な鬱憤とは別種の、もっと根源的な「鬱憤」が、鎌首をもたげ始めた。
魔物としての「エネルギー」が、有り余っている。
満たされなかった「熱」が、別の「熱」――すなわち、「狩猟本能」へと、変質していく。
(…そうだ)
(フェリクスが、構ってくれないなら)
(僕が、自分で「遊べば」いいんだ)
(…ああ、ちょうど、いい)
(少し、『おなかがすいた』)
オフィールは、その金色の瞳を、妖しく光らせた。
彼は、契約で繋がったフェリクスの精神が、ただの「疲労」によって、完全に「深い眠り」に落ちていることを、正確に感知した。
(これなら、バレない)
オフィールは、まるで水が染み出すかのように、音もなく、フェリクスの腕の中から抜け出した。
そして、寝台の脇、月明かりが差し込む床の上で、静かに立ち上がる。
彼は、人型の姿を、解いた。
ふわり、と純白の魔力が霧散し、オフィールの姿は、一瞬にして、あの純白の「蛇」へと変わった。
だが、それは、フェリクスの袖口で微睡む、あの愛玩動物のような「小さい蛇」ではなかった。
スルスル、と。
それは、体長が三メートルを超えるほどの、巨大な、戦闘的な「魔蛇」の姿だった。
その純白の鱗は、月明かりを浴びて、鋼鉄のように冷たく輝き、黄金の瞳は、もはや甘えの色など欠片もなく、飢えた「捕食者」の光を宿していた。
(この姿は、フェリクスには、絶対に見せたことがない)
(彼が好きなのは、小さくて、か弱い「愛人」の僕だから)
オフィールは、満足げに寝息を立てる主人を一瞥すると、音もなく、床を滑り始めた。
ラヴェンスワース邸の警備網は、そもそもがオフィールの魔力の影響下にある。彼にとって、この屋敷は「巣」そのものだった。
彼は、壁の「影」に溶け込み、物理的な法則を無視して、屋敷の最下層――地下水路へと通じる、秘密の排出口――へと、瞬時に移動した。
王都の地下には、地上とは別の「世界」が広がっている。
古い時代に作られた、迷宮のような下水道。
そこは、人間の法律も、フェリクスの「影」の支配も、完全には届かない、魔窟。
汚泥と瘴気が渦巻き、地上の残飯と、時には「死体」を求めて、下劣な魔物たちが蠢く、彼らの「狩り場」だった。
その、最も深く、瘴気が溜まった広大な空洞に、オフィールは、音もなく「現れた」。
ひんやりとした汚水が、彼の純白の鱗を濡らすが、その鱗は、一切の汚れを寄せ付けず、神々しいまでに白く輝いている。
(…いた)
オフィールの黄金の瞳が、闇の中で、数匹の「獲物」を捉えた。
それは、人間の子供ほどの大きさもある、「巨大な黒鼠の魔物」だった。
彼らは、オフィールの存在に気づかず、何か、おそらく、人間の死体の一部に群がっていた。
(あ、いたいた。今夜の『前菜』)
オフィールは、口元を歪めた。
その表情は、フェリクスの前で見せる、あの無垢な笑顔とは似ても似つかない。
獲物を前にした、快楽的な、残忍な「笑み」だった。
(さあ、遊ぼうか)
オフィールは、その巨体を、音もなく水中に沈めた。
鬱憤晴らしの「夜食」の時間が、今、静かに始まった。
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