不可思議の部屋小物語集

露木阿乱

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「呪い返しの護符」

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★これは、私がサラリーマンを辞め、フリーライターとして歩み始めた頃の出来事。壁に貼られた護符の文字は忘れたが、あの光景を今も思い出す。


 多分、今はもう無くなっているのだろう。あの場所には随分、長い間、訪れていない。
 そこは、東京、地下鉄の四谷三丁目から少し行った、わずかに江戸情緒の残る場所にあった。二階建ての木造モルタル造りのアパートのようなものがあって、十ある部屋の一つを除いて、小さな会社の事務所として使われていた。残りは大家の住まいで、年老いた女性が一人で住んでいた。
 当時、駆け出しのフリーのライターだった私は、そこにあった編集プロダクションに足繁く通っていた。プロダクションの社長は、Hさんと言った。社員はHさんの奥さんと、若い女性の二人だった。
 ある日、訪れた私をHさんは隣の部屋に連れて行った。隣と言っても、昨日、退去した会社の事務所だ。荷物などはなく机だけが残されていた。私を連れて行った意味が分からず、怪訝(けげん)な表情をしていると、Hさんは、ある場所を指差して、見るように指示した。そこには、奇妙な絵文字のようなものが書かれている札があった。縦長で二十センチ程の長方形をしている。
「これは何ですか」と聞くと、Hさんは、呪い返しの護符(ごふ)だと答えた。

「呪い返し?」

 Hさんの、話の内容を要約するとこうなる。大家のお婆さんは、この土地を呪われた土地だと信じているそうだった。

「江戸時代にこの場所にあった商家が、盗賊のため、一家皆殺しにされ、それ以来、ここに住居を構えるものに不幸が降りかかっている。現に、ここに事務所を構えた多くの会社が、倒産の憂き目にあっている。自分も夫と一人息子を事故で亡くした。この土地には、呪いがかかっているに違いない。そのために、ここに事務所を置く人には、呪い返しの護符を貼るように頼んでいる」

 とのことだった。しかし、Hさんの事務所には、呪い返しの護符は、見当たらなかった。
 Hさんは、「そんなの迷信だ。ここは安いから借りている」と笑った。
 ところが、バブルの崩壊後、不渡り小切手をつかまされて、Hさんの会社は倒産した。私も被害を受けたが、Hさんの落胆ぶりは見ていられないほどだった。特に奥さんの憔悴(しょうすい)ぶりはひどく、体調を崩し、呆気なく亡くなってしまった。
 会社の後始末を手伝った際、大家のお婆さんが、呪い返しの護符を壁に貼り付けていた姿が、脳裏に刻まれている。その時は、本当に呪われた場所があるような気がしていた。
 Hさんは九十過ぎだが、まだ健在(けんざい)だ。しかし、あの事務所の話はタブーとなっている。
 あの建物はすでに壊されて、マンションにでもなっているかもしれない。しかし、そこに住む人は幸せだろうか、と考えてしまう。
 見てみたい。
 はやる気持ちはあるが、不吉な予感のようなものが、私を押し留めている。
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