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「友人の看護師の恋人は、見えない患者さんだった」
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地方の3年制看護専門学校を出て、東京都下にある総合病院に就職したのは、今年の春のことだった。友人たちの多くは、郷里の病院に就職、東京に出たのはわずか数人だった。親類縁者があったわけではない。単に大都会で暮らしてみたかったからだ。就職と同時に、病院の職員寮に入寮した。たまたま、同時期に隣の部屋に入った斉藤千尋(さいとうちひろ)が、自分と同じ境遇だったことから、親しく付き合うようになった。病院は、六階建てで、私は三階の脳外科病棟に、千尋は二階の消化器病棟の担当となった。
職場の雰囲気は明るかった。とりわけ高齢者の患者が多い脳外科では、新人看護師に対する患者さんの反応は好意的で、何かと励まされることが多かった。
「鈴木風香(すずきふうか)さん。可愛い名前だね。新人さんは、名札が新品だからすぐわかる」
血圧や血糖値、点滴の扱いにも、少しずつ慣れてきた。先輩看護師の中には、仕事に厳しい人もいたが、いじめと感じることはなかった。半月ほどが経った頃の週末、千尋と私は、一泊二日の温泉旅行に出かけた。勤務先の病院は、新人の私たちにあまり無理をさせないように、慣れるまでは夜勤はなく、週に二日は休みを取ることができた。
「気になる患者さんがいるんだ」
温泉に浸(つ)かりながら千尋が告白した。看護学校では、患者と看護師の領域を超えないように教えられたが、プロに徹しようとしても、まだ若い。好みの患者には心惹(ひ)かれてしまう。おまけに、千尋は消化器関連病棟の担当だ。
「その患者さん、どんな病気で入院したの」
「腸の潰瘍(かいよう)。簡単な手術だったらしい」
腸の手術となると、看護師が患者の排便のチェックもすることになる。若い男性にとって、若い看護師に便をチェックされるのは、恥ずかしく、特別な感情を持つ場合もある。ただ、その時は、新人看護師とイケメン患者の、ありふれたエピソード程度に考えていた。
その後、千尋から、幾度か、その患者さんのことを耳にしたが、特に気にすることはなく、彼は退院してしまったらしかった。
半年が経過すると、仕事の内容や職場環境に慣れてきた私たちは、少しずつ夜勤を経験し、任される仕事も複雑なものになっていた。それでも、休日が重なった時は、千尋と二人で都内にショッピングや食事に出かけることがあった。
「付き合っている人がいるの」
食事をしている時、千尋がポツンと呟(つぶ)やいた。彼氏ができたにしては、弾(はず)んだ表情ではなかった。
「どんな人。病院内の人」
勤め先の病院には、リハビリの担当者や検査技師など若い男性も多い。そのうちの誰かかと思ったのだ。ところが、千尋は、
「例の患者さん」
退院後、あの患者さんから連絡をもらって、付き合っているというのだ。驚いたが、ありえないことではなかった。事細(ことこま)かに内容を聞いてみたかったが、千尋が話したがらないので、それ以上、会話が続かなかった。なんとなく、関係が順調にいっていない様子だった。
ある日、ナースセンターに、千尋の指導看護師が私を訪ねてきた。
「鈴木風香さんが、斉藤さんと親しいと聞いて」
「最近の千尋の様子に、気になることがあれば教えてほしい」
と聞かれた。
最近の千尋の様子がおかしいというのだ。単純なミスが多いし、時折、意味のない独(ひと)り言(ごと)を呟(つぶ)やいているし、パニックを起こすこともあるらしい。
最近は、私も業務をこなすことに精一杯で、千尋の様子に気を配ることがなかった。ただ、千尋には悪いと思ったが、元患者さんと付き合っているらしいことを話した。それを聞いた指導看護師が、
「そんな患者さんいたかしら」とつぶやいていたのが気になったが、それほど深刻なものとは考えてはいなかった。それでも、今夜、帰ったら、千尋の部屋を訪ねてみようと決めていた。ところが、帰寮後、電気はついているものの、ノックをしても千尋の部屋から返答はなかった。
翌朝、再び、千尋の指導看護師が、私を訪ねてきた。
千尋が出勤してこないらしい。携帯に電話しても返事がないらしかった。私も、昨夜の出来事を話した。
指導看護師は、それを聞いて、寮の管理人に電話を入れた。
千尋が、急病で倒れているのではないか、と考えたのだ。管理人の報告を待ちながら、指導看護師がつぶやいた言葉が気になった。
「斉藤さんおかしいのよね。あなたが聞いたという患者さん、いくら調べても存在しないの。斉藤さんに確かめたら、部屋やベッドの番号まで記憶していたのに、記録では存在しない患者さんなの」
「そんなことあり得ないです。私、千尋から、その患者さんのことを幾度も聞きました」
千尋の部屋を確認した管理人から、すぐに連絡が入った。
千尋はいなかった。
彼女の携帯はなかったが、荷物はそのままだったそうだった。
その日、以来、千尋の行方はわからなくなった。
幾度も電話をかけたり、メールを送ってみたが、全く反応はなかった。
警察も動いてくれたが成果は期待できなかった。唯一の手掛かりと言える、元患者そのものが存在しなかったのだ。
一年経過して病院では、数多くの患者さんが入退院していった。千尋が出会った、患者さんが、本当に存在したのか妄想だったのか、真実は深い霧に覆われてしまっている。
職場の雰囲気は明るかった。とりわけ高齢者の患者が多い脳外科では、新人看護師に対する患者さんの反応は好意的で、何かと励まされることが多かった。
「鈴木風香(すずきふうか)さん。可愛い名前だね。新人さんは、名札が新品だからすぐわかる」
血圧や血糖値、点滴の扱いにも、少しずつ慣れてきた。先輩看護師の中には、仕事に厳しい人もいたが、いじめと感じることはなかった。半月ほどが経った頃の週末、千尋と私は、一泊二日の温泉旅行に出かけた。勤務先の病院は、新人の私たちにあまり無理をさせないように、慣れるまでは夜勤はなく、週に二日は休みを取ることができた。
「気になる患者さんがいるんだ」
温泉に浸(つ)かりながら千尋が告白した。看護学校では、患者と看護師の領域を超えないように教えられたが、プロに徹しようとしても、まだ若い。好みの患者には心惹(ひ)かれてしまう。おまけに、千尋は消化器関連病棟の担当だ。
「その患者さん、どんな病気で入院したの」
「腸の潰瘍(かいよう)。簡単な手術だったらしい」
腸の手術となると、看護師が患者の排便のチェックもすることになる。若い男性にとって、若い看護師に便をチェックされるのは、恥ずかしく、特別な感情を持つ場合もある。ただ、その時は、新人看護師とイケメン患者の、ありふれたエピソード程度に考えていた。
その後、千尋から、幾度か、その患者さんのことを耳にしたが、特に気にすることはなく、彼は退院してしまったらしかった。
半年が経過すると、仕事の内容や職場環境に慣れてきた私たちは、少しずつ夜勤を経験し、任される仕事も複雑なものになっていた。それでも、休日が重なった時は、千尋と二人で都内にショッピングや食事に出かけることがあった。
「付き合っている人がいるの」
食事をしている時、千尋がポツンと呟(つぶ)やいた。彼氏ができたにしては、弾(はず)んだ表情ではなかった。
「どんな人。病院内の人」
勤め先の病院には、リハビリの担当者や検査技師など若い男性も多い。そのうちの誰かかと思ったのだ。ところが、千尋は、
「例の患者さん」
退院後、あの患者さんから連絡をもらって、付き合っているというのだ。驚いたが、ありえないことではなかった。事細(ことこま)かに内容を聞いてみたかったが、千尋が話したがらないので、それ以上、会話が続かなかった。なんとなく、関係が順調にいっていない様子だった。
ある日、ナースセンターに、千尋の指導看護師が私を訪ねてきた。
「鈴木風香さんが、斉藤さんと親しいと聞いて」
「最近の千尋の様子に、気になることがあれば教えてほしい」
と聞かれた。
最近の千尋の様子がおかしいというのだ。単純なミスが多いし、時折、意味のない独(ひと)り言(ごと)を呟(つぶ)やいているし、パニックを起こすこともあるらしい。
最近は、私も業務をこなすことに精一杯で、千尋の様子に気を配ることがなかった。ただ、千尋には悪いと思ったが、元患者さんと付き合っているらしいことを話した。それを聞いた指導看護師が、
「そんな患者さんいたかしら」とつぶやいていたのが気になったが、それほど深刻なものとは考えてはいなかった。それでも、今夜、帰ったら、千尋の部屋を訪ねてみようと決めていた。ところが、帰寮後、電気はついているものの、ノックをしても千尋の部屋から返答はなかった。
翌朝、再び、千尋の指導看護師が、私を訪ねてきた。
千尋が出勤してこないらしい。携帯に電話しても返事がないらしかった。私も、昨夜の出来事を話した。
指導看護師は、それを聞いて、寮の管理人に電話を入れた。
千尋が、急病で倒れているのではないか、と考えたのだ。管理人の報告を待ちながら、指導看護師がつぶやいた言葉が気になった。
「斉藤さんおかしいのよね。あなたが聞いたという患者さん、いくら調べても存在しないの。斉藤さんに確かめたら、部屋やベッドの番号まで記憶していたのに、記録では存在しない患者さんなの」
「そんなことあり得ないです。私、千尋から、その患者さんのことを幾度も聞きました」
千尋の部屋を確認した管理人から、すぐに連絡が入った。
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彼女の携帯はなかったが、荷物はそのままだったそうだった。
その日、以来、千尋の行方はわからなくなった。
幾度も電話をかけたり、メールを送ってみたが、全く反応はなかった。
警察も動いてくれたが成果は期待できなかった。唯一の手掛かりと言える、元患者そのものが存在しなかったのだ。
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