読心能力者

凪田

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物語の始まり

西園寺 結

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━━━、吐きそうだ。

うっと喉元までせり上がってくるそれを必死に呑み込む。
出すな出すな。頭で何度も唱えながらグッと堪えるために、人と人とで重なり合い、ガチガチに固定された体をカーブの際一瞬できた隙間で何とか身を捻って、震える左手で咄嗟に口元を抑えた。

セーフだ。全然セーフじゃないけど、口から何も出さなかったからOKである。

(…やばい、頭グラグラしてきた。これ酸欠もあるんじゃないだろうか。)

季節は7月上旬。
日本人にしては珍しい地毛の金髪を揺らした彼は、これまた珍しい碧眼の瞳をキュッと瞑った。
誰もが振り返る美しい容貌をしたその男は、季節に似つかわしくない長袖のワイシャツを着て、紺色のカーディガンの袖を捲ることなくシャツの上から身にまとっている。
下は少し大きめの黒のパンツ、靴は白のスニーカーを履いていた。
一見、都内の大学に通う普通の男子生徒にも見えるが、一箇所だけ普通の男子学生と異なる点がある。
それは両手である。彼の両手には一目で分かるほど質の良い、ハイブランド物の皮の手袋が装着されていた。
この時期に?と思うかもしれないが、人には人の事情がある。
これは彼の命綱であり、今現在の窮地において、唯一容態を緩和してくれる。
これは彼を救う必須アイテムでもあった。

彼…西園寺 結(さいおんじ むすび)は今、あまりの体調不良にその場に立っているのがやっとの状況である。指先は氷のように冷えているのに、滝のように汗が額や背中から滲む。
これは暑いからでは無い。体調不良からくる冷や汗だ。止まらない。
それは、決して満員電車で困るランキング堂々トップと言っても過言ではない、腹痛やめまい、酸欠から来るものでもなく、車内の冷房が効きすぎているからでも、もちろんない。
確かに密度によって感じる他人の汗の匂いや、香水などが混ざった匂いは誰でも不快ではあると思うが、それが直接的な原因という訳でもなかった。

彼の体調不良の原因は、他者から与えられる負の感情に影響を受けてのものである。
こんな悲惨な状況に巻き込まれている原因を頭の中で思い浮かべながら、前に立つ男の腕時計を盗み見れば、現在の時刻は午前8時5分。
目的地まであと10分を切っている現実が少しだけ心を晴らしてくれた。何とかなりそうだ。
頑張れ、頑張れ俺と自分を叱咤し、踏ん張るように足腰に力を入れる。

今乗っている電車は、この時刻、都内を回り続ける電車の乗車率が最も多いと言われる時刻である。乗車率は100%を優に超える時間帯だ。
冷静に考えても100%を超えるって普通に異常だろ。それもほぼ毎日。考えれば考えるほど頭がクラクラした。
俺のことを一般人よりも多少よく知っているくせに、この時間の電車に乗せるとは。鬼畜さは最上級だ、最低である。

まて、やっぱり吐く。気持ち悪い。

(クソっ、奴の頼み(命令)じゃなければこんな時間のこんな電車に誰が乗りたいと思うのか。死ねばーかっ!

やたら整った顔を思い浮かべながら悪態を着く。もういっそ次の駅で降りて歩いた方が早いのではないかとすらも考えたのだが、次の駅は降りる人々が少ない駅でもある。出るのにも一苦労しそうな状況に、それすらも億劫になった。

「…はぁ」

小さく零れた溜息は、誰にも気づかれることなく空気に溶けて消えて行く。
こんなに辛い車内というのは、基本的に負の感情しか持ち合わせていない。当然である、日本人というのは他人との距離が近いことに不快を覚える生き物なのだ。たとえ見た目が日本人に近くなかったとしても、物心着いた時には既に日本にいた俺も、当然その1人であった。

…残り数分、良くないことなのは理解しているが、気を紛らわせてやろうか。
どうせやってもやらなくても地獄だ。なら多少の暇つぶしはさせてもらおうかと意識を集中させた。

人は皆、簡単に他人の心が読めればいいと言う。
そうすれば、相手のことが分かるから羨ましいと。
俺はそんなに羨ましいならこの能力貰ってくれよとまで思うのに。無い物ねだりというのは誰も幸せにならないのである。
小さくため息をついて、力を抜くと先程まで結を取り巻いていた黒いモヤのようなものが徐々に浮かび上がり、文字になって、やがて声へと変わり波紋のように脳裏に響いた。

【…ほんと朝の満員電車ってなんでこんなクソなんだろな】

最初に頭の中に流れた声は、少し掠れた男性の声であった。
恐らくは目の前の若い男性の声だろう。
新卒といったところだろうか。営業?いや、事務員?接客では無いだろう。というのも染めた髪が、赤く派手な色をしていたからだ。
鞄などに触れたら職業は分かるかもしれないが、手袋は外したくないし、他人をそこまでして知りたいとも別に思わない。
そんな目の前の若いサラリーマンのお兄さんは、心の中で小さく呟いた。

【…一生慣れる気がしない】

その通りである。俺も二度小さく頭を振る。
こんな時間の電車なんて、呼び出しがなければ決して乗ろうとは思わない。
ぜひ国のお偉い様になってこの地獄を変えてください。心の中で男に合掌した。
続いて触れた人物も、その次に触れた人物も大概愚痴ばかりで面白みに欠けていた。
大体、満員電車の中など考え事は恨みつらみがほんどだ。
聞こえてくる声たちはどれもこれもイマイチで、勝手に読んでおきながら失礼すぎるかもしれないが、気など紛れる訳もない。

「っ、」

他所のことに気を取られていた俺は、カーブを曲がった衝撃で、左隣の人に寄りかかってしまった。
よろけた衝撃で、肘が触れているその人物へと今度は意識を移動させれば、お世辞にも綺麗だとは言い難い声が響いた。

【仕事マジだり~なんでうちの部長ってあんな怖いんだよ~いつまで俺怒られてんの?何で仕事なんかしてんだよ俺】

それはここが労働大国日本だからだよ。
年々上がる、どこの何に使われてるのかも怪しい税金という奴隷制度に身を委ね、今後貰えるかどうかも怪しい年金を収め続ける。
歳を重ね給料が上がる度に、何故か比例して上がる税金。プラスどころかマイナスになって行く。それを当然のように納めるのが社会人様。
またの名を社畜だ。これがジャパニーズ社畜。
とんでもねぇ国だわと目が泳いでしまった。
この続いて触れた人は中年の男性だったようだ。
お互い職務内容は全く違うと言っても、変わりなく上司には苦しめられるよな。
分かる。しかもその歳になってもまだ虐げられるなんてゾッとするわ。彼が思い描いている頭の中の典型的なパワハラ上司を盗み見ながら思った。

【ん?お!生JKの胸が当たっててラッキー。こんなおっさんに気があるのかも】
「きも」

思わず声に出してしまった。
少しでも同情したのがアホらしなった。
パワハラ上司も問題があるが、この男の人格にも多少問題がありそうだ。
ストーキングや犯罪と呼ばれる行為に発展しないことを祈るばかりである。
俺は中年のおっさんに胸が当たったという女性の方へ目をやれば、都内の高校の制服を身にまとった女の子が、長い黒髪をポニーテールにして携帯の画面を睨みつけていた。
何を見ているのかと思うのも束の間、予定している降りる駅の一つ前の駅に到着したことで車内が揺れ、携帯に集中していた女子高生がこちらにぶつかった。

【昨日の女優特集で映った林原いずみ…】

あ、こりゃ気づいてねぇわ。
女子高生は胸が当たったことすらも気づかずに、必死に画面の中のものを凝視しているようだ。
俺でも聞いたことのある有名女優の名である。
そういえば清純派を売りにしているのに、不倫がどうのこうのと世間を賑わせていたなと思い出した。
この子、男に脈があるどころか、眼中にもない。せいぜいそこの勘違い男に気をつけろよと考えていた時のことだ、胸元に強い衝撃が走った。集中していた思想が弾け飛び、思わず「うっ…」と声が出た。

「あ、すみません」
【チッ…女だと思ってわざとぶつかったのに男かよ。壁みたいな胸してると思ったわ】

どうやら俺に肘を立てて胸元にぶつかってきたらしい男は、同時に小さな謝罪の言葉を口にした。
その潔いほど早い謝罪に、反射的に「こちらこそ」と口にするより早く、結の頭の中には全く別の言葉が流れてくる。それは謝罪とはかけ離れたものだ。
明らかに目の前の男の声であった。
男の心の中、本心というやつである。最悪だ。
悪かったな男で。つーかどこどう見ても男だわ。
大体故意的に触れるのは犯罪だからなと内心思いながら、だがしかし、こんな狭苦しいところで余計な争い事は極力避けたいので、ぺこりと頭だけを縦に振った。

【金髪碧眼のエンジェルちゃんかと思っただけに残念。まぁ顔だけは好みだから抱ける。

前言撤回。社会的制裁が必要かこいつ。
気持ち悪い通り越して、ただただゴミ以下の存在にすら思える。
その言葉にさすがの俺も口が出た。

「…犯罪者予備軍と呼んでやろうか。キモイ目で見んな」

小さく呟けば、男が驚いたように目を見開いた。
どうやら図星だったようで、困惑の色を瞳に宿している。
ここまであからさまならば、触らなくても相手が何を思っているかなんてすぐ分かる。
驚いて動かなくなった男を、目をそらすことなく睨んでいると、ゴトンゴトンと次の駅に向けて動いていた電車が、やがて停止のために速度を落としていく。
残念ながら下車する時間のようだ。
早く降りたいとは思っていたが、こんな野郎に性的な目で見られて許せるわけがない。
物的証拠がないため、痴漢だとかどうのこうので駅員に突き出すことは俺には出来ないが、心の中で次会ったら覚悟しとけよ。しょっぴいてやるからなと呟きながら、押し流されるように開いた扉へと向かった。


彼の名前は、西園寺 結(さいおんじ むすび)

金髪に碧眼という、儚くも美しい姿をした、彼の名前である。彼は生まれながらに、特別な力を有していた。
誰もが羨む姿形をして、唯一無二の能力を持った青年。

人々はそれを【超能力】と呼ぶ。

肩、背中、腕、指先、足の先。爪の先でも、何処でも構わない。
自分と他者が触れた箇所から、溢れ出した感情や、その時に抱いている一番大きな想いを感じ取ることが出来る。また、時には対象は人物ではなく、物に込められた強い感情や、過去に触れた人物の最後の情景も盗み見ることが出来る。
残留思念という強い想いのことだ。
それらを吸い取るよう、全身に巡らせて、脳に理解させることの出来る力。

一般常識を覆すもの。

想いが強ければ強いほど、それは無差別に流れ込んで結の中に響くので、こちらからは逃れることが出来ない。
なんて厄介な能力だろうか。
持たない者が強く望み、惹かれるその能力は、持つものが最も望まない力でもあった。
意図せず流れ込んでくる感情というのは、とにかく居心地が悪い。醜く汚いのである。
きっと死ぬまで、この能力とは付き合っていかなければならないのろう。
果てしない未来にくらりとした。

彼は「読心能力者(サイコメトリー)」と呼ばれる力を持った、類まれなる存在である。
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