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●本編●
65.押し寄せる絶望、その果には…?
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初めて足を踏み入れたお母様の寝室、そこは未だに重苦しい空気に支配されていた。
何故かといえばお母様が倒れた原因が医師の診察のみではわからなかったからだ。
今この場にいる見慣れない人物、フォコンペレーラ公爵家の常駐医にして筆頭医師でもあるというのだが、癖が強すぎるもっさりした頭髪のせいで一見するともっさくてうだつの上がらない中年男性にしか見えない。
この筆頭医師が言うには、お母様が倒れられた原因は不明、けれど心労が溜まっていたから倒れたのではないか、とのこと。
そしてその原因に心当たりはないか、そうお父様に問うていた。
はっきりと聞き取れたのはここまで。
それ以降は、何と言っていただろうか…わからない。
それにお父様は何と答えていただろう?
『ある。』と、そう答えてはいなかったか?
今の私には良く聴こえない。
音なのか、言葉なのか、今の私の耳には判別がつかない。
何かが遠くで響いている感じは受け取れるのに、それが何なのかがわからない。
どの音も遠すぎる、まるで水の中で聴く音みたいに反響が鈍くてつかめないのだ。
その上ドクドク響く逸りすぎた心音はおさまる気配もなく、未だに耳の中でがなってもいる。
耳の異常もさることながら、視界にも異常が見られるからなお厄介だ。
回帰の記憶が投影された幻影も今だに見える、その上更に、輪をかけた異常が追加されたのだから事態は悪くなる一方、好転の兆しなど潰えたも同然だった。
視界の端からぐにゃりと歪んで、揺蕩う水の中に落とされたかのように目に映る全ての事象がゆらゆらと揺れ動いて見えるのだ。
感情が揺れ動く度、視界の揺れが連動して段々と激しさを増していき、視界を塞ぐ波だった水の中に泡がちらほら混じり始める。
そんな異常だらけな状態の私を、今まで背を向けていたお父様が振り返った。
その視線は何処を見ているのだろう?
こちらに顔が向いているようにも見えるけれど、はっきりと見えない、見ようと目を凝らしても、数を増した泡が邪魔をしてよく見えない。
それでも泡の間からお父様の口元が動き、言葉を紡いでいるのが見て取れた。
その口の動きと、頭に響く声がちぐはぐで混乱する。
混乱して、パニックになって、そのことが視界を揺らがせて泡を大量に発生させてしまう。
お父様の口の動きが読めない、読めないから頭に響く声を信じてしまう。
『ライラ、何故こんな事を…? 一体何の恨みがあってアヴィにこんな仕打ちをしたんだ?! こんなことならいっそあの時に、…いや、お前さえ産まれてこなかったなら! アヴィは死なずにすんだ!!』
「ライラ? 一体どうしたんだい、そんなに蒼い顔をして…驚いてしまったのかなぁ~? お父様が怖かったかい? ライラに対してではなかったんだがぁ、うまく抑えられなくて…加減ができなかったんだぁ~、悪かったねぇ~~??」
ぶんぶんと勢いよく首を振って否定する。
現実のお父様の問に、私の反応のタイミングが合ったのは偶然だった。
今私が全力で否定したかったのは頭に響くお父様の声、『悪い夢』の中で耳に馴染んだ憎悪と怨嗟の言葉が怖くて、それを頭から追い払いたかったから。
そして何より怖かったのはお父様の醸し出す雰囲気ではない、私が心底恐ろしかったのはーー。
私の目に映った幻影はお父様の狂気を反映していた。
言葉で私を糾弾してから幾ばくも間を置かずにお父様の両手が私の喉元に伸びてくる、そしてその後、躊躇いも手加減もなく、握力を総動員した込められるだけありったけの力でこの首を締め上げられた……記憶。
思い出しただけで息が詰まる、呼吸がし辛くなって、記憶に引き摺られてか喉が自ずと締まっていく。
より多くの酸素を求めて浅い呼吸を小刻みに繰り返すが上手く酸素を取り込めない。
お母様がお倒れになった原因が心労であるかも、と聞いた瞬間からズキズキと頭が割れそうなほど痛んで、視界が泡に塗れてからはガンガンと痛みをうったえていた頭痛が、今では酸欠も相まって脳髄が疼くように痛みを増している。
ーー心労…それは私のいで……? 私の不可解な態度のせいで…お母様を煩わせてしまった?ーー
ここ最近を振り返っても、お母様が心労を蓄積される原因となるような事柄なんて、私の態度意外に思い当たらない。
お母様の周囲にお母様を煩わせるような存在をそのまま放置するなんて有り得ない、お父様がそんなことなさるはずがない。
僅かでも害があるとわかった段階で、恙無く速やかに且つ適切に処理されているはずだ。
「私の…せい……で?」
頭に浮かんだ考えをそのまま言葉にして震える唇がポロポロと音を零した、その音は酷くひび割れて、掠れて、耳障りな雑音でしかなかった。
ーー私の身勝手な感情のせいで…? お母様にとった酷い態度が原因でもしものことがあったら……? 私のせいで、私が居るせいで? わたしが産まれたばっかりに…お母さんは壊れてしまった……それをまた、繰り返すの……? わたしは誰かを不幸にしか出来ない存在なの? 産み落とされたわたしが全部…ぜんぶ……罪を背負わなければならないの………?ーー
感情の乱れが極限に達して、前世のわたしと感情も記憶もなにもかもがシンクロしだしてしまい、私とわたしを隔てる境界が曖昧になった。
そのせいで今世の精神が昏い水底に落とされて引きずり込まれる、水底に澱のように沈殿していた蠢く黒に絡め捕られて、溺れてしまう、もう二度と光の差すあの暖かい場所に戻れなくなってしまう。
闇く冷たい水底に向かって下へ下へと堕ちていく、落とされて行く。
視界から光が消えていき、体の感覚も希薄になる、曖昧になって、内へ内へと閉じていく。
「そんなわけないだろう、ライラ! お母様はちょっと疲れが溜まっていただけさぁ、身体は健康であっても今はお母様1人だけの体ではないからねぇ~?! ほんのちょっと、いつもより多く動きすぎてしまっただけさぁ、ライラのせいだなんてあるわけ無いともぉ~!! だから安心していい、ライラが気に病んでしまったらそれこそお母様が悲しんでしまうのだからねぇ~~??」
どんなに大きな声で話しかけられても私の耳はもうその音をそのまま正確に響かせてはくれない。
お父様の言葉は私には届かない、お父様だけじゃない、もう誰の言葉も私には正確に伝わっては来なくなってしまった。
「……ライラ? 聞いているかい、ライラ?? …私の声が聞こえているのかい?! 返事をしておくれライラっ!!?」
すぐ近くで大声を出しているだろうお父様の声が酷く遠い、どこか遥か遠くからの音にしか聞こえない。
それに泡がたてる音に邪魔されて途切れて掻き混ぜられて、この鼓膜を震わせるのに足りない不明瞭でバラけた音の礫でしかなかった。
肩を掴まれて揺すられているのだろうか、お父様のあの大きな手に。
微かな温かさを…感じていた気がするけれど、よくわからない、もう感覚が無くなってしまって何も拾えない。
揺すられている感覚も無い、身体の感覚全てが遮断されている、だからもう自分の意志ではこの身体をピクリとも動かせない、まるで動かせる気がしない、このままでいいとさえ思えて動きたいとも思えないから。
今の私がちゃんと立てているのどうかさえ、もうそんな事はどうでも良くなってしまったから。
静かな室内ではお父様の焦った声が実際の音量よりも大きく響いていたと思う。
まったく反応のない私の体を揺する動きも、お父様の焦燥を反映して次第にガクガクと強く激しくなる。
流石に見かねた家令と筆頭医師が止めにかかるが、お父様は静止を簡単には受け入れなかった。
オズワルドがお父様と私の間に割って入って、力ずくで止めようとしたときになって寝室の扉が性急に開かれた。
「父上、母上が倒れられたと聞きましたが、……? どうしたのですか?! 落ち着いて下さい父上!! そんなに強く揺すったら、ライラが痛がるでしょうっ!?」
お母様の様子を尋ねていた声が途中で止まり、お父様の私に対して行っている動作に仰天して、放心したのは一瞬、その後は慌てながらも冷静な判断力を取り戻してこちらに駆け寄ってお父様を静止する側に混ざられた。
「痛がってくれるならその方がいいさ!! 反応がないんだ、さっきからいくら呼び掛けても!! 返事がない、してくれない、届いていないんだ私の声が、全くと言って良い程!!!」
息子の静止の声に耳を傾けることはできても、許容することはできない様子で感情的に言葉を重ねて言い返された。
「そんな…っ?! 何故です、一体いつから!? ライラ、僕の声が聞こえるかい? ライラっ、何でもいい、返事をしてくれ!! ライラっ!!!」
お父様の言葉を感情ごと受け止めて、今の私の状態がどれだけ異常かを正確に把握しきれてはいないまでも、気にし過ぎでは?とは決して言えない状況だと理解されてからは、私を覚醒させようと正面に居座るお父様の横合いから私に声をかけてくださった。
その声も勿論、今の私には響いてこない。
ぶくぶく、ぶくぶくと際限なく泡立った泡が今ではもう視界を覆い尽くしてしまっている。
ごぼごぼと五月蝿く音を立ててその存在を主張してくる。
音につられてのぞき込んだ泡の一つ一つに『悪い夢』の一幕がとりどりに映し出され、リピート再生されている。
それぞれは違う記憶であるのに、そのどの記憶も結局は同じ結果、私の辿る末路を映し出している。
お母様が亡くなってからの家族、それぞれの反応。
お父様は酷く憔悴して、項垂れきって、お母様の部屋から出ようとされない、現実を受け止めきれずに精神が壊れてしまわれたのだと思う。
副師団長の職務も、当主としての仕事も、何もかもを投げ出してしまわれた。
アルヴェインお兄様はお父様の代わりに公爵家当主の仕事をこなす毎日、慣れない仕事での心労と、お母様を亡くした心痛で日に日に心が擦り切れていくのがありありと見て取れた。
エリファスお兄様は自室に籠もって何事かの研究に打ち込んでしまわれた。
その研究が何を目的に行われていたのかは最期までわからなかったけれど…、その研究の成果がでるまで私は生きてはいられなかったから…。
弟のメルヴィンは…幼すぎて、私達に降り掛かった悲劇を理解しきれていない様子だった。
家族が壊れていく、私はその様子をただ見ていることしか出来なかった。
お母様が昏倒されるまで何の兆候も掴めず、倒れるに至った段階ではもう手遅れで、お母様を治癒する術は唯一つ、『聖女』の奇跡のみ。
けれど『聖女』との間には越えることのできない巨大な軋轢が横たわっていて、こちらから治癒を願い出ることは出来なかった。
その軋轢の原因は勿論、私をおいて他にない。
『聖女』様と私の間には常に隔たりがあった、私は繰り返された回帰の記憶を覚えていないときでも、本能的に『聖女』をよく思ってはいなかった。
思えるはずもない、どんなかたちでも私を確実な『死』に追いやるだけの、天敵でしかない存在をよく思える道理など存在しない。
私が『破滅を招く魔女』である以上、『聖女』となんて相容れるわけもない。
私がどんなに望んでも決して『聖女』のように清い存在にはなれない、何度何回未来を変えるために回帰したとしても、私は私、『破滅を招く魔女』である事実は変えられなかったのだから……。
もしも私が『破滅を招く魔女』でなかったなら……、お母様は『死』の未来を迎えずにすんだのだろうか?
一も二も無く『聖女』に奇跡を乞うて、お母様を救うことが、できた…の、に?
見つけたくなかった答えにたどり着いてしまった、でもこれで納得できてしまった。
ーーあぁ、だからだわ…。 繰り返す回帰の中で数限りなく見たお父様から向けられる無感情な瞳。 その奥底に宿った滾る憎悪、容赦なく浴びせられる憤懣に満ちた言葉。 もしお父様が私が冤罪であるとわかっていたとしても、やっとのことで掴んだ幸せの象徴たるお母様を、間接的にでも『死』に追いやった私を許せるはずなんてなかったのだわ…。 私さえ『破滅を招く魔女』でなかったなら、私さえ…産まれていなかったなら、そう言いたくなる、言わざるを得なかったお父様のお心が、……やっと理解できた。ーー
お父様が口にしなかった言葉、いつも出かかる寸前で意地でも飲み込んでいた言葉が、やっとわかった。
『破滅を招く魔女』が実在すると、その存在を明かすことは禁忌とされていた。
『聖女』の輝かしい功績の礎として、ある種の災厄として歴史の闇に葬られ続けていた存在だったのだから当然といえば当然だった。
お父様はもしかしたら、何かしらの制約を交わしていたのかも…、国王陛下が事情を説明する際に、確実に他言を禁じるためにお父様に課していたのかもしれない。
だから、あの場合は言いたくても言えなかった?
不特定多数の他人の前で言えないように制約がかかっていたから、心のままに私を詰ることができなかったのだろうか…。
それはどんなに無念だったことだろう、お母様の為に恨み言すら心のままに紡げないだなんて…私への憎悪はいや増したに違いない。
だから当然の結果だったのだ、私が恨まれたのは。
お父様は私を恨む権利があった、憎む権利があった、そうしない理由なんて見つけられないほどに、私の存在は罪悪でしかなかった。
昏い水底から見上げる水面は明るくは見えない。
周りの暗がりに侵食されて、どうしたって薄暗く淀んで見える。
泡はもうこの視界に纏わりついてはいない、けれども光が届かない場所にまで引きずり込まれてしまって私の目には何も映らない、ただ昏く深い揺蕩う漆黒が広がっていくばかり。
ーー私のせいで…お母様が……。 これ以上心労の原因になるのなら、私は……?ーー
自然と瞼が降りてくる、この目を永遠に閉ざす為にゆっくりと。
もう何も見なくてもいいように、待ち受ける現実が私を打ちのめすものでしかないのなら、今ではなくてもいつか必ずそれが現実となってしまうのなら、もう何も見たくない。
ーーもういっそこのまま、目の前からも居なくなってしまったほうが良いのでは…? 私なんかお側に居ないほうが良い……、だって誰も望んでいない。 わたしは誰にも必要とされてこなかったもの…ずっと、ずぅっと昔から、産まれたときから。ーー
とめどなく沸き起こる後悔の念が水底に潜んでいたドス黒い澱に力を与えてジクジクと弱った精神を容赦なく侵蝕する。
声高に責め立ててくる前世の両親の言葉が弱った精神を追い込むように執拗に木霊する。
ー〈オ前サエ居ナケレバ、コンナ事ニハナラナカッタノニ…!!〉ー
ー〈オ前ナンテ、産マレテコナケレバ良カッタノニ!!〉ー
もう何も聞きたくない、これ以上聞かなくて済むのなら私は壊れてしまった方が良い。
このままずっとこのままで、暗く沈み込んでもう二度と浮き上がれないままで構わない…その方が良い。
何もかも諦めて、受け入れてしまいそうになった時ーー。
ーーーバンッ!!
「「 !!? 」」
一際大きな音を立ててお母様の寝室の扉が開け放たれた、それをやってのけたのは、誰あろう今この場に駆けつけた次兄、エリファスお兄様その人だった。
「静かに開けないかエリファス!!」
「エリファス、時と場合を考えろ!! 母上がまだ意識が戻っていらっしゃらないとメリッサから聞いただろう!?」
「………。」
力任せにドアを押し開けた状態のまま、身動ぎもせずその場に留まっている。
その眉間に深い皺を刻み込んで、強い輝きを宿したスフェーンの瞳が一心に見つめる先は、昏々と眠り続けるお母様でもなければ、叱責の言葉を寄越したお父様でも、苦言を呈したアルヴェインお兄様でもない。
誰の声もその耳に届いていない様子で、あたかも扉を開ける前から私の所在を知っていたかのように、寸分のズレなく直と私にだけ焦点を当てているのだ。
揺らぐ暗黒に支配された視界に一条の光が差した。
差し込んだ光の先に見えるのは強く燿くスフェーンの瞳。
向けられる視線の強さに、目を奪われて見返す。
視線が合わさった瞬間、再びゴボゴボと泡を立てて現実を歪ませていた水が割られて、瞬きの間に視界が鮮明さを取り戻した。
同時に音も明瞭になり正常に戻った、そこからは順次すべての異常が取り払われていく。
そうすると殆ど沈んでいた精神が柵を解かれ急速に引っ張り上げられ、暗かった水底から光の溢れる地上へと即座に帰還することができた。
ただエリファスお兄様と視線を合わせただけで、私が自力では逃れられなかった、抗う気力も希望も潰えて、受け入れてしまおうとさえしていた全ての異常から呆気なく救い出されてしまった。
ーーエリファスお兄様って、一体何者なの…? 何でこんな簡単に、私の抱える問題を解消してしまえるの??ーー
今だに厳しい視線を寄越す次兄の前髪に隠されたスフェーンの瞳をまじまじと見つめて、明瞭になった私を取り巻く現実と戻ってきた身体の感覚に慣れてきた頃。
緊張が残っていて鋭敏になったままの耳が、静かな室内にも微かにしか響かない微小な声を耳聡く拾い上げた。
「………ん…。」
小さく息を吐くような、意味を持たないうめき声。
でもそれは、確実な意味を伴っている。
間違いようのない事実、お母様が生きているという確固たる証を。
「ここ…は…?」
今度はちゃんと意味のある言葉で、先程よりも確実な響きを持って静けさを取り戻した寝室の空気を震わせた。
声が耳に届いた途端、私を意地でも離そうとしなかったお父様の手があっさり解かれて、風のようにお母様の側へと動いて行ってしまった。
「アヴィ!? 気がついたのかい…?」
恐る恐る、最愛の妻の安否を確かめるように、感情を押し殺した震える声で問いかけている。
今心に迫る感情を押し殺さずに口を開いてしまったなら、その強さでお母様を傷付けてしまうのではないかと危惧しているかのように、鬼気迫る想いも多分に内包している。
「……コーネリアス……?」
問いかけから数拍遅れながらも、目の前に居る人物が誰であるかちゃんと認識してから呼び掛けられた。
「あぁ、そうだよ、良かった…気が付いて……、安心したよぉ。」
お母様の問いかけに答える声は明るい。
そして今度零された言葉には隠しきれない安堵が滲み出ていた。
「私は…、どう……? …っ、うっ…!」
「まだ動かない方がいい、アヴィ! 横になっていないと駄目だ、しばらくの間はこのまま安静にしておいで。」
自分のおかれた状況がいまいち掴めていないようで、ぼんやりとした調子で二言三言呟く。
いつものように起き上がろうとして、どこかしらが痛むかのように小さく呻いて起き上がるのは断念せざるを得なかった。
また無理に動こうとしかねないお母様に先んじて釘を差すように言い含める、その声には今度は若干の焦りが混じっていた。
内心ヒヤヒヤしているに違いない、それでもお母様が無事に動けていることがお父様の心を落ち着かせているのも間違いなかった。
「ごめんなさい…コーネリアス。 アルくんに、エリーくん……? ライラちゃんも……、そこに居るの?」
お父様に謝ってから、部屋の中を確かめるようにゆっくりと首を巡らせて、目についた家族の名前を順に呼んでいかれる。
私はできるだけお母様の目に触れないように、視界に入らないように身を縮めて存在感を消そうと必死になっていた。
それなのにお母様は私を探すように名を呼んだ。
名前を呼ばれるとは思っておらず、ビクリッと身体が大袈裟なほど震えてしまった。
「あ……、の…、わたっ、…くし、……お母様に………っ!」
ガクガクと我知らず身体が戦慄いてそのせいで声も情けないほど震えてしまう。
しどろもどろに言葉が飛び出す、けれどなんの準備もしていなかったせいでそれ以上は言葉が後に続かず、中途半端に途絶えてしまった。
勢いを失ったせいで急激に心が怖気づいて、身体が自然と逃げを打ち、後ろを確認せずにヨロヨロと後退ってしまって何かにぶつかって止まった。
おずおずと顔を上げて振り返ると、直ぐにその視線がもう一度スフェーンの瞳に捕まった。
いつの間にか寝室のドアからここまで歩み寄っていたエリファスお兄様の体にぶつかったのだと、のろのろと動きの鈍い頭が遅れて理解した。
「あ、わた、く、しぃ…っ!?」
「大丈夫だよ、ライラ。 もう大丈夫。 怖いことなんて何もない、ライラにそんな事起こらないから、ね? 心配する必要なんてない、安心して良いんだよ、ライラ。」
私が悲鳴のような言葉を上げる前に、殊更優しく紡がれた言葉にその場の空気を奪われた。
それと同時に、言葉と同じ優しさを惜しみなく与えて下さる温かな手にゆっくりと頭を撫でられた。
何度も何度も、私がしっかりと落ち着けるまで繰り返し撫でてくださる。
覗き込むように見下ろしてくるスフェーンの瞳には、先程まで強く灯していた輝きはもう跡形もなく立ち消えていて、いつもの穏やかさに戻っていた。
鳴り物入りで部屋に入ってきた人物と、同一人物だとは思えないほど、今のエリファスお兄様の瞳は凪いでいて穏やかさしか宿していない。
向けられた言葉と眼差しに惜しみない優しさを感じられて、怯え慄いていた心が落ち着きを取り戻してきた。
ーー私は何を、こんなに怯えていたのだっけ? お母様にちゃんとお伝えしないといけなかったのに、私の言葉で、私の偽りのない本心を、どんなに不格好であったとしても、伝えないと、伝えたいと思えたのだから!ーー
心に力が湧いてくる、不思議なくらい前向きな考えしか浮かんでこない。
ーーエリファスお兄様はどんな魔法を私にかけてくださったのだろう? こんなに前向きになれたのは……うん、生まれて初めてだわ!!ーー
今なら何でもできる、そんな無敵な気分になっている。
エリファスお兄様へ視線を合わせ、真っ直ぐに見返してからはっきりと言葉にして伝える。
「ありがとうございます、エリファスお兄様! 私はもう、大丈夫です!! お兄様がたくさん優しさをくださったから、もう何も怖くありません!!!」
「うん、そうみたいだねぇ、安心した。 いっておいで、ライラ。」
「はい! 今朝もそうやって背中を押してくださいましたよね、私、お兄様に助けてもらってばっかりで…。 だからこれ以上心配なさらなくて良いように、ちゃんと向き合ってきます!! 見ていてくださいねエリファスお兄様、私、お兄様をがっかりさせないよう頑張りますから!!」
それだけ言うと決意が揺らがないうちにしっかりと向かうべき方向へ体から向き直る。
そうして一歩踏み出した足は、もう震えていない、しっかりとした足取りでお母様の元へと歩み進む。
私が今踏み出した一歩は、絶望になんか向かわない。
そう強く信じて止まることなく足を前へ前へと動かし続けた。
何故かといえばお母様が倒れた原因が医師の診察のみではわからなかったからだ。
今この場にいる見慣れない人物、フォコンペレーラ公爵家の常駐医にして筆頭医師でもあるというのだが、癖が強すぎるもっさりした頭髪のせいで一見するともっさくてうだつの上がらない中年男性にしか見えない。
この筆頭医師が言うには、お母様が倒れられた原因は不明、けれど心労が溜まっていたから倒れたのではないか、とのこと。
そしてその原因に心当たりはないか、そうお父様に問うていた。
はっきりと聞き取れたのはここまで。
それ以降は、何と言っていただろうか…わからない。
それにお父様は何と答えていただろう?
『ある。』と、そう答えてはいなかったか?
今の私には良く聴こえない。
音なのか、言葉なのか、今の私の耳には判別がつかない。
何かが遠くで響いている感じは受け取れるのに、それが何なのかがわからない。
どの音も遠すぎる、まるで水の中で聴く音みたいに反響が鈍くてつかめないのだ。
その上ドクドク響く逸りすぎた心音はおさまる気配もなく、未だに耳の中でがなってもいる。
耳の異常もさることながら、視界にも異常が見られるからなお厄介だ。
回帰の記憶が投影された幻影も今だに見える、その上更に、輪をかけた異常が追加されたのだから事態は悪くなる一方、好転の兆しなど潰えたも同然だった。
視界の端からぐにゃりと歪んで、揺蕩う水の中に落とされたかのように目に映る全ての事象がゆらゆらと揺れ動いて見えるのだ。
感情が揺れ動く度、視界の揺れが連動して段々と激しさを増していき、視界を塞ぐ波だった水の中に泡がちらほら混じり始める。
そんな異常だらけな状態の私を、今まで背を向けていたお父様が振り返った。
その視線は何処を見ているのだろう?
こちらに顔が向いているようにも見えるけれど、はっきりと見えない、見ようと目を凝らしても、数を増した泡が邪魔をしてよく見えない。
それでも泡の間からお父様の口元が動き、言葉を紡いでいるのが見て取れた。
その口の動きと、頭に響く声がちぐはぐで混乱する。
混乱して、パニックになって、そのことが視界を揺らがせて泡を大量に発生させてしまう。
お父様の口の動きが読めない、読めないから頭に響く声を信じてしまう。
『ライラ、何故こんな事を…? 一体何の恨みがあってアヴィにこんな仕打ちをしたんだ?! こんなことならいっそあの時に、…いや、お前さえ産まれてこなかったなら! アヴィは死なずにすんだ!!』
「ライラ? 一体どうしたんだい、そんなに蒼い顔をして…驚いてしまったのかなぁ~? お父様が怖かったかい? ライラに対してではなかったんだがぁ、うまく抑えられなくて…加減ができなかったんだぁ~、悪かったねぇ~~??」
ぶんぶんと勢いよく首を振って否定する。
現実のお父様の問に、私の反応のタイミングが合ったのは偶然だった。
今私が全力で否定したかったのは頭に響くお父様の声、『悪い夢』の中で耳に馴染んだ憎悪と怨嗟の言葉が怖くて、それを頭から追い払いたかったから。
そして何より怖かったのはお父様の醸し出す雰囲気ではない、私が心底恐ろしかったのはーー。
私の目に映った幻影はお父様の狂気を反映していた。
言葉で私を糾弾してから幾ばくも間を置かずにお父様の両手が私の喉元に伸びてくる、そしてその後、躊躇いも手加減もなく、握力を総動員した込められるだけありったけの力でこの首を締め上げられた……記憶。
思い出しただけで息が詰まる、呼吸がし辛くなって、記憶に引き摺られてか喉が自ずと締まっていく。
より多くの酸素を求めて浅い呼吸を小刻みに繰り返すが上手く酸素を取り込めない。
お母様がお倒れになった原因が心労であるかも、と聞いた瞬間からズキズキと頭が割れそうなほど痛んで、視界が泡に塗れてからはガンガンと痛みをうったえていた頭痛が、今では酸欠も相まって脳髄が疼くように痛みを増している。
ーー心労…それは私のいで……? 私の不可解な態度のせいで…お母様を煩わせてしまった?ーー
ここ最近を振り返っても、お母様が心労を蓄積される原因となるような事柄なんて、私の態度意外に思い当たらない。
お母様の周囲にお母様を煩わせるような存在をそのまま放置するなんて有り得ない、お父様がそんなことなさるはずがない。
僅かでも害があるとわかった段階で、恙無く速やかに且つ適切に処理されているはずだ。
「私の…せい……で?」
頭に浮かんだ考えをそのまま言葉にして震える唇がポロポロと音を零した、その音は酷くひび割れて、掠れて、耳障りな雑音でしかなかった。
ーー私の身勝手な感情のせいで…? お母様にとった酷い態度が原因でもしものことがあったら……? 私のせいで、私が居るせいで? わたしが産まれたばっかりに…お母さんは壊れてしまった……それをまた、繰り返すの……? わたしは誰かを不幸にしか出来ない存在なの? 産み落とされたわたしが全部…ぜんぶ……罪を背負わなければならないの………?ーー
感情の乱れが極限に達して、前世のわたしと感情も記憶もなにもかもがシンクロしだしてしまい、私とわたしを隔てる境界が曖昧になった。
そのせいで今世の精神が昏い水底に落とされて引きずり込まれる、水底に澱のように沈殿していた蠢く黒に絡め捕られて、溺れてしまう、もう二度と光の差すあの暖かい場所に戻れなくなってしまう。
闇く冷たい水底に向かって下へ下へと堕ちていく、落とされて行く。
視界から光が消えていき、体の感覚も希薄になる、曖昧になって、内へ内へと閉じていく。
「そんなわけないだろう、ライラ! お母様はちょっと疲れが溜まっていただけさぁ、身体は健康であっても今はお母様1人だけの体ではないからねぇ~?! ほんのちょっと、いつもより多く動きすぎてしまっただけさぁ、ライラのせいだなんてあるわけ無いともぉ~!! だから安心していい、ライラが気に病んでしまったらそれこそお母様が悲しんでしまうのだからねぇ~~??」
どんなに大きな声で話しかけられても私の耳はもうその音をそのまま正確に響かせてはくれない。
お父様の言葉は私には届かない、お父様だけじゃない、もう誰の言葉も私には正確に伝わっては来なくなってしまった。
「……ライラ? 聞いているかい、ライラ?? …私の声が聞こえているのかい?! 返事をしておくれライラっ!!?」
すぐ近くで大声を出しているだろうお父様の声が酷く遠い、どこか遥か遠くからの音にしか聞こえない。
それに泡がたてる音に邪魔されて途切れて掻き混ぜられて、この鼓膜を震わせるのに足りない不明瞭でバラけた音の礫でしかなかった。
肩を掴まれて揺すられているのだろうか、お父様のあの大きな手に。
微かな温かさを…感じていた気がするけれど、よくわからない、もう感覚が無くなってしまって何も拾えない。
揺すられている感覚も無い、身体の感覚全てが遮断されている、だからもう自分の意志ではこの身体をピクリとも動かせない、まるで動かせる気がしない、このままでいいとさえ思えて動きたいとも思えないから。
今の私がちゃんと立てているのどうかさえ、もうそんな事はどうでも良くなってしまったから。
静かな室内ではお父様の焦った声が実際の音量よりも大きく響いていたと思う。
まったく反応のない私の体を揺する動きも、お父様の焦燥を反映して次第にガクガクと強く激しくなる。
流石に見かねた家令と筆頭医師が止めにかかるが、お父様は静止を簡単には受け入れなかった。
オズワルドがお父様と私の間に割って入って、力ずくで止めようとしたときになって寝室の扉が性急に開かれた。
「父上、母上が倒れられたと聞きましたが、……? どうしたのですか?! 落ち着いて下さい父上!! そんなに強く揺すったら、ライラが痛がるでしょうっ!?」
お母様の様子を尋ねていた声が途中で止まり、お父様の私に対して行っている動作に仰天して、放心したのは一瞬、その後は慌てながらも冷静な判断力を取り戻してこちらに駆け寄ってお父様を静止する側に混ざられた。
「痛がってくれるならその方がいいさ!! 反応がないんだ、さっきからいくら呼び掛けても!! 返事がない、してくれない、届いていないんだ私の声が、全くと言って良い程!!!」
息子の静止の声に耳を傾けることはできても、許容することはできない様子で感情的に言葉を重ねて言い返された。
「そんな…っ?! 何故です、一体いつから!? ライラ、僕の声が聞こえるかい? ライラっ、何でもいい、返事をしてくれ!! ライラっ!!!」
お父様の言葉を感情ごと受け止めて、今の私の状態がどれだけ異常かを正確に把握しきれてはいないまでも、気にし過ぎでは?とは決して言えない状況だと理解されてからは、私を覚醒させようと正面に居座るお父様の横合いから私に声をかけてくださった。
その声も勿論、今の私には響いてこない。
ぶくぶく、ぶくぶくと際限なく泡立った泡が今ではもう視界を覆い尽くしてしまっている。
ごぼごぼと五月蝿く音を立ててその存在を主張してくる。
音につられてのぞき込んだ泡の一つ一つに『悪い夢』の一幕がとりどりに映し出され、リピート再生されている。
それぞれは違う記憶であるのに、そのどの記憶も結局は同じ結果、私の辿る末路を映し出している。
お母様が亡くなってからの家族、それぞれの反応。
お父様は酷く憔悴して、項垂れきって、お母様の部屋から出ようとされない、現実を受け止めきれずに精神が壊れてしまわれたのだと思う。
副師団長の職務も、当主としての仕事も、何もかもを投げ出してしまわれた。
アルヴェインお兄様はお父様の代わりに公爵家当主の仕事をこなす毎日、慣れない仕事での心労と、お母様を亡くした心痛で日に日に心が擦り切れていくのがありありと見て取れた。
エリファスお兄様は自室に籠もって何事かの研究に打ち込んでしまわれた。
その研究が何を目的に行われていたのかは最期までわからなかったけれど…、その研究の成果がでるまで私は生きてはいられなかったから…。
弟のメルヴィンは…幼すぎて、私達に降り掛かった悲劇を理解しきれていない様子だった。
家族が壊れていく、私はその様子をただ見ていることしか出来なかった。
お母様が昏倒されるまで何の兆候も掴めず、倒れるに至った段階ではもう手遅れで、お母様を治癒する術は唯一つ、『聖女』の奇跡のみ。
けれど『聖女』との間には越えることのできない巨大な軋轢が横たわっていて、こちらから治癒を願い出ることは出来なかった。
その軋轢の原因は勿論、私をおいて他にない。
『聖女』様と私の間には常に隔たりがあった、私は繰り返された回帰の記憶を覚えていないときでも、本能的に『聖女』をよく思ってはいなかった。
思えるはずもない、どんなかたちでも私を確実な『死』に追いやるだけの、天敵でしかない存在をよく思える道理など存在しない。
私が『破滅を招く魔女』である以上、『聖女』となんて相容れるわけもない。
私がどんなに望んでも決して『聖女』のように清い存在にはなれない、何度何回未来を変えるために回帰したとしても、私は私、『破滅を招く魔女』である事実は変えられなかったのだから……。
もしも私が『破滅を招く魔女』でなかったなら……、お母様は『死』の未来を迎えずにすんだのだろうか?
一も二も無く『聖女』に奇跡を乞うて、お母様を救うことが、できた…の、に?
見つけたくなかった答えにたどり着いてしまった、でもこれで納得できてしまった。
ーーあぁ、だからだわ…。 繰り返す回帰の中で数限りなく見たお父様から向けられる無感情な瞳。 その奥底に宿った滾る憎悪、容赦なく浴びせられる憤懣に満ちた言葉。 もしお父様が私が冤罪であるとわかっていたとしても、やっとのことで掴んだ幸せの象徴たるお母様を、間接的にでも『死』に追いやった私を許せるはずなんてなかったのだわ…。 私さえ『破滅を招く魔女』でなかったなら、私さえ…産まれていなかったなら、そう言いたくなる、言わざるを得なかったお父様のお心が、……やっと理解できた。ーー
お父様が口にしなかった言葉、いつも出かかる寸前で意地でも飲み込んでいた言葉が、やっとわかった。
『破滅を招く魔女』が実在すると、その存在を明かすことは禁忌とされていた。
『聖女』の輝かしい功績の礎として、ある種の災厄として歴史の闇に葬られ続けていた存在だったのだから当然といえば当然だった。
お父様はもしかしたら、何かしらの制約を交わしていたのかも…、国王陛下が事情を説明する際に、確実に他言を禁じるためにお父様に課していたのかもしれない。
だから、あの場合は言いたくても言えなかった?
不特定多数の他人の前で言えないように制約がかかっていたから、心のままに私を詰ることができなかったのだろうか…。
それはどんなに無念だったことだろう、お母様の為に恨み言すら心のままに紡げないだなんて…私への憎悪はいや増したに違いない。
だから当然の結果だったのだ、私が恨まれたのは。
お父様は私を恨む権利があった、憎む権利があった、そうしない理由なんて見つけられないほどに、私の存在は罪悪でしかなかった。
昏い水底から見上げる水面は明るくは見えない。
周りの暗がりに侵食されて、どうしたって薄暗く淀んで見える。
泡はもうこの視界に纏わりついてはいない、けれども光が届かない場所にまで引きずり込まれてしまって私の目には何も映らない、ただ昏く深い揺蕩う漆黒が広がっていくばかり。
ーー私のせいで…お母様が……。 これ以上心労の原因になるのなら、私は……?ーー
自然と瞼が降りてくる、この目を永遠に閉ざす為にゆっくりと。
もう何も見なくてもいいように、待ち受ける現実が私を打ちのめすものでしかないのなら、今ではなくてもいつか必ずそれが現実となってしまうのなら、もう何も見たくない。
ーーもういっそこのまま、目の前からも居なくなってしまったほうが良いのでは…? 私なんかお側に居ないほうが良い……、だって誰も望んでいない。 わたしは誰にも必要とされてこなかったもの…ずっと、ずぅっと昔から、産まれたときから。ーー
とめどなく沸き起こる後悔の念が水底に潜んでいたドス黒い澱に力を与えてジクジクと弱った精神を容赦なく侵蝕する。
声高に責め立ててくる前世の両親の言葉が弱った精神を追い込むように執拗に木霊する。
ー〈オ前サエ居ナケレバ、コンナ事ニハナラナカッタノニ…!!〉ー
ー〈オ前ナンテ、産マレテコナケレバ良カッタノニ!!〉ー
もう何も聞きたくない、これ以上聞かなくて済むのなら私は壊れてしまった方が良い。
このままずっとこのままで、暗く沈み込んでもう二度と浮き上がれないままで構わない…その方が良い。
何もかも諦めて、受け入れてしまいそうになった時ーー。
ーーーバンッ!!
「「 !!? 」」
一際大きな音を立ててお母様の寝室の扉が開け放たれた、それをやってのけたのは、誰あろう今この場に駆けつけた次兄、エリファスお兄様その人だった。
「静かに開けないかエリファス!!」
「エリファス、時と場合を考えろ!! 母上がまだ意識が戻っていらっしゃらないとメリッサから聞いただろう!?」
「………。」
力任せにドアを押し開けた状態のまま、身動ぎもせずその場に留まっている。
その眉間に深い皺を刻み込んで、強い輝きを宿したスフェーンの瞳が一心に見つめる先は、昏々と眠り続けるお母様でもなければ、叱責の言葉を寄越したお父様でも、苦言を呈したアルヴェインお兄様でもない。
誰の声もその耳に届いていない様子で、あたかも扉を開ける前から私の所在を知っていたかのように、寸分のズレなく直と私にだけ焦点を当てているのだ。
揺らぐ暗黒に支配された視界に一条の光が差した。
差し込んだ光の先に見えるのは強く燿くスフェーンの瞳。
向けられる視線の強さに、目を奪われて見返す。
視線が合わさった瞬間、再びゴボゴボと泡を立てて現実を歪ませていた水が割られて、瞬きの間に視界が鮮明さを取り戻した。
同時に音も明瞭になり正常に戻った、そこからは順次すべての異常が取り払われていく。
そうすると殆ど沈んでいた精神が柵を解かれ急速に引っ張り上げられ、暗かった水底から光の溢れる地上へと即座に帰還することができた。
ただエリファスお兄様と視線を合わせただけで、私が自力では逃れられなかった、抗う気力も希望も潰えて、受け入れてしまおうとさえしていた全ての異常から呆気なく救い出されてしまった。
ーーエリファスお兄様って、一体何者なの…? 何でこんな簡単に、私の抱える問題を解消してしまえるの??ーー
今だに厳しい視線を寄越す次兄の前髪に隠されたスフェーンの瞳をまじまじと見つめて、明瞭になった私を取り巻く現実と戻ってきた身体の感覚に慣れてきた頃。
緊張が残っていて鋭敏になったままの耳が、静かな室内にも微かにしか響かない微小な声を耳聡く拾い上げた。
「………ん…。」
小さく息を吐くような、意味を持たないうめき声。
でもそれは、確実な意味を伴っている。
間違いようのない事実、お母様が生きているという確固たる証を。
「ここ…は…?」
今度はちゃんと意味のある言葉で、先程よりも確実な響きを持って静けさを取り戻した寝室の空気を震わせた。
声が耳に届いた途端、私を意地でも離そうとしなかったお父様の手があっさり解かれて、風のようにお母様の側へと動いて行ってしまった。
「アヴィ!? 気がついたのかい…?」
恐る恐る、最愛の妻の安否を確かめるように、感情を押し殺した震える声で問いかけている。
今心に迫る感情を押し殺さずに口を開いてしまったなら、その強さでお母様を傷付けてしまうのではないかと危惧しているかのように、鬼気迫る想いも多分に内包している。
「……コーネリアス……?」
問いかけから数拍遅れながらも、目の前に居る人物が誰であるかちゃんと認識してから呼び掛けられた。
「あぁ、そうだよ、良かった…気が付いて……、安心したよぉ。」
お母様の問いかけに答える声は明るい。
そして今度零された言葉には隠しきれない安堵が滲み出ていた。
「私は…、どう……? …っ、うっ…!」
「まだ動かない方がいい、アヴィ! 横になっていないと駄目だ、しばらくの間はこのまま安静にしておいで。」
自分のおかれた状況がいまいち掴めていないようで、ぼんやりとした調子で二言三言呟く。
いつものように起き上がろうとして、どこかしらが痛むかのように小さく呻いて起き上がるのは断念せざるを得なかった。
また無理に動こうとしかねないお母様に先んじて釘を差すように言い含める、その声には今度は若干の焦りが混じっていた。
内心ヒヤヒヤしているに違いない、それでもお母様が無事に動けていることがお父様の心を落ち着かせているのも間違いなかった。
「ごめんなさい…コーネリアス。 アルくんに、エリーくん……? ライラちゃんも……、そこに居るの?」
お父様に謝ってから、部屋の中を確かめるようにゆっくりと首を巡らせて、目についた家族の名前を順に呼んでいかれる。
私はできるだけお母様の目に触れないように、視界に入らないように身を縮めて存在感を消そうと必死になっていた。
それなのにお母様は私を探すように名を呼んだ。
名前を呼ばれるとは思っておらず、ビクリッと身体が大袈裟なほど震えてしまった。
「あ……、の…、わたっ、…くし、……お母様に………っ!」
ガクガクと我知らず身体が戦慄いてそのせいで声も情けないほど震えてしまう。
しどろもどろに言葉が飛び出す、けれどなんの準備もしていなかったせいでそれ以上は言葉が後に続かず、中途半端に途絶えてしまった。
勢いを失ったせいで急激に心が怖気づいて、身体が自然と逃げを打ち、後ろを確認せずにヨロヨロと後退ってしまって何かにぶつかって止まった。
おずおずと顔を上げて振り返ると、直ぐにその視線がもう一度スフェーンの瞳に捕まった。
いつの間にか寝室のドアからここまで歩み寄っていたエリファスお兄様の体にぶつかったのだと、のろのろと動きの鈍い頭が遅れて理解した。
「あ、わた、く、しぃ…っ!?」
「大丈夫だよ、ライラ。 もう大丈夫。 怖いことなんて何もない、ライラにそんな事起こらないから、ね? 心配する必要なんてない、安心して良いんだよ、ライラ。」
私が悲鳴のような言葉を上げる前に、殊更優しく紡がれた言葉にその場の空気を奪われた。
それと同時に、言葉と同じ優しさを惜しみなく与えて下さる温かな手にゆっくりと頭を撫でられた。
何度も何度も、私がしっかりと落ち着けるまで繰り返し撫でてくださる。
覗き込むように見下ろしてくるスフェーンの瞳には、先程まで強く灯していた輝きはもう跡形もなく立ち消えていて、いつもの穏やかさに戻っていた。
鳴り物入りで部屋に入ってきた人物と、同一人物だとは思えないほど、今のエリファスお兄様の瞳は凪いでいて穏やかさしか宿していない。
向けられた言葉と眼差しに惜しみない優しさを感じられて、怯え慄いていた心が落ち着きを取り戻してきた。
ーー私は何を、こんなに怯えていたのだっけ? お母様にちゃんとお伝えしないといけなかったのに、私の言葉で、私の偽りのない本心を、どんなに不格好であったとしても、伝えないと、伝えたいと思えたのだから!ーー
心に力が湧いてくる、不思議なくらい前向きな考えしか浮かんでこない。
ーーエリファスお兄様はどんな魔法を私にかけてくださったのだろう? こんなに前向きになれたのは……うん、生まれて初めてだわ!!ーー
今なら何でもできる、そんな無敵な気分になっている。
エリファスお兄様へ視線を合わせ、真っ直ぐに見返してからはっきりと言葉にして伝える。
「ありがとうございます、エリファスお兄様! 私はもう、大丈夫です!! お兄様がたくさん優しさをくださったから、もう何も怖くありません!!!」
「うん、そうみたいだねぇ、安心した。 いっておいで、ライラ。」
「はい! 今朝もそうやって背中を押してくださいましたよね、私、お兄様に助けてもらってばっかりで…。 だからこれ以上心配なさらなくて良いように、ちゃんと向き合ってきます!! 見ていてくださいねエリファスお兄様、私、お兄様をがっかりさせないよう頑張りますから!!」
それだけ言うと決意が揺らがないうちにしっかりと向かうべき方向へ体から向き直る。
そうして一歩踏み出した足は、もう震えていない、しっかりとした足取りでお母様の元へと歩み進む。
私が今踏み出した一歩は、絶望になんか向かわない。
そう強く信じて止まることなく足を前へ前へと動かし続けた。
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