転生して悪役令嬢な私ですが、ヒロインと協力して何とかハッピーエンドを目指します!

胡椒家-コショーヤ-

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●本編●

98.招かれざる来訪者、侵入者は刺客。【前】〜四面楚歌な望まない遭遇、誰が味方で誰が敵?〜

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 ユーゴ先生がチラッと言っていたけれど、大晦日は1年最後の日ということで、屋敷に勤める使用人たちの仕事は午前中までと決まっていた。

そのことは雇用が決定した際、きちんと説明されており、配属された先の先輩職員からも自ずと聞き知れる周知の事実だった。
けれど、この体制になったのはお父様が当主になってからの事らしく、余談にはなるがそれを知っている使用人の数は、両手の数で事足りる人数しか居ないのだとか。

ともかくそんなわけで、午後からは自分に割り振られた仕事が終わり次第、自由に過ごして良い事になっており、元日の仕事も開始時間が普段よりも遅めに設定されているらしい。

人員の都合上帰省できなかった使用人も、各自の事情に基づいて自主的に帰省しなかった使用人も、思い思い好きなようにレヴェイヨンを過ごせる十分な時間が設けられているのだそうだ。

振る舞われるのは豪勢な料理やデザート、だけであるはずは勿論ない。
一晩中飲み明かしても尽きないだけの十分過ぎる酒類も、前の週から万端準備され、屋敷の地下にある貯蔵庫にて振る舞われるその時を待っている。

それらは無償で提供され、成人した人物なら誰でも、好きなだけ、心ゆくまで呑み明かして構わないらしいので、ここで呑まない選択肢などありはしない。
高価な酒類を浴びるように呑んでも一切お咎めなし、な一年の締めくくりたるどんちゃん騒ぎの宴会を蹴る人間は、おそらくこの敷地内には存在しない。

なので、わざわざ安酒を飲むためだけにここから遠く離れた街に繰り出し、無駄に時間と金を浪費するという選択肢を選ぶ人間が居るはずもなく。

年末が目前に迫ると、門番たちは事ある毎に、ある文言を口遊みはじめる。
警備の都合上、門は今日の午後から明日の朝まで施錠され閉ざされたままとなるので、外壁で囲われたこの敷地内からは出ることはかなわない。
なのでどうしても、という場合を除いて、門を解錠する事は絶対に無いのでそのつもりでいるように。

というのは、施錠して持ち場を離れ、どんちゃん騒ぎに早く合流したいと切に願う門番たちが、仕事を早めに切り上げる為に宣う尤もらしい常套句であることも、公然の秘密としてこの公爵家では容認されている。

兎に角、何が言いたいかと云うと、午後からは屋敷に侍る人員は減少していき、レヴェイヨンの準備が整い次第厨房ラキュイジーヌからも人は去ってしまう、という事実が1つ。

何を隠そう、宅の可愛いサイボーグ侍女のメリッサも、午後からは屋敷の3階にある自室に戻ってしまうという衝撃の事実を、本人の口からではなく、お母様から語り聞かされて知った、というダブルパンチな事実が1つ。

そしてこの国の国民は皆が皆、貧富の差に関係なく、大晦日は家族や親しい友人と集まり共に過ごすものであり、1年の最後くらいは心穏やかに、平穏無事に過ごすべきだと誰しもが考えている。
共通認識されている、と言って過言ない、フォスラプスィ王国国民に大前提として備わっている常識だと言えた。

それを知識としてでも知らない国民は居ない、それが普遍の事実である、幼い頃から教えられていた通り、そう信じていた。

だから少し油断してしまったのかもしれない。
こんな年の瀬に、これ以上何かの事件が起きようはずがないと。

予定にない来訪者との遭遇。
それが現実世界で実現されると、自分自身にどのような災禍をもたらすものであるのか、きちんと理解できないままだった。

気が緩んで、浮足立った精神状態のままで迎えてしまったからだけが理由ではない。
どこかでまだ、夢の中にいるような気分が抜けきっていなかったことも、原因の一端でしか無い。

今現在の自分自身への理解が不十分だった。
その事実を再確認する契機となった、ある来訪者との邂逅の瞬間は、刻一刻と、着実にその足音を刻みつけ近づいていた。


 思いつきで訪れたお母様の寝室で偶然立ち会うことになった午後の診察のあと、わたくしはお母様から一枚の紙を手渡された。

ユーゴ先生は診察が終わってから少しの間、雑談に付き合ってくださっていたけれど、これ以上の長居は色んな意味でヤバくなるから…とボソッと零して、そそくさ~~っと寝室から逃げるように出でいってしまった。
なので今、この寝室にはお母様と私の2人きりとなっている。

その紙には四角い図形が2つ、横に並んだ状態で描かれており、とても中途半端な位置に描かれているのがまず気になった。

「ふふっ、ライラちゃん、ちょっと向きが違うわね? 横に長くなるように持つのではなくて、縦になるよう右に回して……、そう、その向きよ。」

指摘された通りに持ち直すため、A4くらいの用紙の端と端を持って、右に90°回転させて向きを修正した。

横並びだった2つの四角は、打って変わって縦並びになった。
けれど何のために描かれた四角であるのか依然として不明なままだったし、位置も中途半端なままだった。
どんなにじっくり眺めても、これ以上何の意味も読み取れてこなかった。

診察を受けた際と同じ、寝台の上で上体を起こして腰掛けていらっしゃるお母様の方に向き直り、問いかける。

「お母様、これは一体……何なのでしょうか? この四角は、何の意味があるのでしょう?」

「それはね、この屋敷の見取り図なのよ。」

「え? ………コレが、……見取り図、…でもお母様、2つの四角しか描かれてませんが??」

 ――何も見取れておられてませんが、本当に?――

四角の描かれた紙とお母様の顔を交互に見て、結局首をひねってしまう。
私の『これの何処が見取り図?』という困惑を正確に読み取って、くすくす笑いながら

「うふふっ正確にはね、その紙に署名してから、署名した本人が持ち歩いて実際に訪れた場所が自動で記録され描き加えられいく、という代物なの。 ふふっ、なんだかとってもワクワクするわよねぇ?」

昨日のうちにお父様に頼んで用意してくださったのだというこの紙は、フォコンペレーラ公爵家独自の製法で作られた、門外不出の魔導を凝らした産物であるらしく、コレの在り処を知っているのは歴代の当主のみなのだそうだ。

「え、え…、えぇっ?! 署名したら自動で?? これ…この紙が……ですか、え、凄いっ!! 自分だけの!? それってなんだか凄く特別感があって、ドキドキしちゃいます!!!」

 ――何それ凄い!! 何か、凄い、とにかくテンションがバク上がってドキドキワクワクがノンストップなのですが?!?――

鼻息荒く、語彙力低めでとっちらかった感想を声高に囀る私を見て、声を弾ませたお母様がパチンと手を打ち鳴らし無邪気に賛同してくださった。

「そうなの、世界にたった1つの、自分だけの見取り図が完成していくのよ、素敵でしょう? ほら…これが私のよ、この屋敷に来て直ぐにコーネリアスがくれたの。 懐かしいわ…、でも10年以上この屋敷で暮らしてるのに、駄目よね…。 全部埋まってないままなのが、ちょっと恥ずかしいわ。」

そう言って見せてくださったお母様の署名がなされたそれは、私のよりもう2つ四角が縦に追加されており、その四角の中には小さな四角と細い線が描かれていた。
確かに、所々空白が目立つ部分がある。
けれどざっと見た感じ7割は埋まっているので、全然恥ずかしく思う必要性は無いと本気で思えた。

「そんなこと無いです!! 全然恥ずかしくなんてありません!! とってもとっても素敵です、だって、お父様との思い出もしっかり刻まれてるのでしょう?! これを見返す度に、お父様とどんな時に、何をしに行った場所かいつでもすぐに思い出せるのでしょう!? これはれっきとしたお母様の大事な宝物ですよ!!!」

「そうね…、本当に、その通りだわ。 ありがとうライラちゃん♡ ライラちゃんにとってもその見取り図が、素敵な思い出を沢山思い出せる、大事な宝物になると良いなぁ…って、渡す前に思ってたのよ。 無理せずゆっくりと、埋めてみてちょうだい。 全部埋められるよう応援してるわ…楽しんで頑張ってね、ライラちゃん♡」

「はい!! 無理せず楽しんで頑張ります、お母様♡ 貰えて凄く嬉しいです…!! こんな素敵なもの、宝物にする以外、考えられません!!!」

このあとお母様に手伝って頂いて、紙の右下に頑張って署名する。

 ――うん、私一人で書いた文字より全然キレイ! 多分、今度はちゃんと読める、はず。――

サイボーグ侍女に一昨日ここで辛辣且つ痛烈な言葉で指摘された内容を思い出す。
それは少なからず、この小さな胸にトラウマを植え付け、小さな心臓にズブズブっと突き刺さった言葉だった。

お母様にも読めるかどうか確認して、ニコニコ笑顔で太鼓判を押して頂けたことで、ホッと出来た。
それが母親からの溺愛フィルターがかかった親バカの賜からの判断である、と気付くのはもう少し先のお話だった。

ともかく、レヴェイヨンが始まる今日の夕方まで、何をして過ごすかが決定した。
そうと決まれば直ぐにでも実行したくて辛抱たまらなくなるのは、幼女あるあるな必然の心理だった。

 ――少しでも身軽になって、見取り図更新作業に集中して勤しめるようにせねば…!――

一旦自分の部屋に戻って要らないものを置いてこよう。
そう思いたち、手短に退室の挨拶を済ませてお母様の寝室を後にしようと行動する。
意気込んで部屋を出でいこうとする私に『道に迷うかもしれないわ、誰か人を呼ぶからその人を伴って行ってちょうだい?』と心配そうにご提案くださったお母様の言葉を受けて振り返る。

お母様の目を見て、自信たっぷりに言い返した私のセリフは、次の通り。

「ご心配なく! 行ったことがある場所や通ったことがある通路しか通りませんから!!」

その約束を守れるかどうか、一抹の不安も抱かずに自信を持って宣えたのは、この時の自分が全くの無知だったからに他ならない。


 お母様の寝室、自分の部屋、そこから階段へ向かい魔石に触れてパッと1階へ。
エントランスホールを横切って右に向かい、道なりに進んで突き当りの食堂へ。

自動で開かれた扉から入って中の様子を窺い見る。
見慣れたテーブルの上には、見たこともない程豪華な料理の数々が着々と並び置かれていっている最中だった。
突然姿を現した私に、ギョッとして動きを固くする使用人たち。
別段ようもなく訪れてしまった私としては、バツが悪くてしょうがなかった。
ともかく、私の姿を目撃してしまった使用人たちには気にしないよう伝え、そそくさと尻尾を巻いて退散する。

通って来た通路を足早に取って返して、再びエントランスホールへとたどり着く。

 ――はてさて、成果のほどは如何ほどかしら? どれどれ~~っと、うわっ!! 凄い、ホントのホントにちゃんと記録されてってる!! え~、凄く面白いぃ~~、すっごく楽しぃ~~っ、俄然ヤル気が天元突破!!!――

でもここで正気にならざるを得ない選択に迫られる。
これ以上の見取り図完成を望むなら、この1階で図書室の他に私が知り得る場所はたったの1つ。
2度足を踏み入れた右手奥の通路を歩いていった先にある、1等から5等までの客室が並ぶあの通路しか無い。

時間はわからないけれど、外の明るさから判断するに14時~15時の間くらいだと判断する。

レヴェイヨンが始まる時間まで、まだもうちょっと・・・・・・余裕がある。
この“もうちょっと”が曲者なのだ。
長すぎると感じたり、逆に短すぎると感じるかは、その時の気分によって変動してしまう。

チラリ…。

左にある大階段を横目に見る。
行かずに自室での時間潰しを試みたら行けば良かったと思うだろうし。

チロリ…。

右手奥の通路を横目に見る。
行ってみて時間をオーバーする結果になればお父様やお兄様ーズを待たせてしまって後悔しそうだし、どうしたものかと頭を捻る。

 ――う~ん、うぅ~~ん、うぅう~~~ん…、良しっ!! きぃ~~~~めたっ!!!――

左にある大階段を無視して、テコテコテコと靴音を響かせて、不測の事態が待ち受けている右手奥の通路へと歩き出す。
この時の自分の選択を、この後どれだけ後悔することになるか。
るんる~ん♪と興の乗ってしまっている少女は、何の不安も抱かずに踏み出す足を止めずに歩き続けていった。


 ちゃんとたどり着けるか不安だったけれど、自分でも意外なことに道順をきちんと覚えていた。
目的地であった5等客室の【蒲公英ダンドリオン】へと問題なくたどり着き、そのことで大満足となって行きよりも意気揚々として、来た道を逆に辿って軽い足取りで歩く。

何度目かの曲がり角で、あり得ない異常行動を取る不審人物を…目撃してしまった。

 ――ふむ…、あれに見ゆるは紛うことなき不審者ね!――

だって動きが怪しすぎるのだ。
行ったり来たりを繰り返して、明らかに『初めての道に戸惑ってます』感がダダ漏れている。
あの人物はのっけから、公爵家の使用人にあるまじき醜態を露呈してしまっているのだ。

そもそも地下階から上階に上がってこられる使用人は限られていて、仕着せを着用しているのなら尚の事、こんなところでウロウロしてる、なんてことはありえない。
道に迷うことも問題だけど、使用人通路から出て堂々と闊歩していることこそが大問題だった。

1階に上がれるようになったとしても、使用人たる彼らが堂々と歩けるのは使用人通路のみ。
そこから通常の通路に出る場合は、誰も居ないことを確認してからサッと出て次なる使用人通路にササッと入らなければならない。
もしその間に主人や客人が通りかかったら、邪魔にならないよう通路の脇によけて、通り過ぎきるまでの間ずっと頭を下げてじっとしていなければならない。

使用人は黒衣のように裏方仕事に徹するのが暗黙のルール、主人たちの目に触れないよう努めなければならない。

だから今のあの不審人物のように、主人たちが使用する通路を堂々と歩くことは御法度であり、その振る舞いで自分から使用人ではないと暴露しまくっているのだった。

 ――でもどうしよう、凄く困った事態だわ! だって、この道以外に私が把握している帰路に繋がる通路が無いのだもの、どうしようっ!? どうしたら正解なのぉっ?!――

こんな時、ゲームのように選択肢が出るとするなら、きっと以下の三択になることだろう。

 [□物陰に隠れて通り過ぎるのを待つ。]
 [□それとなぁ~く、後をつける。]
 [□思い切って声をかける!]

 ――よっし! ここは正攻法の消去法で、まずもってあり得ない選択肢から、率先して消去していこう!! まずはっきり断言する、一番下の選択肢だけはぬわぁーーーーっし!!! A・RI・E・NA・I!!! 選択肢の候補に列挙される可能性からして却下な内容ですけど?!?――

自分の脳内で作成された選択肢だということは棚に上げて、感情の赴くままに扱き下ろす。

声には出していなかったのだけど、隠しきれなかった私の騒がしい雰囲気に気付かれてしまったらしく、呆気なく発見され、不審者たる謎の使用人に声をかけられてしまう。

「…そちらにいらっしゃるのは、もしやライリエルお嬢様でしょうか?」

「 !? 」

 ――堂々と声をかけてきた、しかも私が話す前にだなんて…。 相手が幼女だからって、ちょっと油断が過ぎるのでなくって?――

使用人が許しもなく主人一家に直接声をかけるなんて、ありえない。
主人一家の身の回りの世話をする上級使用人ならわからなくもないけど、下級としかわからない、名前も不明ないち使用人が許しもないまま気安く声をかけるなんて、この不審人物は先程から最上級の禁忌タブーを手当たり次第破りまくってて、潜む気があるのかないのか…。

 ――これだけ悪目立ちして、何が目的なんだろう? もしや何かの記録に挑戦している最中なのかも?? でも一体、何の記録を打ち立てようと云うのかしら、連続禁忌踏破記録にでも、挑戦しているとでも???――

自分が部外者だと暴露したも同然の行いと知ってか知らずか、こちらが答えるのを待たず、使用人に扮した男はコツッガツッとちぐはぐな靴音を響かせてゆっくり着実に距離を詰めてきた。

「お1人のようですが…もしや道に迷われたのでしょうか? でしたらお部屋までご一緒致しましょう、さぁ…お嬢様、お手をどうぞ…?」

「いいえ、結構! 独りで問題なく帰れます、ついて来ないで!!」

相手が近づいてくるのに比例して、ジリジリと後退していた。
これ以上近づかれたら危険と判断し、捨て台詞を残して駆け出した。

そして1番近くにあった使用人用通路へと、初めて足を踏み入れる。
その先がどうなっているかなど理解しないまま、全力で駆け進んでしまった少女は、後々大いに後悔する羽目になる。

少女が駆け去った通路に何か白いモノが落ちていた。

「あ? んだコレ……、暗号か何かと手描きの地図…? あぁ~~~あ、1階の見取り図か! ッハハ、あのガキが落としたのか、こいつぁ~運がいい!! 今日の俺はどうやらツキが味方してくれてるらしい、標的に偶然ででも遭遇できたしなぁ~~、ックックックックック!!」

拾い上げた紙を鷲掴んで、くしゃっとなるのも構わず堅っ苦しい仕着せの上着のポケットに無造作に突っ込む。

暗号など書かれていなかったはずのそれの、何処を見て暗号と誤解したのか。
この言葉を少女が耳にしなかったのは、この時1番の不幸中の幸いだったと言えるかもしれない。


 迷路のように入り組んだ使用人用通路は、慣れない者にとっては正に迷路そのものとなってしまう。
足を踏み入れてからわずかも経たない内に、見事方向感覚を狂わされてしまった。
それもこれも、通路が狭く、規則性無く入り組んでおり、やたらと同じような間取りが続いているせいに他ならない。

自分の把握能力の低さを棚上げして、またも心の中でどうにもならない現実に抗議の声をあげる。

「野ネズミちゃぁ~~~ん? 何処行ったのかなぁ~~、逃げても無駄でちゅよ~~~ってか?! ッハッハッハ、ヘンテコな見取り図でも手元にねぇーーと困んだろぉーーーーなぁ!? ぇえっ?? そぉーーーだろぉ~なぁっ、野ネズミちゃんよぉっ!!!」

巫山戯た言葉で揶揄してくる刺客の言葉に、距離を測るため我慢して耳を傾けていたところで、嘯かれた思わぬ情報の暴露に慌ててドレスのポケットを探る。
そこには求めた紙の感触はなく、あの男の言葉が真実であると証明していた。

 ――!? しまった、嘘でしょぉ、地図がない…?! ホントに逃げる途中で落としてきちゃったんだ、私の馬鹿っ!!――

折角頑張って空白を埋めていってたのに、落としてしまうなんて。
今までの努力と、費やした時間が諸共にパァになってしまった瞬間だった。

落としてしまったものはしょうがない、全然しょうがなくないけれど、ここは“しょうがない”と自分に言い聞かせて、窮地から脱せられるよう気を引き締めて通路を進む。

けれどその甲斐虚しく、くねくね通路を曲がって行く内に知らず元の場所へと舞い戻ってしまったようで、呆気なく不審人物に左腕を捕らえられ、吊り上げられてしまった。

「んな必死に逃げんなよぉ~、愉しくなっちまうだろぉ?! 手元が狂って、殺しちまったらどぉーーーしてくれんだよぉっ!! 報酬カネがパァーになっちまうだろぉーーが!!」

ギラギラと残虐な光を宿す桃色の目に、間近で見つめられる。
暗殺者だと言動で仄めかす刺客らしい男は、怒りながら笑うという器用な真似をしながら、まったく笑えない握力で腕を締め上げる。

ギリ…ギリ…、ミシ…ミシミシィ…。

「いぅ…ぁあぁっ!」

掴まれた腕にギチギチと指が食い込む程握り込まれ、折れる寸前の枯れ枝のように骨が軋む。
初めて与えられる圧迫感に、恐れを孕んだ意味をなさないうめき声が漏れてしまう。
このままボキリと折られてしまうのではないか、と考えてゾッとした恐怖が肌を一瞬で粟立たせた。

 ――怖いっ、痛みよりも…ただ単純に、怖い! どうして…私が狙われてるの? 私の何が、そんなに……誰かに疎ましがられてしまったっていうのよ!?――

預かり知らないあちらの事情を理由にブチギレられてしまったし、わけがわからない。
『知りませんが?』と言いたいけれど、今は絶対に口にできない。

言ったら何をされるかわからない。
彼の中で張り詰めていた何かがパンっと弾けて、今以上にのっぴきならない、取り返しの付かない事態に急発展してしまうかもしれない。

だからここはただただ口を噤んで、じっとこれから展開される状況を見極めて、この窮地から逃げ出せる隙を探り続けるしか無い。

生唾をゴクリと飲み下し、ともすれば今にも悲鳴を上げてしまいそうな唇をぎゅっと引き結び、腸をも震え上がらせる恐怖を押し殺そうと努める。

途端、私の泣けなしの努力は嘲笑の的とされ、喉の奥で笑われてしまった。

鞘をベルトに装着して腰の後ろに隠していたらしい得物を、空いている左手でスラリと引き抜いた。
手にした短剣の、ぬらりと鈍く光を反射する刀身を見せつけるようにして晒し、掴み上げた私の左手の肌にその峰をスゥーーーーっとそわせて滑らせ、撫でて逆撫でてを繰り返される。

「っクックック、残念だけど殺したらダメなんだよなぁ、今回は特によぉ~…!! でも…殺さなきゃ何しても良いっては、言われてるけどなぁーーーーーっ!!!」

スパッ。

「…っあぁっ!? う……、ぅ、あれ? そんなに…痛くない……?」

斜めに切り付けられた左腕には、手首に近い表側に赤い血を流しはじめた裂傷がぱかっと口を開けていた。
見ているだけで痛々しいと感じるのに、視覚から得られる以上の痛みは感じない。

 ――というより、全く痛まない………何で?――

痛みを訴える言葉が自然と尻窄んで、喉の奥で停滞した。

自分でもわからない、何で自分の身体が痛みを訴えないのか、その理由がまったく理解できない。
血を流す傷口を不思議に思って眺めていると、そこに何かをポトリと落とされた。

「え、今一体、何を――」
「あぁ~~ぁあ~~~っ!! ッチ、つまんねぇーーなぁっ! ガキの悲鳴聞くのがこの仕事の醍醐味で、愉しみの1つだってのによぉ~…、白けちまうぜ、ったく。 っはぁ~~~あぁ、やる気失せちまった。」

何を落としたのか尋ねようとした私の言葉に、苛立った様子でグチグチと文句を垂れだした男の大声が重なり、塗りつぶされた。

この刺客の男が意図していたかはわからないが、結果的に私は問い詰める機会を逸してしまった。

大声は最初のうちだけで、語る内に段々と力を失っていき、最後はぼそぼそとしたぼやき声にまで成り下がっていた。

どうやらこの男が期待していたような反応が私から得られず、乗りに乗って高揚していた気分が急速に失墜し、削ぎ落とされてしまったようだった。

骨が軋むほど強く掴まれていたのが嘘のように、呆気なく左手が解放されて、戸惑ったのはほんの一瞬。

次の瞬間にはくるりと方向転換して、ありったけの力で床を踏み切って脱兎の如く駆け出す。
気を抜いているとは云え、あの自称暗殺者の横を通り抜けるのは無理と判断して、後ろに向かったは良いが…何処へ向かえば逃げ道として正解なのか。
全力で駆ける自分ですらわかっていかった。
でもここではない何処かへと、早急に逃げなければならないのは確かだった。

 ――追ってくる足音は聞こえてこないけれど、今って一体どういう状況?――

息を乱して走る最中、バランスを崩さないよう注意して後方を確認する。
頭を少しだけ後ろに向けて、残りは視線だけで振り返った。
そこには、その場から一歩も動いた様子のない、やる気を無くして姿勢悪く佇む、だらけきった自称暗殺者の姿が見えた。

 ――プロの殺し屋のような言い様だったけれど、随分気分屋なのね…? 直ぐに追ってこないなんて、私には好都合だけど、プロとしてどうなのって、心配になっちゃうマイペースっぷりね…??――

追ってこないのを確認して、進行方向に向き直る。
この隙にできるだけ相手との距離を稼ごうと全力で駆け進む。
この時の私には、まだ相手の仕事ぶりを心配できるだけのまったく余計でしかない気持ちの余裕が残っていた。


 再び遠ざかっていく少女の背を目で追いながら、左手に持つ得物をブラブラ~とブラつかせる。

「必死になって逃げちゃってまぁ~~…、さっき忠告してやったばっかだってのに、あのガキわかってねぇーーなぁ、この分だと。」

切りつけた際についた少女の血を右手の指先で拭い取り、薄く開いた口の隙間からズルリと引き出した、平均よりも長い舌でベロリと一息に舐め取る。
その舌には入墨とは明らかに違う特徴的な紋様が描かれており、舌の動きに合わせて色を変え、仄かに発光しているようにも見えた。

「まぁ…お愉しみはこれからだしなぁ~、精々今のうちに好きなだけ逃げ回ると良い…。 仕込みは済んだ、直に動けなくなるからその時が来るのをじぃーーーくりとを待って、追い詰めて追い詰めて追い詰め尽くして!! パァ~~ッと刈り取ってやるさぁ~、最後に残った希望ごと、公爵令嬢として約束されてた輝かしい未来もなぁ!! グッグッグ、ぐぁひゃひゃっひゃひゃひゃひゃーーーひゃっひゃぁっ!!!」

独り言ちる内に段々と感情が昂ぶって、堪えきれず狂ったように呵い出した男は、これ以上使用人っぽく振る舞うつもりはサラサラ無くしたようだ。

ッガ、……ッコ、……ッガ、……ッコ、……ッガ!

猫のように背を丸めて大股で歩き出す。
鼻歌を唄い機嫌よくしながらも、油断なく周囲を警戒して少女以外の気配がないことを確認していく。

獲物を追い込む捕食者の体で、一歩一歩確実に、しっかりと床を足で蹴って、逃げ出した小さな野ネズミの足跡を辿って追跡を開始した。


 ドクドクドクドクドクドクドクドク。

耳の中が鳴り止まない自分の鼓動の音で占領されきっている。
早鐘を打って、打ち過ぎて、五月蝿くて苦しくて私の小さな心臓はこのまま胸を突き破って飛び出してきてしまいそうなくらい。
さっきから仕切りに、この胸の内側から激しく打ち鳴らしてその存在を主張してくる。

 ーーどうしようっ!! どうしたら良いっ?! どうすればこのまま見つからずに、ちゃんと信頼できる人物に助けを乞えるだろう!?ーー

先程とは違う使用人用通路に逃げ込み、相変わらず狭い通路を早足で進みながら、できるだけ見つかりにくそうな隠れられる場所を必死で探す。
探すうちにどんどんと奥の方へと進みすぎてしまうが、これだと思える隠れられそうな場所が見つけられない。

焦りが焦燥を呼び、冷静な思考能力を徐々に削ぎ落としていく。
それでも考えなければ、と自分で自分を叱咤激励して、何かこの状況を脱する良い手立てはないかと必死に考えを巡らせる。

誰か使用人の一人でも掴まえられたなら、助かる見込みがあるかもしれない。

でももし、その使用人が侵入者を招き入れた共犯者だったとしたら…?

味方だったとしても、その人物が助けてくれる好人物であるとは限らない。

考えれば考えるほど疑心暗鬼になっていく。

もっと悪いことに、共犯者がたったの一人だけとは限らず、断定する確証もないのだ。

この公爵家には今現在、優に100人は下らない使用人が勤めている。
それなのに、しがない幼女で3歳児でしか無い私が、その一人一人、プライベートや交友関係を隈なく把握しきれているはずなんてありえない。

先日も考えたけれど、私が為人を少なからずでも把握している屋敷の使用人は、両手の指の数で足る人数しか居ないのだから。

どんな人物でも手引可能な人物に思えてくる。
面接にさえ合格できる経歴を詐称できたなら、あとは時期を見て行動に移すのみだ。

そんな取り留めもない暗い考えに没頭して、忘れずに身を隠せそうな場所を探して足を進める。

途中、少しだけ立ち止まって傷口の少し上をハンカチで縛り止血は試みた。
その時にも心配したような痛みはなく、そんなに酷い怪我ではないのだと、油断して、安心しきっていた。

「いぃっ………?!」

けれど束の間の安寧の時は無常にも終わりを告げる。

突如脳天を貫くように走り抜けた激痛に、悲鳴を叫び上げそうになって、慌てて押し当てた右手の甲に強く噛みつく。

 ――痛い、痛いっ、痛いぃっ!! 今まで殆ど痛まなかったのに、何で急に?! 痛い、熱い、それに、変だ、コレ、おかしい!! さっきより伸びてるし、身体の中でドクドクして、ズルズル這って蠢いてるみたいで、気持ち悪いっ!!!――

「っはぁ…痛い……、何で? 何で急に?!」

負傷した傷口から絶え間なく生み出される激しい痛みと、未知なる生物が体内を這い回る恐怖でガクガクブルブルと身体が小刻みに震えだした、
その身体をギュッと小さく丸めて抱きしめる。
負傷した左腕はそのままに、右手で左肩を掴み、今出せるありったけの力で強く抱きしめた。

止血をしたけれど、幼女の力では十分に締められなかったようで、流れ出す血は止まりそうにない。
流れ出す血と一緒になって、体温まで身体から出ていくようだ。

寒い。

震えが止まらないくらい、寒い…。

でもこの震えは、失血のせいだけではない。

チラ…。

 ――やっぱり…見間違いじゃない! さっき見たときよりも明らかに伸びてる!? 私の中で、成長していってる、の…?? 何コレ、意味がわからない、ホント、何なのコレっ?!――

比喩的表現でも何でも無く、切りつけられた傷口から何かが体内へと植え付けられてしまったようだ。
薄く脆い皮膚の直ぐ下にある、未熟で柔らかな肉を掻き分けて、根っこのようなモノがズルズルとそのヒゲを伸ばして急成長している。

傷が浅かったせいか、伸び進む根のようなモノの輪郭が黒々と浮かび上がって見えて、皮膚の上からでもはっきりとその様を確認できて・・・・・しまう。

目に見えてしまう異様な現状、それが静かながらに的確に、より一層の恐怖を煽り上げてくる。

怖い。

痛い。

熱い。

寒い。

痛い。

怖い。

痛い………怖い…………怖いよぉっ!!

グルグルグルグル言葉が巡る。
頭の中を巡るのは恐怖や痛みを助長するだけの、似たような抽象的な言葉ばかりになっていき、最後にはその全てが恐怖という感情に集約された。

視界が狭まって、自分の事しか見えなくなっていく。
自分の内側の事に頭が支配されて、思考が段々と内向的になって閉じていく。

先程まで考えられていたあれこれが頭の思考領域から弾き出されて散り散りになって落ちていく。
もう何も正常に考えられない、自分の事にしか集中できない。

考えなければいけないことは他に沢山ある筈なのに、この恐怖から抜け出せない。
底の見えない恐怖に呑まれ、引きずり込まれて、自力では抜け出せない深淵に向かって延々落ちていく。

コツ………コツコツ、………コツ……コツ………。

ビクビクっと恐怖で両肩が跳ね上がる。
その拍子に左腕も動かしてしまい、悲鳴を上げそうになった口に右腕を噛ませてやり過ごす。

っふっふっふっふっ。

自分が鼻から吐き出す荒い息遣いの他に、周囲に聞こえる音はない。

どうやら、体の震えがどうやっても抑えられずにいたせいで、靴底が微かに床を打ち鳴らしていたらしい。
シンとした静寂に包まれるこの場所では、その微かな音でもとんでもなく大きな音となって聞こえてしまったようだ。

でも駄目だ、このままではいずれ見つかってしまう。
虱潰しに探されたら、いつかは絶対にここに行き着いてしまう。

身近に危険が迫るこの現実が、私の精神こころをぺしゃんと押し潰す。

私は脆い。
脆くて弱くて、何の力もない、何も出来やしない、無力なただのお子様だ。

一度恐怖に呑まれてしまったら、こんなにも精神から脆弱になってしまう。
立ち向かう勇気も、抗う気力も持てずに、ただ逃げて、隠れて、座り込んで、震えることしか出来ない。

私が持ってるものは何も無い。

問題児扱いされたレグリスさん以下の存在だ。
だって私には、レグリスさんみたいに自力で刺客を撃退する“力”なんてない。

誰かに助けてもらわないと何も出来ない。

でも今の私には、助けを乞える相手が誰一人居ない。

 ――メリッサも午後から休みを取るって知って、呼び鈴クロッシュも置いてきてしまったし…、でも持っていても絶対に使えない! メリッサを巻き込みたくない。 絶対に、絶対、それだけはしたくない!!――

誰かを巻き込んでまで助かりたいと思わない、冷静でいられたなら、絶対にそんな選択肢は選ばない。
だけど、今みたいに恐怖に駆られて、精神的に追い詰められて、耐えきれなくなったら………、呼び鈴を鳴らさないでいられる自信がない。

だからといって最後まで使わなければ、それはそれで別な問題が浮上してしまう。
メリッサ個人ででも、誰かしらを呼び出す道具を持っていたのに、何故使わなかったのかと後々誰かから問われることになって、召喚されなかったメリッサまで咎を負う羽目になってしまう。

だから今回は置いてきて正解だったのだ。
そう自分に言い聞かせて、今はコレ以上は考えないようにしよう。

 ――あと他に…誰かに何かを伝えられるモノは……? あるわけない、何も持ってない。 あるのはただの………、ただの? …あ、あぁっ?!――

右手で胸元を探る。

シャラ…。

そこには数日前から新たな習慣となって、無意識に身に着けていたあるモノが、確かに首から下げられ他状態で存在していた。

 ――これを使ったら、不特定多数の助けを一気に呼べるかもしれない…! でも、その為にはここから移動して、せめてエントランスホールまではたどりつけないと意味がない。 でも………。――

痛みを訴え続ける傷口は未だに乾く気配がない。
今は動いていないからそこまでの痛みは感じなくなったけど、動き始めたら再び激痛になるかもしれない。

それに今ここで問題となるのは傷の事だけではない。
自分が今いる場所、それが正確には屋敷のどの位置なのか、エントランスホールまでの最短ルートはどの道か。
行き止まりの道を選ばずに、刺客とも遭遇しないで、目的地まで辿り着けるかどうか。

残念ながら今の自分には、そのどれもが実現不可能で、失敗する自信しか持てない。

掴みかけた希望は夢幻のように儚く揺らぎ、掻き消えていった。
浮力を失い、どん底に舞い戻った私に、追い打ちとなる現実が不穏な足音を響かせて近づいてきた。

…ッコ、…ッガ、ッコ、ッガ、ッコ、ッガ!!

「ん~~、匂うなぁ~~♪ 甘くて旨そ~~な、怯え震えて泣きじゃくぅ~~って絶望するエ・モ・ノ・のぉお~~、好ぃ~~~~匂いがぁ…♡」

っっすぅぅ~~~~~~っ、はぁあぁーーーーっ!!

長く深く息を吸い込み、枚が限界まで膨らむのを待って、一息に吐き出す。
本当かどうかわからないが、匂いを正確に辿って来るような迷いない足取りで私が身を隠す部屋に歩いて来るのが嫌でも理解できてしまって。

カタ…カタカタ…カタカタカタカタカタ。

体の震えが止まらなくなって、息を殺すことがこれ以上困難なくらい、荒く激しい息遣いが押さえた手の隙間から漏れ出してしまう。

 ――こっちに来てる、近づいてるっ!! あの男の影が見えてる、もう駄目、見つかる!! 見つかったら今度こそ――――っ?!?――

パニックに陥った頭にグルグル回るのは悲観的な言葉ばかり。
自分で自分を追い込んでいる事に気が付けないまま、あの刺客に見つかった後の自分に訪れる、暗すぎる未来を想像して絶望する寸前。

何処かからぬ…っと伸びてきた腕が私の腰と口元に絡みついてきて、あっさりと捕まえられてしまった。
かと思えば直ぐに、良くわからない方向へと強い力で引っ張られ、倒れ込んだ。

「可愛いかわい~~い、オレ様の獲物な野ネズミちゃんはぁ………、こ・こ・だ、なぁっ!!?」

ターゲットを射程距離内に補足してご機嫌となった刺客が、先程まで私が居た場所目掛けて身を乗り出して覗き込んできたのは、謎の人物によって未知なる空間に引っ張り込まれた私の足が、その未知なる空間に隠れきった丁度その時だった。

期待大で補足したと確信した私の姿が見当たらず、途端に不機嫌さを顕にする刺客。

「あ"…? ッチ、~っだよ、ここも外れかよ……、どこ行きやがったあのクソチビガキめ!!」

苛立ちに塗れた声で喚き、尚も未練たらしくねばって、この部屋の中に私の姿が無いかを執念深く探しているようだった。

「あーー白ける、しくったなぁ~~、通り過ぎちまったのかぁ、しらねぇーうちに? ぜってぇここだと思ったのになぁ~………。」

長い時間を費やして、目を更にして隈なく部屋の隅々まで確認した後になって、ようやく諦めたようだ。
特徴的な靴音が渋々、後ろ髪引かれた状態のままで遠ざかっていく。
そう感じられるのは、左右で違う靴音が響く間隔が、来た時よりも明らかに長くなっていたからだった。

………ッガ、………ッコ、…………ッガ、…………ッコ。

「っはぁ~~~~、ダリぃ。 しゃーーねーーなぁ、来た道引き返すかぁ……、はぁ~~~~ダリぃ、面倒くせぇ、ダリぃ、っちょーーーーー…ダリぃ!!」

喚く声が遠のいていく。
靴音も、耳を澄まさないと聞こえないくらい遠のいた頃になって、ようやく。

スンスンスン。

「…っし、行ったみたいだな。 なんで追っかけられてたか知らないけど、アイツかなりヤバイ奴だぞ? 何して追っかけられて……って、あれ、お前、もしかして昨日の…“オジョーサマ”?」

声は潜められ、間近でないと聞こ取れないくらいの小声で囁かれていたが、バッチリと聞き取れた。

それもそのはず、今の私はこの声の主に背後から抱き竦められたあと床に寝かされ、仰向けに横たわった状態の私を隠すように上から覆い被さった少年に見おろされた状態で語られた声だったから、問題なく聞き取れたのだった。

しかし間近で訝しげに問い詰めていた言葉は途中で止まり、代わりに確認するような言葉が紡ぎ出された。

「……え…と…? 何処かで……、あ、救護室……、ユーゴ先生の……、……っ!!」

痛みでチカチカ明滅する視界の中で、覆いかぶさる人物の顔を見上げた。
けれど、逆光のせいで顔の詳細ははっきりと見えず、仕方がないので首を動かし、角度を変えて逆光とならない位置を探る。

声から判断するに少年と思しき謎な人物のくすんだ赤銅色の髪に、いつか何処かで見かけた少年の髪色がピッタリと重なった。

それを目撃した場所の記憶に思い至り口にした直後、くすんだ赤銅色が瞬きの間の一瞬、パッと様変わりする。
差し込んだ一条の光を反射して、煮溶けた蜜蝋の黄金の輝きを纏って、揺らめく篝火のように強く輝いたのだ。

その美しさい色彩に目を奪われて、はっと息を呑んで固まる。
驚いて言葉が中途半端に途切れてしまうが、その後に襲ってきた痛みに呻いたことで、私が不自然に言葉を詰まらせた件は有耶無耶になった。

「な、やっぱあの時入れ違ったやつだよな? てか、汗酷いなお前、それにこれ…、血の匂い?」

スン…。

覆いかぶさった姿勢から身体を動かし、寝転ぶ私の左横で胡座をかいて座る。
姿勢が変わり、少年の顔が正面から光に照らされ、その表情の変化まではっきりと確認できるようになった。

形の良い鼻をひくつかせた後、迷いなく私の左手に視線を移動させる。
私が公爵家の令嬢と知っている人物から、転生して初めて終始変わらぬタメ語で話され、それが不思議と嫌じゃない。

「!? ひでぇな…、これアイツの仕業かよ?! ……っかしーな、毒っぽい匂いしねぇーのに、ヤバイ感じに変色してるよな、コレ。」

私の顔と傷とを交互に見遣り、傷口に顔を近づけて何をするのかと見守っていると…。

スンスン…、スンスンスン。

何回目かのこの光景、この謎の少年はまるで犬のように周囲の匂いを嗅ぐのが癖のようだ。

「助け…くれ…、あり……と。 っはぁ…、貴方は、ここで……にし……?」

必要だったとは云え、動いたせいでぶり返してしまった激痛に息が詰まる。
上手く言葉が話せなくて意味が伝わらないかも、と言ってから少しだけ心配になり後悔する。

痛みに細まった目で見た少年は、私の左手に照準を定めたまま、もの言いたげにじーーっと見つめていた。

「ん? 俺? 俺は……アレだよ。 昨日言ってたロクデナシ共にウサバラシのリンチされて、気の済むまでボコられて、気絶したのを放っとかれたってやつ。 ってかこの結び目ゆるゆるじゃん、意味ねーーよこんなんじゃ! ちっと痛いかもしんねーーけど、結び直すからな? 歯ぁ食いしばって、ちょっとだけガマンしろよな?!」

確認を取ったくせに返事を待たず、少年は緩んで絡みついていただけの布の結び目を解いてちゃちゃっと外し、縛りやすいようにか少し幅を調整してから腕にさっさか巻き付け直しはじめた。

「…?! ……、っはぃ、おね……し…す。」

少年の素早すぎる行動に遅れること幾許かして、なんとか了承の返事を返すが、少年の言葉が気になりすぎて、問い詰めたくなってしょうがなかった。

 ――なんかサラッと、とんでもない経緯を語られてしまった気が…? 気絶するくらい殴られたり、蹴られたかもしれないのに、凄くピンシャンしてる……男の子って、頑丈なのね?――

言葉は上手く話せないけれど、思考はまだスムーズに行えて、ちょっとだけ安心できた。
暗い考えに囚われて、後ろ向きなことばかりしか思い浮かばなかったのは、独りで居たせいかもしれない。

この少年の素性も名前も不明なままだけど、誰かが側に居てくれることが、こんなにも心強く感じられて勇気づけられるのだということを、初めて実感した。

「…うっ、………んうぐっ……っ!!」

言われた通り歯を食いしばって耐えようと試みたけれど、結果は惨敗。
どんなに頑張って抑えようと試みても声が漏れてしまい、この声を聞きつけた刺客が引き返してくるのではないかと、気が気ではいられなくなってしまった。

自分でやったときとは比較にならない強い力でギューギューに縛り直される。
血の流れを完全に止める気で縛られたそれは、ちょっとやそっと動いたくらいでは解けないくらい、痛いくらいにしっかりと結び付けられた。

スンスンスンッ、スンスンッ、スンスン。

「………っし、アイツは来てねーな。 でも、もうしばらくはココに居たほうがよさそだな。 アイツ、何か蒔いて行きやがったから今動くと気付かれるかも。」

周囲の匂いを用心深く嗅ぎ分けて、脱力する。
その様子は言葉の通り、この周辺には今現在危険な事態が起こる可能性が皆無である、と判断し、絶対の自信を持っているからこその態度に思えた。

 ――匂いだけでこんなに色々とわかるものなのね…? あの刺客が近くにいるかどうか、とか…凄くはっきり分かってるみたい、羨ましい…。 今の私に、その鋭敏な嗅覚があったなら……?! って、違う、そうじゃなくって!!――

羨望の眼差しを向ける前に、今やるべき事、取るべき行動に思い至る。

一方的に痛めつけられたにしては比較的キレイなままの、緑青色の瞳が印象的な少し頬のコケた少年の顔をまじまじと見る。

信用できるかはわからない。
でも今この少年以外に、私が頼れるだろう人物は二度と現れない事だけは確かだった。

 ――一か八か、どう転ぶかわからないけれど…この偶然の再会に懸けてみよう…!!――

先程までは全く見つけられなかった希望へのきざはしに今度こそはとしっかりと手を伸ばし、確実にこの手に掴んだ。

そのことに力を得て、がしっと力強く少年の腕に縋り付くようにして掴みかかる。

「お願いが……っはぁ、…っあるのですが!!」

力を込めて詰め寄る私に、たじたじっと仰け反りながらも用件を聞き返す名前の不明な少年。

「は…? お願いって、俺に……?」

「…っはい! 今から、私が説明……っすること、を! 理由を聞かず、……実行して下さい、ませ………っか?!」

「えーー…、理由聞いちゃ駄目なのかよ? あ、違うか、喋れないのかそんなに! ……まぁ、俺にできる内容なら、やってやっても良いけど? 何すればいーーんだよ??」

周囲を警戒しつつ、私の話にもきちんと耳を傾けて、言葉にしていない私の現状もちゃんと察してみせてくれた。

ぶっきらぼうに話される言葉の影に騙そうとする響きはない、真っ直ぐに向けられる視線と同じで、真摯な響きしか感じられなかった。
だからだろうか、この少年は大丈夫なのだと、自然に信じることが出来た。
その口から発せられた気負いすぎない了承の言葉に心から安堵して、ここ数刻で初めて訪れた、ほっと一息つける瞬間でもあった。
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