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人食い熊 対 幸之介

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夜、沙織と香織は酒を飲んだ。
と言ってもほとんど香織は沙織に酒を注いでいただけだ。
酒をかっ喰らいうなだれたまま沙織は身の上話を始めた。

「わたしの里親は無外流の道場を営んでいた。幸之介…は道場の師範代の息子だった」

「師範代の息子…だから腕が立つのか」

「村木幸之介はわたしに刀礼の仕方から教えてくれた。いつも一緒に稽古し、寺子屋(今でいう学校)も一緒に通った」

懐かしむ沙織の顔は幸せに見えた。
よほど好きなのだと香織には思えた。

「やがて幸之介は師範代となり、わたしも師範代補佐となり二人で武者修業の旅に出た」

「ある日、江戸近辺の村にある無外流の道場に二人で武者修業がてら出稽古に行ったんだ」

「新しい道場で門下生達も子供が多くてな。大人でも目立った者はとくにいなかった。ただ村には問題があった」

「問題?」

「聞けばその村には人食い熊に困っているという」

「人食い熊?」

「そう聞いた時だ。その熊が現れたのは」

「稽古をしているときにか?」

「そうだ。村では大騒ぎでな。みな戸口を閉めた。熊は道場の方へ向かってきていた。そうなるともはや考える暇はなかった。目の前は子供達がいて幸之介は一、ニもなく飛び出した。わたしが声をかけようとしたときには熊に一撃斬りつけていた」

「熊に…」

「しかし熊は逆上して幸之介に突っ込んできた。幸之介は熊の目を刺したがその瞬間、熊の一撃を目に食らってしまった」

それであの眼帯に傷なのか…

「倒れた幸之介に熊は覆いかぶさってきた。もう終わったと思ったとき熊の動きが止まった」

「どうしたのだ?」

「たまたまあった地面のくぼみに刀の柄頭を当て熊の腹に剣を突き立てたのだ。熊は覆いかぶさった勢いで自ら幸之介の剣に刺された」

「…凄まじい…よく刀が曲がらなかったな」

「そこは幸之介の腕だ」

「傷を負わされての冷静な技。感服する」

「それで幸之介は重傷を負いその日から半年ほど村で世話になった」

「その間、沙織殿が看病されたのだろう」

「まあ…ただ…」

「ただ?」

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