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第8話 追放勇者、対峙する【その1】

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 礼拝堂の横にある、居室。
 おそらく元は、応接室か会議室かであろう。しかしその面影は僅かで、壁は崩れヒビが入り、床は赤黒く汚れ、カーペットは捲れ上がり、土埃にまみれ風化し始めていた。
 天井には、元々、小ぶりなシャンデリアが下がっていたのだろうか。照明器具を下げるためにあつらえられた、金属製の滑車があった。シャンデリアのろうそくに着火するなどの際は滑車を用いて上下させるのだが、今現在は、サックが吊るされている。
 両手の手首を鎖で縛られ、鎖で天井から垂れ下がっていた。サザンカが鎖を引き、鎖の反対側を専用のフックに固定した。ギシギシと、わずかに錆びた滑車が軋みサックの体が揺れた。

道化フールではなく、吊るされた男ハングドマンてところね』
 脳内に、またしても女の声が響く。しかし、サックはその声を無視し、周囲を観察した。採光用の窓は板で封じられ、密閉された空間であった。外からの明かりは皆無だったが、壁に設置された燭台が室内を仄かに明るくしていた。そして、サックは探していた目的の物を、部屋の角で見つけた。

(やはり、あの香炉か……しかも、かなり濃いぞ)
 サックにとっても忘れられない臭いだった。田舎でスローライフを営むつもりだったサックを、女神への復讐へ駆り立てた事件。この香炉の臭いから運命が変わったといっても過言ではない。
 しかし、その香の濃さは、当時の比ではなかった。置かれた香炉からは真っ白い煙が多量に発せられており、匂いを嗅がせるという本来の香炉の使い方ではない。素人目から見ても異常な光景だった。そのため部屋の中は霞が掛かったようになっていた。
 薬に耐性があるサックでさえ、神経に作用するこの御香の香りは、眠気を誘発し体に痺れを覚えさせた。脳の奥にチクりと刺さるような刺激も併せて感じられた。

『気に入らないわ。やはり、香は効かないのね』
 そして先ほどから、脳内に語りかける女性の声。だが礼拝堂の時とは異なり、その声の主は、もやがかかった室内で、じっと、サックを見ていた。
『大方、予想通りといったところかしら?』
 目の前の『それ』は、念話を使いサックに話しかけてきた。
 車椅子に座った『それ』が羽織る若草色のマントに、サックは見覚えがあった。いや、常に鑑定眼が働いているため、否応無く情報が頭に飛び込んでくる。

「あんたのそのマントは、ボッサの慈悲によるものか」
『私の心願成就のため、あのお方が私に託したのよ、言葉を慎みなさい』
 イチホ=イーガスは、ボッサが身に着けていた『福音奏者のマント』を羽織って、黙々と語った。全く声を発することなく、目の前の『それ』……いや、彼女は、念話を使い語り続けた。

『貴様が私たちの屋敷に現れなければ、こんな事にはならなかったのよ。軽率な行動を呪いなさい』
「お前ら親子の、非人道的な行いを棚に上げて……どの口が言うか」

 すると、イチホは大きく体を揺すった。サックの言動に強い怒りを覚えたのだ。表面に強く現れた感情は表に筒抜けになってしまうのは、念話でしか会話できないことの欠点だった。

『貴様のお陰で、私はすべてを失った。夫と娘は惨殺され、残った私は、口もきけず、耳は聞こえず、鼻は朽ち、手足は自由には動かせず、だ。ああ、憎い憎い憎たらしい』
 イチホは、憎しみの感情をとめどなく溢れさせてきた。想いが漏れるたび、イチホの体が大きく揺れ動いた。どうやら車いすに座っているが、自分自身でも幾分動くことが出来るようだ。
 そして、サックはその光景が滑稽に見えてしまった。

「……死体風情が、感情を語るか」

 イチホ=イーガスは車椅子の車輪を朽ちた手で器用に回し、サックに近づいた。羽織ったマントから覗く彼女の体は、正に骨と皮だけだった。
 皮膚は乾燥し固くなり、殆どの肉は削ぎ落ち、頬は痩せこけ、鼻は腐り落ち、目は陥没していた。喉元には小さな穴が空いており、それは声帯の辺りを貫いていた。呼吸をしているとはとても思えない。
 一般的にいうなれば、ゾンビだった。だが、普通のゾンビは自我を持つことはまず無い。何かに操られているのが関の山だ。しかし現に、イチホはゾンビの体を持ったまま自身の意志で動いており、そしてなおかつ、生前の知識と記憶すら併せ持っていた。

『貴様を、私の家族以上に惨たらしく殺す……いや、生かさず殺さずを繰り返し、後悔の念に苛まれるがよい。貴様の悲鳴を聞きながら、流れる血と臓物を使って、壁に飾り付けよう……。ああ、なんと美しい情景。想像するだけでなんと清々しい』

 すると、イチホの目が光った。ゾンビとなり体が崩れかかっているにもかかわらず、彼女の眼だけはしっかりと確認できた。肉は無い筈だが、はっきりと、陥没していた目の奥に、ぎょろりとした目玉が存在していた。

「視覚だけは、残してるのか」
 サックがしゃべるたびに、ギシギシと手首に巻かれた鎖が擦れ音が部屋に響く。
『ええ、貴方の最期を目に焼き付けたいから』
 イチホはニタリと笑った。いや、顔にある筋肉は削げ落ちているため、顔の表情は変わらないはずである。しかし、念話に乗って来る感情によって、サックに下卑げひた笑いを想起させた。

「なら、サザンカたちは無関係だろう! 狙いはオレだけなら、何故彼女を巻き込んだ!」
『何をいっているの? 私の手足になるということは光栄なことよ。誇るべき大役を与えてるの。お薬で苦痛を取り除いてるし、これほどの幸せ者はいないわよ』

 サックは、サザンカに目をやる。目は虚空を眺め、口からはよだれを垂らしていた。完全に意識が無い。が、彼女は立っており、先ほどは大人一人分の体重を鎖で引き上げていた。
 イチホ=イーガスの意のままに操られている。あながち、間違いではないことを、サックは再認識した。
 そして、さらに彼は、部屋の中を目をこらし、もやのかかった闇を見据えた。

「……! ヒマワリっ!!」
 部屋の隅で、ヒマワリは小さな体を床に横たえていた。暗がりでよく判断できないが、サックの見立てでは体調は芳しくない。顔色は伺えないが、口から泡を吐き、ぐったりとしていた。呼びかけに答えなかったことから、意識はないのだろう。

「香炉を、消せっ! ヒマワリの命に係わる!」
 サックが大きな声で懇願するたびに、ジャラリと手首に撒かれた鎖が音を立てた。彼の全体重が手首の鎖に乗っかっているため、手先は鬱血うっけつ状態となっていた。さらに、動けば手に鎖が食い込み、擦れて皮は剥け、手に溜まった行き場のない血液が流れ出ていた。

『いいわぁ、その顔が見たかったわ』
 既に生き物としての機能を失ったイチホの顔が、また歪んだかのような錯覚を起こした。もちろん物理的にあり得ないのだが、彼女の底知れぬ怨念が、そう見せているのだろう。彼女は満面の笑顔……法悦の表情だった。

「クズめ。意識を持ったまま死者として蘇ったが、元から人の心など持ち合わせていなかったか」
『……黙らせろ、サザンカ』
「ぐっ!!」
 イチホの開口一番、サザンカは素早くメイスをサック左頬に目掛けて振りぬいた。激しい音とともにサックの口と鼻から血液が飛び散る。

『娘と夫にしたことを、そのまま味わってもらうわ。さあ、恐怖におののきなさい』
「サザンカっ! 目を覚ませ!!」
 サックは、イチホの思惑とは裏腹に、殴られてもサザンカへの呼びかけを止めなかった。その行動がイチホの癪に障った。
『サザンカ、次は右頬を潰しなさい』
「ごふっ……サザンカっ!」
『次はそうね……右の脛』
「ぐあああっ! ……、サザンカ! 俺はここにいる! 起きろ!」
『……脇腹』
「ごふぉ……さ、サザンカっ! 助けに来たんだ……ヒマワリもっ!」

 幾重にも拷問を受けるも、サックはサザンカへの呼びかけを止めなかった。その繰り返しの行動が、とうとうイチホの逆鱗に触れた。

『無駄よ!! 香の濃度を何倍も上げた!! 私の最高傑作だ! 普通なら吐瀉物を撒き散らして絶命する濃さだ!』
 まるで、そうやって死んだ人物を見てきたような言い分であった。いや、イチホ=イーガスは実際に見ているのだ。数多くの人物の人生を狂わせた、この催眠香を完成させるために。幾重にも人体実験を執り行ったのだ。

『忍びには、御香が効きにくかったの。だからこの子たち用に、ウンと濃くしたの。けど、小さい子はダメね、体が耐えられなかった。まったく脆いこと』
 既に死んでいるイチホの体には無害である。だからこそ、この濃度まで上げて同じ部屋に鎮座できている。

「……っ! ヒマワリ! 絶対助けるからなっ!」
 顔をボコボコに殴られ、足の脛は腫れあがり、肋骨にはヒビが入っていた。それでも、サックはサザンカとヒマワリに声をかけ続けた。

「サザンカ、俺は……約束したんだ! お前らの親父さんに、娘たちを託されたんだよ!」

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「遺言は聞く。しゃべれるか」

 サックは男の口元に耳を近づけた。
 男は最期の力を振り絞り話した。

「……娘を……奴らに捕まった……助けて……」

 それ以上は、彼は話すことはできなかった。

 *****************

 あのとき。サックと同じように吊るされ、内臓を弄ばれていた男の最期の言葉。
 イチホ=イーガスの精神異常サイコパスぶりを視認し、サックがイーガス家に関わる事を心に決めた時。
 サックも、最期を看取った男が、ただものではないことは感づいていた。
 だから、サザンカたちがイーガス家に関係していることを知ったときから、この父親の遺言を叶えてあげたいと思い続けていた。

「サザンカっ! ヒマワリっ!」
 サックはさらに声を張り上げた。体全体を使って大声を出すため、体が動き、それがイチホには滑稽なダンスに見えていた。
 が、イチホはその愉快な踊りにすぐに飽きてしまった。むしろ、イチホの言葉を無視するサックに対して、ストレスを感じるようになってきた。

『……そろそろメインディッシュね。サザンカ、次は腸を抉って』
 サザンカは結局、サックの呼びかけに答えることは無かった。
 手に、忍び専用武器『クナイ』を握り、サックの脇腹付近へ刃を近づけた。奇しくも、花街でサックに突き刺した場所と全く同じ位置であった。

『勇者の中身って、人間と一緒なのかしらね。楽しみだわ』
「くそっ! サザンカ!  サザンカっ!!!」

 そしてサザンカはゆっくりと、良く研がれた刃をサックの脇腹に添えた。そのまま押し込み、横に裂けば、サックの内臓はおなかから零れ落ちることになる。

「……」
 だが、そこから、サザンカは動かなかった。
『む! おい! どうした! 動け!』
 この部屋で、勇者の臓物を拝む最悪趣味なイベントを心待ちにしていたイチホが、明らかに動揺を見せた。サザンカの動きが止まったことが予想外だったのだ。

『おい! サザンカ! おい! 私の傀儡人形!』
 何度呼びかけても、サザンカは微動だにしなかった。それどころか、ゆっくりとサックから離れていった。立っているのもやっとといった風で、体を左右にふらふら揺らしている。

「……あ……さっ……く……」
 サザンカの口から、僅かに言葉が漏れた。それは、デートという儀式を終え契りを交わした、伴侶の名前だった。
『馬鹿な!』
 単なる呼びかけて、催眠香が効果を失うことなどない。屋敷での実験でも、愛する人間の呼びかけなど全く意味をなさないレベルまで精神を侵すことに成功していた。

『それを、こんな付け焼刃の交際の仲の呼びかけで解ける訳が……!!』
 イチホの考え方に間違いなかった。愛や友情、信頼関係などのおぼろげなものではない。催眠が解けかかっている、『物理的な原因』があるのだ。

 そんな事ができる可能性を秘めているのは、この部屋では、彼ただ一人。

(サンキュー、ジャクレイ。いろいろ、間に合いそうだ)
 彼……サックは、先ほどとは打って変わって、笑顔を見せていた。
 まだまだ予断を許さない状況下ではあるが、先ずは打開のきっかけを作ることができた。

(反撃の『狼煙』は上がった。ここからは……一か八かの大勝負だ)
 必死に叫びくるっていたのは、焼ける痛みを我慢するために流れる大量の脂汗をごまかし、念話による読心で『思い付きの打開策』を悟られないためだった。
 そしてさらに、サックが吊るされる鎖に、イチホの意識を向けさせないためでもあった。

 赤熱した鎖で焼かれる薬草の音と、独特の臭い。
 鼻が潰れ、耳が聞こえないイチホは、それにはまだ気付いていなかった。
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