僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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 刺突の訓練が始まったのは忘れもしない、小学一年生の夏休み初日だった。ややぼんやり気味だった僕は小学一年生になっても夏休みというシステムを実は全く理解していなかったのだけど、「夏休みだ」と浮かれ騒ぐ級友達の真似をして僕も「夏休みだ」と無邪気に浮かれ騒いでいた。だから夏休み初日、祖父が「新しい訓練をしよう」と言ったときは、これこそが夏休みなのかと小躍りしたものだった。蚊除け対策を施してもらい、スキップしながら玄関を出て、裏山頂上の道場へ続く坂道を見上げる。すると、スイカほどの大きさのゴムボールが木の枝から釣り下げられていた。祖父の頭上30センチに浮かぶボールが何とも楽しげでワクワクする僕に、祖父が刺突の手本を見せてくれた。坂道を10メートル上って振り返り、祖父は竹刀を中段に構える。そしてそのまま坂道を駆け下りてきて、竹刀の先端でボールをポンと突く。ポンと軽く突いただけなのに、ボールは文字通りバビューンと吹き飛んで行った。僕は大はしゃぎし、ゴボウ切りの訓練で気をよくしていた事もあり、「つぎ僕つぎ僕」と祖父に言ってきかなかった。これが、それから三年続く苦悶の始まりだと、知りもせずに。
「まあ待ちなさい。気づいた事があったら何でも言うように」 
 僕を優しく制し、祖父は何度も手本を見せてくれた。今思い返すと、あれはまさしく達人の技だった。竹刀を中段に構える祖父に固さは微塵も無く、そのまま無音でフワリと坂道を駆け下りてきて、走りながら竹刀をソロリと前へ出す。竹刀はソロリと動いているだけなのに、祖父と竹刀の全運動エネルギーを集中させた切っ先がボールの中心を正確に突くので、ボールはバビューンと吹き飛んで行く。しかもそれを、祖父はボールの下を駆け抜けながら、毎回自然にやってのけるのだ。翔人の刀術である翔刀術はこのように、高速で移動しながら刀を使うことを基本としている。走りやすさを追求した結果、右手を上にして竹刀を握りつつも左足を前に出すことを基本姿勢としているほどだ。その翔刀術を体得した祖父だからこそ可能な技を見せてもらっているのに、ゴボウ切りで気をよくしていた僕は、自分にもそれができると信じ切っていた。然るに気づいた事を一つも告げず、ただただ「つぎ僕つぎ僕」と繰り返すだけだった。祖父は苦笑し、そんな僕を坂道の上まで連れて行った。その途中、祖父のボールより低い場所に浮かぶ自分専用のボールを発見した僕は「夏休みって最高だ!」と、残念すぎる勘違いを爆発させていた。
 頂上まで坂道を上り、振りかえる。すると10メートル先に、メロンくらいの大きさの僕専用ボールがぶら下がっていた。はやる気持ちを抑え子供用の竹刀を構え、「いざっ」とばかりに坂道を駆け下りる。その直後、僕は夢から覚め、己の現実を知った。僕は竹刀をボールに当てるどころか、竹刀を構えて坂道を駆け下りる事ができなかった。脚をもつれさせた僕は竹刀を握りしめたまま、前へ盛大につんのめったのである。
 幸い、それを可能性の一つに数えていた祖父が抱き留めてくれたお蔭で、僕は怪我をせずにすんだ。だがその数分後、体に怪我を負わなかった代わりに、僕の心はズタズタになっていた。何度やっても三歩も走らぬうちに、僕は必ず前へつんのめってしまった。ならば竹刀を持たせず駆け下りさせようと祖父は試みるも、僕は手ぶらになってさえ坂道を駆け下りることができなかった。そこに至りようやくある推測を立てた祖父は、僕をボールの下まで連れて行き頂上を指さし「この坂を駆け上ってごらん」と言った。僕は言われた通りにした。いや、それは事実に反する。正確には、僕は言われた通りにできなかった。何度試みても、僕は坂道を駆け上がれなかった。運動音痴の不器用に加え足腰の弱すぎた僕は、坂道を駆け上ることができなかったのである。
 それから僕は三十分間、坂道の上り下りを繰り返した。ジョギングすらできず、徒歩でひたすら上って下りた。そして午後は、道場で突きの練習をした。道場の壁を利用し、直径30センチのまとをゴム紐で空中に固定して、それを三十分間ひたすら突く。その面白味の一つも無いただ苦しいだけの訓練が嫌で、僕は泣きじゃくった。そんな僕に祖父母はたじろいだが、母は僕を甘やかさなかった。鬼の形相の母に睨まれながら、僕は一日目の訓練を終えた。その夜、学校が始まればこの訓練はお休みになるよねと尋ねる僕に、この子は夏休み初日から何を言っているのだと母は目を丸くした。けどそこは、さすが母なのだろう。丁度良い機会だわとカレンダーをテーブルの上に広げて、母は僕にカレンダーの仕組みを教えた。学校に行った昨日は、カレンダーのここ。今日はその隣の、カレンダーのここ。そして夏休みの終わる最終日が、と母はカレンダーを一枚めくりその最後のマスを指さし、「ここよ」と言った。その瞬間、幼稚園の頃からどんなに説明されてもわからなかったカレンダーの仕組みを、僕は完璧に理解した。同時にそれは、この人生で始めて絶望という概念を理解した瞬間でもあった。
 それから毎日、午前中に足腰強化訓練を、午後に突きの訓練を僕は受けた。そのあまりのお粗末ぶりに母は訓練を最優先し、日帰り旅行はおろかプールにすら行けない日が続いた。祖父母と父は厳し過ぎやしないかと心配顔だったが、母だけは鬼の形相で僕を指導した。それは夏休みが終わるまで休むことなく続けられ、宿題として提出した絵日記には、昴や妹と境内で遊んだことだけが描かれていた。
 夏休みが明けると、坂道訓練は学校へ行く前に、突きの訓練は帰宅後に行われた。訓練開始から約四ヶ月後、裏山が紅葉に色づき始めたころ、僕はようやく三十分間休憩無しで山を上り下りできるようになった。早歩き程度ならペースをしっかり保てるようになり、ほんの少し自信を付けた僕は、母に促されるまま早歩きをジョギングに切り替えてみた。だが結果はまたもや、惨敗。早歩きと同じ速度で休憩無しのジョギングができるようになったのは、翌年の桜が散り始めたころだった。
 突きの練習は更に悲惨だった。直径30センチのまとを百回連続で突けるようになったのは、桜散り梅雨が明け蝉の鳴き始めた、七月中旬のことだった。たったこれだけの事ができるようになるまで、僕は丸一年かかったのである。思うに、上達がここまで遅かった最大の理由は、僕が泣いてばかりいたからだろう。ただそれでも、泣くなと注意されたことは一度もなかった。表向きは「泣くのを我慢して悲しみを抑圧するほうがよほど悪い」という理由だったが、真の理由は僕を含め誰の目にも明らかだった。それは、母も泣いていたからだ。鬼の形相を保ちつつ、母はいつも涙を流していた。それが悲しくて僕はことさら泣き叫んだが、時間になると母は僕を小脇に抱えて訓練場所へ向かい、熱心に指導を施してくれた。そのお陰でこんな僕でも訓練を続けられたのだけど、二年生の夏休み初日に決定的なことが起こり、僕はとうとう訓練をボイコットするようになった。それは、こんな出来事だった。
 去年の僕と同じく、小学一年生の夏休み初日を迎えた妹の美鈴が、刺突の訓練を始めた。だが去年の僕と異なり、祖父から訓練開始を告げられても手本を示されても、美鈴は神妙な表情を崩さなかった。無理もないと僕は美鈴を励ました。大丈夫だよ、兄ちゃんも初めは全然できなかったけど練習すればできるようになるよ、美鈴も一緒に頑張ろうねと僕は声をかけ続けた。「ありがとうお兄ちゃん」 ぎこちなく微笑む美鈴に僕は自責の念と、その反動のやる気を覚えた。僕が泣いてばかりいたから妹を不安にしてしまったんだ、これからは泣かずに頑張ろう、僕はそう決心した。しかしその決心は大いなる的外れでしかなかったのだと、僕は間もなく知ることとなる。
 去年同様、祖父は手本を数回示すと、妹を坂の頂上へ連れて行った。僕はそのすぐ下に留まり、妹が転んだ時に備えた。妹が竹刀を構えた。その立ち姿だけで、僕の思い込みの三分の一が吹き飛んだ。それは、実に見事な中段の構えだった。美鈴が駆け出した。坂道を風のごとく駆け下りる美鈴に、さっきと同量の思い込みが吹き飛んだ。「やー!」 そしてかけ声と共に突き出された美鈴の竹刀が、残った思い込みとボールの両方を、凄まじいスピードで吹き飛ばしていった。呆然と立ち尽くす僕の耳に祖父の声が届く。「残り九本」 変わらぬ神妙な表情で、美鈴が僕の前を通り過ぎてゆく。思い込みが全て消し飛んだ僕はやっと気づいた。美鈴の顔にあるのは不安ではなかった。美鈴はただ、真剣なだけだったのだ。
 その後も美鈴は一度も失敗せず突きを成功させ、十回連続成功をもって祖父は宣言した。「猫将軍美鈴、刺突訓練入門、合格」 美鈴は、はち切れんばかりの笑顔を浮かべた。その輝く笑顔に、一年に及ぶ僕の勘違いが白日のもとに晒された。僕はずっと思っていた。
 訓練が、困難なのだと。
 僕がこれほど苦労している理由はすべて、不当に困難な訓練にあるのだと。
 そんなふうに僕は考えていた。だがそれは間違いだった。理由は訓練にあるのではなく、この僕にあった。僕の能力不足が、訓練を困難にしていただけだったのだ。僕は自分の部屋に逃げ帰った。
 その日から僕は訓練をボイコットするようになった。祖父母と父は大層困惑し、三人は腫れ物を扱うように僕に接した。だが母は、そんな僕を許さなかった。隠れる僕を見つけ、逃げる僕を問答無用で捕まえ、泣くも叫ぶも無視して僕に訓練を受けさせた。それは僕に二つのことを教えてくれた。一つは、逃げ回っても泣き叫んでも状況は絶対改善しないという事。そしてもう一つは、僕は紛れもない猫将軍家の人間であるという事だ。逃げても泣いても嫌で嫌で仕方なくても、結局僕は訓練を続けた。血が、たぎったのである。どんなに嫌でもひとたび訓練を始めると、血が沸き立った。嫌になって途中で投げ出しても訓練を再開すれば、再び血が沸き立った。運動音痴で不器用で足腰の弱いこの体に流れる血そのものが、訓練を欲して煮えたぎったのだ。そしてそれは、血だけではなかった。心も同じだった。心もその一番奥底で、訓練を激しく望んでいた。ふと、昴の昨日の言葉が思い出された。
 ――僕は、未来の僕から助けてもらっていたのかもしれないな。
 その想いに心を温められていると、昴のもう一つの言葉が蘇ってきて、初めての推測を心に芽生えさせた。
 ――母さんは、僕と関わる短さを知っていたのかな。
 その推測に、心が凍り付きそうになった。それを必死でくい止め、僕は次の魔想へ立ち向かって行った。
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