僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二章

君に会うため、1

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 深呼吸を数回してから、
「お待たせ、輝夜さん」
 僕は声を掛けた。そうでもしないと早鐘のごとく鳴り響く鼓動に、噛みまくること必定だったのである。絵に描いたような五月晴れのこの日、純白のワンピース姿の彼女以上に清らかで高貴な存在を、僕は想像できなかった。
「こんにちは、眠留くん」
 花がほころぶように笑い、輝夜さんは両手を可憐に振る。そんな彼女を、顔をデレデレにしていつまでも見つめていたかったけど、その気持ちをぐっと抑え、僕はHAIに教わったマナーのとおり彼女の横に腰をおろした。
 といっても実行したのはただ一つ、何かをしながら座らない、だけなんだけどね。話しながら座らない、相手の顔を見ながら座らない、別のことを考えながら座らない等々、淑女の隣に座るさいはその幸運へ感謝を捧げ、座ることのみに集中する。腰を下ろし居住まいを正してという動作を完全に終えてから、次の動作を行う事。このたった一つのマナーを、台所の椅子を使い僕はHAIに教わった。いや九日間かけて、HAIがそれを僕に叩き込んでくれた。叩き込み身に付けた動作は、体を自然に動かしてくれる。輝夜さんの隣に自然に腰を下ろせた僕は、安堵とHAIへの感謝から、朗らかに笑うことができたのだった。
 輝夜さんもそんな僕へ、朗らかな笑みを返してくれた。それこそ本物のマナーを身につけている彼女は、僕が見せた即席マナーに驚く素振りを欠片も示さなかったが、それでも感謝の気持ちがその瞳に込められているのを僕ははっきり感じた。輝夜さんは言葉にしなかっただけで、僕の気持ちを正確に感じ取ってくれたのである。それが嬉しくてたまらなかった僕は、
 にぱっ
 と開けっぴろげに笑ってしまった。ヤバッと慌てて表情を改めるも、時すでに遅し。彼女は眩しいほどの笑みを僕にしばし投げかけたのち、瞬きを一つして、その目に涙を浮かべた。
「黙っているつもりだったけど、私も心を開いて言うね。眠留くんが今私に見せてくれたベンチに座る所作は、白銀家で育った私の心の負担を、軽くしようとしてくれたんだよね」
 その通りだった。あまりにも的確に本心を見破られたため、僕は昨夜立てた予定をすべて変更せざるを得なくなった。マナーを学んだ理由を、僕は洗いざらい彼女に打ち明けた。
「十日前、輝夜さんに英国式茶会でもてなしてもらった時、僕は決心したんだ。この素晴らしいマナーを、ぜったい身に付けてみせるぞってさ」
 彼女はこくりと頷いた。
「マナーの勉強は楽しかった。『マナーの本質は互いを束縛し合う決まりではなく、互いを自由にする手順である』 輝夜さんが身をもってそう教えてくれていたから、HAIにダメ出しを何度くらっても、僕は自由になるための努力を重ねられた。輝夜さんのマナーが本物だったからこそ、僕はたった一度の英国式茶会で、その本質を感じることができたんだね。といっても昨日までで何とか身に付けられたのは、淑女のそばに腰を下ろす所作、だけなんだけどさ」
 僕は苦笑し頭を掻いた。そんな僕に、輝夜さんは真剣な表情で首を横に振った。僕は彼女に頷き、湖の方へ体を向けた。
「昨日の夜、就寝時間五分前になって僕はやっと、座る所作についてだけは及第点をもらう事ができた。すぐ自室に戻り、布団の中で達成感を噛みしめていたら、輝夜さんの言葉がふと心をかすめてね。それは僕を救ってくれた言葉、『だからどうか嫌な面だけを見て、自分を嫌いにならないでね』だったんだ」
 隣から、体の向きを変える彼女の気配が伝わって来る。それが静寂に変わるのを待ち、続きを話した。
「その言葉が心をかすめるなり、寝る前のボンヤリ頭が急に動き始めた。すると心の中に、様々な想いが無秩序に出現した。僕は逃げ回る想いを捕まえ、消え去ろうとする想いを留めて、出現したそれを保とうとした。そうこうしているうちに自然と、それらを整理整頓することができた。僕はその全体像を眺めた。それは、こんな想いだった」
 ゆっくり息を吸い、追加流入させた生命力で脳を内側から照らす。脳内を漂っていた霧が晴れ、意識がみるみる明瞭になってゆく。僕は魔想討伐に赴く気構えで、昨夜の想いを言葉にした。
「輝夜さんがマナーを身に付けた環境を、僕は知らない。けどもしそれが白銀家で学んだことなら、それは素晴らしいことだと僕は胸を張って言える。だから、伝えたかった。輝夜さんが白銀家で身に付けたものの中には、僕をこれほど感銘させるものがあった事を、ぜひ伝えたいって考えたんだ」
 知らぬまに、僕は体をかすかに左へ向けていたのだろう。目の端に捉えた彼女は心持ち顔を上げ、空をながめているようだった。その瞳に何が映っているかを勝手に想像すべきではないと、僕は自分を戒めた。少なくとも今はまだ、その時ではない。僕は今すべきことを再開した。
「その感銘を胸に僕はマナーを学び、そしてたった一つとはいえマナーを身に付けることができた。それを、輝夜さんはどう感じるだろう。どのような気持ちを抱くだろう。僕にはわからない。僕は輝夜さんではないから、輝夜さんの胸の内を知ることはできない。ただ、僕は願った。マナーを身につけた新しい僕に輝夜さんが好意を持ってくれたら、それは巡り巡って、白銀家への良い想い出になるのではないか。それが輝夜さんの心の負担を、少しでも軽くしてくれるのではないか。僕は昨夜、そう願ったんだ」
 空を見上げる僕の瞳に空が映っていないように、輝夜さんの瞳にも、空が映っていないのではないか。僕はふと、そう思った。僕の目の前には今、運動音痴に泣き叫んでいたころの僕がいる。そして僕はその僕を、愛おしく感じている。今の僕にとってそのころの僕は、最高に大切な想い出の一つになっているのだ。それと同種の光景が今、彼女の目の前に広がっているのではないか。僕には、そう感じられたのである。その想いを込めて、僕は話した。
「でも良い想い出になることを、急いではならない。それは長い時間をかけ心を巡り、自然にそうなることが一番望ましいからだ。ならば僕は、身をもって示そう。長い時間をかけマナーを身に付けることで、この感銘の深さを知ってもらおう。そんな僕と過ごす日々が良い想い出になれば、輝夜さんが白銀家でマナーを学んだ日々も、いつか良い想い出に変わるかもしれない。そうすれば、輝夜さんの心の負担がほんの少し軽くなるかもしれない。だから身をもって示して行くぞって、僕は考えたんだ」
 空から顔を戻し、体を左へ向け姿勢を正した。同じように空を見上げていた彼女も体を右へ向け、僕を見つめた。
「でもたった一回示しただけで、その気持ちを言葉にしちゃいました。僕はホント、ダメなやつ・・・」
 話はそこで中断された。輝夜さんが身を寄せてきて僕の手を握り、首を横に幾度も振ったからだ。その、初めて感じる彼女の温かな肌の香りに僕は一瞬、過去と未来が逆転する感覚を覚えた。その一瞬を更に分割した極限の刹那、僕は未来を思い出していた。遠い未来、遥かなる次元の果て、僕は輝夜さんを抱きしめ、この温かな体香に包まれるだろう。時間から抜け出し過去と未来を俯瞰した僕は確信した。やはり僕は彼女を、千年間待ったのだと。
「眠留くんはダメなんかじゃないよ。だって私、もうとっくの昔に、家で経験した沢山のことが良い想い出になっているんだもん。家で学んだこれを、眠留くんは褒めてくれた。家で身に付けたこれを、眠留くんは喜んでくれた。そして私を、好きになってくれた。私はそのたびに、胸の奥深くで感じていたの。いろいろなこと学び、いろいろなことを身に付けられた私は、幸せだったんだなって」
 彼女の双眸から大粒の涙が零れた。僕はハンカチを取り出し彼女に渡した。えへへとはにかみハンカチを目にあてる彼女に、HAIの言葉が蘇った。「輝夜さんの前だと、眠留は別人になるのね」 そう、彼女といるとき僕は別人になる。こんなふうにハンカチを差し出したり、自分の上着を女性の肩に掛けるようなことは、輝夜さんと一緒にいる僕でなければ決してしないことだ。いや、しようにもできないことだ。かつてモジモジ性格のあがり症だった僕、それを未だ引きずっている僕が、彼女の前でだけこうも別人になれるのはきっと。
「僕は君に会うため、生まれてきたから」 
「!!!っっっっ!!」
「わっ、わわわわ~!」
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