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四章
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三日前の、八月五日。
皆に夕食会の参加を呼びかけた翌日の、早朝。
僕は輝夜さんと昴に、夕食会の開催を伝えた。二人はそれを耳にするや、年頃娘特有のハイテンション高速おしゃべりを始めた。
「わあ楽しみ。ねえねえ輝夜、なに作ろうか!」
「う~ん悩む、悩むけど、個人的にはグラタン! あのホワイトソースは神の領域よ!」
「うふふ、輝夜は何度もお代わりしてくれたもんね」
「なに言ってるの、動けなくなるまでお代わりした料理は、他にも山ほどあるわ」
「この前のパエリヤも、輝夜ったら初めから最後までニコニコしっぱなしで」
「だって魚介類の旨みがお米にあれほど染み込んだパエリヤ、初めてだったんだもん!」
「うんうん、それからそれから?」
「染み込むと言ったら先月の 鰈のお煮つけ。あんな煮魚、赤坂の料亭でも食べたことないわ。煮ると言えばけんちん汁、焼くと言えばローストビーフ、ビーフと言えば牛丼。ああ昴、あなたが十分足らずで作った牛丼、なぜあんなに美味しいの?」
「味を左右するのは下準備と火加減と手順なのだけど・・・えへへ、舌の肥えている輝夜に褒めてもらえると、嬉しいな」
「嬉しいのは私のほうよ。どうして昴は、いつもあんなに楽しそうに、私にご飯を食べさせてくれるのよ」
「だって、嬉しいんだもん・・・・え~ん」
「嬉しいのは私だって・・・・え~ん」
ハイテンションのマシンガントークはいつしか、泣きじゃくる少女二人が互いを慰め合う場になっていた。僕はと言えば、タジタジからニコニコを経てオロオロするだけのただの役立たずに成り下がっていたのだけど、勇気を振り絞り幼馴染に尋ねた。
「ええっと、昴は夕食会の料理を、作ってくれるのかな?」
昴は、涙を流す感動の顔を一瞬でげんなりさせた。
「あのねえ、翔人の道を示してくれた眠留に、私がどれだけ感謝してると思ってるのよ。それとも眠留は私を、感謝の気持ちも持てないダメ人間と思ってるわけ?」
ジットリ湿った半眼を向けられ「うぎゃあ失敗した」と頭をかかえるより早く、輝夜さんが追撃を放った。
「眠留くん、私も喜んで料理のお手伝いをするつもりよ。それと、この際はっきり言っておくわ。昴を敵に回したら私も敵になるって、覚えておいてね」
僕は、完全に忘れていた。
最大最強最高のライバルとして日々真剣勝負を繰り広げているこの二人がタッグを組んだら、僕は蛇に睨まれた蛙どころではない、シロナガスクジラの口元に漂う植物性プランクトンの如き存在でしかないという事を。
「輝夜、それは私も同じよ。輝夜を敵に回すような調子づいた眠留に、興味なんてないもんね。でもまあ、その心配はないかな。眠留が勇ましいのは、魔想に対してだけみたいだから」
「ねえ昴、わたし今、日頃から勇ましい眠留くんを想像しようとしたの。でも、どうしてもできなかった。昴なら想像できる?」
「人生で一番勇ましかった眠留を直接見ている輝夜に想像できないものを、私が想像できるわけないわ。だって輝夜、幼稚園の頃の眠留ったらねえ」
「わあ聞きたい。ねえねえ昴、眠留くんはどんな幼稚園児だったの!」
「プププ、それがあなた、信じられないかもしれないけど眠留はなんと・・・・」
「僕が間違っていました! だからどうか、どうかそのへんで勘弁してください~~!!」
プランクトンに御慈悲を下さいと、僕は泣いて懇願した。すると、
「はい、冗談はこれで終わり」
「眠留くんほら、三人並んでお参りをしましょう」
二人は何事もなかったようにコロコロ笑い、僕の背中を両側から押した。
三日前のあの朝、僕は生まれて初めて、「無限の努力をしてこの二人より強くなります」などという自分でもほぼ信じていない誓いを、神様に立てたのだった。
「あっちゃあ、汗でベトベトだ」
回想を終え、シャツの胸元をつまみパタパタし、空気を送り込んでみる。だが、まるで夕立に降られたかのようなシャツが、その程度でどうにかなる訳がない。シャツの不快さを諦め、神社へ帰るべく歩みを再開した。
三日前の朝の出来事を思い出した僕は、ドキドキするやら冷汗が出るやらをするうち、瞬く間に汗みずくになってしまった。それは当然と言えた。午後四時半とは到底思えないギラギラの太陽を浴びながら、火傷するほど熱いアスファルトの上を歩いているだけで暑くてしかたないのに、体内で生成される熱にも 苛まれていたからだ。猛によると僕の速筋比率は最高レベルで高いため、筋肉の熱生成率も最高レベルで高いらしいのである。早朝の屋外訓練を真冬も行っている身としては、それは非常に有り難いことなのだろうが、今この瞬間に言及するなら迷惑以外の何ものでもない。極限まで高められた湿度のせいでお風呂に浸かっているかのような大気の中を、太陽からも道路からも体の内部からも熱せられつつ僕は歩いた。
フラフラ状態で歩を進めるうち、左前方に石段が見えてきた。壁のようにそそり立つ神社自慢の大石段を視野に入れただけで、足腰の速筋が熱を帯びた気がした僕は、石段を登らず、駐車場に通じるスロープを使うことにした。少々遠回りしても石段は回避すべきと、判断したのである。
それは大正解だった。東へ向かって歩くにつれ、左側に見え隠れしていた木陰の面積が徐々に広くなっていき、そしてそれはほどなく、僕を包む大きさになってくれたからだ。心の急くまま影に飛び込み、ひんやりした空気を全身で味わう。暫くここに止まっていたいと主張する体を鞭打ち、僕は更に歩を進め、スロープに続く道を左折した。
すると眼前に、別世界が広がっていた。葉をたわわに茂らせる木々の作った、涼やかな木陰のトンネルが、そこにあったのである。涼風のそよぐスロープを夢見心地で上り、道の脇に設けられた花崗岩の長椅子に寝転ぶ。直射日光の暴挙を免れた花崗岩の長椅子が、体にこもる熱を背中からみるみる吸い取ってゆく。
――ここは天国に違いない。
意識が遠のくほどの心地よさのなか、僕は真剣にそう信じた。だがその時、
ピー ピーポコ ピー ピーポコ
ハイ子の警告音が響く。
皆に夕食会の参加を呼びかけた翌日の、早朝。
僕は輝夜さんと昴に、夕食会の開催を伝えた。二人はそれを耳にするや、年頃娘特有のハイテンション高速おしゃべりを始めた。
「わあ楽しみ。ねえねえ輝夜、なに作ろうか!」
「う~ん悩む、悩むけど、個人的にはグラタン! あのホワイトソースは神の領域よ!」
「うふふ、輝夜は何度もお代わりしてくれたもんね」
「なに言ってるの、動けなくなるまでお代わりした料理は、他にも山ほどあるわ」
「この前のパエリヤも、輝夜ったら初めから最後までニコニコしっぱなしで」
「だって魚介類の旨みがお米にあれほど染み込んだパエリヤ、初めてだったんだもん!」
「うんうん、それからそれから?」
「染み込むと言ったら先月の 鰈のお煮つけ。あんな煮魚、赤坂の料亭でも食べたことないわ。煮ると言えばけんちん汁、焼くと言えばローストビーフ、ビーフと言えば牛丼。ああ昴、あなたが十分足らずで作った牛丼、なぜあんなに美味しいの?」
「味を左右するのは下準備と火加減と手順なのだけど・・・えへへ、舌の肥えている輝夜に褒めてもらえると、嬉しいな」
「嬉しいのは私のほうよ。どうして昴は、いつもあんなに楽しそうに、私にご飯を食べさせてくれるのよ」
「だって、嬉しいんだもん・・・・え~ん」
「嬉しいのは私だって・・・・え~ん」
ハイテンションのマシンガントークはいつしか、泣きじゃくる少女二人が互いを慰め合う場になっていた。僕はと言えば、タジタジからニコニコを経てオロオロするだけのただの役立たずに成り下がっていたのだけど、勇気を振り絞り幼馴染に尋ねた。
「ええっと、昴は夕食会の料理を、作ってくれるのかな?」
昴は、涙を流す感動の顔を一瞬でげんなりさせた。
「あのねえ、翔人の道を示してくれた眠留に、私がどれだけ感謝してると思ってるのよ。それとも眠留は私を、感謝の気持ちも持てないダメ人間と思ってるわけ?」
ジットリ湿った半眼を向けられ「うぎゃあ失敗した」と頭をかかえるより早く、輝夜さんが追撃を放った。
「眠留くん、私も喜んで料理のお手伝いをするつもりよ。それと、この際はっきり言っておくわ。昴を敵に回したら私も敵になるって、覚えておいてね」
僕は、完全に忘れていた。
最大最強最高のライバルとして日々真剣勝負を繰り広げているこの二人がタッグを組んだら、僕は蛇に睨まれた蛙どころではない、シロナガスクジラの口元に漂う植物性プランクトンの如き存在でしかないという事を。
「輝夜、それは私も同じよ。輝夜を敵に回すような調子づいた眠留に、興味なんてないもんね。でもまあ、その心配はないかな。眠留が勇ましいのは、魔想に対してだけみたいだから」
「ねえ昴、わたし今、日頃から勇ましい眠留くんを想像しようとしたの。でも、どうしてもできなかった。昴なら想像できる?」
「人生で一番勇ましかった眠留を直接見ている輝夜に想像できないものを、私が想像できるわけないわ。だって輝夜、幼稚園の頃の眠留ったらねえ」
「わあ聞きたい。ねえねえ昴、眠留くんはどんな幼稚園児だったの!」
「プププ、それがあなた、信じられないかもしれないけど眠留はなんと・・・・」
「僕が間違っていました! だからどうか、どうかそのへんで勘弁してください~~!!」
プランクトンに御慈悲を下さいと、僕は泣いて懇願した。すると、
「はい、冗談はこれで終わり」
「眠留くんほら、三人並んでお参りをしましょう」
二人は何事もなかったようにコロコロ笑い、僕の背中を両側から押した。
三日前のあの朝、僕は生まれて初めて、「無限の努力をしてこの二人より強くなります」などという自分でもほぼ信じていない誓いを、神様に立てたのだった。
「あっちゃあ、汗でベトベトだ」
回想を終え、シャツの胸元をつまみパタパタし、空気を送り込んでみる。だが、まるで夕立に降られたかのようなシャツが、その程度でどうにかなる訳がない。シャツの不快さを諦め、神社へ帰るべく歩みを再開した。
三日前の朝の出来事を思い出した僕は、ドキドキするやら冷汗が出るやらをするうち、瞬く間に汗みずくになってしまった。それは当然と言えた。午後四時半とは到底思えないギラギラの太陽を浴びながら、火傷するほど熱いアスファルトの上を歩いているだけで暑くてしかたないのに、体内で生成される熱にも 苛まれていたからだ。猛によると僕の速筋比率は最高レベルで高いため、筋肉の熱生成率も最高レベルで高いらしいのである。早朝の屋外訓練を真冬も行っている身としては、それは非常に有り難いことなのだろうが、今この瞬間に言及するなら迷惑以外の何ものでもない。極限まで高められた湿度のせいでお風呂に浸かっているかのような大気の中を、太陽からも道路からも体の内部からも熱せられつつ僕は歩いた。
フラフラ状態で歩を進めるうち、左前方に石段が見えてきた。壁のようにそそり立つ神社自慢の大石段を視野に入れただけで、足腰の速筋が熱を帯びた気がした僕は、石段を登らず、駐車場に通じるスロープを使うことにした。少々遠回りしても石段は回避すべきと、判断したのである。
それは大正解だった。東へ向かって歩くにつれ、左側に見え隠れしていた木陰の面積が徐々に広くなっていき、そしてそれはほどなく、僕を包む大きさになってくれたからだ。心の急くまま影に飛び込み、ひんやりした空気を全身で味わう。暫くここに止まっていたいと主張する体を鞭打ち、僕は更に歩を進め、スロープに続く道を左折した。
すると眼前に、別世界が広がっていた。葉をたわわに茂らせる木々の作った、涼やかな木陰のトンネルが、そこにあったのである。涼風のそよぐスロープを夢見心地で上り、道の脇に設けられた花崗岩の長椅子に寝転ぶ。直射日光の暴挙を免れた花崗岩の長椅子が、体にこもる熱を背中からみるみる吸い取ってゆく。
――ここは天国に違いない。
意識が遠のくほどの心地よさのなか、僕は真剣にそう信じた。だがその時、
ピー ピーポコ ピー ピーポコ
ハイ子の警告音が響く。
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