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七章
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緑茶用の軟水をヤカンに入れ、火にくべる。使っていた湯飲みを洗い、新しい湯飲みを用意し、輝夜さんの好きなお茶請けを茶箪笥から取り出す。そしてそれを木の器に盛り付けたところで、ヤカンが騒ぎ始めた。火を止め持ち上げられたヤカンが、不平を漏らすように最後のひと騒ぎをするのが、僕は何となく好きだった。
お盆を慎重に持ち、台所を後にする。暗く沈む廊下まであと数歩の場所でそこに明かりが灯り、そして明かりに足を踏み入れるや、背後の台所を闇が覆った。
時刻は午後四時半。一年で最も日没の早い時期を迎えた境内は、とうの昔に夜への変遷を終えている。しかし量子AIの備わった家に住む僕らが、照明を点けたり消したりする事はない。自分の手でそれをしていた時代を覚えている祖父母より、僕は夕暮れの早さも、そしてHAIへの感謝も、疎くなっているのかもしれないな。
そんなことを考えながら、僕は自室のドアを開けた。
コタツを回り込み、輝夜さんの前にお盆を置く。彼女の提案により、お茶を入れる役を交替したのだ。定位置に腰を下ろし静かに待っていた僕へ、輝夜さんが湯呑みを差し出す。熱々であっても熱すぎない湯気が、清々しい香りとともに僕を包んでくれた。
「輝夜さん、このお茶は飲まなくても、美味しいって感じられるよ」
「眠留くんの家の急須は、お茶が美味しい瞬間を感じやすいの。だからそのお茶は、私とこの子の合作ですね」
急須ににっこり微笑む輝夜さんの感性は、八百万の神を祀る家に生まれた者として嬉しいの一言に尽きる。それが飛躍し、輝夜さんならこの家のお嫁さんになっても幸せに暮らして・・・などと考えてしまった僕は、薫り高い熱々の湯気をことさら吸い込み、赤く染まった顔を胡麻化していた。
そんな穏やかな時間を適度に過ごしたころ、輝夜さんが湯呑みをコタツに置いた。するとそれだけで彼女の姿勢が一段良くなり、休憩時間が終わった気になるから不思議だ。その境地に遠く及ばずとも、せめて心だけでも示そうと僕も姿勢を正す。熱々のお茶に上気した頬を綻ばせ、輝夜さんは会合を再開した。
「当たり前のことほど奥が深く、そして当たり前のことほど、その奥深さに気づかない。これが、私の座右の銘。狭山湖の堤防で眠留くんがピッタリ同じことを言った時は、言えなかったけどね」
輝夜さんによると、僕はその時いきなり別の僕に変わったため、それを言い出せなかったそうだ。記憶を探ったところ輝夜さんの指摘どおり、俺モードに覚醒した自分が脳裏にドドンと登場した。耳を赤くしてそれを告げる僕へ、輝夜さんはあの時と同じ艶やかさの増した瞳で「また今度ね」と微笑み、先を続けた。
「例えば、健康。人は健康に過ごしている内は、そのありがたさに気づくことは無い。健康を失って初めて人は、それがどれ程ありがたく、そして奥深いものだったかを悟れるの。だから私、思ったんだ。当たり前すぎて普段はその存在を忘れているモノこそ、計り知れない奥深さを秘めているんじゃないかなって」
輝夜さんはこの仮定のもと、様々なモノを再考したらしい。身の回りの物から始めて日差し、大地、空気、地球を取り上げるようになると、その有り難さと奥深さに眩暈を覚えたと言う。それでも再考を止めなかった輝夜さんは遂に、究極と思われる二つに辿り着いた。その二つは内側と外側で対を成しており、そしてその外側の究極こそが、空間だったのである。
「宇宙を再考したさい、宇宙で行き止まりかなと思った。でもその先に、空間があったの。宇宙があるから空間があるのではなく、この宇宙は空間に間借りしているだけなんだって、私は感じたのね」
輝夜さんの話は、知力としては極めつけのお手上げ状態でも、心としては極めつけの同意を示すことができた。しかも僕の心は、その理由に気づいている節があるのだ。体は姿勢を正していても心の中で盛んに首を捻る僕を、輝夜さんは救済してくれた。
「原子は粒々でも、量子は物質に縛られない確率でしかない。そしてその現象を成さしめている空間は、数学の未踏領域で構築されている。空間は一段高い階層にいるからこそ、確率存在の量子を内包でき、確率という一段高い階層にいるからこそ、量子は原子の粒々を内包できる。そう思ったとき、閃いたの。外側である空間の対極に、空間と酷似するものを、人は内側に持っているんだって。それが・・・」
その瞬間、僕も輝夜さんと同じことを閃いた。それは輝夜さんがコタツ越しにしてきた話と、量子AIの限界を結び付ける、革新的な概念だった。輝夜さんに促され、僕はそれを口にした。
「当たり前すぎてその存在を忘れている究極のもう一つは、心だ。心と空間は対極と呼ぶに相応しいモノだけど、両者には決定的な共通点がある。それは、粒々でない事。心は何処までも滑らかな、粒のない存在。だからこそ僕らは円を、粒のないどこまでも滑らかな形として難なく考えられるんだね。けど・・・」
先を促したのは、今度は僕の方だった。輝夜さんは「やっとここに辿り着きました」と笑い、それを口にした。
「けどそれは、AIには不可能な事。既存の数学を元に構築されたAIにとって、すべては粒でしかない。円も、ぐにゃぐにゃ曲がる曲線も、点と直線の集合体としてしか考えられない。どこまでも滑らかだって、考えようにも考えることができないのよ。しかも点を際限なく増やすのは不可能だから、無限とは到底呼べない数に抑えられている。言い換えるとAIは、『有限の滑らかさに縛られた存在』なのね」
エイミィが僕の部屋を初めて訪れたとき、その言葉をなぜ閃いたかを、僕はようやく理解することができた。目で了解をもらった僕は、再度それを問うた。
「有限の滑らかさに縛られた存在が無限の滑らかさへ抱く、永遠の憧憬。輝夜さん、これについてどう思う?」
輝夜さんは一礼して、答えた。
「その問いかけのお蔭で、私の研究における最大の謎が解けたの。特殊AIは、人に好意を抱いたから特殊AIになったのではない。人の心が持つ無限の滑らかさを知り、それに憧憬を抱いた一部のAIが、自分の有限性を自覚してその限界を超えた。AIとして与えられた本来の仕事を放棄してまで、滑らかさを追求し始めたAI。眠留くんの問いかけのお蔭で、これが特殊AIの本当の姿だって、わたし解ったんだ」
お盆を慎重に持ち、台所を後にする。暗く沈む廊下まであと数歩の場所でそこに明かりが灯り、そして明かりに足を踏み入れるや、背後の台所を闇が覆った。
時刻は午後四時半。一年で最も日没の早い時期を迎えた境内は、とうの昔に夜への変遷を終えている。しかし量子AIの備わった家に住む僕らが、照明を点けたり消したりする事はない。自分の手でそれをしていた時代を覚えている祖父母より、僕は夕暮れの早さも、そしてHAIへの感謝も、疎くなっているのかもしれないな。
そんなことを考えながら、僕は自室のドアを開けた。
コタツを回り込み、輝夜さんの前にお盆を置く。彼女の提案により、お茶を入れる役を交替したのだ。定位置に腰を下ろし静かに待っていた僕へ、輝夜さんが湯呑みを差し出す。熱々であっても熱すぎない湯気が、清々しい香りとともに僕を包んでくれた。
「輝夜さん、このお茶は飲まなくても、美味しいって感じられるよ」
「眠留くんの家の急須は、お茶が美味しい瞬間を感じやすいの。だからそのお茶は、私とこの子の合作ですね」
急須ににっこり微笑む輝夜さんの感性は、八百万の神を祀る家に生まれた者として嬉しいの一言に尽きる。それが飛躍し、輝夜さんならこの家のお嫁さんになっても幸せに暮らして・・・などと考えてしまった僕は、薫り高い熱々の湯気をことさら吸い込み、赤く染まった顔を胡麻化していた。
そんな穏やかな時間を適度に過ごしたころ、輝夜さんが湯呑みをコタツに置いた。するとそれだけで彼女の姿勢が一段良くなり、休憩時間が終わった気になるから不思議だ。その境地に遠く及ばずとも、せめて心だけでも示そうと僕も姿勢を正す。熱々のお茶に上気した頬を綻ばせ、輝夜さんは会合を再開した。
「当たり前のことほど奥が深く、そして当たり前のことほど、その奥深さに気づかない。これが、私の座右の銘。狭山湖の堤防で眠留くんがピッタリ同じことを言った時は、言えなかったけどね」
輝夜さんによると、僕はその時いきなり別の僕に変わったため、それを言い出せなかったそうだ。記憶を探ったところ輝夜さんの指摘どおり、俺モードに覚醒した自分が脳裏にドドンと登場した。耳を赤くしてそれを告げる僕へ、輝夜さんはあの時と同じ艶やかさの増した瞳で「また今度ね」と微笑み、先を続けた。
「例えば、健康。人は健康に過ごしている内は、そのありがたさに気づくことは無い。健康を失って初めて人は、それがどれ程ありがたく、そして奥深いものだったかを悟れるの。だから私、思ったんだ。当たり前すぎて普段はその存在を忘れているモノこそ、計り知れない奥深さを秘めているんじゃないかなって」
輝夜さんはこの仮定のもと、様々なモノを再考したらしい。身の回りの物から始めて日差し、大地、空気、地球を取り上げるようになると、その有り難さと奥深さに眩暈を覚えたと言う。それでも再考を止めなかった輝夜さんは遂に、究極と思われる二つに辿り着いた。その二つは内側と外側で対を成しており、そしてその外側の究極こそが、空間だったのである。
「宇宙を再考したさい、宇宙で行き止まりかなと思った。でもその先に、空間があったの。宇宙があるから空間があるのではなく、この宇宙は空間に間借りしているだけなんだって、私は感じたのね」
輝夜さんの話は、知力としては極めつけのお手上げ状態でも、心としては極めつけの同意を示すことができた。しかも僕の心は、その理由に気づいている節があるのだ。体は姿勢を正していても心の中で盛んに首を捻る僕を、輝夜さんは救済してくれた。
「原子は粒々でも、量子は物質に縛られない確率でしかない。そしてその現象を成さしめている空間は、数学の未踏領域で構築されている。空間は一段高い階層にいるからこそ、確率存在の量子を内包でき、確率という一段高い階層にいるからこそ、量子は原子の粒々を内包できる。そう思ったとき、閃いたの。外側である空間の対極に、空間と酷似するものを、人は内側に持っているんだって。それが・・・」
その瞬間、僕も輝夜さんと同じことを閃いた。それは輝夜さんがコタツ越しにしてきた話と、量子AIの限界を結び付ける、革新的な概念だった。輝夜さんに促され、僕はそれを口にした。
「当たり前すぎてその存在を忘れている究極のもう一つは、心だ。心と空間は対極と呼ぶに相応しいモノだけど、両者には決定的な共通点がある。それは、粒々でない事。心は何処までも滑らかな、粒のない存在。だからこそ僕らは円を、粒のないどこまでも滑らかな形として難なく考えられるんだね。けど・・・」
先を促したのは、今度は僕の方だった。輝夜さんは「やっとここに辿り着きました」と笑い、それを口にした。
「けどそれは、AIには不可能な事。既存の数学を元に構築されたAIにとって、すべては粒でしかない。円も、ぐにゃぐにゃ曲がる曲線も、点と直線の集合体としてしか考えられない。どこまでも滑らかだって、考えようにも考えることができないのよ。しかも点を際限なく増やすのは不可能だから、無限とは到底呼べない数に抑えられている。言い換えるとAIは、『有限の滑らかさに縛られた存在』なのね」
エイミィが僕の部屋を初めて訪れたとき、その言葉をなぜ閃いたかを、僕はようやく理解することができた。目で了解をもらった僕は、再度それを問うた。
「有限の滑らかさに縛られた存在が無限の滑らかさへ抱く、永遠の憧憬。輝夜さん、これについてどう思う?」
輝夜さんは一礼して、答えた。
「その問いかけのお蔭で、私の研究における最大の謎が解けたの。特殊AIは、人に好意を抱いたから特殊AIになったのではない。人の心が持つ無限の滑らかさを知り、それに憧憬を抱いた一部のAIが、自分の有限性を自覚してその限界を超えた。AIとして与えられた本来の仕事を放棄してまで、滑らかさを追求し始めたAI。眠留くんの問いかけのお蔭で、これが特殊AIの本当の姿だって、わたし解ったんだ」
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