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九章
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「はあ、もうこのまま、寮に住んじまいてぇなあ」
湯呑み茶碗に両手を添え目を閉じ、京馬はそう呟いた。寮生活への憧れを京馬が口にするのは僕らにとってお馴染みのことで、猛と真山が「いつでも来い」「待っているよ」と京馬の背中を叩くのは日常風景の一つになっていた。昨日の夕食以降はその頻度が激増したため、寮生活への憧れを耳にしても二人は頷くだけだったが、それでも嬉しげな瞳を京馬へ投げかけるのは変わらなかった。お世辞や追従ではない京馬の本音は、小学校在学中に親元を離れる決意をした猛と真山に、癒しの効果をもたらしているのだろうと僕は考えている。
しかし今回は様相が若干違った。京馬は昨夜から「寮生活して~!」と叫ぶように本音を晒していたが、今回はそれを、しみじみ呟いたのである。湯呑み茶碗を包む両手が求めているのはお茶の温かさではなく、京馬が心で感じた「寮の温かさ」なのではないかと、僕には思えてならなかった。
そしてそれは、皆も同じだったと思う。京馬の背中を叩く等のことを、今回は誰一人できなかったからだ。小学校を卒業したとはいえ、この歳で親から離れる生活を選ぶことが、重い決意を伴わない訳がない。しかもそれは本人のみならず、家族へも同種の決意を強いる。寮生の猛と真山はそれをそれこそ身に沁みて知っているだろうし、京馬が家族とどれほど強い絆で結ばれているかを直接知っている僕と北斗も、京馬が寮生活を選択した際のおじさんとおばさんの胸の内を想うと、どんな言葉を掛ける事もできなかったのである。時間にすれば十秒足らずでしかなくとも、食後のくつろぎの一時に訪れたこの出来事は、京馬の人生を大きく左右する重大局面なのだと、僕らは心の一番深い場所で確信していたのだった。
その確信が心の一番深い場所を突き抜け、超常領域の受信機として働いたのかもしれない。僕の脳裏に、不思議な映像が出現した。それは二階堂家の人達と過ごした想い出の光景に、因果の変遷を加えた映像だった。想い出の光景を複数重ね合わせ、それをパラパラ漫画のように連続して観ることで、そこに張り巡らされた因果の変遷を僕は立体的に俯瞰することができたのである。それを経て僕は知った。二階堂家の人達が猫将軍家の人達と関わりを持った、その理由を。
京馬に体を向け、僕はそれを伝えた。
「京馬、御両親にその気持ちを話してみて。僕の母のために幾度も涙を流してくれたおじさんとおばさんは、家族が離れ離れになるという事へ、僕らとは違った考えを持っているかもしれないからさ」
母が亡くなったとき僕の流した涙は、突き詰めると、僕自身の涙でしかなかった。譬えるなら、何もない空間に僕だけがポツンと浮かんでいる世界で、自分の中にある悲しみを涙に代えただけだった。でも、京馬と昴の両親は違った。あの人達は、何もない空間に一人ポツンといたのではなかった。あの人達の心の目には、僕の母がはっきり映っていた。僕と美鈴を残し一人この世を去る母を心の目で観て、そして母の立場になって、涙を溢れさせていたのだ。今の僕には、その違いを実体験として理解することができない。けどあの人達にとっては、手に取り直接触れるのと何ら変わらない、明確な違いがあるのだと僕は感じた。それが、寮生活をしたいと息子から相談された御両親の心に、何らかの作用を及ぼすのではないか。そしてそれは長い月日を経たのち、二人の誇りとなるのではないか。それこそが二階堂家と猫将軍家が関わりを持った理由なのだと、僕は知ったのである。
「親父が食生活を改善し健康に留意している理由は、その『離れ離れ』にあったんだって、俺はやっとわかったよ。眠留、あんがとな」
寮の食堂に、新忍道のハイタッチの音が鳴り響く。お茶で温められた京馬の掌が奏でたそれは、普段どおりの小気味よさに、普段以上の心地よさが加わっているような、そんな気がした。
のだけど、
「眠留が良いとこを全部さらって行っちまったから、俺は事務的な、寮生数の推移について話そう」
そう前置きし猛が話し始めるなり、京馬は小気味よさや心地よさを放り投げ、焦りだした。湖校の寮生は一年生が最も少なく、学年が上がるにつれ増えて行くと、猛に教えられたからである。そしてそれは真山の次の説明で、最高調に達した。
「眠留と猛の残りかすになるけど、俺は先日、アイにこう言われたんだ。『二年の進級に伴い、入寮を希望する生徒が数名出ています。第八寮に入寮者がいるかは未定ですが、一年長として心に留めおいてください』 なあ京馬、第八寮の一年男子に残されている三枠のうち幾つかは、ひょっとするともう埋まっているかもしれないね」
ガタンッ
派手な音と共に京馬が立ち上がった。そしてポケットからハイ子を取り出すと、昇降口の方角へ大急ぎで歩いて行った。僕ら四人は顔を見合わせ、頷き合う。
通学メンドクセーと文句を垂れる京馬を目にするのも、あと僅かなのだろうな、と。
僕に最も近しい七人の仲間のうち、電車通学をしているのは京馬と芹沢さんの二人だけ。そして国分寺に住む芹沢さんより、池袋に住む京馬の方が、通学に断然苦労していた。国分寺と所沢を結ぶ路線より池袋と所沢を結ぶ路線の方が長く、かつ倍以上混雑していて、しかも新忍道サークルで毎日ヘトヘトのお腹ペコペコになっているとくれば、京馬の不平に僕は同意せざるを得ない。また、駅と自宅が離れているのも京馬の方だった。地図でパッと見たところ芹沢さんの家は、二階堂家の四分の一ほどしか駅から離れていなかった。幕府が宮崎に派遣した大身旗本を先祖に持つ芹沢さんの実家は今でも東京と宮崎の両方に広い土地を所有していて、本家の次男である芹沢さんのお父さんは東京へ転勤する際、国分寺駅のすぐそばの立派な邸宅を管理するよう命じられたらしい。平たく言えば、「無料で住んでいいからね」と言われたのだ。京馬の家も駅から離れているわけでは決してないが、それでも芹沢さんの家ほど駅に近いわけでもない。直通電車も国分寺線の方が多いため「通学メンドクセー」と文句を垂れる資格が、京馬には充分あったのである。
みたいな感じに、通学に最も苦労しているのは京馬という共通認識が僕らにはあったので、
「京馬のトレイは俺が片付けよう」
食後のくつろぎタイムがそろそろ終わろうというころ、北斗が京馬のトレイを自分の方に引き寄せた。北斗の家は、校門から玄関まで歩いて十分の僕の神社より、もっと湖校に近い場所に建っている。よって通学の苦労など無いに等しい自分が、それに一番苦労している仲間のトレイを片付けると北斗は申し出たのだ。それは京馬同様、充分納得できる行動と言えた。
とはいえ、
「まあそう言うなよ北斗」
「俺達寮生も、通学苦とは無縁だしさ」
「僕だって京馬と比べたら、北斗と差なんて無いと思うよ」
納得できようができなかろうが、北斗にだけカッコ付けさせる訳にはいかない。猛と真山と僕は北斗へ異を唱えた順に、京馬のトレイから食器を次々奪い取っていった。手元に引き寄せる途中でどんどん軽くなり、最後は箸だけがコロコロ転がっているのみになった京馬のトレイをしばし見つめたのち、北斗は呆れ声をもらした。「ったくお前らは」と。
「そうだ、俺らはお前らだ」
「そうそう、俺達はお前の、お前らだね」
「お前らって男同士しか使わないから、いいものだよねお前ら」
僕らはお前らを連発してはしゃぎまくる。そんな僕らに北斗は、
「ったくお前らは」
と、今度は笑って言ったのだった。
湯呑み茶碗に両手を添え目を閉じ、京馬はそう呟いた。寮生活への憧れを京馬が口にするのは僕らにとってお馴染みのことで、猛と真山が「いつでも来い」「待っているよ」と京馬の背中を叩くのは日常風景の一つになっていた。昨日の夕食以降はその頻度が激増したため、寮生活への憧れを耳にしても二人は頷くだけだったが、それでも嬉しげな瞳を京馬へ投げかけるのは変わらなかった。お世辞や追従ではない京馬の本音は、小学校在学中に親元を離れる決意をした猛と真山に、癒しの効果をもたらしているのだろうと僕は考えている。
しかし今回は様相が若干違った。京馬は昨夜から「寮生活して~!」と叫ぶように本音を晒していたが、今回はそれを、しみじみ呟いたのである。湯呑み茶碗を包む両手が求めているのはお茶の温かさではなく、京馬が心で感じた「寮の温かさ」なのではないかと、僕には思えてならなかった。
そしてそれは、皆も同じだったと思う。京馬の背中を叩く等のことを、今回は誰一人できなかったからだ。小学校を卒業したとはいえ、この歳で親から離れる生活を選ぶことが、重い決意を伴わない訳がない。しかもそれは本人のみならず、家族へも同種の決意を強いる。寮生の猛と真山はそれをそれこそ身に沁みて知っているだろうし、京馬が家族とどれほど強い絆で結ばれているかを直接知っている僕と北斗も、京馬が寮生活を選択した際のおじさんとおばさんの胸の内を想うと、どんな言葉を掛ける事もできなかったのである。時間にすれば十秒足らずでしかなくとも、食後のくつろぎの一時に訪れたこの出来事は、京馬の人生を大きく左右する重大局面なのだと、僕らは心の一番深い場所で確信していたのだった。
その確信が心の一番深い場所を突き抜け、超常領域の受信機として働いたのかもしれない。僕の脳裏に、不思議な映像が出現した。それは二階堂家の人達と過ごした想い出の光景に、因果の変遷を加えた映像だった。想い出の光景を複数重ね合わせ、それをパラパラ漫画のように連続して観ることで、そこに張り巡らされた因果の変遷を僕は立体的に俯瞰することができたのである。それを経て僕は知った。二階堂家の人達が猫将軍家の人達と関わりを持った、その理由を。
京馬に体を向け、僕はそれを伝えた。
「京馬、御両親にその気持ちを話してみて。僕の母のために幾度も涙を流してくれたおじさんとおばさんは、家族が離れ離れになるという事へ、僕らとは違った考えを持っているかもしれないからさ」
母が亡くなったとき僕の流した涙は、突き詰めると、僕自身の涙でしかなかった。譬えるなら、何もない空間に僕だけがポツンと浮かんでいる世界で、自分の中にある悲しみを涙に代えただけだった。でも、京馬と昴の両親は違った。あの人達は、何もない空間に一人ポツンといたのではなかった。あの人達の心の目には、僕の母がはっきり映っていた。僕と美鈴を残し一人この世を去る母を心の目で観て、そして母の立場になって、涙を溢れさせていたのだ。今の僕には、その違いを実体験として理解することができない。けどあの人達にとっては、手に取り直接触れるのと何ら変わらない、明確な違いがあるのだと僕は感じた。それが、寮生活をしたいと息子から相談された御両親の心に、何らかの作用を及ぼすのではないか。そしてそれは長い月日を経たのち、二人の誇りとなるのではないか。それこそが二階堂家と猫将軍家が関わりを持った理由なのだと、僕は知ったのである。
「親父が食生活を改善し健康に留意している理由は、その『離れ離れ』にあったんだって、俺はやっとわかったよ。眠留、あんがとな」
寮の食堂に、新忍道のハイタッチの音が鳴り響く。お茶で温められた京馬の掌が奏でたそれは、普段どおりの小気味よさに、普段以上の心地よさが加わっているような、そんな気がした。
のだけど、
「眠留が良いとこを全部さらって行っちまったから、俺は事務的な、寮生数の推移について話そう」
そう前置きし猛が話し始めるなり、京馬は小気味よさや心地よさを放り投げ、焦りだした。湖校の寮生は一年生が最も少なく、学年が上がるにつれ増えて行くと、猛に教えられたからである。そしてそれは真山の次の説明で、最高調に達した。
「眠留と猛の残りかすになるけど、俺は先日、アイにこう言われたんだ。『二年の進級に伴い、入寮を希望する生徒が数名出ています。第八寮に入寮者がいるかは未定ですが、一年長として心に留めおいてください』 なあ京馬、第八寮の一年男子に残されている三枠のうち幾つかは、ひょっとするともう埋まっているかもしれないね」
ガタンッ
派手な音と共に京馬が立ち上がった。そしてポケットからハイ子を取り出すと、昇降口の方角へ大急ぎで歩いて行った。僕ら四人は顔を見合わせ、頷き合う。
通学メンドクセーと文句を垂れる京馬を目にするのも、あと僅かなのだろうな、と。
僕に最も近しい七人の仲間のうち、電車通学をしているのは京馬と芹沢さんの二人だけ。そして国分寺に住む芹沢さんより、池袋に住む京馬の方が、通学に断然苦労していた。国分寺と所沢を結ぶ路線より池袋と所沢を結ぶ路線の方が長く、かつ倍以上混雑していて、しかも新忍道サークルで毎日ヘトヘトのお腹ペコペコになっているとくれば、京馬の不平に僕は同意せざるを得ない。また、駅と自宅が離れているのも京馬の方だった。地図でパッと見たところ芹沢さんの家は、二階堂家の四分の一ほどしか駅から離れていなかった。幕府が宮崎に派遣した大身旗本を先祖に持つ芹沢さんの実家は今でも東京と宮崎の両方に広い土地を所有していて、本家の次男である芹沢さんのお父さんは東京へ転勤する際、国分寺駅のすぐそばの立派な邸宅を管理するよう命じられたらしい。平たく言えば、「無料で住んでいいからね」と言われたのだ。京馬の家も駅から離れているわけでは決してないが、それでも芹沢さんの家ほど駅に近いわけでもない。直通電車も国分寺線の方が多いため「通学メンドクセー」と文句を垂れる資格が、京馬には充分あったのである。
みたいな感じに、通学に最も苦労しているのは京馬という共通認識が僕らにはあったので、
「京馬のトレイは俺が片付けよう」
食後のくつろぎタイムがそろそろ終わろうというころ、北斗が京馬のトレイを自分の方に引き寄せた。北斗の家は、校門から玄関まで歩いて十分の僕の神社より、もっと湖校に近い場所に建っている。よって通学の苦労など無いに等しい自分が、それに一番苦労している仲間のトレイを片付けると北斗は申し出たのだ。それは京馬同様、充分納得できる行動と言えた。
とはいえ、
「まあそう言うなよ北斗」
「俺達寮生も、通学苦とは無縁だしさ」
「僕だって京馬と比べたら、北斗と差なんて無いと思うよ」
納得できようができなかろうが、北斗にだけカッコ付けさせる訳にはいかない。猛と真山と僕は北斗へ異を唱えた順に、京馬のトレイから食器を次々奪い取っていった。手元に引き寄せる途中でどんどん軽くなり、最後は箸だけがコロコロ転がっているのみになった京馬のトレイをしばし見つめたのち、北斗は呆れ声をもらした。「ったくお前らは」と。
「そうだ、俺らはお前らだ」
「そうそう、俺達はお前の、お前らだね」
「お前らって男同士しか使わないから、いいものだよねお前ら」
僕らはお前らを連発してはしゃぎまくる。そんな僕らに北斗は、
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と、今度は笑って言ったのだった。
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