僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

文字の大きさ
上 下
477 / 934
十三章

2

しおりを挟む
 調理を安心して任せられる人達が複数いた事もあり、計画は一割増の速度で進んでいった。その、安心して任せられるツートップの一人である千家さんが「こんなものでいいかしら」と、見事な飴色に仕上げられた玉葱をボウルに入れて持ってきてくれた。呼んでいただければ飛んでいきますのにと畏れ入る僕へ微笑みかけた千家さんは台所を見渡し、不安げな面持ちでそっと囁いた。
「部外者の私が言うのもおかしいけど、これだけの人が詰めかけて、料理は足りる?」
 多分その時、千家さんの暗示が一瞬薄らいだのだと思う。食べ盛りの若者がひもじい思いをしないかと憂える豊穣の女神の面影を、その横顔に垣間見た気がしたのだ。釣られて、にぱっと開けっぴろげに笑ってしまった。食事会に毎回参加している北斗と京馬を除き、ここにいる人達の大半は、八十人分の料理に思考を停止させていた。八十という数値が大きすぎるせいで、「そこに自分達も加わったら料理が足りなくなるのではないか」と考えられなくなっていたのだ。しかし、上古の時代より続く日本屈指の名家に生まれた千家さんは違った。そういう家では数十人程度の会食は日常茶飯事なので、この台所にいる十六人の食事を気に掛ける余裕が、千家の姫にはあったのである。僕は2D画面を出し、八十食の内訳を打ち込んでいった。
「ここにいる男子十四人と女子二人、部活からそろそろ戻ってくる僕の同級生の男子三人と女子五人、そしそこに美鈴を加えると、男子十七人の女子八人になります。運動部所属の腹ペコ男子が平均3.5人分食べて、59.5食。女子は男子の半分を食べて、14食。そこに祖父の1.5食と祖母の1食を加えると、合計76食になります。一応4食多めに作っていますが、もう少し余裕を持たせた方がよいでしょうか?」
 千家さんは目を見開いたのち、くすくす笑ってキーボードを叩いた。
「私はそんなに食べないよ。でも男の子の胃袋は底なしだから、少し不安かな。一人分のサラダはどの程度なの?」
 サラダのサンプル画像の中から、想像に一番近いものを選び表示してみる。直径12センチの平皿に盛られたキャベツとトマトとワカメのサラダをしばし見つめ、櫛名田姫は白魚の指を踊らせた。
「低カロリーマヨネーズはある?」
「はい、1ダースあります」
「それなら私がポテトサラダを作りましょう。カロリーの気になる女の子は野菜で食欲を満たすと思うから、ポテトサラダは大皿に盛り付けようかな。いい?」
「もちろんです。すべて、千家さんの御心のままに」
 そう言って腰を折った僕の頭を、千家さんは優しく撫でてくれた。
 低身長に悩む二年生からしたら大人の女性にしか思えない六年生の千家さんに、というか豊穣の女神様に頭を撫でられ顔がふにゃふにゃになってしまった僕は、表情をどうしても元に戻せず、それはそれは苦労したのだった。
 ポテトサラダ作りは、千家さんと荒海さんにお願いした。
「なんで俺なんだよ!」「だって荒海さん、ポテトサラダ好きじゃないですか」「そりゃ好きだが、それを言ったらみんなそうじゃねぇか!」「荒海君、ポテトサラダを作ろうって言ったのは私なの。手伝ってくれないかな」「むっ、おっ、おお」「では荒海さん、貯蔵室の場所をメモしておいたので、後はよろしくお願いします」「はあ? なんで俺が貯蔵室に行かなきゃなんねぇんだよ!」「荒海君、美術部員の私には、不安を感じずにはいられない量なの。どうか、手を貸してください」「むっ、おっ、おお」 
 なんてやり取りを経て、二人は台所から消えていった。その途端、
「でかした眠留!」
 と、僕は真田さんからこれまでで一番褒めてもらえた。
 そうこうしているうち、カレーの具の用意が完了した。僕はそれを、あらかじめ水を張っていた特注の大鍋に入れ火にかけた。その調理方法に、三巨頭を始めとする部員達が首を傾げたので説明しようとしたところ、菊池さんがその役を引き受けてくれた。
「食材から出る湯気には、旨味が含まれています。だから眠留は、湯気を極力抑える調理法を選んだんです」
 しかしいかんせん、寡黙な菊池さんにその役は不向きなようだった。よって部員達の視線を一身に浴びた竹中さんが、補足してくれた。
「眠留は牛肉からあまり湯気がたたないよう、フライパンでゆっくり火を通していました。そして肉汁に臭みがないのを確認してから、水を張った鍋に肉汁ごと入れていました。水を最初に張ったのは、具材を焦がさないためです。これほど多くの具材は自身の重みに圧迫され、鍋の底に張り付くことがあります。すると水を注いでも張り付いたままはがれず、焦げてしまうことが多いんですよ」
 ほほうと関心の声が上がる中、松井が「はい」と挙手する。頷く竹中さんへ、松井は質問した。
「鍋を運ぶのを手伝った時、蓋がすごく重いことに驚きました。それは蓋の重みで湯気を封じ込めるためだったと理解できましたが、テフロン加工の調理器具が一つも見当たらないのは、どういう理由なのでしょうか」
 テフロン加工って何、あなたのような素人でも食材を焦げ付かなくする特別なコーティングよ、へえそうなんだ、等々のやり取りをおしどり夫婦ヨロシク交わす加藤さんと三枝木さんに皆でほのぼのしてから、竹中さんは僕へ顔を向けた。
「多分、フッ素と松果体の関係を危惧してのことだと思うが、合っているか眠留」
「はいそうです。フッ素加工を施した調理器具と松果体の石灰化の関係は学術的にまだ証明されていませんが、大勢の氏子さんと直会なおらいを共にすることを考慮し、先代宮司がその不使用を決定したと僕は聞いています」
 松果体は年齢を重ねるごとに石灰化してゆく。石灰化し硬くなった松果体は魔想戦に害を成すため、その要因の一つであるフッ素の摂取を三翔家は極力控えてきた。テフロン加工の調理器具を使わないのもその一環で、そして松果体の硬化を遅らせるのは人全般に有益だから、直会用の調理器具にもそれを適用したのである。
 とのアレコレを、翔人を絡めずどう説明したものかと胸中首を捻っていた僕の耳に、
「ナオライって何?」
 三枝木さんに尋ねる加藤さんの声が届いた。ああそうか、松果体より直会の方が知られていない語彙だったかと合点するより早く、三枝木さんは千家さんへすがる眼差しを向けた。おそらく千家さんへの憧憬がそうさせただけなのだろうが、それでも三枝木さんの直感の鋭さを僕は称えずにはいられなかった。日本屈指の歴史を誇る社家に生まれた千家さん以上の適任者は、ここにいなかったからだ。
「直会は、神様へ捧げた供物を、氏子さん達と一緒に頂く食事会ね」
しおりを挟む

処理中です...