僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十五章

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 パスの適時有用性を僕が理解したと判断した真山は、今年七月の練習試合を見るよう促した。真山は気持ちを声に出さぬよう細心の注意を払っていたが、真山の声が大好きな僕を騙せなどしない。大方を察した僕は、映像を見たとたんそれが正しかったことを知った。音声のみ電話から3D電話に切り替えた真山は、床に座る僕の隣で背中を丸め、一年以上の付き合いの中で初めて愚痴をこぼした。三時間耐久試合のあと、真山は僕に、サッカー部を辞めないでくれと頼みたかった。掛け持ちできるようどんな努力もするから、自分と一緒にサッカーを続けてくれと取りすがりたかった。でもそれだけはしちゃいけないと自分に言い聞かせ、それを実行できたはずなのに、夏休みが近づくにつれ自信がなくなってきた。去年と比べて今年は面白くないという本音を、隠す自信がなくなってきた。俺はダメ男だ、けどこれが本音なんだと、真山は床を見つめて呟いていた。
「なあ智樹、僕には自信がある。自分はダメ人間だって思う頻度なら、ちょっとやそっとじゃ負けない自信が僕にはある。けど同時に、そんな僕を助けてくれる友人が、僕には大勢いるんだよ。それをこの上なくありがたく思ってきた僕は、背中を丸めて床を見つめる真山を助けたいと心底思った。だから、こう頼んだんだ」
 ああ真山、これを最初に話すのは真山が予想したように、智樹だったよ。胸中そう語り掛けつつ、あの時の言葉を口にした。
「僕は、パスについて研究する。でも僕はサッカーの素人だから、とんちんかんな研究をする可能性が高い。真山頼む、僕の研究が的外れにならぬよう、協力してくれないだろうか」
 僕は2Dキーボードを出し十指を走らせ、智樹の手元と僕の手元に、それぞれファイルを映し出した。執筆者に僕の名が、監修者に真山の名が示されたそのファイルを目にした智樹は、正座に座り直し背筋を伸ばし、心の中で何かを誓ったようだった。

 有難いことにそれから智樹は「驚いた」と「面白い」を連発してくれた。湖校入学を機にサッカーを始めた智樹は経験不足を補うべくサッカー関連の文書を豊富に読んだそうだが、格闘技的見地からパスを論じたものはこれが初めてだったらしいのだ。もっともそれは智樹が知らないだけなのだろうし、智樹自身も初心者向けの文書ばかりに目を通してきたことを認めていたけど、嬉しいことに変わりはない。僕は嬉々として研究を発表した。
「一章の題名の『テレフォンパンチに相当するパスの排除』のテレフォンパンチを、智樹は知ってる?」
「知ってるとも。こんな感じに大きく振りかぶって、今からパンチを繰り出しますよって、敵にわざわざ教えてあげるパンチだよな」
「うんそれそれ。格闘技では、行動予測の材料になる動作をなるべく排除しようとする。けど去年の夏、サッカーの3対3の練習をゴール裏から見学していたら、かなり巧い人でも、テレフォンパンチに相当するテレフォンを当然のようにしていたんだよ」
 サッカーが下手すぎて3対3の練習にまだ参加できなかったころ、僕はしばしばゴール裏に足を運び、上手な人のプレーを見学していた。ある時、攻撃側の連携がうまくいき、守備側の陣地に死角が二つできた。そのどちらにパスを出すかを察知されると、攻撃の成功率は格段に落ちてしまう。よって格闘技的見地では、どちらにパスを出すかを悟られ難くするものなのだけど、「俺はあっちにボールを蹴るぜ」という意思が見え見えの大きな動作で、パスが出されたのである。
「僕はただの見学だったからそれが分かっただけで、試合の最中にそれを見極めるのは難しいと思う。でもインハイ制覇を目標にしている学校や、本気でプロを目指している人は、蹴る動作からパスの方向と距離を察知されないよう練習を重ねている気がした。僕にとってサッカーはひと夏の付き合いだけど、武術の道を生涯歩む者として、テレフォンキックによるパスは避けようってあのとき決めたんだよ」
「確かに眠留のパスは反応が難しかったな。いや待てよ・・・」
 空中を見上げ遠い目をした智樹はおもむろに2Dキーボードを操作し、映像を三つ呼び出した。一つは僕が真山にパスを出す時の映像、残り二つは別の部員にパスを出す時の映像だ。その三つを見比べた智樹は、ガックリ肩を落とした。
「予備動作を排除した眠留のパスに反応できていたのは、真山だけ。別の部員には、眠留は蹴る動作を、わざと見せていたんだな」
 そのとおりだった。敵の死角に飛び込もうとする仲間へ、僕はテレフォンキックを意図的に見せていた。そうしないと、仲間が予想していたより早いパスになり、ボールを繋げられない事がままあったからだ。それをしなくていいのは、真山だけだった。眼前に死角ができるなり真山は僕を見ず猛然とそこへ飛び込んでいき、そして真山が最もボールを受け取りたがっている場所へ、僕は予備動作のないパスを放った。それは真山も同じで、真山がパスを出したがっている場所に僕が駆けると、絶妙なタイミングでボールが届けられた。三週間前まで、それは真山が凄いからだと思っていたけど、パスの研究が進むにつれ、それが間違いだったことに僕は気づいたのである。
 それから僕は真山の映像を出し、テレフォンキックを排除する基本を説明した。それは蹴る脚を、なるべく振りかぶらないという方法だった。
「例えばピアノで、ドレミファソラシドドシラソファミレドを、リズミカルに繰り返したとする。その途中でわざとリズムを外し、そして違う音を奏でたら、大勢の人がさほど苦労せずそれを聴き分けられるだろう。走っている最中に、大きく振りかぶってボールを蹴ることはそれに似ている。蹴るためにリズムが外れて、しかも大きく振りかぶるのだから、瞬時に察知できるんだね」
 智樹は息をするのも忘れたように、真山の手本を見つめていた。そう、この研究ファイルには、真山の手本がふんだんに用いられていた。教育AIに事情を話し、部活中の真山を終始録画してもらい、その中から最も手本に相応しいものを載せていたのだ。
「真山は初め、これは責任重大だって肩をすくめていた。でもそれはすぐ、これは俺にとっても良い練習だ、に代わってさ。イメージトレーニングの手本になるのだから基本に忠実な動作を真山は心掛け、そしてそれは貴重な発見を沢山もたらしてくれたって、真山は喜んでいたよ」
「真山は最近、部活が楽しそうだった。あれは、眠留のお陰だったんだな」
 いやいや違うって、謙遜するなコラ、なんてやり取りを経て僕は何気なく訊いた。
「ところで智樹は、ボールを蹴る時に使う三つの筋肉を知っているよね」
 当たり前だと智樹は答えたのち、顎に手を添えて思索を始めた。そして手元のファイルを最初の方にめくってゆき、1ページ目の目次を指さして言った。
「眠留は二章の、鋭いパスの蹴り方、に移ろうとしているのか?」
「冴えてるじゃん智樹」「いやいや違うって」「謙遜するなコラ」
 なんてワイワイやりながら、僕らは二章に突入したのだった。
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