僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十六章

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 休憩スペースにはウォータークーラーが設置されていて、思いがけず喉を潤せた。広さも想像以上にあり、ソファーの座り心地も良く、三分に満たない時間のわりには心身を癒してもらえた。「次はもっと長居させてね」 心の中でそう語り掛け、僕はそこを後にした。
 という話を、プリンター室に戻ってから話題提供を兼ねてしたところ、「長居させてね」の箇所で千家さんはしきりと頷いていた。ピンと来て、居眠りについて問うてみる。
「人は数百万色を見分けられて、しかもそれに塗料や機械の要素も加わるのですから、色彩の専門家は学ぶことがさぞ多いんでしょうね。ひょっとして、休憩所で居眠りした事があるとか?」
 名家のお嬢様の千家さんは居眠りがバレたら恥ずかしがるかな、との悪戯心による問いかけだったのだけど、専門家という生き物を僕はまったく理解していなかったらしい。千家さんは胸をそびやかし、ある論文を2D画面に出した。
「ふふふ、甘いわね。これを見なさい」
「えっ、この『湖校実技棟ソファーにおける熟睡方法』って論文の著者、千家さんじゃないですか。おっ、お見逸れしました~」
「うむ、分かればよろしい」
 千家さんは鼻息荒くそう言い、やたらふんぞり返っている。そんな姿を見ていたら親しみが湧いてきて、つまりそれは遠慮もなくなったという事だから、僕は自分の研究分野を披露して一矢報いる事にした。
「じゃあ次は僕の番ですね。これは、視神経多用時における脳の活性度を、色で表示した3D映像です。自由に利用できる公共データですから、色彩の専門家の千家さんにはお馴染みだと思います」
「ええそうね。という事は、お馴染みでないものも見せてもらえるのかな」
 ノリノリの千家さんが演技をしているのではないと確信できるようになった今日に感謝しつつ、僕は脳の映像を新たに二つ出した。
「これは共同研究者と測定した、僕の脳です。右は、密室を飛び回る十匹の3D蠅を、僕が網で捕まえた時の脳。左は、同じ密室を飛び回る十匹の『本物の蠅』を、僕が同じ網で捕まえた時の脳ですね」
 この実験は、正直かなり苦労した。まずは、元気盛りの初夏の蠅を三十匹捕まえて密室に放ち、3D映像で再現しうるデータを取った。次は蠅の種類や能力を均一化すべく、三十匹の蠅を十匹ずつのABCに分けた。そしてAを3D映像化したA´を密室に放って僕が捕獲し、それを終えるなり今度は本物の蠅のAを放って捕獲した。BとCも同じ手順で行い一日目は終了し、二日目の翌日は順序を入れ替え、本物が先で3Dを後にした。こうして得た十二回分のデータをもとに、僕の脳が本物と3Dでどう変化しているかを、猛と二人で測定したのである。
 という説明をしたところ、千家さんはみるみるうちに、飼い主の「待て」の指示を守り食事を我慢している忠犬のような表情になっていった。こりゃヤバイと説明を早口にし、けど最後は明瞭な口調で、
「共同研究者と話は付いていますから自由に閲覧してください」
 そう伝えたのだけど、千家さんは肩をすぼめて俯いてしまった。いかに仲良くなったとはいえ、女性をこんな状態にしてはならない。しかもこの部屋で千家さんが俯いたのは、二度目だったのである。後悔に苛まれた僕は状況を打破すべく、「的外れかもしれませんが」と前置きして話した。
「この実験を一緒にした友人と僕は、ある取り決めをしています。それは、研究データを独断で開示していい、というものです」
 これは去年、芹沢さん用の取り決めとして僕が提案したものだった。猛は初め「清良といえど筋は通さねばならん」などとほざいていたが、「なら僕も誰かに開示する時は猛に逐次報告するよ」と溜息をついたら、事態は急展開した。「危なかった、眠留の恋路を邪魔するとこだった」「恋路じゃないよ!」「まあ確かに、白銀さんとは限らんか」「ちょっ、輝夜さん以外いないよ!」「俺は研究を開示する相手について話しているんだが」「なっ、こっ、コノヤロウ!」「ギャハハハ!」 みたいな流れになり、信頼できる人なら独断開示していいという合意に達したのである。
 なんてアレコレを身振り手振りを交えて話し、千家さんに柔らかな気配が戻ったのを確認してから、先を続けた。
「この実験の数日前、赤外線と紫外線を僕が目視できることを、その友人は知りました。共同研究者なのに黙っててゴメンと謝る僕を友人は叱り、そんな些事より仕組みを研究する気はあるかと訊いてきました。友人の指摘どおり僕はその仕組みを知らず、研究者として大いに関心ありましたし、友人の研究に貢献できるとも感じたので、この蠅の実験を考案したのです」
 この実験により、赤外線と紫外線を知覚すると僕の脳は活性度合い及び活性部分の体積が増加し、その増加率と身体能力向上率は比例することが判明した。そこでふと、3DGのモンスターは微量の赤外線を放射している事実を思い出し、エイミィに尋ねたところ、米国の3DG本部がそれを公表していることを初めて知った。この話題を、つまり新忍道に関する話題を口にするや、イタズラがバレちゃった系の笑みを千家さんが浮かべたため、僕はミッドナイトブルーの標本を指さし、核心の問いをやっと放つことができた。
「千家さんはこの右端の標本を、僕の視力を予想して作ったって言いましたよね。それができたのは、新忍道の練習を熱心にスケッチしていたからではありませんか?」
 しかし千家さんは予想に反し、遠慮されたらかえって寂しいなと小悪魔的に呟いてから、問いに答えてくれた。
「もっとはっきり言っていいよ。スケッチの続きを書きたいという嘘の理由を掲げて、新忍道部の戦闘録画を自宅で見る申請を、教育AIに出したの。アイは『正直に話すなら新忍道部との仲立ちをする』って言ってくれたから、覚悟を決めて全て話したわ。すると、猫将軍君が特別な視力を持つことを公表せず、かつそれを基に何らかの研究成果を出せば、美術部員の活動の一環として録画を見せるとアイは約束してくれたの。私はアイの信頼に応えようと熱心に映像を検証し、実技棟に籠って研究を重ね、この標本を作り上げた。でも私が俯いた本当の理由は、この一連の出来事にあるって猫将軍君は気づいているのよね。信頼に応えなければって頑張れる友人が、私にはいない。間違った湖校生活を送ってきた私には、猫将軍君の周囲にいるような友人が、一人もいないのよ」
 挨拶して軽く会話する友人なら、複数いる。善良な生徒に恵まれた湖校で五回もクラス替えをし、部活も続けてきたから、友人がいないと苦労する場面で苦労したことは一度もないと明言できる。だが、表面上の友人を維持する生活を幾ら送っても、本物の友人は得られない。五年と五カ月もの時間を素晴らしい同級生と過ごして来たのに、素顔と素の感情を隠してきたせいで、心底信頼し尊敬し合える友人を一人も作れなかった。千家さんはそう吐露し、泣いたのだ。
 けど僕は千家さんに、ずるい対応をした。
 そしてそんな自分に、負い目を一切感じなかった。
 だって千家さんの伴侶として人生を共に歩んでゆくのは、荒海さんだからね。
 よって僕は友人として、明かせる真実のみを明かす選択をした。
「千家さん聞いてください。僕には、劣った星からこの地球にやって来て四千年間過ごした記憶が、あるんです」
 僕は話した。
 今とは比較にならぬほど劣った僕が、意識だけの存在として遠い星からやって来て、やる気と希望に溢れて地球に降りてきた事。
 だが肉体を得るや、前の星で培った負の自分に囚われ、夢も希望もない奴隷生活を二千年間続けた事。
 二千年を費やしようやくその生活に疑問を抱き、自分で自分を変える決意をし、数回の人生を経て奴隷を脱した事。
 その後も努力を怠らず、ユーラシア大陸の西端から極東の島国に千百年かけて移動し、そしてこの国で九百年間過ごした事。
 その二千年の努力で得た自分を、あえて眠らせて生まれてきたから、眠らせ留めるという名になった事。
 ここまで話した僕は、千家さんについて水晶から教えてもらったことを、明かせるだけ明かした。
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