僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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「まったくもう、おじいちゃんも眠留くんも、少しは後先考えないと」
 全身泥だらけになって裏庭の屋外洗濯場に現れたおじいさんと僕に、輝夜さんは困り顔をした。けどそれは懸命に作った困り顔なのだと、喜びに弾む声音ですぐ分かった僕らは、二人そろって頭を掻きつつ弁明した。弁明の内容ではなく、そのシンクロ具合に勝てなかったのだろう。作り顔は一瞬で消え失せ、輝夜さんは満開の花の笑みを浮かべた。おじいさんと僕がはしゃぎまくったのは言うまでもない。そんな僕らに輝夜さんは敗北を認め、
「水洗い、浸け置き洗い、温水洗いの最強仕様で洗っておくから、洗濯機の中に入れておいてね」
 優しくそう言い残し、勝手口の向こうへ消えて行った。おじいさんと僕は泥だらけの運動着を素早く脱ぎ、下着も何もかも洗濯機に放り込んで、屋外をものともせず真っ裸になったのだった。

 僕らが泥だらけになったのは、雨が降ったからではない。温暖化の進行した十月二日という、晩夏なのか初秋なのか決めかねるこの日、可愛らしい綿雲がちらほら見られるだけの好天が朝から続いていた。なのに僕らが泥まみれになったのは、汗みずくのまま土の上にぶっ倒れたからだ。ただこれについては、おじいさんを弁護せねばならない。休耕地の土を固めただけのキャッチボール場は学校のグラウンドより衣服に土が付きやすい事をおじいさんは知っていたので、寝転ぶための芝生スペースを隣に作ってくれていた。よってそこを利用すれば泥を避けられたのに、輝夜さんの指摘どおり、僕らはまさしく後先考えずキャッチボールをした。「これが最後!」「はい!」の声とともにボールを一往復させるや、電池が切れたように足元にぶっ倒れ、しかも右へ左へ体を向けて呼吸困難にあえいだせいで、360度隈なく泥が付着してしまったのだ。それは腕や顔にも及び、土の上にようやく座れるようになった僕らは互いのありさまを見て吹き出し、けどそれがかえって仲間意識を高め、僕らは土の上に座ったままキャッチボール談議に花を咲かせた。おじいさんはそれが心底楽しかったらしく僕と同年齢の野球少年の顔になっていて、輝夜さんはそれが一目でわかったから、困り顔は作れても声音を変えることはできなかった。孫娘のその心が、おじいさんは嬉しくて堪らなかった。もちろん僕も、負けないくらい嬉しかった。という次第で屋外をものともせず真っ裸になるという、妙なテンションになったのである。
 といっても、僕らは犯罪者ではない。森に囲まれた畑の中心にある、生垣を巡らせた立派な日本家屋の裏庭という、プライベート率の極めて高いこの場所を無関係の人が見るには違法ドローンに頼るくらいしか方法がないから、そちらの方がよほど重罪なのだ。よって僕らは、男の象徴たるぶらぶら状物体を堂々とぶらぶらさせつつ、檜風呂を目指したのだった。

「檜のお風呂を楽しみにしてたんです。この木の香りが、忘れられなくて」
「そうじゃろうそうじゃろう、いつでも入りに来なさい」
 二人並んでお湯に浸かりながら、おじいさんはこのお風呂について話してくれた。それによると木のお風呂は、どんなにきちんと手入れしても最長で二十年ほどしか使えず、定期的に木を張り替えないといけないらしい。それを知ったおじいさんとおばあさんは毎日の手入れを入念に施し、その甲斐あって二十年に届いたそうだがやはりそれ以上は叶わず、去年とうとう木を新調したと言う。幸いお二人が所有している土地に檜林があったため格安でできたが、そうでなかったら目が飛び出るほどの金額を請求されたはずとおじいさんは話していた。
 と、ここまでは僕も興味津々に耳を傾けていたのだけど、事態は急変した。
「あの檜林は大切にしないと眠留君の代になったら大変な事になる。この檜風呂を手放すような事態になったら、化けて出るからな!」
 おじいさんが般若顔になり、いきなり凄んできたのである。それに慌てるあまり、
 ――眠留君の代になったら
 の箇所を丸っと忘れた僕は、ヘンテコな返答をしてしまった。
「かしこまりました。おじいさんとおばあさんが生まれ変わってもこのお風呂を楽しめるよう、檜林は末永く大切にします」
 でもそのヘンテコさが、かえって良かったのかもしれない。嬉しくてたまらない結果を、この会話はもたらしてくれた。
「うむ、楽しみにしている。その時はまた儂と、キャッチボールをしような」
「もちろんです。さっきのように脚腰立たなくなるまで、ボールで会話しましょう!」
「それだ、まさしくボールを介した会話だ。やはり眠留は、漢じゃのお!」
 そうこの瞬間、おじいさんは初めてくんを外し、僕を身内として扱ってくれたのだ。前回も晩酌時に君を外していたけど、あれはお酒が入っていたのでノーカウント。会話内容からも僕が身内になったのは、今この瞬間だったのである。それを喜ばずして、何を喜ぶと言うのか。胸に溢れるこの想いがおじいさんに伝わり、それにおじいさんの喜びを加えたものが僕に返ってくるという心のキャッチボールを成した僕らは、湯船に浸かっているのも忘れ、本日二度目のキャッチボール談議に熱中した。そのせいで大層のぼせてしまい、
「まったくもう、おじいちゃんも眠留くんも、少しは後先考えないと」
 これまた本日二度目の輝夜さんのお叱りを、二人揃って二十分後、拝聴する事になったのだった。

 その後、風通しの良い縁側に二人で寝転び、長湯でのぼせた体を冷ます時間が訪れた。その僕の鼓膜に、庭の南端の壁で訓練に勤しむ若猫達の足音が届いた。山の南斜面に建てられたこの日本家屋は、庭の南端に高さ3メートルほどのコンクリートの壁を設けることで、敷地を水平に保っている。その壁の南側は幅3メートルほどの草地になっており、その草地と壁を利用して、若猫達が訓練に励んでいたのだ。生垣の向こうに猫のシルエットが現れ、と思いきや一瞬で消え、別の猫のシルエットが同じ場所にすぐさま浮かぶ。という事を繰り返しているから、3メートルの壁を駆け上がって駆け降りるという訓練を、一列になって順番にこなしているのだろう。一匹の猫が気まぐれに壁を駆け上がるだけなら問題ないが、一列に並んで順番にするとなると、秘さねば厄介事を招く。この家のHAIに協力してもらい、畑を見渡せる場所に人が来たら犬笛ならぬ猫笛を鳴らす手筈になっているから安心できても、あの訓練をここ以外の場所でするのは、ほぼ無理に違いない。仲間と一緒に励むからこそ得られる学びがあることを部活を通じて知っている僕は、若猫達の立てる足音を、頬を緩めて聞いていた。
 しかしふと、それが途切れる。時を同じくして、壁の下方から緊張感のようなものが伝わって来た。猫笛は鳴ってないのに何故だろうと訝しんでいると、
 ふわり 
 今までの猫より若干大きなシルエットが無音で生垣の向こうに現れた。そして、
 ひらり
 硬さと力みの一切を省いたそよ風の如き動作で、その猫は下方へ消えて行ったのである。まったくの無音だった事とシルエットが若干大きかった事から、末吉が後輩に手本を見せたと知り、誇らしさが胸にせり上がって来た。が、
「末吉兄者、さすがです!」「カッコよすぎです、末吉兄さん!」「「「キャ――、末吉お兄様ステキ――ッッ!!」」」
 とのテレパシーを受信し、先月四日朝の翔子姉さんの憂い顔を思い出した僕は、自分のダメさ加減を叱りつけずにはいられなかった。
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