僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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 一か月前の、九月四日。 
 湖南契約が初めて施行された九月最初の日曜の、午前八時十五分。
 僕は部活に出るべく、玄関にやって来ていた。
 さりとて現在時刻の八時十五分は、家を出発する時間としては通常より五分早い。とある実験結果を知りたくて、いつもより少し早く玄関を訪れたのだ。その実験は、「足の厚みも朝と夜では異なるのか」だった。体重を支え続けた足に、無視できない変化が生じるのは広く知られている。その一つに足のサイズ、つまり縦幅がある。たとえば朝から屋外活動に励んだ日の夕方の足は、朝より1センチから2センチも縦幅が長い。浮腫むくみもあるけど、それより足のアーチが体重に負けて押しつぶされるのが、サイズを大きくしている原因だ。靴を購入する際の格言に、靴は夕方に買うべし、がある理由はコレ。ひもに関する格言もあって、「新調した紐靴を履いて紐を通してはダメよ」と僕は子供のころ母に教えられた。アーチがつぶれて薄くなった足を基準にしたらダメなんだろうなと勝手に解釈し、それで正解と思うけど、厚みの差を実感したことは今までなかった。通学用の紐靴を新調することになった昨夜、たまたまそれを思い出した僕は、新品の通学靴を履いて紐を通してみたのである。境内の箒掛けと早朝自主練があるから厳密な実験結果は期待できなくとも、初めての試みなことも手伝い、僕はウキウキしながら通学靴を履いた。その途端ウキウキは消え去り、
「面倒だなあ」
 と僕は愚痴をこぼしていた。サイズが大きくてブカブカに感じるのは、成長期に新調した靴のお約束なので慣れていると言える。だが昨夜は予想以上に足が薄かったらしく酷い圧迫感を足の甲に覚え、紐の全面的な結び直しを余儀なくされた僕は、無意識に「面倒だなあ」と愚痴ってしまったのだ。良好な実験結果を得たことを研究者として喜ばなければならないのに、未熟にも程があるぞ、と自省しつつ紐をほどき始めた丁度その時。
「行ってらっしゃい眠留」
 翔子姉さんの声がかかった。慈愛に満ちたいつもの姉の声でも、小吉ではなく翔子姉さんとして見送りに来てくれたことから、心を引き締めて振り返った。
「いやあの、靴が不快で紐を結び直さなきゃいけないから、もうちょっと時間が掛かっちゃうんだ」
 良好な実験結果を得たのに未熟さ故の不平を漏らした僕を、翔子姉さんは研究者の先輩として教え諭しに来てくれたのだろう。そう当たりを付け、僕は心を引き締めて振り返ったのだけど、
「そうね、朝は夜より足が小さいから、ただでさえ大き目の靴はよほどブカブカに感じるのでしょうね。足は生涯健康度に多大な影響を及ぼすから、大切にしてあげてね」
 翔子姉さんはどこまでも優しい姉さんだった。弟の幸せを願うその優しさに、もう一人の弟への憂いが含まれている気がして、
 ――今日は湖南契約が初めて施行される日だった!
 と今更ながら思い出した僕は、矢も楯もたまらず問うた。
「末吉に心配事があるんですか!」
 部活に遅れるのも辞さない僕の覚悟を、頼ってくれたのだと思う。翔子姉さんは、憂いと信頼が拮抗した面持ちで胸中を明かした。
「あの子は今日、慢心の病に罹ってしまうかもしれない。男の子特有の慢心は、姉の私には対処しづらいの。けど眠留がいれば、大事にはならないでしょうね」
 湖南契約において、末吉は後輩達の指導教官になる。それが慢心を招きやしないかと、翔子姉さんは心配していたのだ。慢心がもたらす巨大な弊害を経験済みだった僕は、多少無理してでも部活を休む決定をしかけた。しかし、
「六年の先輩が引退して半月、眠留がお世話になっている新忍道部は、新体制が安定したとはまだ言えないのよね。あなたは、あなたが成すべきことを全力でしなさい。部活も片手間、末吉も片手間、それだけはしてはダメよ」
 姉の眼差しでそう諭されると、反論を諦めねばならないのが僕の宿命。了解の意を告げ手早く紐を結び直し立ち上がったその頭を、頑張っておいでと撫でられたことだけは、年齢的にそろそろ勘弁して頂けませんかとやんわり反論できた僕だった。
 その日の夕方、輝夜さんの祖父母宅から帰宅した末吉に、慢心の気配は見られなかった。それ以降もそれは感じられず翔子姉さんからの相談もなく、また文化祭の準備が楽し過ぎた事もあり、末吉が慢心する危険性を僕はすっかり忘れてしまっていた。

 という一か月前の出来事を、
「「「キャ――、末吉お兄様ステキ――ッッ!!」」」
 ギンギン襲い来るテレパシーによって、僕はやっと思い出せたのである。名誉挽回を1とするなら翔子姉さんへの贖罪を100とする勢いで僕は感覚体の受信感度を最大に上げ、生垣の向こうの様子を探りにかかった。けれどもそれは失敗に終わった。末吉が十数匹の若猫に何かを語り掛けている気配を、朧気に感じただけだったのだ。ほどなく訓練は再開されるも猫達が別の場所へ移動したため、僕は結局なんの情報も得ることができなかった。だが、気落ちは絶対避けねばならない。末吉の件は僕の失態なのだから、陰のある表情をしておじいさんとおばあさんを不安がらせるなど、もっての外なのである。よって、
「お昼ご飯の用意ができましたよ」
 と嬉しくて堪らない声をテーブルから掛けてくれたおばあさんの下へ、僕は腹ペコ男子の顔になって飛んで行ったのだった。
 などと多少の演技をしていた時が、僕にもありました。
「ちょっと眠留くん、もう少し落ち着いて食べないと」
 おばあさんと輝夜さんが手ずから作ってくれたお昼ご飯を一心不乱に掻っ込み続ける僕に頬を緩めながらも、一心不乱がいささか度を越していると危ぶんだのだと思う。隣に座る輝夜さんが僕の背中をトントンと叩き、ペースを落とすよう促してきた。その手の優しさが、一か月半前にこのテーブルで感じたそれより家庭的なことに、いや潔く白状すると、より夫婦っぽいことに気づいた僕は、呼吸を忘れて硬直してしまった。
 それが、いけなかった。
 成長期に運動経験のある男性以外は想像し難いだろうが、僕ら体育会系腹ペコ男子にとって食事中の咀嚼と呼吸の重要度は、なんと咀嚼の方が高い。然るに食事中は酸素不足になりやすく、しかし咀嚼の方を体が無意識に優先させるので、呼吸を意識的に行い必要な酸素を確保しなければならなかった。毎週土曜の夕食会で鍛えられた僕はそれに慣れているつもりだったが、キャッチボールで普段使わない筋肉を酷使したのが災いした。普段と様相が若干異なる空腹に体は咀嚼の優先度を一段高め、その結果、いつもより重度の酸素不足に陥っていたのだ。輝夜さんが危ぶんだのはおそらくそれであり、よってペースダウンを促したのは適切だったのだけど、いかんせんその手が夫婦めおとすぎた。それは最優先事項の咀嚼を忘れさせるほど甘やかで、そんな僕の様子に輝夜さんも手に込めた自分の想いに気づき、二人で時を忘れて見つめ合ったため、
「ウッッ!」 
「眠留くんどうしたの!」
 ジタバタ
「だっ、大丈夫眠留くん!」
 ジタバタジタバタ
「おじいちゃん、眠留くんが大変!」
「あなた、眠留君はどうしたの!」
 てな感じに僕はなってしまったのである。
 幸い、元甲子園球児のおじいさんには、僕のジタバタが手に取るように判ったらしい。おじいさんは落ち着いた口調で、僕が酸素不足になり一生懸命呼吸しているだけなのだと二人に説明してくれた。その説明が終わるころには酸素不足も粗方収まり、胡坐をかけるまで回復していたから、
「おじいさんの仰るとおりです、お騒がせして失礼しました」
 途切れ途切れでも、そう謝罪することができた。
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