僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十章

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 舞踏会コスプレ店は、保健室の真上にある。しかも両者は中央階段に隣接しているため、油断してしまったらしい。僕は罰則が発生しないギリギリの速度で階段を駆け上ってゆく。しかし二階を視野に収めるや駆けるのを止め、階段をゆっくり上って行った。ギャラリーとおぼしき数十人の女子生徒が、コスプレ店に詰めかけていたからだ。
 幸い僕らはこの状況を予想し、ギャラリーが騒ぎ始めたら相殺音壁を展開してもらうよう教育AIに頼んでいた。それが功を奏し、廊下の喧騒にお客様が迷惑している気配はないと言える。けど、と僕は自分に問いかけた。キャーキャー声を消しさえすれば、それで良いのかな? 視線の集中砲火を気にするお客様用に、蜃気楼壁も展開すべきなのかな? う~んでも、ギャラリーの女の子たちがお祭りを盛り上げているのは事実だし、それに恋バナが大好きなあの子たちの気持ちを無下にするのも、可哀そうなんだよなあ・・・
 なんて具合に、さてどうしたものかと思案していた僕の肩を、
 ポンポン
 誰かが叩いた。そちらへ何気なく顔を向けたまま、僕は五秒間固まってしまった。化粧をした那須さんが、綺麗すぎたのである。
 研究学校は化粧を禁止していない。ただ、美容ファッション部のエースの白鳥さんがいつも素顔でいるように、化粧をしている女の子はあまりいないのが実情だった。僕のクラスメイトは特にその傾向が強く、去年の十組では喫茶店のウエイトレスや十二単のお姫様も含み化粧をした子を一度も見なかったし、それは今年も同じだったけど、目の前のこの子は、この子は・・・
「化粧、おかしい?」
 頬を朱に染め、那須さんが問いかけてきた。自分でも意味不明なのだけど、僕は腰を抜かす寸前になってしまった。那須さんの頬の朱色が、みるみる広がってゆく。ここでようやく、
 ――腰を抜かしている場合ではない!
 と気づいた僕は、化粧をした那須さんがどれほど綺麗なのかを力説した。那須さんは顔全体を真っ赤にするも力説を嬉しげに聴き、そして化粧をした経緯を明かしてくれた。
 那須さんは学期間休暇中、実家の経営する店舗で接客の修業をした。覚悟を決めたつもりだったがお店に着くと足の震えが止まらず、それを見た従業員達は、那須さんにメイクを施した。化粧品と健康食品のお店を任されているお姉さん達のメイク技術はさすがの一言に尽き、内側から光が差すようだったらしい。鏡に映る自分に那須さんは自然と笑顔になり、それは売り場に立ってからも続いた。そしてメイクを施されたお客様が、自分と同じように心を浮き立たせる様子を幾度も見た那須さんは、辞を低くして化粧の教えを請うた。お姉さん達は化粧の基礎を快く教えてくれて、基本的なことなら一人でもできるようになった四日目のお昼すぎ。突如お店に、香取さんがやって来たそうだ。顔を合わせるなり「だって夏菜がどんどん綺麗になっていくから」と本音を吐露した香取さんに、那須さんは笑いを堪え切れなかった。それは従業員の方々も同じで、社長令嬢の友人を秋の新作コスメのモデルに急遽抜擢し、メイクを施してくれた。香取さんの喜びようといったらなく、店舗レビューに大絶賛の文を直ちに掲載し、それが大反響を呼んだのは脱線なので次の機会にするとして、行動力に秀でた香取さんは翌五日目を那須さんと一緒に店舗で働いた。明るく社交的な香取さんはお店にすぐ馴染み、那須さんも友人と一緒に働けた五日目は一番楽しく、そして帰りのAICAの中で話し合った結果、文化祭で化粧をする案を提示することにした。女子専用掲示板に二人の実体験とメイク写真付きで上げられたその案はたちまち承認され、どうせならサプライズにしようという事になり、女の子たちは那須さんの指導のもと、メイク技術の基礎を学んで行った。それは年頃女子の励みになったらしく、那須さんは言葉を濁したが、最も忙しい時期に体力のない女の子が健康を保ち続けた主理由だと僕には感じられた。嬉しすぎた僕は那須さんの手を取りブンブン振ってしまい、そんな自分の行動に気づいて胡麻化し笑いをするのがいつもの事なのだけど、今回はそうならなかった。化粧の力なのかは定かでないが那須さんは歴代最高の笑みを零し、それに見とれて僕は二度目の硬直タイムに突入し、手を握られたまま顔を凝視された美少女の頬も二度目の朱に染まるといった感じの、青春映画の一場面のような状況になったのである。それは階段と廊下を結ぶ少し奥まった場所でなされ、また二年の大物カップルが多大な注目を浴びていた最中でもあったため誰の目にも触れなかったが、それでも自分達の状況に気づいた僕らは慌てて手を離し、何も言えず暫しモジモジしていた。丁度その時、大物カップルが写真撮影中に何かをしたらしく、ギャラリー女子達が一斉に上げた絶叫に、
「そうそう那須さん、お店に関して気づいたことがあってさ」
 僕はタイムリーな話題を思い出せた。舞踏会コスプレ店の事実上の最高責任者として仕事モードに素早く切り替えた那須さんを胸中称えつつ、気づきを説明した。
「今の絶叫のように、ギャラリーの女の子たちが少々度を越しちゃって、お客様を不快にするようなことは起きなかった?」
「うん、私達もお店を開いてすぐ同じことを危惧した。ゆいがアイに頼んで暫定措置を講じたけど、猫将軍君の意見を聴かせて」
 那須さんは2Dキーボードに十指を走らせ、お客様用の店舗メニューを出し僕に見せた。右下に小さく改訂版と書かれたその背景一欄には、「静けさを楽しめる場所」という新メニューが加えられていた。
「写真撮影時の背景に、白樺の森や湖の岸辺のような、静かな場所も加えてみたの。それを選んだお客様がいたら、相殺音壁を最強にして、ギャラリーの声が届かないようにしてってアイに頼んでいる。今のところ、まだいないけどね」
 僕なら迷わず選ぶのにまだいないことが不可解で那須さんの意見を訊いたところ、正解間違いなし的なものが帰って来た。
「さっきの大物カップルのように、文化祭開始と同時にこの店舗にやって来たカップル達は、大勢の注目を浴びることに日頃から慣れている人達だったの。この人達はギャラリーに囃し立てられなかったら、かえって物足りなく感じるんじゃないかって、接客していて私は思った・・・かな」
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