僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十一章

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 その後、予定を変更し、鋼さんと岬さんに渡り廊下へ足を運んでもらった。3D衣装を着たままのお二人が現れるや、悲鳴でも絶叫でも阿鼻叫喚でもない、名状しがたい声が渡り廊下にこだました。ただその中で一つだけ文字に変換可能な声があり、それは岬さんの同級生百人と新郎新婦写真を予約されている六年の先輩方が繰り返し口ずさんでいた、
 ―― おめでとう
 だった。その声には「おめでとう静香」や「おめでとう岬」や「おめでとうございます先輩」のような若干の差異があり、また感極まって途中から口籠ってしまう方々も多数いたが、それでも「おめでとう」の箇所だけは判を押したように、全員がはっきり発音していたのである。
 大勢の人達に共通していたことはもう一つあった。それは、鋼さんへの対応だった。卒業生のうち男子の方々は親指をグイッと立てる系の男っぽい挨拶を鋼さんと交わす一方で、女子の方々は鋼さんへ丁寧に腰を折っていたのだ。腰を折るのは六年生の先輩方にも共通していて、こちらに男女の違いはなかった。僕はこれに対し、特に卒業生の女子の方々に共通する仕草に対し、思い当たることが一つあった。一週間前の夜、僕は鋼さんとこんな電話をしていたのである。
「鋼さん、ライトグレーの燕尾服と海を臨む丘の背景の注文を、確かに承りました」
「うむ、当日はよろしくな」
「任せてください。あと岬さんに聞きましたが、鋼さんは御友人の付き添いを、お断りしたそうですね。岬さんの付き添いはかなりの人数になると予想されますが、大丈夫ですか?」
「狼嵐家に一人で嫁いでくる静香に、俺は無数の苦労をかけるはずだ。ならせめて湖校の文化祭には俺が一人で乗り込まないと、釣り合いが取れないからな」
 ハウスAIの普及により、嫁いびりは根絶したと言われている。だが狼嵐本家の次期当主に嫁ぐような場合、鋼さんがどれほど心を尽くそうと、岬さんの被るストレスや苦労をゼロにするのは不可能。岬さんは夫にも明かせぬ様々な想いを胸に秘め、嫁ぎ先で暮らしてゆかなければならぬのだ。ならばせめて湖校文化祭を一人で訪れ、未来の妻になる人と想いを共有しようとした。それが鋼さんの考える、夫婦の在り方だったのである。
 電話終了後、僕は鋼さんの決意をすぐさまメールにしたため、輝夜さんと昴に送った。二人はいたく心を動かされたらしく、鋼さんの心構えを褒めちぎっていた。時代は変わっても、夫の家族と同居する岬さんの境遇は、同性の二人にとって他人事では決してなかったのである。岬さんと青春を共にした薙刀部員と級友の女子は、尚更そうだったのだろう。それが今この瞬間の、渡り廊下の光景に繋がったのだと僕には思えてならなかった。卒業生の女子の方々が、鋼さんへ丁寧に腰を折っている理由だと思えてならなかった。かけがえのない青春を岬さんと駆け抜けたあの女性達は、腰を折りつつこう語り掛けているのだ。

  素晴らしい人に出会えて、
  静香は幸せです。静香を
  よろしくお願いします。

 鋼さんの翔人の後輩として僕はその女性達へ、深々と頭を下げたのだった。
 燕尾服姿の鋼さんとウエディングドレス姿の岬さんは渡り廊下を軽く一往復したのち、百人の卒業生と一緒に実技棟の一室へ消えていった。教育AIが皆さんの親睦の場として、実技棟で最も大きな部屋を確保していたのである。そこは二階の西側、つまり渡り廊下を挟んだ僕らの店舗のお隣さんだったため、超絶スーパーカップルはまだすぐそばにいると生徒達に感じさせたのだと思う。卒業生の方々と入れ違いにやって来た六年生達を、渡り廊下に集まった人々はハイテンションを保ったまま迎えていた。
 このハイテンションは、僕ら店舗スタッフにとってまこと有難い空気と言える。だがそれでも、六年生最初のお客様が感じているありがたさには、負けるはず。超絶スーパーカップルがいなくなるや場の温度が急降下し、閑散とした空気の中で新郎新婦にならねばならなかったとしたら、トラウマ級の出来事となったに違いないからね。それゆえ、
「真田さん、杠葉さん、ようこそお出でくださいました。ご案内します」
 僕は一点の曇りもない祝福の心でもって、お二人を出迎えることができたのだった。

 ここだけの話、鋼さんと岬さんの直後のお客になることへの不安を、僕は真田さんから幾度かお聞きしていた。インハイ決勝でサタンに勝利し3DGの殿堂入りを果たし、動画再生回数二千万回を誇る真田さんと、二つ名持ちの撫子部前部長として在校生女子の序列トップに君臨する杠葉さんという、六年生ナンバーワンのカップルと言えど、朝露の白薔薇の直後は荷が重すぎると真田さんは苦い表情で幾度か呟いたのだ。僕はあの時、平静を保つことができなかった。なぜなら真田さんがあれを吐露したのは、十中八九僕しかいなかったからだ。朝露の白薔薇の直後を担うのはお二人以外に考えられないとはいえ、杠葉さんがそれに不安を覚えないはずはない。よって真田さんは杠葉さんを安心させることに、全身全霊を費やしただろう。だが人は完璧ではなく、特に男の場合は親友にだけは不安を打ち明けた方が、恋人の前で頼りがいのある自分でいられるもの。したがって本来なら荒海さんがその役を務めるのが一番なのだけど、荒海さんは千家さんの心の傷を第一に考えねばならない立場にいる。つまり真田さんは荒海さんの前でも「俺は大丈夫」と演技したに違いなく、ならだれに打ち明けようかと周囲を見渡したとき、今回の出来事の張本人とも呼べる僕が目に入った。かくなる次第で僕如きが真田さんの弱音を聴くことになったのだけど、そこはさすが真田さんだったのだと思う。真田さんの気持ちも荒海さんの気持ちも千家さんの気持ちも、杠葉さんも鋼さんもそして岬さんの気持ちも分かる僕は、平静を保っていられず真田さんの前でオイオイ泣いた。大恩ある真田さんが助けを求めているにもかかわらず、励ますことも鼓舞することもできない役立たずの自分が情けなく、僕はオイオイ泣いたのである。
 すると真田さんも、目をしきりとこすり始めた。優しいにも程があるこの先輩に申し訳なさすぎ僕は泣き止もうとしたのだけど、真田さんは心の深部まで届くバリトンボイスで、ありがとなと言った。
「眠留は感動屋だから、その涙には、俺と琴乃の分も含まれているんだよな。そう思ったら釣られて涙が出てきて、そして釣られた涙であろうと、泣くという行為はストレスを軽減してくれるらしい。眠留、お前に相談して、正解だったぞ」
 ブワッッと滝のごとく溢れた僕の涙に、真田さんは律義に再び釣られてくれた。ただやはり真田さんの言葉どおり、泣くという行為にはストレスを軽減する力があるのだろう。数分後、真田さんは晴れ晴れとした顔で3D電話を切ったのだった。
 まあぶっちゃけると同じことがもう一度あって、更にぶっちゃけると真田さんにささやかながらも恩返しができた気がして、一緒にオイオイ泣くのが僕はハチャメチャ嬉しかったんだけどね。
 そんな感じで前置きが長くなったが、今現在。
「真田さん、杠葉さん、ようこそお出でくださいました。ご案内します」
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