僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十一章

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 それは、
 ―― 荒海さんが全面的に悪い
 だった。去年六月のインハイ埼玉予選を観戦した千家さんは、モンスターに挑む荒海さんの背中に恋をした。あの背中で安らぎたい、本来の自分に戻って人生をやり直したいと千家さんは願い、荒海さんも千家さんを湖校入学当初から気にかけていた事もあって、二人は恋を実らせ婚約に至った。その荒海さんが新たな人生に挑戦するなら、妻たる自分はその背中を全力で支えよう。千家さんがそう決意したのはこんな僕にも容易く想像できるのに、この人は一体全体何をしているのか。世界一大切な人の未来に不安要素が少しでもあるならそれを案じてしまうのは理解できるけど、人生を共に歩んでゆく夫婦は別格な気がする。「まったく荒海さんは覚悟が足らないですよ覚悟が」系の怒りを、僕も覚えていたのである。
 でもまあ実際のところ、二人は目茶苦茶ラブラブだから、痴話喧嘩をしたに過ぎないんだけどね。
 けどそんなふうに考えられるのは、やはり僕が荒海さんの後輩だからなのだろう。尊敬してやまない先輩が新たな人生に挑戦することを、尊敬を益々増す事柄としてのみ感じるのは、僕が四つも年下のお子様だからに違いないのだ。なぜなら荒海さんと六年間肩を並べて過ごしてきた真田さんは本人の弁によると、「焦りを覚えた」そうだからである。
 真田さんと荒海さんはどちらも海洋ロボットの技術者で専門も非常に近かった事から、卒業後も自分達は在学中とさほど変わらない付き合いをしていくと、真田さんは無意識に考えていたと言う。これは研究学校生にとって、奇異なことでは決してなかった。専門分野の近い友人は有力な人脈でもあるため、長い付き合いになる事例が非常に多いからだ。お二人の場合は新忍道という共通の趣味を持ち、奥さん同士も仲が良かった事もあって、互いの家を頻繁に訪れる未来を真田さんは想像していた。けどそれが崩れた。荒海さんは生活の場を四月から出雲に定め、そして出雲と東京は現代の交通システムをもってしても、行き来の容易な距離ではなかったのである。それに加え荒海さんは、新忍道の指導者になる未来をその手で拓いた。それは新忍道に青春を捧げた真田さんにとっても羨望の未来に相違なく、たとえ海洋ロボットの専門家として世界的な名声を得たとしても、人生の豊かさにおいて荒海さんに及ばない気が真田さんはしきりとしたそうだ。それが焦りとなって真田さんの心にのしかかった事を、未来の妻である杠葉さんは正確に感じ取った。杠葉さんは撫子部の先輩の伝手を頼り、今からでも真田さんに新制度が適用されるか否かを調べ始めた。荒海さんの場合は地元の有力者達が去年の暮れから活動していた事もあってあのような待遇を二月になっても得られたが、それの無い真田さんはやはり難しいと言うのが現実だったと言う。それでも諦めなかった杠葉さんに、思いがけない人が連絡してきた。新忍道本部代表の神崎さんが、自身の通う湾岸大学なら真田さんに新制度が適用されるはずと連絡してきたのだ。杠葉さんは喜ぶも、万が一にも真田さんを糠喜びさせてはならないと考え、まずは自分一人で湾岸大学を訪ねた。すると、連絡では聞いていなかった夫妻が神崎さんと共にいた。その夫妻は、京馬のご両親。そうお二人は夫婦揃って湾岸大学の準教授を務めており、種を明かすと真田さんが新制度の対象となるよう大学に働きかけてくれたのは、おじさんとおばさんだったのである。京馬を介して真田さんの実力と人柄を熟知していたお二人は、真田さんが望むなら湾岸大学は真田さんを新制度の対象者として迎え入れることを確約した。杠葉さんの喜びようといったらなく、しかし決して礼を失することなく振舞う杠葉さんへ、おじさんとおばさんは好感を抱いた。よって会話が弾み、杠葉さんに益々惚れこんだお二人は、杠葉さんも湾岸大学に来ないかと誘った。だが杠葉さんはそれを凛と断り、お二人が理由を尋ねたところ、こう返答したそうだ。
「未来の夫の人生を左右することですから、新制度について私はできるだけ調べました。そして自分なりに出した結論は、『七年分の勉強を四年で終わらせる覚悟が必要』でした。私は妻として、夫の四年間を全力で支えるつもりです」
 感受性の豊かなおばさんは杠葉さんの決意に涙腺を決壊させ言葉を紡げなくなったので、杠葉さんの見立てが正しい事を、おじさんは順を追って説明した。
「理系の学生は実験データを揃えねばならず、学校に泊まることが多い。加えて教育学部の学生は学校や関連施設へ赴き、教育実習を長期間受けねばならない。それを踏まえて四年間のスケジュールを組まないと、教育学と海洋ロボット学のどちらも共倒れになる可能性がある。準教授としてスケジュールの一例を挙げるなら、最初の二年で海洋ロボット学の学士資格を得るのはもちろん、修士課程の三分の一を終わらせた方が良い。教育学の方は最初の二年で、学士過程の半分を終らせるのが無難だろう。それだけやっても、後半二年の気を抜くことはできない。その上更に、新忍道本部の選手としても活動するなら、『長期休暇はおろか盆も正月もない四年間が真田君には待っている』と、私は忠告するしかない」
 息を呑む杠葉さんへ、神崎さんが新忍道本部の代表として意見を述べた。
「インハイ決勝時の真田の実力をもってしても、本部チームの準レギュラーが上限でしょう。二時間の練習に週三回参加して、現状維持がやっと。レギュラーを目指すなら、少なくとも週四日は練習に参加する必要がある。これが私の見解です」
 夫婦に嘘があってはならないと信じる杠葉さんが真田さんへ正直に打ち明けたところによると、提示された四年間は、杠葉さんが思い描いていた新婚生活とはかけ離れていたと言う。在学中にプロとして働き始めた研究学校生同士が結婚した場合、時間に余裕のある新婚生活を送るのが常だったからだ。その甘い生活へ、憧れがないと言えば嘘になる。真田さんは金銭的にもとても余裕があり、お互い湖校在学中は部活に打ち込む日々を送っていたから、新婚と呼ばれる最初の一年は国内外を積極的に旅行してみるのもいいかなと杠葉さんは考えていたのだ。けどそれらのほぼ全てを諦めねばならないと、杠葉さんは突き付けられたのである。だがそれでも、たとえほぼ全てを諦めようと、最も大切にしていることがその四年間にはあった。それは、一心に努力する真田さんに杠葉さんは恋をした、ということだった。
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