僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十二章

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 そう、この姉想いの弟が今日幾度も涙ぐんでいた理由はそれであり、またそれは、僕がついさっき気づいた可能性でもあったのだ。
 心の成長度が同世代平均を遥かに凌ぐ渚さんにとって、ありのままの自分で付き合える友人は、貴重だった可能性が極めて高い。いやそれどころか、渚さんは長野の研究学校を見学して初めて、真の友人に囲まれた学校生活を思い描けたのかもしれないのである。真の友人に囲まれた学校生活をまさしく過ごしている僕にとって、それは颯太同様、おいそれと口にできる事ではなかったのだ。が、
「でもあの時の姉ちゃんの気持ちを、子供過ぎた僕は分かってあげられなかったのです」
 颯太はそれを超えた。身をよじり心を絞り尽くし、心の奥深くに封印していた想いを、颯太は言葉にしたのである。
 一方僕は、体をポカポカ温めてくれる湯船に感謝していた。人は想いの丈を絞り尽くすとき、生理現象として指先の温度が下がる。それが寒気をもよおし、体に震えが走るものなのだけど、隣にいる颯太にその気配はない。未来の颯太が今この瞬間を回想するとき、記憶の中にいる自分は震えていないのだ。それは、湯船のお陰。体中ポカポカだから、震えが走らないんだね。その記憶を更に良いものにすべく、僕はお湯から手を出し、颯太の頭を撫でながら言った。
「赤ちゃんの頃から温泉に親しんでいた颯太はまだ余裕があるみたいだけど、僕はそろそろのぼせそうなんだよね。なあ颯太、続きは僕の部屋で、枕を並べてしないか?」
 打ちひしがれ、鼻がお湯に付く寸前になっていた豆柴が、頭をパッと上げた。瞳を爛々と輝かせ尻尾をブンブン振るこの豆柴とじゃれ合いたくなり、それを実行してみる。
「もちろん当初の予定どおり、渚さんと同じ部屋で寝たいなら、無理にとは言わないけどさ」
「眠留さんは、これを浴びてください!」
 その宣言と同時に、大量のお湯が僕の顔を直撃した。避けるのは容易でも、ここは黙って浴びておくのがお約束。なぜならその方が、
「オラア颯太、よくもやったな!」
 こうして自然にバトルできるからね。僕と颯太は技を駆使してお湯を掛け合い、そして美夜さんに目出度く叱られた事をもって、お風呂を終えたのだった。

 小離れから布団を持って来てもらうのは、颯太に任せた。渚さんが泊まる準備を既に終えている部屋に入るなど、もっての外なのである。
 とはいうものの、風呂を終えたらある報告が成されるであろうことを僕らは予想していた。それは見事当たり、
「お兄ちゃん、颯太君。渚さんは、私の部屋に泊まる事になったからね」
 美鈴がそう、嬉々として伝えて来たのだ。「姉ちゃんをよろしくお願いします」 そう言って深々と腰を折った颯太の頭を、弟を見つめる眼差しで美鈴は撫でていた。
 今の時刻は午後八時。明日は魔想討伐の日なので、うかうかしてはいられない。その気持ちが伝わったのか、颯太は手早く敷いた布団に潜り込むなり話を再開した。
「長野の研究学校を見学した日から五カ月経った、翌年二月。僕は衝撃の事実を知りました。姉ちゃんが、研究学校入学を事前辞退していたのです」
 その件については渚さんに教えてもらっていたけど、姉想いの颯太の口から語られるその日の小笠原家の様子は、涙無くして聴くことなど不可能だった。しかも、
「美鈴さんが僕の立場だったら、眠留さんは間違いなく姉ちゃんと同じ選択をしたんだって分かったら、気持ちが少し軽くなりました」
 などと、この豆柴は容赦ない追撃を放ってきたのである。そんなの百も承知だと迎撃しようにも、僕と美鈴が小笠原姉弟の立場だった世界で美鈴が誰かにそう明かしている光景を想像してしまった僕は、この局面における敗北を認めざるを得なかった。信州豆柴、強敵なり!
 そんな僕とは対照的に、颯太は柔らかな声音で言葉を紡いでゆく。
「姉ちゃんが研究学校入学を事前辞退していたと知るまでの四カ月間、僕は姉弟そろって松本研究学校に行くことになるのだと暢気に考えていました。その愚かさを許せなかった僕は、姉ちゃんのために何ができるかを、死にもの狂いで考えました」
 颯太はまさしく、死にもの狂いだったのだろう。なんと小学三年生にして、
 ―― 僕がとことん成長するしかない
 との正解に、辿り着いたのである。「あの日から僕の新たな人生が始まりました」 感慨深げにそう呟き、颯太は緊張した気配をまとった。湖校新忍道部の切り込み隊長を拝命している身として、ここで傍観はあり得ない。僕はいちの太刀を振るった。
「颯太は何をしたんだい?」
 そう、誰でも思い付くこの問いこそが、現時点における最良の一太刀。僕の勝負勘は、ここで凝った質問をするのは悪手であることを確信していた。譬えるなら、絶品の大根おろしが用意されている場に、具沢山の炊き込みご飯を持参するようなものだろうか。それはそれで美味しいかもしれないけど、大根おろしのシンプルかつ奥深い味を堪能するなら、白米が一番なのである。僕のその読みは正しかったらしく、颯太は緊張を解き、開けっぴろげに答えた。
「はい、目の前のことを一生懸命しました」
 ―― こりゃ北斗級の傑物だ
 心の中で最高の賛辞を贈りつつ、僕は強敵へ二の太刀を振るう。
「うん、僕もそれに同意するよ。理由は二つあってね。一つは、当たり前のことほど奥が深く、その奥深さに気づけないから。そしてもう一つは、僕らが成長できる最高の環境を、大いなる存在は整えてくれていると思うからだね」
 その途端、豆柴は布団を蹴飛ばす勢いで上体を起こし、布団の上に正座した。いや「蹴飛ばす」の箇所は事実に反し、目にも止まらぬ速さで動きながらも、颯太は掛け布団を丁寧に畳んでのけたのだ。その技量に、颯太の過ごした三年間をしかと観た僕も、身を起こし正座する。ここでようやく颯太は自分がしたことに気づき、考え無しの自分のせいで先輩に正座させてしまった失態を詫びたが、それは先輩を更にほっこりさせるだけなのだと、この豆柴はいつ気づくのだろう。僕も失態をして先輩方へ詫びたとき、先輩方は胸のほっこりさをそのまま表に出したような、温かな笑顔を浮かべていた。それと同種の笑顔を今僕も浮かべていて、そして未来の颯太も、後輩へ同じ笑みを零す日が来るに違いないのである。それを思うと僕は更にニコニコしてしまい、そんな僕に豆柴は途惑い始め、ああこれが年上女性に可愛がられる要素なのかと納得してから、僕は先の二つについて説明した。
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