六畳半のフランケン

乙太郎

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つまるところボクら排他的社会人

過去の所在は人ありき その4

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「こちら、鴨肉のコンフィになります。」

介助を受ける咲希さんの一皿を除いて
まっさらなオードブルが下げられ、
フルコースのメインがテーブルに並ぶ。

「鴨肉ですか。コミューンに移転して
食べる機会が増えましたが
プロの手にかかるとここまで華やかに
仕上がるものなのですね………」

彼女の口元へ運ぶフォークを一度前に起き、
目の前の一品に感心してみせる和善さん。

コンフィ。
フランス料理の一種だというが
低温の油で調理する煮込み料理だとか。

ふと、食器がナイフと触れ合う音が鳴りはじめる。
見れば、おもむろにカトラリーを扱ってみせるユリネ。
口を挟む余地もないほど正確なテーブルマナー。
あんなもの、一体いつの間に学んだというのだろうか。

つられて再開するディナータイム。
前菜が届いてからというもの、まともに
本題に切り込めないままに会合は進行している。


「ボクなんかの手料理よりよっぽど美味しいだろう?ユリネ。」
「ですが、そう一様に家庭料理と比べるものでも
ないと思い、ます。」

同調するような肯定ではない。
配慮するような否定でもない。
彼女は実直だ。実直になった。
凛々しくも純朴な有り様を身につけた。

「ほう、素晴らしいじゃないか、聡くん。
料理を嗜むということは、
命の恵みに対して理解を深めるということだ。
与えられる食材に対しても
享受する我々においても同様にだよ。」

そう言いながら妻の口元に鴨肉を運ぶ夫。
どう、違いがわかるかな。と優しく語りかける。


知っている。
あの情景を、ボク、蒼ヶ峰聡は知っている。
何処を見ているかも分からない瞳に
温もりが灯ることを信じて、ただそれだけのために
必要だと思って身につけたまでの教養だ。
そんな、大それた思慮など何処にも有りはしない。

「私は家事に於いてはてんでからっきしでね。
あちらでは分業制だから周囲に助けられてばかりなんだ。」

切り分けた鴨肉を自らの口に運ぶ。
………なるほど。
低温ってのは旨みを逃がさないがための調理で
鴨肉をパサっとさせずに口の中で芳醇な風味で満たしていくのが
素人舌でもはっきりと感じ取れる。


「知っての通り私たちは協会に帰化している身でね。
こちらのレストランは我々に理解のある方が
経営しているお店なんだよ。」

咀嚼する。

「ーーー、心が決まったよ。
聡くんは、今の百合音に相応しい思慮深い伴侶だとも。」

咀嚼する。

「如何だろう。
少し気の早い話かもしれないが、
この場所で内縁者のみの結婚式を挙げるというのは。」

嚥下する。

「和善さん。」

ナイフとフォークを置き、姿勢を正す。

「娘さんを、オレにください。」

ユリネがピタリと手を止める。
静寂。静寂には違いない。
だが僕にとってはコレが始まりに過ぎないのだ。

「うん。祝福する。
では、両家の顔合わせの日取りも、ーーー」
「式は、挙げません。」

再びの静寂。
でも、止まれない。止められない。
切り出してしまったら仕切り直せるほど、
蒼ヶ峰聡は器用な男じゃない。

「………不服かね。
私たちが、得体の知れない新興宗教に
のめり込んでいるから?」
「違うんです。
オレは今、和善さんの許しを頂いて
正式に誘拐犯から百合音とお付き合いさせて
もらっている彼氏になれました。」

渇ききって余韻も残っていない口内に
唯一残留するわだかまりすら嚥下する。

「でも、娘さんと駆け落ちまがいの放浪をしました。
その事実は変わらない。」

愛想の良い寛容な紳士。
和善さんの笑みを讃えた表情がほんの少し
曇った。

「話が見えないな。
そこに関しては赦すと今さっき伝えたはずなんだが。」

「世間一般で言うところのイメージですけど。
結婚式って。セレモニーって。
祝福されて。宣言して。
男女2人がスタートを切るってことですよね。」

黙したままで視線を送られる。
それを臆せずに見つめ返すから。
今隣の席で、ユリネがどんな表情をしているか。
どんな感情で聞き入っているか。
確認することは、叶わない。

「今、此処では出来ないんです。
和善さんと咲希さんが宗教観を持っている様に、
続く筈のない逃避行の果てに流れ着いた、
暖かく迎え入れてくれた宙羽ヶ丘。
あの場所に運命的な意味があると感じているから。
認められたって、やり直せたって。
僕はあのアパートで整備工として
手に入った日常を育んでいたいんです。」

らしくないと自分に霹靂するほど
息をつかずにすらすらと述べてみせた。
多分和善さんの言ったことは提案で
それも今の僕らの立場に最大限寄り添った好条件だったはずだ。
まず幸せを築いていくなら。
彼の並べた祝福はそれを固める真っ当なプロセス。
聞き及ぶようなありきたりな言祝ぎことほぎだって
一生涯を見据えた形を持たない未来にとっては
なぞらえていく上で最大限の意味合いを成す。


でも、今は。
砂の一粒のように積み上がった今は。
巡り会えたかも分からない運命の元に
手のひらの内で収められた宝物だから。


静寂のなかで。
しかしながらたゆたむ事なく時間が流れていく。
数秒か。数分か。それとも半刻に及ぶだろうか。
それでもこの空間に停滞がないのは
和善さんの計り知れぬ思案が
レストランの個室の中で巡り続けているからだ。


「ーーー、なるほど。
それが君がこの会合に持ち寄った最終回答というわけだね。」

ひとつため息をつく紳士。

「確かに百合音と聡くんからすれば
私にとって虫の良すぎる提案だったかもしれないな。」
「いえ。僕の言ったことはおこがましい願いだと思います。
ご両親の前で確かに幸せを誓ってみせるのが
彼女の彼氏として出来る唯一の筋通しなのに。」
「いいや。君は確かに私の娘の伴侶だよ、蒼ヶ峰聡君。」

そう言って軽く笑って見せた。

「現に君は私に面と向かってその決意を
誓ってみせたわけなんだからな。
根負けしたよ。娘を、百合音をどうか宜しく頼む。」

腿に手を置いて頭を下げる和善さん。
これほどの礼節を備えた紳士に
とうとうただの浮浪者が一才の主張を貫き通してしまった。
あとを追うように席を立って深々と礼をする。

「はい。まだまだ未熟者ですが
一生涯を捧げて務め上げてみせます。
式を身辺が落ち着いたら必ず。」
「ははは、その時は私たちにも一報入れてくれよな。
………さあ、ここはもう祝いの席だ。
料理が新鮮な内に食べてしまおうじゃないか。」

再びテーブルの上で食器が踊り出す。
黙々と食べる百合音。
相変わらず前を見据えている咲希さん。


時は移り、メインディッシュを食べ終え
デザートを今か今かと待つひと時。

「そうだ。咲希。
百合音がな、あの百合音がだ。
とうとう花嫁になったんだぞ。
白無垢かウエディングドレスか
晴れ姿はもう少し後になるだろうが。
確かに私たちの手を離れ、
一人前に人様の元に嫁いでいったんだ。」

席を立ち、咲希さんの車椅子を押し
向かいに座るユリネの前へ進んでいく。

「どうだ、分かるか?
百合音だ。もう会えないかと思っていた
私たちの可愛い愛娘だ。」

テーブルから姿勢を変え実母の前に向き直す彼女。

当然、彼女の記憶はない。
彼女は母親への思いを向け方を知らない。
それは、不幸続きで心を壊してしまった
母である咲希さんも同じ。


ーーー、かに思えた。


「百合、音?」

初めて咲希さんがボソリと呟く。

「………え?」

突然のことに声色を崩す和善さん。

「百合、音………なの?」
「そ、そうだ…分かるか?咲希。
百合音だ。百合音がいるんだよ。
そう………そうなんだよ。
娘が………百合音が……」


今日初めて和善さんは
震える声を隠そうともせず目に涙を浮かべ
溢れる感情を受け止めきれず膝をついて泣き崩れたのだった。
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