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序章
序章
しおりを挟む「じゃあ、行ってきます……」
「行ってらっしゃい、結麻さん」
伊吹さんは私の腰を優しく抱き寄せて、軽やかなリップ音を私の唇に落とした――。
次の住処が決まるまでの、ほんの一時的な同居なだけだったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……。
ことの始まりは、こうだった――
「失業、ですか」と、困った声で私の言葉を復唱したのは、行きつけのカフェ『infinity(インフィニティ)』のマスターだ。
「はい、来月から……」
「それは……困りますね」
「はい……」
1年前のある疲れた日の夜に見つけた、家の近くの小さなカフェ。
お店の落ち着いた雰囲気と優しく温かいマスターの人柄に惚れ込んで、私はほぼ毎夜このカフェを訪れるようになっていた。
マスターはとても聞き上手だ。
私の他愛のない会話に付き合ってくれるし、ちょっとした悩み相談をしたらとても的確なアドバイスをくれたり、落ち込んでいたら優しい言葉で慰めてくれたり……。
私の心には、もうこのカフェはなくてはならない存在になっていた。
今日も、私があまりにも暗い顔をしていたから「何かあったんですか?」って声を掛けてくれて。
それでつい、今日の会社での出来事を話してしまったのだ。
「それに……」
カフェオレの入ったカップを両手で包み込んで、まだ少し冷えている手を温める。
季節は、秋。
夜はぐっと冷え込むようになってきた。
「住んでるアパートも、来月取り壊しが決まって……」
「……えっ、じゃあ、住むところも……」
「はい、無くなっちゃいます……」
はぁ、と思わずため息を吐いてしまった。
お店のカウンター席で重苦しい雰囲気を前面に押し出してしまって、マスターには本当に申し訳ないと思う。
私は淹れていただいたコーヒーをコクリと飲み、心を落ち着けた。
……大丈夫。
うん、きっと大丈夫、なんとかなる。
今までだっていろんな事があったけど、全部なんとかなって来た。仕事だって、住むところだって、贅沢を言わなければきっとなんとかなる。
……だけど、目の前に迫っている“無職・家無し”の生活を思うと、いやでも気持ちが落ち込んだ。
――なぜ仕事も住む場所も一度に無くすことになったかと言うと……。
私は大学在学中からアルバイトをしていた小さな印刷会社に卒業後もそのまま就職させてもらって、電話対応からお客様との打ち合わせ、印刷物の梱包や発送、場合によっては納品……と、日々忙しく働かせてもらっていた。
ところが、このところの不景気と、他の印刷所との競争などなどが重なって、年老いた社長は倒産をする前に会社をたたむ決断をしたのだ。
確かに突然倒産してしまえば紙やインクを卸してくれている会社に迷惑がかかるし、仕事を依頼してくれているお客様にだって迷惑がかかる。
廃業であれば、従業員も次の職探しまで少し猶予が貰える。
お世話になった会社が無くなってしまうのは本当に寂しいけれど、もう決まったことだ。
次の仕事を探そうと、私はなんとか気持ちを切り替えた。
――しかし世の中というのは、本当に思う通りにならないものだ……。
アパートの大家さんが突然私の部屋を尋ねて来て、こう言った。
「あのね、本当に申し訳ないんだけど、このアパート、老朽化しすぎてるから、来月で取り壊すことにきめたんだよ。悪いね。次住むところ、早めに決めてね」
ああ、なんと軽い言い渡しだろうか……、大家さん……。
便利な都心にある割には、建物が古すぎると言う理由からとても安いお家賃ですごく助かっていたのに、取り壊しだなんて。
あまりにも酷……。
――かくして、私は、無職・家無し、となった……。
……と、そんなわけで、どんよりとした空気を纏った状態でコーヒーを啜っているのだ。
どうしても漏れ出そうになるため息をなんとかコーヒーと共に飲み込んで、ゆらゆらと揺れるカップの中の液体をじっと見つめながら、私は重い口を開いた。
「しばらく……来られないかも知れません」
私の言葉に、「そうですよね……」とマスターが呟いた。
今月分のお給料はいただけるとしても、来月からは完全に無収入になるし、引っ越し代だって必要になる。
人間は飲まず食わずで生きていくことは出来ないから、どうしたってお金は減る一方になるわけで……。
この先、運良く再就職先が見つかって、引っ越し先も見つかったとしても、ここから遠く離れた場所だったらもうこのカフェに通うことは出来なくなる。
私はそっとため息を吐いて、視線を窓際へと移した。
私の視線の先には、ひとりの男性が優雅な仕草でコーヒーカップを傾けている。
彼はいつも窓際の席に座り、窓の外を眺めながらコーヒーを飲んでいた。
私は……実はその名前も知らない男性に一目惚れをして、密かに想いを寄せていて……。
こうやってこっそり彼を見つめるのもこれが最後になるかも知れないんだな、と思うと、とても残念な気持ちになる。
仕方がない、もともと私とあの人とは交わることの無い人生だったのだ。
そう思って諦めよう。
「僕の知り合いに、何か仕事の口がないか聞いてみましょうか?」
マスターの声に、ハッと顔を上げる。
とってもありがたい申し出だけど、私は首を左右に振った。
「ありがとうございます、でも、大丈夫です。自分でなんとかします」
「ですが、不景気ですし、ほぼ同時に住むところもなくなるとなると……」
確かに、マスターの言う通りなんだけど……。
でも仕事は自分で探さなきゃいけない。
もし万が一、紹介して頂いた先で私があまりにも使い物にならなかったら、先方にもマスターにも迷惑がかかるわけだし。
「確約は出来ませんけど、人材を探していそうなひとを一人、知っています。一度あたってみます」
「いえ、マスターにも、その方にも、ご迷惑をおかけするわけには、」
「大丈夫です、聞いてみるだけです。それに僕は迷惑じゃないから本当に大丈夫ですよ」
そう押し切られて、結局私の携帯の連絡先を教えることになった。良い返事をいただければ、マスターから私に連絡してくれるらしい。
もちろん、自分でもちゃんと探そうと思っている。でも、マスターの厚意も本当に、本当に嬉しい。
私は丁重にお礼を言って、カフェを後にした――。
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