嘘は溺愛のはじまり

海棠桔梗

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貴方のいない部屋で

5.

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『結麻さん』

 ……あぁ。
 伊吹さんの声、だ……。

 機械を通して、一番聞きたくて、最も心地良くて、このままずっと聞いていたい声が、私の鼓膜を振るわせる。
 この小さくて四角くて薄っぺらな機械がこんなにも素晴らしいものなのだと、いま初めて知った気がする。

『いま、家? 少し話しても大丈夫ですか?』
「はい、大丈夫です」

 どう考えたって、きっとあちらの取引先との会議とか会食とかで、伊吹さんの方が忙しいはずだ。
 それでも私の都合を聞いてくれるのはあまりにも伊吹さんらしい。

『とくに用事があるわけじゃないんだけど、どうしても結麻さんの声が聞きたくなって……』

 私の気も知らないで、とんでもない爆弾発言をしてくれる人だ。
 ずるい。
 そんな言葉、まるで本物の恋人同士みたいですよ、伊吹さん……。

『声、聞きたいから、なにか話して』
「ええ? そう言われても、あの……」
『……こっちに結麻さんを連れて行きたかったです』

 今回の出張は社長と共に赴いている。
 つまり、かなり重要な案件だと言うことだ。
 社長と伊吹さんの秘書もそれぞれ同行しているから、どう考えたって私なんかが出る幕では無い。

『お土産、買って帰るね』
「あの、それはどうか、お気になさらず、」
『うん、俺が買いたいだけ』
「……っ」

 スマホと言うデジタル機器の発明は、本当に偉大だ。クスクスと耳元で伊吹さんが笑っている。
 機械を通しているからいつもと同じ声ではないけど、それでもこうやって、普段は冷たいだけの小さな機械が、大好きな人の声を耳元に届けてくれる。

『……ひとりで、寂しくない?』

 なんて酷いことを聞く人なんだろう。
 寂しいに決まってるけど、そう答えられる立場にない私は、嘘をつかなければならない。

「えっと、部屋が、広く感じます……」
『……部屋?』
「もともと広かったけど、更に……?」

 ほんの少し酔っているせいか、上手く嘘がつけている気がしない。

『うん……なるほど。早く帰るね』
「え? えっと……」
『結麻さん』
「は、い」
『俺は、寂しい』
「……っ」

 どこまでも罪な伊吹さんは、あっさりと爆弾のスイッチを押して、私の心を爆発させた。

 勘違い、してしまう。
 そんな風に、恋人に囁く睦言みたいなこと、言わないで欲しい。
 私のことはきっと、何とも思ってないのに……。

 ……ああ、電話で、良かった。
 ビデオ通話だったら、少し酔ってたり、赤くなったり、泣いたりしたのがばれてしまう。

『ごめん、もう少し話していたいけど、このあと会食があって、そろそろ行かなきゃいけない』
「あ、はい。大事なお仕事ですから」
『少しだけでも結麻さんの声が聞けて良かった。じゃあ……おやすみ』
「お、おやすみなさい」

 素敵な時間ほど、終わりはあっけない。

 耳に当てたままの小さな機械が、しあわせの終わりを告げた。
 伊吹さんはきっと忙しいスケジュールの合間にかけてきてくれたんだろうと思うと、嬉しくなる。

 でも……。

 そんな貴重な時間を、私に割いて良いのかな?
 あの花屋の女性には、電話しないの?
 それとも、彼女には先に電話をした?

 どう考えたって、私は優先される立場にない。
 だからきっと、彼女とはもう話をしたんだろう。

 だとしたら伊吹さんが私に電話をしたのは、“飼い犬がちゃんと生きてるかどうか心配”とか、そんな感じの理由だろうか?
 伊吹さんの心理はよく分からないけど。

 優しくて、暖かくて、でも少し残酷なひと――。


 今日もあなたを想って、一日が終わる――。
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