川と海をまたにかけて

桜乃海月

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川と海をまたにかけて

第四話

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 水の精霊王に逢う前日。
「ねぇお母さん、私のお父さんってどんな人?」
 親子で過ごす最後の夜。二人は並んで寝床についていた。今まで二人の話題に出なかった父のことを、ついに話す時がきたかとコモチは起き上がった。
「あなたのお父さんは、素敵な人だったわよ。川の中をじっと見つめる瞳がかっこよかった」
「川を見つめるって、私と同じように川の外にお父さんは出れたのね」
 琴音は自分が水の外で自由に行動できる理由を知り、興奮気味に声を出しながら起き上がる。コモチは琴音を見つめ首を横に振った。
「ううん、川の外に出られたんじゃなくて、元々川の外の住人だったの」
 母の告白に琴音は理解が追いつかない。
「琴音、今まで黙っていてごめんなさい。あなたは、人間と精霊の間に生まれた子なの。お父さんも遠くに行くことになって、お母さんは追いかけなかった。だから、どこにいるのかも知らない。でも、あなたはお母さんの子だから。それだけは忘れないで」
 人間と精霊の子なんて聞いたことがなかった。水から上がって自分のように人間の姿になる精霊を見たことがなかったのはこういうことなのか。琴音は今まで自分だけ違っていた理由に納得がいく。
「お母さん、ありがとう。別にお父さんと会いたいとかじゃないから。自分のこともう少し知っていたいなって思っただけなの。もう一つ聞いてもいい?」
「今しか答えられないかもしれないから、なんでも聞きなさい」
「私の名前はどうやってつけたの? 私がこの先変わらずに持っていけるのは名前だけだから聞いておきたくて」
「人間の世界にある琴という美しい音を出す楽器があるらしいの。琴の音で琴音。その時一緒に暮らしていたお友だちがつけてくれたの。人間の世界にあるものの名をつけた時から、あなたが人間の世界に惹かれるのは決まっていたのかもしれないわね」
 母の優しい声を聞きながら、琴音は寝転がる。
「そのお友だちはどうしたの?」
「その子もここに流れ着いてきただけだったから、元の居場所に帰ってしまったわ。琴音が生まれて、しばらくの間は一緒にいたのよ」
「そうなんだ。全然覚えてない。また会ってみたいな」
 どんどん瞼が重くなってくる琴音のお腹を、コモチはとんとんと子どもにするように優しく叩く。
「会えるわよ」
 呟いた後に聞こえてきた琴音の寝息にコモチは頬を緩め、おでこにキスをした。

 翌朝、コモチと琴音は川と海の水が混じり合うところまで下り、豊かな髪をなびかせる上品で威厳がある水の精霊の女王と向き合った。
「ご足労いただきありがとうございます」
 話しで聞いたことがあるだけのすごい人が本当に来るなんてと驚きながら、深々と頭を下げるコモチにならい琴音も頭を下げる。
 頭を下げながら、お母さんと女王の関係ってなんなの? 昨夜聞いておけばよかったと後悔をする琴音に女王が声をかけた。
「それで、琴音はどうして海に出たいの?」
 自分の名前を呼ばれたことで頭を上げ、女王にも自分にも正直に琴音は答えた。
「会いに行きたい人間の男の子がいるのです。絶対に海に行くと、幼い頃に約束しました」
 その言葉に女王は大きくため息を吐く。
「あなたも人間に恋したのね。でも、人間の男の子はもう忘れているかもしれない。海水に住める体になれば、もう川の水は体に合わなくなる」
 諦めなさいといわんばかりの声で女王は言葉を紡ぐ。
「それでも、私はもう一度男の子に会いたい」
 意志の強いはっきりとした声で琴音は訴えた。
「会ってどうするの? どちらにしろ住む世界が違うわ」
「私、半分は人間なんです。人間として暮らすことだってできるはずだって思うんです」
「男の子はあなたを受け入れないかもしれない。それでも、人になりたいの?」
 勢いよく返答していた琴音が言葉を詰まらせ、一つ大きく呼吸をしてゆっくりと大きく頷く。
「はい。例え受け入れられなくても、私は人として世界を見てみたい」
 ちょっとやそっとの言葉では琴音の意志は変わらないと察した女王は、淡々と言葉をならべだす。
「人になれば、こちらの世界には戻ってこれない。簡単に行き来ができるほど曖昧な境界線じゃないの。甘い世界ではない。最初はよくても、ずっと男と仲良くできるとは限らない。人の心は移りゆくもの。その人に捨てられれば帰る場所はないわ」
「どうなるかはわかりません。でも、この選択の責任は自分でちゃんと取ります」
 琴音の表情に迷いなどなかった。
 女王は琴音に近寄り手を取って顔をまっすぐ見つめる。
「もう聞いてはいると思うけれど、陸に上がればもうこちらの世界と関われない。お母さんも例外ではないわ。本当にいいのね?」
 初めて逢った女王とは思えない程気遣いがある優しい口ぶりで女王はいった。
「はい」
 しっかりと目を見て頷き、優しい手を握り返した琴音。女王が優しく笑う。琴音はその顔を見てなつかしさに襲われた。
「あの、どこかで……」
「そこまでの覚悟があるならば、海に出られる体にしよう。そして、約束を男が忘れていても一週間以内に思い出せば、人間になれると約束しましょう」
 琴音の言葉を遮り、女王はいう。
 そして女王は耳に揺れるピアスに触れ、軽く手を上げたまま目を閉じた。その手の間に光と泡が集まっていく。大きくなったそれは、琴音に向かい包み込んだ。
 光と泡の中で琴音の足は魚のヒレに変わり、顔つきもどこか大人びて美しく変化した。
「さあ、これで海の中ならどこへでも行けるわ」
 自分の姿が変わったことに驚きながら、今までと勝手が違う泳ぎ方に慣れようと、琴音はゆっくりと海に向かって泳ぎだす。
「琴音」
 コモチの声に振り返ると、その顔は痛みに耐え苦痛に歪んでいる。慌てて近寄った琴音はコモチを海水の薄いところへと押した。
 すると今度は痛みはないものの琴音の息がしづらくなって、本当に川の中には戻れないのかと琴音は実感する。
「お母さん。ここまでで大丈夫よ。今まで本当にありがとう。私お母さんの子どもでよかった。私がお母さんに触れることも見ることもできなくなっても、ここに逢いにくるからね」
 苦しいながらも精一杯の感謝を込めて琴音はひと言ひと言大事に口にする。
「琴音、元気でね。あなたが人間になっても変わらずにお母さんの子よ。お母さんはずっと、会えなくても琴音のことを愛しているからね」
 最後にぎゅっと琴音を抱きしめたコモチは笑顔で手を振り琴音を海へと送り出した。

 琴音はどんどんどんどん沖合に向かって泳ぎ、その間振り返ることをしなかった。
 母との別れは寂しく、知らない世界に飛び出すことに不安がないわけではない。それでも、漱を探す旅にでる。
 目に映るものはどれも新鮮で琴音の心はすぐに奪われる。
 色とりどりの魚。奇妙な形の生き物や変わった色の岩のようなもの。どこまでも続く海の中。
 琴音はふと昔聞いた人魚の話しを思い出した。琴音の中で海といえばその話の舞台であり、今の自分の状況にぴったりだと思う。。
 人魚の恋は実らず、泡となって消えてしまう。琴音は泡となって消えたりしないが、そうなっても構わないくらいに漱のことで心は一杯だった。
 でも、逢いにいくその前にこの広い世界を見回ってもいいかな。あなたに逢って叶わぬ恋だったとわかった時に、後悔しないですむように。
 琴音はそう思い広い海の中を気の向くままに進んでいく。
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