【歴史•時代小説】 源頼朝

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第二巻

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 【富士と戯れる頼朝と政子】
 
 頼朝は伊豆に流罪となり北条家の監視下のもとお菓子館で過ごす毎日。頼朝の世話係は娘とその兄、そして頼朝の家臣達数名であった。
 そんな折、頼朝は同じ館に住む北条政子に一目惚れした。
 政子の父は北条時政である。
 政子は気性の激しい女であった。それは名門の武家の出身として父•時政に厳しく躾けられていたからである。
 政子は周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。
 夫の死後に落飾して尼御台あまみだいと呼ばれた。
 政子の法名は安養院あんにょういん
 頼朝が亡くなった後、征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍あましょうぐんと称された。

 政子は頼朝との婚姻により彼女の運命は大幅に変わって行くことになる。それは父親の勧める縁談を断りよりによって流罪人頼朝と交際するようになり、やがて男女の関係になってしまったのだ。
 頼朝の家来衆はいつになったら源氏の旗揚げをして平家追討の檄をとばすのか、とヤキモキしていたのだ。

 さて政子は伊豆国の豪族、北条時政の長女である。母は未詳だが、北条時子の同母姉妹とみられている。坂井孝一氏は、真名本『曾我物語』巻五に「鎌倉殿の御台盤所」(政子)の母が曾我兄弟の「父方の伯母」と書かれていることから、政子の母も義時を生んだ伊東祐親の娘としている。また、時政の正室とされる牧の方も7人の子女を産んだとされており、彼女よりも前に娶った伊東祐親の娘が時房以前の8人の子女を生んだ可能性があるとしている。
 ただし真名本『曾我物語』巻二では伊東祐親の娘は4人と書かれており、その嫁ぎ先には北条時政は含まれていない。また吉川本『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)7月11日条には政子は「前大将軍後室、二代将軍母儀也」と書かれており、当時は源頼朝の後室と認識されていた可能性があるので、真名本『曾我物語』巻五に書かれた「鎌倉殿の御台盤所」は政子のことではない可能性がある。また、保立道久氏はこの「父方の伯母」を曾我兄弟の父である河津祐泰(祐通)の伯母を指すと解釈して、伊東祐親の姉妹が北条時政に嫁いで政子や義時を生んだとしている。
 私は保立道久ほたてみちひさ氏の説を支持している。この伊東祐親いとうすけちかの説を支持していることを読者の皆さんにこの場をお借りして申し添えをしておきたい。

 伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。

 同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている。
 しかし最終的に時政は2人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。北条氏は政子の一件から頼朝の重要な後援者となったのである。

 なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は夢を売り、政子は代わりに小袖を与えた。

 吉夢と知って「夢買い」をしたのである。また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子21歳のときである。

 伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。

 治承4年(1180年)、以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし計画が露見して以仁王が敗死したため、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。

 頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃して討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗、政子の長兄宗時が討死。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになる。
 「スケ様は何処かなぁ。嗚呼!我が夫、スケ様」

 頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧することに成功した。  
 頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。

 養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親(時政の舅で義時の母方の祖父)の恩赦を命じた。

 祐親はこの赦免を恥として自害してしまう。『源平闘諍録』『曽我物語』などによると、頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の三女(八重姫)と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と三女の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったという。

 ただし同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料では確認出来ていないのである。
 同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。

 政子の妊娠中に頼朝は亀の前という妾を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになる。

 これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の兄の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊す後妻打ちうわなりうちを行い、亀の前はほうほうの体で逃げ出したのである。

 頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の|髻『もとどり》を切り落とす恥辱を与えた。

 頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国へ流罪にさせた。

 政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。

 頼朝は他の女性とも通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。

 当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くの妾を持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。

 父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。

 頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。

 京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子は容認出来なかったのだ。

 その背景としては、貴種である頼朝の正室としては出自が低く、地位が不安定だったためと考えられている。

 頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘(祥寿姫)を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出るのは、この4ヶ月後である。

 寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲との和睦条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。

 義高は婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後であったが、幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。

 義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。しかし義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北してしまう。

 更に後白河法皇とも対立するようになる。

 元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼすことに成功した。
 頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。

 激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄によって斬られてしまう。

 大姫は悲嘆の余りとうとう病床についてしまう。

 政子は憤り、親家の郎党の不始末のせいだと強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。

 その後大姫は心の病となってしまうのである。

 政子は快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、立ち直ることはなかった。

 範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。

 しかし頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。

 重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。

 範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席しているのだ。

 元暦2年(1185年)、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすことに成功した。

 平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちのびた。

 文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。

 政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得したという。私の調べたところこの話は史実であることが判明した。

 度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。

 これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなし、頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えたという。

 政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。

 静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。

 静は男子を生み、政子は助命を願うが許されず、由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えたという。

 同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。

 奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。

 頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼすことに成功して鎌倉に凱旋する。

 建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京する。
 この時頼朝は後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられたのである。

 建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。

 その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。
 同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。

 出発の日に頼朝は大進局と貞暁のもとへ密かに会いに訪れている。

 建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。

 政子の気の強さを表す逸話であるが、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのため頼朝は喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされているのである。
 一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もあるのだ。

 この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた。これはかの有名な曾我兄弟の仇討ちである。
 これは後世の武将達に語り継がれることになったのである。
 その後頼朝が鎌倉に帰還すると、範頼が頼朝の不興を買い伊豆に流される事件が起きている。『保暦間記』によると、鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏には私がおりますから御安心ください」と政子を慰めたため、鎌倉に帰った頼朝がこれを聞いて猜疑にかられたためとしている。

 大姫は相変わらず精神的な病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだという。

 政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催したのであった。
 建久6年(1195年)、政子は東大寺再建供養に出席する頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局や源通親と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。
 
 頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。

 次いで頼朝は次女の三幡を入内させようと図り、三幡は女御の宣旨を受けるが、頼朝は建久10年(1199年)1月に急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。

 長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれるようになる。

 三幡の入内工作は続けられたが、頼朝の死から2ヶ月ほどして三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去してしまう。

 若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣らによる十三人の合議制が定められた。

 だがこれについては13人全員で合議された例がなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す執権政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もあるくらいだ。

 その後、頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。

 景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。

 政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まず私に矢を射ろ」と申し送った。

 政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。

 鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を正当化する意図があるものと考えられ、事実ではなく創作ではないかと疑う見解もあるくらいだ。

 頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた。所謂梶原景時の変である。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されたという記述がある。
 『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘している。

『吾妻鏡』によると頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだとされる。
 政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。

 当時比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

 建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥る。
 政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。

 これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼした。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修禅寺に幽閉されて翌元久元年(1204年)に死去してしまう。

 だが比企氏滅亡や頼家の死に関しても鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀は北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、後は全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。

 一幡は母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれてしまう。

 やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子が押さえ付け、修禅寺に押し込めた。逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺されたという。

 また頼家の死についても『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。
頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこれを阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった。これは後に牧氏事件と呼ばれるようになる。

 実朝は文人肌で、朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇も期待して実朝に昇進を重ねさせた。しかし公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、また和歌や蹴鞠に傾倒して武芸を顧みない実朝への不満が御家人の間で募っていった。そのような中、政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。

 建保6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って和歌山の熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねるようになる。

 この上洛で兼子の斡旋によって政子は従三位に叙されている(4月14日。同年10月13日には従二位に昇叙)。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子との間で、病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。同年12月、実朝は右大臣に登った。
 義時や大江広元は分不相応であると諫言したが、実朝は従わなかった。

 建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、

 政子は深く嘆き
 「子供たちの中でただ一人残った大臣殿実朝を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」
 と述懐している。

 実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。

 上皇曰く
 「そのようなことをすれば日本を二分することになる」
と拒否する。

 上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時は幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。 

 義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。

 時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を
鎌倉殿として扱っている。

 承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。承久の乱である。

 上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。

 政子は御家人たちを前に「最期のことば」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表し、御家人の動揺は収まった。

 『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとしているが、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。

 軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。

 後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。

 貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが、政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏事件)。

 だが伊賀氏謀反の風聞は泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとはしておらず、政子に伊賀氏が処分されたことのみ記されている。

 そのため伊賀氏事件は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる影響力低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。北条家の家督問題は本来、義時の後家である伊賀の方が中心となって解決されるべき問題であり、義時の姉とはいえ頼朝に嫁ぎ北条家を離れた政子の介入は不当なものであった。

 泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた(ただし泰時は既に和田合戦・承久の乱などによる恩賞を受けており、ある程度経済的に自立していた)。

 嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年68。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。

 このように北条政子は様々な政治の表舞台で源頼朝を支えながら頼朝亡き後も鎌倉幕府を支えていたのである。
 それは政子の持って生まれた天才的資質であったと言えるものである。

 
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 歴史上に於いて天下騒乱と言われる出来事がその時代、時代にあった。    日本では、「乱」と付く出来事の中でも、特に政治的な変革をもたらした大規模な争いがあった。  時代の順序は前後して申し訳ないが、  一つ目は大塩平八郎の乱 (1837年) である。この乱は大坂町奉行所の大塩平八郎とその門人たちが、飢饉で苦しむ民衆を救おうと幕府に対して起こした武装蜂起であった。計画は半日で鎮圧されるがその思想的な背景は現代社会に通じるものがある。  時代はかなり遡るが壬申の乱 (672年) である。これは天智天皇の死後、皇位継承を巡って起こった内乱で、大海人皇子(後の天武天皇)が勝利した。  この騒乱は、672年(天武天皇元年)に起きた古代日本最大の内乱であった。天智天皇の死後、その弟である大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)と、天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)が皇位継承をめぐって争った。  三つ目は禁門の変 (1864年) である。  長州藩が京都での復権を目指し、京都御所付近で会津藩等と武力衝突した出来事ある。公武合体派が長州藩を京都から追放した「八月十八日の政変」がキッカケで勃発した。  四つ目は戊辰戦争 (1868年〜1869年迄)王政復古を経て成立した新政府軍と、旧幕府軍との間で繰り広げられた日本近代史上最大の内戦であった。薩摩藩・長州藩・土佐藩等が中核となった新政府軍が勝利し、明治新政府の確立に繋がった。  五つ目は応仁の乱 (1467年〜1477年迄)である。  この乱は室町時代に起こった大規模な内乱で、足利将軍家の家督争いや守護大名の対立が複雑に絡み合い、全国的な戦乱の時代(戦国時代)へと突入するキッカケになった。  この内乱を経て斎藤道三、織田信長へと戦国乱世が始まった。国取り物語である。  さて、今回は江戸幕府がまだ、確たる幕藩体制が未熟な時代。家光が三代将軍ににったばかりの治世。この家光を支えた人物がいた。柳生宗矩とその子十兵衛である。  今回、私はこの実在した二人の人物にスポットライトを当てた。  この小説はフィクションです。  この物語は史実に基づいていますが筆者である私の脚色を交えている為その物語の展開は虚構になります。  また、個人名、団体等実際のものと同じであっても一切関係ありません。    それでは最後までこの小説をお楽しみ下さい。    

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

 【最新版】  日月神示

蔵屋
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 最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。  何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」 「今に生きよ!」  「善一筋で生きよ!」  「身魂磨きをせよ!」  「人間の正しい生き方」  「人間の正しい食生活」  「人間の正しい夫婦のあり方」  「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」  たったのこれだけを守れば良いということだ。  根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。  日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。  これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」 という言葉に注目して欲しい。  今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。  どうか、最後までお読み下さい。  日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。    

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

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