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第三章
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空海の最期の言葉を皆様にご紹介しましょう。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
この意味は
「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てられた、ということでした。
ここでいう涅槃に意味があるんです。
インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱の意味になります。
すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張しているのです。
仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のことを言います。
涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされるのです。完全な涅槃を般涅槃、釈迦の入滅を大般涅槃といいます。
この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともあります。
仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあります。
仏教の涅槃とは異なります。
大乗非仏説では、釈迦が説いた本来の仏教教義では浄土を想定せず、涅槃とは「死後に天界を含めて二度と生まれ変わらないこと」だったと説明されています。
佐々木閑は「釈迦はこの世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」「(釈迦の説く涅槃とは)悟りを開いた者だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」「大乗仏教が言うような在家者として普通に暮らす中にも悟りへの修行がある、という考えは(釈迦本来の教えからは)成り立たない。在家者として普通に暮らすということは、善行を積んで(来世で)楽な生まれを目指すという生き方に従うということで俗世で善行を積み重ねても、悟りを開いて涅槃に入るという道にはつながらない」と論じているのです。
空海は
宝亀5年(774年) にこの世に誕生し、承和2年3月21日 (旧暦)(835年4月22日)に
あの世に旅立ちました。
享年61歳でした。
空海の時代は桓武天皇の時代でした。
桓武天皇は平城京(奈良)を捨て、平安京(京都)へ遷都しました。
その理由はあまりにも奈良仏教の力が強大になり過ぎたからでした。
桓武天皇は天皇の影響力を仏教界に抑えつける、つまり支配下に行うとしたのです。
桓武天皇は伝教大師最澄を登用したのでした。
桓武天皇は最澄に命じて唐の都長安に行き、
天台宗の仏典などを日本に持ち帰ってくるように命じたのです。
空海は当時無名の修行僧でした。
しかし空海の叔父阿刀 大足は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族であり学者でもあったのです。空海の母方の叔父に当たります。
位階は「従五位下」
延暦7年(788年)空海は母方の叔父で学者であった大足を頼って平城京に上京しました。
その後、延暦11年(792年)に空海が大学寮に入るまで、大足は空海に対して論語や孝経や史伝や文章などの個人指導を行いました。
延暦23年(804年)大足の援助により、第18次遣唐使の学問僧として空海の入唐を実現させたのでした。
また、大足は伊予親王の侍読も務めました。
今でいう家庭教師でした。
その後の動静は明らかでなく、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座して失脚した可能性もある。
この時都で権勢を奮っていたのが藤原薬子でした。
なお、大足の位階は従五位下でした。
さて、空海は平安時代初期の僧ですよね。
弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖です。
幼名は佐伯眞魚
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、空海は唐より真言密教をもたらしたのでした。
また、空海は能書家としても知られ、嵯峨天皇や橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられました。
幼少期佐伯真魚は
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦、現在の香川県善通寺市で生まれました。
父は郡司の佐伯直田公、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)、でした。
空海の幼名は真魚でした。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日としていますがこれは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明です。
空海は延暦7年(788年)、平城京に上りました。
上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在しています。
真魚は讃岐佐伯氏の一族でした。
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。
空海は延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入ります。
空海は大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられています。
また、延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡ります。
この時一緒だったのが天台宗の開祖最澄でした。
空海の有名な言葉です。
「虚しく往きて実ちて帰る」
この意味は
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示しているのです。
大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在します。
京の都ではまだ藤原薬子が権勢を欲しいみにし、空海は命を狙われていたのです。
桓武天皇の皇子であった伊予親王は捕えられ自ら命を断ちました。藤原薬子の策略に嵌ったのです。
日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しました。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出しました。
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものでした。
当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられています。
「未だ学ばざるを学び、~聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であったのでした。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは
闕期の罪にあたるとされたのでした。
そのためかどうかは定かではありませんが大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたのでした。
まだ、藤原薬子が都の実権を握っていたのです。
空海は大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しています。
この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたのでした。
さあ、空海の真言密教の確立についてお話ししましょう。
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位しました。
空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入ります。
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、と言われています。真意は定かではありません。
その後、2人は10年程交流関係を持ちます。
最後は空海から密教を学びたかったのです。
その為に一番弟子泰範と一緒に空海の元で密教を学ぶのですから。
密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていたのでした。
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至ります。
結局最澄は空海から密教を学ぶことが出来なかったのでした。
2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられます。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、空海は嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行いました。
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を空海は務めたのでした。
弘仁3年(812年)11月15日、空海は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇したのです。
入壇者には、最澄も含まれていました。
さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。
弘仁6年(815年)春、空海は会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼したのでした。
時を同じくして西国筑紫へも空海は勧進を行ったのでした。
この頃『弁顕密二教論』を空海は著しています。
弘仁7年(816年)6月19日、空海は修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜りました。
翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在しました。
弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、空海は伽藍建立に着手したのです。
空間はこの頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆しました。
弘仁12年(821年)、空海は満濃池、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池です。この池田の改修工事を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いたのでした。
この時の労働力は地元の住民達でした。
何故なら大雨の都度、溜池の水が氾濫して住民達の生活を脅かしていたのですから。
この空海の偉業は公共事業の始まりという学者もいました。
弘仁13年(822年)、空海は太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立したのです。
空海はこの年平城上皇に潅頂を授けました。
弘仁14年(823年)正月、太政官符により京都に東寺を賜り、真言密教の道場としました。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになります。
東寺は教王護国寺の名を合わせ持ちますがこの名称が用いられるようになるのは鎌倉時代になってからでした。
天長元年(824年)2月、空海は勅により神泉苑で祈雨法を修しました。
3月には少僧都に任命され、僧綱入りを果たしました(天長4年には大僧都)。
6月に造東寺別当。
9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となりました。
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設綜芸種智院を開設しました。
当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったのですが空海の開いた綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったのでした。
綜芸種智院の名に表されるように、儒教、仏教、道教などあらゆる思想や学芸を網羅する総合的教育機関でもあったのでした。
『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由ると、空海の信念でした。
「人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を空海は示したのでした。
ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶してしまいました。
現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいます。
空海の志を引き継いぐ弟子達がいたということです。
我々人間は先人の残した偉業を引き継いでいく、また、守り抜く使命があるのですから。先人の残した偉業は我々は守り抜く覚悟と決意が必要だと私は思います。
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を空海は著しまひた。
天長8年(831年)5月末、空海は病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留されたのでした。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修されました。
空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表しています。
その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じました。
12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上しています。
同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されています。
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修しました。
宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われています。
1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されています。
2月30日、金剛峯寺が定額寺となりました。
3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅しました。
享年62(満60歳没)。
伝真済撰『空海僧都伝』によると空海の死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようです。
しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献が現れています。
天長8年(831年)に病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力したのでした。
とくに承和元年(834年)12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行いました。
空海はすべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされているのです。
この小説はこれにて完結しました。
最後までお読み頂きましてありがとうございました。
令和七年十月二十五日
著者 蔵屋日唱
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
この意味は
「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てられた、ということでした。
ここでいう涅槃に意味があるんです。
インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱の意味になります。
すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張しているのです。
仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のことを言います。
涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされるのです。完全な涅槃を般涅槃、釈迦の入滅を大般涅槃といいます。
この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともあります。
仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあります。
仏教の涅槃とは異なります。
大乗非仏説では、釈迦が説いた本来の仏教教義では浄土を想定せず、涅槃とは「死後に天界を含めて二度と生まれ変わらないこと」だったと説明されています。
佐々木閑は「釈迦はこの世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」「(釈迦の説く涅槃とは)悟りを開いた者だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」「大乗仏教が言うような在家者として普通に暮らす中にも悟りへの修行がある、という考えは(釈迦本来の教えからは)成り立たない。在家者として普通に暮らすということは、善行を積んで(来世で)楽な生まれを目指すという生き方に従うということで俗世で善行を積み重ねても、悟りを開いて涅槃に入るという道にはつながらない」と論じているのです。
空海は
宝亀5年(774年) にこの世に誕生し、承和2年3月21日 (旧暦)(835年4月22日)に
あの世に旅立ちました。
享年61歳でした。
空海の時代は桓武天皇の時代でした。
桓武天皇は平城京(奈良)を捨て、平安京(京都)へ遷都しました。
その理由はあまりにも奈良仏教の力が強大になり過ぎたからでした。
桓武天皇は天皇の影響力を仏教界に抑えつける、つまり支配下に行うとしたのです。
桓武天皇は伝教大師最澄を登用したのでした。
桓武天皇は最澄に命じて唐の都長安に行き、
天台宗の仏典などを日本に持ち帰ってくるように命じたのです。
空海は当時無名の修行僧でした。
しかし空海の叔父阿刀 大足は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族であり学者でもあったのです。空海の母方の叔父に当たります。
位階は「従五位下」
延暦7年(788年)空海は母方の叔父で学者であった大足を頼って平城京に上京しました。
その後、延暦11年(792年)に空海が大学寮に入るまで、大足は空海に対して論語や孝経や史伝や文章などの個人指導を行いました。
延暦23年(804年)大足の援助により、第18次遣唐使の学問僧として空海の入唐を実現させたのでした。
また、大足は伊予親王の侍読も務めました。
今でいう家庭教師でした。
その後の動静は明らかでなく、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座して失脚した可能性もある。
この時都で権勢を奮っていたのが藤原薬子でした。
なお、大足の位階は従五位下でした。
さて、空海は平安時代初期の僧ですよね。
弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖です。
幼名は佐伯眞魚
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、空海は唐より真言密教をもたらしたのでした。
また、空海は能書家としても知られ、嵯峨天皇や橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられました。
幼少期佐伯真魚は
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦、現在の香川県善通寺市で生まれました。
父は郡司の佐伯直田公、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)、でした。
空海の幼名は真魚でした。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日としていますがこれは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明です。
空海は延暦7年(788年)、平城京に上りました。
上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在しています。
真魚は讃岐佐伯氏の一族でした。
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。
空海は延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入ります。
空海は大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられています。
また、延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡ります。
この時一緒だったのが天台宗の開祖最澄でした。
空海の有名な言葉です。
「虚しく往きて実ちて帰る」
この意味は
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示しているのです。
大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在します。
京の都ではまだ藤原薬子が権勢を欲しいみにし、空海は命を狙われていたのです。
桓武天皇の皇子であった伊予親王は捕えられ自ら命を断ちました。藤原薬子の策略に嵌ったのです。
日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しました。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出しました。
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものでした。
当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられています。
「未だ学ばざるを学び、~聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であったのでした。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは
闕期の罪にあたるとされたのでした。
そのためかどうかは定かではありませんが大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたのでした。
まだ、藤原薬子が都の実権を握っていたのです。
空海は大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しています。
この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたのでした。
さあ、空海の真言密教の確立についてお話ししましょう。
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位しました。
空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入ります。
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、と言われています。真意は定かではありません。
その後、2人は10年程交流関係を持ちます。
最後は空海から密教を学びたかったのです。
その為に一番弟子泰範と一緒に空海の元で密教を学ぶのですから。
密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていたのでした。
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至ります。
結局最澄は空海から密教を学ぶことが出来なかったのでした。
2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられます。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、空海は嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行いました。
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を空海は務めたのでした。
弘仁3年(812年)11月15日、空海は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇したのです。
入壇者には、最澄も含まれていました。
さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。
弘仁6年(815年)春、空海は会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼したのでした。
時を同じくして西国筑紫へも空海は勧進を行ったのでした。
この頃『弁顕密二教論』を空海は著しています。
弘仁7年(816年)6月19日、空海は修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜りました。
翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在しました。
弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、空海は伽藍建立に着手したのです。
空間はこの頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆しました。
弘仁12年(821年)、空海は満濃池、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池です。この池田の改修工事を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いたのでした。
この時の労働力は地元の住民達でした。
何故なら大雨の都度、溜池の水が氾濫して住民達の生活を脅かしていたのですから。
この空海の偉業は公共事業の始まりという学者もいました。
弘仁13年(822年)、空海は太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立したのです。
空海はこの年平城上皇に潅頂を授けました。
弘仁14年(823年)正月、太政官符により京都に東寺を賜り、真言密教の道場としました。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになります。
東寺は教王護国寺の名を合わせ持ちますがこの名称が用いられるようになるのは鎌倉時代になってからでした。
天長元年(824年)2月、空海は勅により神泉苑で祈雨法を修しました。
3月には少僧都に任命され、僧綱入りを果たしました(天長4年には大僧都)。
6月に造東寺別当。
9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となりました。
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設綜芸種智院を開設しました。
当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったのですが空海の開いた綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったのでした。
綜芸種智院の名に表されるように、儒教、仏教、道教などあらゆる思想や学芸を網羅する総合的教育機関でもあったのでした。
『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由ると、空海の信念でした。
「人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を空海は示したのでした。
ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶してしまいました。
現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいます。
空海の志を引き継いぐ弟子達がいたということです。
我々人間は先人の残した偉業を引き継いでいく、また、守り抜く使命があるのですから。先人の残した偉業は我々は守り抜く覚悟と決意が必要だと私は思います。
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を空海は著しまひた。
天長8年(831年)5月末、空海は病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留されたのでした。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修されました。
空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表しています。
その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じました。
12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上しています。
同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されています。
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修しました。
宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われています。
1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されています。
2月30日、金剛峯寺が定額寺となりました。
3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅しました。
享年62(満60歳没)。
伝真済撰『空海僧都伝』によると空海の死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようです。
しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献が現れています。
天長8年(831年)に病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力したのでした。
とくに承和元年(834年)12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行いました。
空海はすべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされているのです。
この小説はこれにて完結しました。
最後までお読み頂きましてありがとうございました。
令和七年十月二十五日
著者 蔵屋日唱
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