3 / 20
第三章
しおりを挟む
近江屋伊三郎が惨殺されてから10日後のある日、丘八が清左衛門宅にやって来た。
「奥方、緒方殿はご在宅でしょうか?」
「はい。奥に居ますので、そのまま、お待ちを」
「へい」
しばらくすると、清左衛門が奥の間からやって来た。
「丘八、いかがした?」
「へい。緒方殿、近江屋の一件で面白い話しを聞いて参りました」
「おう。そうか!でかした。どんな話しじゃ」
「ヘイ。伊三郎の女房の幸のことでございます」
「ほう、いったいどのようなことなんじゃ」
「ヘイ。伊三郎の女房幸には好いていた男がいたようでして」
「ほう。好いた男がのう。いったいどのような男じゃ?」
「北町奉行所与力の東斬九郎とぬもうす男でございます」
「東斬九郎か?」
「ヘイ。緒方殿はご存知で?」
「いや、知らぬ」
「そうでございますか」
「で、幸との関係はどうじゃ」
「ヘイ。チョイチョイ、両国の船宿で会っていたようでして」
「で、その船宿におぬしは行ったのか?」
「いえ、まだ、でございます」
「そうか。すまんがその船宿で二人の関係を聞いてはくれまいか?」
「へい。お易いごようで」
「お、そうか!そうか!あいすまぬ。丘八、頼んだぞ」
「ヘイ、あっしに任せておくんなさい」
こう言って丘八は探索の為両国へ向かうたのである。
さて、江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、江戸期の江戸は火事の多い街であった。特に1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」(「振袖火事」とも呼ばれる)は、江戸の街の6割以上を焼失、10万人ともいわれる死傷者を出す大規模なもので、幕府は復興にあたり、「隅田川」東岸の湿地帯であった本所・深川一帯を干拓し、江戸の街を拡大していった。本所には「明暦の大火」の犠牲者を供養するため「回向院」が建立されたほか、「隅田川」(当時は「大川」「浅草川」などとも呼ばれた)には「両国橋」が架けられた。
さて、明暦の大火は、明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災であった。かつてはこの年の干支から丁酉火事、出火の状況から振袖火事、火元の地名から丸山火事などとも呼ばれた。
明和の大火・文化の大火と共に江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守閣は、再建する意見があったが、幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため、再建されることはなかった。そして、現在に至るまで江戸城天守閣は復元も含めて再建されていない。
関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火と共に世界三大大火に含まれる場合もある。
明暦の大火の焼失地域。一つは1月18日の出火地点・本郷丸山本妙寺、二つは1月19日の出火地点・小石川伝通院表門下、③は1月19日の出火地点・麹町。
この火災の特記すべき点は火元が1か所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生した点である。ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来古い密集した市街地全てが焼き尽くされた。
このことは、のちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。
ウィキソースに三壺聞書の「明暦の大火」について記述した「江戸大火事の事」原文があります。当時の貴重な資料である。
『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄から解放された罪人達を「集団脱走している」と誤解した役人が閉門したので逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況であった。
ーーー関東平野の火災は竜巻旋風ーーー
関東大震災の時も火災で多くの人が亡くなっている。今後も起こるだろう直下型地震のときには、必ずこの火災で多くの人命が失われることであろう。
関東平野の火災については、防ぐことができないのだ。
そうして怖いのは富士山の噴火である。
富士山が噴火した場合、その噴火の煙は、偏西風に乗って、関東平野を直撃するのだ。
つまり、東京都は、火山灰によって首都機能が麻痺するのである。
電車は止まるであろうし、飛行機は空を飛ぶことができない。東京都に網の目のように道路があるが、信号機が全て止まるために交通渋滞が起き移動ができなくなる。
電力やガスなども水道もライフラインと言われるものは全て機能できなくなる。
すべてのコンピューターが止まってしまうのだ。果たして東京都はまた政府はこの未曾有の富士山大噴火による甚大な被害をどのように対処するつもりなのだろうか。
おそらく対処すらできないであろう。
いつも思うが、北方四島のロシアによる実効支配を政府は黙認している。
各政党も問題すらしていない。
予言書の『日月神示』では一貫して次のように神憑りによる自動書記により記述がある。
「北からオロソ、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの5カ国が攻め込んでくる。その時がこの世の終わりであり始まりである。太陽は真っ黒になり、二つ、三つ、四つと、真っ黒な太陽が現れる。
月は真っ赤になる。空は血の色じゃ。
わけのわからん虫が人間を襲ってくる。
その時に神に手を合わせても、そんなもんにも構っておれん。
人類よ、心せよ。今のうちに御霊を磨くのじゃ。魂を浄めるのじゃ。神を信じ、霊界を信じて、太陽に向かって次のように唱えるのじゃ。「カムナガラ タマチハエマセ」
「カムナガラ タマチハエマセ」
「アマテラス オオミカミ」
「アマテラス オオミカミ」
「クニトコタチノミコト」
「クニトコタチノミコト」
「アメノミナカヌシノカミ」
「アメノミナカヌシノカミ」
宗教ではないぞ!
宗教に騙されるな!
神の道ぞ!神の本当の道であるぞ。
人類よ!気をつけよ!
子の年、前後10年に気をつけよ!
8のつく日に気をつけよ!
富士山も噴火するであろうし、南海地震も起きるだろうし、東南海地震も起きるだろうし、首都圏直下型地震も起きるであろうし、北海道も東北地方も中国地方も、近畿地方も九州地方も、四国地方も、日本列島至るところで、大地火が吹くぞ。
大地火が吹くとは地震のことじゃ!
今までの考え方を改めるのじゃ!
我良しの考え方を改めよ!
強い者勝ちの考え方を改めよ!
毎日、私は出口王仁三郎のYouTubeをiPhoneで視聴している。
『出口王仁三郎の教え。神さまとは』である。時間の許す限り毎日、毎日、毎日視聴する。私にとって、心の最も安らぐひと時であるからだ。
素晴らしい教えである。
皆様方にも一度聴いて欲しい。
きっと幸せになれることであろう。
今までの自分自身の生活は、いかにデタラメであるか、いかに間違っていたか、
という事が必ず分かる筈だ。
出口王仁三郎は言う。
「今という今善き心、善き言葉、善き行いを励むこそ善き」
という人生の極意を教えているのだから。
貴方も私も神人合一した神であり、神さまの代行者なのですから!
貴方が幸せになれないわけがない。
一日も早く、目覚めて下さい。
人間として間違った行い、悪口、陰口、不平不満な想い、腹立て、癇癪、利己的な考え方や、強い者勝ちの考え方を改めて、人間本来の正しい生き方に目覚めて下さい。
その答えは出口王仁三郎の『神さまの教え』にあるのですから。
「神知りて 人の幸せ 祈るのみ」
この俳句は私こと、蔵屋日唱が今年の元旦早朝に日の出を見ながら詠んだ句である。
ーーーこの物語の続きーーーー
この原因となるのは、関東平野特有の地形に合う。
当時の様子を記録した『むさしあぶみ』は、火災発生の当時について
扨も明暦三年丁酉正月十八日辰刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出ししきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て空にたまひきわたる有さま、雲かあらぬか煙のうずまくか、春のかすミのたな引かとあやしむほどに、江戸中の貴賤門戸をひらきえず、夜は明ながらまだくらやミのごとく、人の往来もさらになし
去年霜月の比より今日に至る迄、既に八十日ばかり雨一滴もふらで
としており、火事の様相を
さしもに深き浅草の堀死人にてうづみけり、その数二万三千余人、三町四方にかさなりて、堀はさながら平地になる
のちのちにとぶ者ハ前の死骸をふまへて飛ゆへに、その身すこしもいたまずして河向ひにうちあがり助かるものおほかりけり、とかくする間に重々にかまへたる見付の矢倉に猛火燃えかかり大地にひびきてどうと崩れ死人の上に落かゝる、さて人にせかれ、車にさへぎられていまだ跡に逃おくれたるものどもハむかふへすすまんとすれバ前にハ火すでにまハり、後によりハ火のこ雨のごとくにふりかゝる、諸人声々に念仏申事きくにあハれをもほよす間に前後の猛火にとりまかれ、一同にあつとさけぶ
声、上ハ悲愴のいただきにひびき、下ハ金輪[注釈 1]の底迄も聞ゆらんと、身の毛もよだつばかりなり、
などと記録している。
3回の出火の経過は以下のようであったと考えられている。
1月18日未の刻(14時ごろ)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたことで逃げ場を失った2万人以上が死亡。
1月19日巳の刻(10時ごろ)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一帯に延焼し、江戸城は天守を含む大半が焼失。
1月19日申の刻(16時ごろ)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。
「回向院」は、「明暦の大火」が発生した1657(明暦3)年、四代将軍・徳川家綱の命により、犠牲者となった多くの無縁仏を供養するために、「隅田川」東岸の地に建立された。1768(明和5)年以降、境内で勧進相撲が興行されるようになり、1833(天保4)年からは春秋二回、興行される定場所(「回向院相撲」と呼ばれる)となり、これが現在の大相撲へ発展した。
江戸初期、幕府は防備のため「隅田川」への架橋は「千住大橋」以外認めなかったが、1657(明暦3)年の「明暦の大火」では、橋が無かったため、多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人ともいわれる死傷者を出した。このため、防災のために「大橋」が1659(万治2)年(1661(寛文元)年の説もあり)に架橋された。1686(貞享3)年に国境が変更されるまでは、武蔵国と下総国の両国に架かる橋であったことから、一般には「両国橋」と呼ばれた。当時の橋は木造であり、類焼を防ぐため、東西の橋のたもとには、それぞれ火除地として広小路が作られた。この「両国広小路」は、建物がない広場であったため、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが建ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場として賑わうようになった。現在の両国と呼ばれる地域は、東詰側の「両国広小路」で、「向こう両国」とも呼ばれた。
江戸期の「両国橋」は流出や焼失などにより、何度も架け替えられた。明治期に入り、西洋風の木橋へ架け替えられ、1875(明治8)年に完成した。この橋は、1897(明治30)年の花火大会の際、見物客の重みで欄干が破損し、多くの死傷者を出した。
「両国橋」は鉄橋への架け替えが行われ、1904(明治37)年に開通した。この架け替えで、江戸期・明治初期の「両国橋」より50mほど上流へ移された。この翌年には橋上に路面電車(のちの市電・都電)が開通している。
「関東大震災」後の「帝都復興土地区画整理」の中で、現・中央区新川二丁目と湊一丁目の間の「亀島川」に、「南高橋」が「東京市」により架橋されることになった。その際、架け替えで不要となった明治後期竣工の「両国橋」の中央部分が移設・再利用され、1931(昭和6)年に着工、翌年に竣工となった。現在、都内に残る鋼鉄トラス橋の道路橋としては最古の橋となる。
1904(明治37)年に開通した「両国橋」は、「関東大震災」では大きな損傷は受けなかったため、震災直後の周辺の応急・復旧作業に大きく貢献したという。震災直後の復興計画では架け替えの予定はなかったが、1925(大正14)年頃に他の震災復興橋梁の建設に合わせて、「東京市」により架け替えられることとなった。このような経緯から、「両国橋」は架け替えを急ぐ必要がなかったため、「隅田川」の震災復興橋梁の9橋の中では最も遅い時期となる1930(昭和5)年の着工、1932(昭和7)年の竣工となった。
「隅田川」の「両国橋」周辺では、毎年5月28日から8月28日(旧暦)までの間、「夕涼」の期間とされ、夜間の料理屋の営業や川遊びが許された。この「夕涼」は江戸前期の延宝年間(1673~1681年)の頃より盛んになったという。「夕涼」の初日は「川開き」と呼ばれ、1733(享保18)年の「川開き」からは、毎年大花火(「両国の花火」、現「隅田川花火大会」の前身)が打ち上げられるようになった。
「明暦の大火」後、開発された本所一帯は、防災を考慮した都市計画から道路や運河が縦横に設けられ、現在まで引き継がれている碁盤目状の区画が誕生した。さらに、五代将軍・徳川綱吉の時代には、軍事的な理由から武家地を中心とする街として再整備された。幕府直属の家臣である旗本・御家人の屋敷が多かったが、「弘前藩津軽家上屋敷」といった大名屋敷や、上級旗本の屋敷も置かれた。また、「竪川」などの運河沿いを中心に職人や商人が暮らす町人地も形成された。
江戸末期の1852(嘉永5)年に描かれた『本所絵図』の一部、現在の両国付近。白い部分が武家地、灰色に着色されている部分が町家(町人地)で、本所には小さい(といっても100~200坪程度で、現代の住宅の感覚からすれば大きい)武士の屋敷が多かった。後述の「吉良邸」があった場所は、この時代には「本多内蔵助家」の屋敷などになっている。
本所には武家屋敷が多かったが、大名家の上屋敷は『本所絵図』の描かれた江戸末期でも3つしかなかった。「弘前藩津軽家上屋敷」跡となる「緑町公園」。江戸前期、弘前藩津軽家は、神田に上屋敷を構えていたが、三代藩主・津軽信政の時代の1687(貞享4)年、那須家に養子として出していた三男・資徳が絡む那須家のお家騒動があり、翌年、連座して当時はまだ郊外であった本所への移転が命じられた。
江戸初期から高家(幕府の朝廷・公家に対する儀式などを司る職)を務めた東条吉良氏。高家三代目となる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、1701(元禄14)年3月、「江戸城」の「松之大廊下」で、赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に斬りつけられた(理由は遺恨からともいわれる)。長矩は即日切腹の処分をうけ浅野家は取りつぶされた。一方の義央は、同月に高家を辞し、8月に本所への屋敷替えが命じられた。この処分の違いに不満を持った浅野家の旧家臣の一部は、主君の仇討を計画。翌1702(元禄15)年12月、本所の「吉良邸」で茶会があることを知った「赤穂義士」が討ち入り(のちに「赤穂事件」と呼ばれる)を決行し、義央は首を討たれた。
江戸中期以降、「赤穂事件」を題材とする『忠臣蔵』が人形浄瑠璃や歌舞伎などで人気になった。図は1806(文化3)年頃、葛飾北斎が描いた『仮名手本忠臣蔵』の「吉良邸」への討ち入りの場面。
1934(昭和9)年、「吉良邸」跡地の一部を、地元町内会の有志らが購入し東京市へ寄贈。東京市は、なまこ壁長屋門を模したコンクリート壁を設置、内側壁面には説明板を配するなど、史跡公園として整備し、翌年、「本所松坂町公園」として開園した。現在の「本所松坂町公園」。戦後の1950(昭和25)年に墨田区へ移管されており、現在は、園内に石碑や「吉良上野介義央公座像」などがある。
to be continued
「奥方、緒方殿はご在宅でしょうか?」
「はい。奥に居ますので、そのまま、お待ちを」
「へい」
しばらくすると、清左衛門が奥の間からやって来た。
「丘八、いかがした?」
「へい。緒方殿、近江屋の一件で面白い話しを聞いて参りました」
「おう。そうか!でかした。どんな話しじゃ」
「ヘイ。伊三郎の女房の幸のことでございます」
「ほう、いったいどのようなことなんじゃ」
「ヘイ。伊三郎の女房幸には好いていた男がいたようでして」
「ほう。好いた男がのう。いったいどのような男じゃ?」
「北町奉行所与力の東斬九郎とぬもうす男でございます」
「東斬九郎か?」
「ヘイ。緒方殿はご存知で?」
「いや、知らぬ」
「そうでございますか」
「で、幸との関係はどうじゃ」
「ヘイ。チョイチョイ、両国の船宿で会っていたようでして」
「で、その船宿におぬしは行ったのか?」
「いえ、まだ、でございます」
「そうか。すまんがその船宿で二人の関係を聞いてはくれまいか?」
「へい。お易いごようで」
「お、そうか!そうか!あいすまぬ。丘八、頼んだぞ」
「ヘイ、あっしに任せておくんなさい」
こう言って丘八は探索の為両国へ向かうたのである。
さて、江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、江戸期の江戸は火事の多い街であった。特に1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」(「振袖火事」とも呼ばれる)は、江戸の街の6割以上を焼失、10万人ともいわれる死傷者を出す大規模なもので、幕府は復興にあたり、「隅田川」東岸の湿地帯であった本所・深川一帯を干拓し、江戸の街を拡大していった。本所には「明暦の大火」の犠牲者を供養するため「回向院」が建立されたほか、「隅田川」(当時は「大川」「浅草川」などとも呼ばれた)には「両国橋」が架けられた。
さて、明暦の大火は、明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災であった。かつてはこの年の干支から丁酉火事、出火の状況から振袖火事、火元の地名から丸山火事などとも呼ばれた。
明和の大火・文化の大火と共に江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守閣は、再建する意見があったが、幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため、再建されることはなかった。そして、現在に至るまで江戸城天守閣は復元も含めて再建されていない。
関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火と共に世界三大大火に含まれる場合もある。
明暦の大火の焼失地域。一つは1月18日の出火地点・本郷丸山本妙寺、二つは1月19日の出火地点・小石川伝通院表門下、③は1月19日の出火地点・麹町。
この火災の特記すべき点は火元が1か所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生した点である。ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来古い密集した市街地全てが焼き尽くされた。
このことは、のちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。
ウィキソースに三壺聞書の「明暦の大火」について記述した「江戸大火事の事」原文があります。当時の貴重な資料である。
『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄から解放された罪人達を「集団脱走している」と誤解した役人が閉門したので逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況であった。
ーーー関東平野の火災は竜巻旋風ーーー
関東大震災の時も火災で多くの人が亡くなっている。今後も起こるだろう直下型地震のときには、必ずこの火災で多くの人命が失われることであろう。
関東平野の火災については、防ぐことができないのだ。
そうして怖いのは富士山の噴火である。
富士山が噴火した場合、その噴火の煙は、偏西風に乗って、関東平野を直撃するのだ。
つまり、東京都は、火山灰によって首都機能が麻痺するのである。
電車は止まるであろうし、飛行機は空を飛ぶことができない。東京都に網の目のように道路があるが、信号機が全て止まるために交通渋滞が起き移動ができなくなる。
電力やガスなども水道もライフラインと言われるものは全て機能できなくなる。
すべてのコンピューターが止まってしまうのだ。果たして東京都はまた政府はこの未曾有の富士山大噴火による甚大な被害をどのように対処するつもりなのだろうか。
おそらく対処すらできないであろう。
いつも思うが、北方四島のロシアによる実効支配を政府は黙認している。
各政党も問題すらしていない。
予言書の『日月神示』では一貫して次のように神憑りによる自動書記により記述がある。
「北からオロソ、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの5カ国が攻め込んでくる。その時がこの世の終わりであり始まりである。太陽は真っ黒になり、二つ、三つ、四つと、真っ黒な太陽が現れる。
月は真っ赤になる。空は血の色じゃ。
わけのわからん虫が人間を襲ってくる。
その時に神に手を合わせても、そんなもんにも構っておれん。
人類よ、心せよ。今のうちに御霊を磨くのじゃ。魂を浄めるのじゃ。神を信じ、霊界を信じて、太陽に向かって次のように唱えるのじゃ。「カムナガラ タマチハエマセ」
「カムナガラ タマチハエマセ」
「アマテラス オオミカミ」
「アマテラス オオミカミ」
「クニトコタチノミコト」
「クニトコタチノミコト」
「アメノミナカヌシノカミ」
「アメノミナカヌシノカミ」
宗教ではないぞ!
宗教に騙されるな!
神の道ぞ!神の本当の道であるぞ。
人類よ!気をつけよ!
子の年、前後10年に気をつけよ!
8のつく日に気をつけよ!
富士山も噴火するであろうし、南海地震も起きるだろうし、東南海地震も起きるだろうし、首都圏直下型地震も起きるであろうし、北海道も東北地方も中国地方も、近畿地方も九州地方も、四国地方も、日本列島至るところで、大地火が吹くぞ。
大地火が吹くとは地震のことじゃ!
今までの考え方を改めるのじゃ!
我良しの考え方を改めよ!
強い者勝ちの考え方を改めよ!
毎日、私は出口王仁三郎のYouTubeをiPhoneで視聴している。
『出口王仁三郎の教え。神さまとは』である。時間の許す限り毎日、毎日、毎日視聴する。私にとって、心の最も安らぐひと時であるからだ。
素晴らしい教えである。
皆様方にも一度聴いて欲しい。
きっと幸せになれることであろう。
今までの自分自身の生活は、いかにデタラメであるか、いかに間違っていたか、
という事が必ず分かる筈だ。
出口王仁三郎は言う。
「今という今善き心、善き言葉、善き行いを励むこそ善き」
という人生の極意を教えているのだから。
貴方も私も神人合一した神であり、神さまの代行者なのですから!
貴方が幸せになれないわけがない。
一日も早く、目覚めて下さい。
人間として間違った行い、悪口、陰口、不平不満な想い、腹立て、癇癪、利己的な考え方や、強い者勝ちの考え方を改めて、人間本来の正しい生き方に目覚めて下さい。
その答えは出口王仁三郎の『神さまの教え』にあるのですから。
「神知りて 人の幸せ 祈るのみ」
この俳句は私こと、蔵屋日唱が今年の元旦早朝に日の出を見ながら詠んだ句である。
ーーーこの物語の続きーーーー
この原因となるのは、関東平野特有の地形に合う。
当時の様子を記録した『むさしあぶみ』は、火災発生の当時について
扨も明暦三年丁酉正月十八日辰刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出ししきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て空にたまひきわたる有さま、雲かあらぬか煙のうずまくか、春のかすミのたな引かとあやしむほどに、江戸中の貴賤門戸をひらきえず、夜は明ながらまだくらやミのごとく、人の往来もさらになし
去年霜月の比より今日に至る迄、既に八十日ばかり雨一滴もふらで
としており、火事の様相を
さしもに深き浅草の堀死人にてうづみけり、その数二万三千余人、三町四方にかさなりて、堀はさながら平地になる
のちのちにとぶ者ハ前の死骸をふまへて飛ゆへに、その身すこしもいたまずして河向ひにうちあがり助かるものおほかりけり、とかくする間に重々にかまへたる見付の矢倉に猛火燃えかかり大地にひびきてどうと崩れ死人の上に落かゝる、さて人にせかれ、車にさへぎられていまだ跡に逃おくれたるものどもハむかふへすすまんとすれバ前にハ火すでにまハり、後によりハ火のこ雨のごとくにふりかゝる、諸人声々に念仏申事きくにあハれをもほよす間に前後の猛火にとりまかれ、一同にあつとさけぶ
声、上ハ悲愴のいただきにひびき、下ハ金輪[注釈 1]の底迄も聞ゆらんと、身の毛もよだつばかりなり、
などと記録している。
3回の出火の経過は以下のようであったと考えられている。
1月18日未の刻(14時ごろ)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたことで逃げ場を失った2万人以上が死亡。
1月19日巳の刻(10時ごろ)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一帯に延焼し、江戸城は天守を含む大半が焼失。
1月19日申の刻(16時ごろ)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。
「回向院」は、「明暦の大火」が発生した1657(明暦3)年、四代将軍・徳川家綱の命により、犠牲者となった多くの無縁仏を供養するために、「隅田川」東岸の地に建立された。1768(明和5)年以降、境内で勧進相撲が興行されるようになり、1833(天保4)年からは春秋二回、興行される定場所(「回向院相撲」と呼ばれる)となり、これが現在の大相撲へ発展した。
江戸初期、幕府は防備のため「隅田川」への架橋は「千住大橋」以外認めなかったが、1657(明暦3)年の「明暦の大火」では、橋が無かったため、多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人ともいわれる死傷者を出した。このため、防災のために「大橋」が1659(万治2)年(1661(寛文元)年の説もあり)に架橋された。1686(貞享3)年に国境が変更されるまでは、武蔵国と下総国の両国に架かる橋であったことから、一般には「両国橋」と呼ばれた。当時の橋は木造であり、類焼を防ぐため、東西の橋のたもとには、それぞれ火除地として広小路が作られた。この「両国広小路」は、建物がない広場であったため、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが建ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場として賑わうようになった。現在の両国と呼ばれる地域は、東詰側の「両国広小路」で、「向こう両国」とも呼ばれた。
江戸期の「両国橋」は流出や焼失などにより、何度も架け替えられた。明治期に入り、西洋風の木橋へ架け替えられ、1875(明治8)年に完成した。この橋は、1897(明治30)年の花火大会の際、見物客の重みで欄干が破損し、多くの死傷者を出した。
「両国橋」は鉄橋への架け替えが行われ、1904(明治37)年に開通した。この架け替えで、江戸期・明治初期の「両国橋」より50mほど上流へ移された。この翌年には橋上に路面電車(のちの市電・都電)が開通している。
「関東大震災」後の「帝都復興土地区画整理」の中で、現・中央区新川二丁目と湊一丁目の間の「亀島川」に、「南高橋」が「東京市」により架橋されることになった。その際、架け替えで不要となった明治後期竣工の「両国橋」の中央部分が移設・再利用され、1931(昭和6)年に着工、翌年に竣工となった。現在、都内に残る鋼鉄トラス橋の道路橋としては最古の橋となる。
1904(明治37)年に開通した「両国橋」は、「関東大震災」では大きな損傷は受けなかったため、震災直後の周辺の応急・復旧作業に大きく貢献したという。震災直後の復興計画では架け替えの予定はなかったが、1925(大正14)年頃に他の震災復興橋梁の建設に合わせて、「東京市」により架け替えられることとなった。このような経緯から、「両国橋」は架け替えを急ぐ必要がなかったため、「隅田川」の震災復興橋梁の9橋の中では最も遅い時期となる1930(昭和5)年の着工、1932(昭和7)年の竣工となった。
「隅田川」の「両国橋」周辺では、毎年5月28日から8月28日(旧暦)までの間、「夕涼」の期間とされ、夜間の料理屋の営業や川遊びが許された。この「夕涼」は江戸前期の延宝年間(1673~1681年)の頃より盛んになったという。「夕涼」の初日は「川開き」と呼ばれ、1733(享保18)年の「川開き」からは、毎年大花火(「両国の花火」、現「隅田川花火大会」の前身)が打ち上げられるようになった。
「明暦の大火」後、開発された本所一帯は、防災を考慮した都市計画から道路や運河が縦横に設けられ、現在まで引き継がれている碁盤目状の区画が誕生した。さらに、五代将軍・徳川綱吉の時代には、軍事的な理由から武家地を中心とする街として再整備された。幕府直属の家臣である旗本・御家人の屋敷が多かったが、「弘前藩津軽家上屋敷」といった大名屋敷や、上級旗本の屋敷も置かれた。また、「竪川」などの運河沿いを中心に職人や商人が暮らす町人地も形成された。
江戸末期の1852(嘉永5)年に描かれた『本所絵図』の一部、現在の両国付近。白い部分が武家地、灰色に着色されている部分が町家(町人地)で、本所には小さい(といっても100~200坪程度で、現代の住宅の感覚からすれば大きい)武士の屋敷が多かった。後述の「吉良邸」があった場所は、この時代には「本多内蔵助家」の屋敷などになっている。
本所には武家屋敷が多かったが、大名家の上屋敷は『本所絵図』の描かれた江戸末期でも3つしかなかった。「弘前藩津軽家上屋敷」跡となる「緑町公園」。江戸前期、弘前藩津軽家は、神田に上屋敷を構えていたが、三代藩主・津軽信政の時代の1687(貞享4)年、那須家に養子として出していた三男・資徳が絡む那須家のお家騒動があり、翌年、連座して当時はまだ郊外であった本所への移転が命じられた。
江戸初期から高家(幕府の朝廷・公家に対する儀式などを司る職)を務めた東条吉良氏。高家三代目となる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、1701(元禄14)年3月、「江戸城」の「松之大廊下」で、赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に斬りつけられた(理由は遺恨からともいわれる)。長矩は即日切腹の処分をうけ浅野家は取りつぶされた。一方の義央は、同月に高家を辞し、8月に本所への屋敷替えが命じられた。この処分の違いに不満を持った浅野家の旧家臣の一部は、主君の仇討を計画。翌1702(元禄15)年12月、本所の「吉良邸」で茶会があることを知った「赤穂義士」が討ち入り(のちに「赤穂事件」と呼ばれる)を決行し、義央は首を討たれた。
江戸中期以降、「赤穂事件」を題材とする『忠臣蔵』が人形浄瑠璃や歌舞伎などで人気になった。図は1806(文化3)年頃、葛飾北斎が描いた『仮名手本忠臣蔵』の「吉良邸」への討ち入りの場面。
1934(昭和9)年、「吉良邸」跡地の一部を、地元町内会の有志らが購入し東京市へ寄贈。東京市は、なまこ壁長屋門を模したコンクリート壁を設置、内側壁面には説明板を配するなど、史跡公園として整備し、翌年、「本所松坂町公園」として開園した。現在の「本所松坂町公園」。戦後の1950(昭和25)年に墨田区へ移管されており、現在は、園内に石碑や「吉良上野介義央公座像」などがある。
to be continued
10
あなたにおすすめの小説
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる