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第五章
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ーー前回までのあらすじーー
「緒方殿、しかし斬九郎は剣の達人ですぜ!」
「大丈夫ですか?」
「まあ。斬り合いになればお互い五分と五分じゃ。恐らく一瞬で決まるであろうよ。しかし斬九郎を見逃す訳にはいかぬ。丘八、この意味分かるな?」
「ヘイ、よく分かります」
「わしは元旗本である。斬九郎のような悪人を見逃す訳にはいかぬのじゃ」
「ヘイ、よく分かります」
「そうか。分かってくれるか」
「ヘイ」
清左衛門は幸と斬九郎の始末を師走と決めて丘八と一緒に準備を進めるのであった。
ーー前回までのあらすじENDーー
師走に入り、江戸の街も賑やかになって来た。
日本は古来より春夏秋冬の季節ごとに庶民が参加する催し物つまり今でいうイベントのようなものが各地で行われていた。
これらは地方の風土記のような記録に書類として記述されている。これらを総じて「年中行事」と呼ぶのだ。
宗教や農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午の節句や7月7日七夕などの節句まで、1~12月まで毎月数多くの街を賑やかにする催しがあり、今も日本社会に息づいている。
師走に入り清左衛門の家でも千歳や近所のご婦人達で協力し合い師走の年中行事である「煤払い」をしていた。
一家総出で煤やほこりを払って家中を清める。このような光景が江戸の至る所で見られた。
これに代表されるように、12月の行事は1年を締め括ると同時に、新しい年を迎える準備という、特別な意味を持っていたのだ。
煤払いが終わったあとは胴上げである。
江戸庶民はこれが当時の慣わしであり、近隣庶民との絆を深めていく手段であったのだ。
清左衛門、千歳の家族もそうであった。
まあ、煤払いは、今も各地の神社仏閣の恒例行事だが、江戸時代は武家や商人や町人の家も12月13日に行ったという記録がある。
13日に定着した理由を『東都歳事記』はこう記す。「大城の御煤払の例は寛永十七年庚辰十二月十三日に始りし由」
大城の煤払いは寛永17年12月13日から始まったゆえ、商人も町人もそれに倣ったのである。
畳を上げて箒などで叩くのに始まり、当時は照明には蝋燭や行灯、炊事には竃、暖房には炭を使用していたため、燃えカスも多く溜まっていた。それを徹底して払ったという。
私達現代の大掃除とは比べものにならないほど大変だったろう。煤払いは新しい年に向けた「お清め」の儀式であり、綺麗にした家に「神を招き入れる」為に念には念を入れたのである。
『東都歳事記』はこう続ける。「(煤払いのあとは)餅を祝ふ」ということである。
商人の家では、大掃除を終了すると餅をふるまい、酒を出したりした。
胴上げする者までいて、とにかく大騒ぎだったらしい。
奉公人総出で行う商家の煤払いの当時の様子が「東都歳事記」に記述されている。
どこの商人の家も煤払いが済むと胴上げで大騒ぎであった。
師走は新しい年を迎える高揚感がある。餅や酒、胴上げは、そうした興奮と楽しみから自然と湧き出たものだったのだから。
正月用品を買う客でごった返す歳の市も江戸の街の風物詩である。
煤払いが終わった翌日の14日からは歳の市が開催される。注連縄、門松など正月飾りや、海老など縁起が良いとされる海産物を販売する市で、深川の富岡八幡宮を皮切りにこれ各地で市が立った。煤払いできれいにした家に、新しい飾り物を付けるという江戸の年中行事は連動していたのだ。
最も規模が大きかったのは、浅草寺の歳の市だった。周辺の駒形、下谷、上野まで人であふれかえったというから、そのにぎわいは霜月の酉の市を上回ったことであろうよ。
浅草寺は通常、明六つ半に開門し、暮六つに閉門したが、歳の市の期間中は暁七つまで門が開いていたという。ちなみに現在、浅草寺で12月17日~19日に開催される羽子板市の前身が、この歳の市である。
餅搗きは、15日頃から市中で行われた。武家や大店(大きな商家)は、人に頼んで搗いてもらった。といっても、和菓子屋に依頼するわけではない。搗いたのは主に鳶(とび)だった。威勢の良い掛け声に人気があったのだ。数人一組で臼と杵(きね)を引きずって、大晦日まで各家を回ったので、引き摺り餅と呼んで江戸庶民を賑やかにさせた。
引き摺り餅に対して、和菓子屋がつくるのを賃餅といった。「餅は餅屋」のたとえに習えば、専門の菓子屋の賃餅の方が質は優れていようものだが、なぜか賃餅は格が落ち、世間体も悪いと考えられていた。この辺が、いかにも縁起と見栄にこだわる江戸の庶民らしいと私は思うが。
「まあ、師走の話しだがこの機会だ。
節分の話しもついでにしておこう」
清左衛門は千歳と弥生に引き続き話しをした。
節分は、「季節の節目」を意味する言葉で、元々は、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指のだよ。旧暦で立春は季節の始まりであるとともに、年の始まり(=正月)でもあったんだ。その前日(=大みそか)の節分は特に重要と考えられ、豆まきをして災厄を払ったのさ。
現在、節分と言えば2月3日(2日の年もある)が定着しているが、江戸時代は年の瀬の行事だったんだよ」
(豆まきについて)
いつから豆をまくようになったかは定かではないが「南北朝時代にはすでに病疫を追い払う追儺(ついな)の風習が入り込み『鬼は外、福は内』と唱えながら豆打ちをしていたことや、公家や武家だけでなく広く民間の行事になっていたことが『臥雲日件録』からもわかる」
もっとも追儺そのものは西暦706(慶雲3)年の大みそかに、すでに行われていたことが『続日本紀』に記されており、それがいつしか、鬼を追い払うのに豆を使うようなったという。一説には魔を滅する魔滅が「豆」に転訛したとも、それがまた「魔目を打つ」に転じたともいう。実際に江戸時代に入ると、「鬼の目」に向けて豆を投じる絵が多く描かれている。
また、豆をまくのは裃を着た年男の役割だった。
以下の日本画であるが
『絵本風俗往来』 『北斎漫画』では酒呑童子などの鬼退治で知られる坂田金時が鬼に豆をぶつけて追い払っている。
さて、最後は江戸庶民の大みそかだ。ここでは年越し蕎麦や除夜の鐘といった、誰もが知る風物詩は置いて、歴史の中に一度は消え去り、平成に入って再び注目された伝説を紹介したい。現在の東京都北区王子にあった「狐火」である。
かつて王子稲荷の門前に広がる田畑に、榎の巨木があった。大晦日の深夜、この木の下に関東に住む数千の狐が集まり稲荷に参詣し、狐たちが灯す火が連なったという。まあ、このような伝説だ。
稲荷はそもそも稲作や農業の神で、狐はその使者とされている。田畑に被害を及ぼすネズミを駆除してくれたからだ。稲荷がやがて商売繁盛の神として信奉されるようになっても、狐は変わらず使者とされ、ゆえに稲荷には狛狐がいる。
狐火の正体は、燐などが自然に発火した現象といわれる。しかし、人々は狐火の数でその年の豊凶を占い、農業や商売に励んだ。素朴な信仰の中に生きる苦労や楽しさが反映されていたのである。
王子の榎は1929年(昭和4)年に伐採され、碑だけが残った。だが、1993(平成5)年、この伝説を子どもたちに伝えようと、地元商店街が中心となって大みそかの深夜、「王子狐の行列」が始まった。狐の面をかぶりお囃子に合わせて練り歩き、新年を祝う。白く塗った顔に、赤い線を2本引いた「狐メイク」の子たちも参加している。私もこの光景が懐かしい。
こうした行事が日本人の根底にある風習や信仰を親から子へと伝える役割を果たしている。日本の年中行事とは、風習や信仰と共にある働くことの尊さ、楽しさ、悲しみを内包しており、忘れ去ってはいけないものだろう。
江戸庶民の師走。清左衛門一家は師走の煤払いを終えた。
近所の住人たちがお互いの労働を労い清左衛門の家に集まった。
餅は勿論、鮮魚や果物、野菜、豆腐、厚揚げ、卵、鶏肉、根菜類など、家にあるものを持ち寄り一緒に飲食を始めた。
集まったのは与平、民夫婦。寅次、多美夫婦、喜平、涼夫婦、涼の娘お里である。
清左衛門は大枚を振る舞い、日本酒や地酒、
深川のどじょうや、川海老、フナや鯉などを千歳ら女房達が奥の台所で調理している。
清左衛門ら男達はお酒を飲みながら、江戸のら街の一年を振り返った。
すると、与平が先月起きた近江屋伊三郎の惨殺事件について語り始めた。
その事件の起きる二日前に近江屋で夫婦喧嘩があったという。
そしてその翌日、斬九郎と伊三郎の女房幸が船宿で密会している現場を目撃したという。
そして事件当日、斬九郎が事件から鋭い目つきをしながら走り去っていく姿を目撃したと言う。
清左衛門は与平の話しを聞いて、斬九郎が
近江屋伊三郎を惨殺した犯人であると断定したのである。
いよいよ、明日が斬九郎を誘きだして命のやりとり、つまり刀剣で決着をつける時だと心を決めたのであった。
to be continued
「緒方殿、しかし斬九郎は剣の達人ですぜ!」
「大丈夫ですか?」
「まあ。斬り合いになればお互い五分と五分じゃ。恐らく一瞬で決まるであろうよ。しかし斬九郎を見逃す訳にはいかぬ。丘八、この意味分かるな?」
「ヘイ、よく分かります」
「わしは元旗本である。斬九郎のような悪人を見逃す訳にはいかぬのじゃ」
「ヘイ、よく分かります」
「そうか。分かってくれるか」
「ヘイ」
清左衛門は幸と斬九郎の始末を師走と決めて丘八と一緒に準備を進めるのであった。
ーー前回までのあらすじENDーー
師走に入り、江戸の街も賑やかになって来た。
日本は古来より春夏秋冬の季節ごとに庶民が参加する催し物つまり今でいうイベントのようなものが各地で行われていた。
これらは地方の風土記のような記録に書類として記述されている。これらを総じて「年中行事」と呼ぶのだ。
宗教や農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午の節句や7月7日七夕などの節句まで、1~12月まで毎月数多くの街を賑やかにする催しがあり、今も日本社会に息づいている。
師走に入り清左衛門の家でも千歳や近所のご婦人達で協力し合い師走の年中行事である「煤払い」をしていた。
一家総出で煤やほこりを払って家中を清める。このような光景が江戸の至る所で見られた。
これに代表されるように、12月の行事は1年を締め括ると同時に、新しい年を迎える準備という、特別な意味を持っていたのだ。
煤払いが終わったあとは胴上げである。
江戸庶民はこれが当時の慣わしであり、近隣庶民との絆を深めていく手段であったのだ。
清左衛門、千歳の家族もそうであった。
まあ、煤払いは、今も各地の神社仏閣の恒例行事だが、江戸時代は武家や商人や町人の家も12月13日に行ったという記録がある。
13日に定着した理由を『東都歳事記』はこう記す。「大城の御煤払の例は寛永十七年庚辰十二月十三日に始りし由」
大城の煤払いは寛永17年12月13日から始まったゆえ、商人も町人もそれに倣ったのである。
畳を上げて箒などで叩くのに始まり、当時は照明には蝋燭や行灯、炊事には竃、暖房には炭を使用していたため、燃えカスも多く溜まっていた。それを徹底して払ったという。
私達現代の大掃除とは比べものにならないほど大変だったろう。煤払いは新しい年に向けた「お清め」の儀式であり、綺麗にした家に「神を招き入れる」為に念には念を入れたのである。
『東都歳事記』はこう続ける。「(煤払いのあとは)餅を祝ふ」ということである。
商人の家では、大掃除を終了すると餅をふるまい、酒を出したりした。
胴上げする者までいて、とにかく大騒ぎだったらしい。
奉公人総出で行う商家の煤払いの当時の様子が「東都歳事記」に記述されている。
どこの商人の家も煤払いが済むと胴上げで大騒ぎであった。
師走は新しい年を迎える高揚感がある。餅や酒、胴上げは、そうした興奮と楽しみから自然と湧き出たものだったのだから。
正月用品を買う客でごった返す歳の市も江戸の街の風物詩である。
煤払いが終わった翌日の14日からは歳の市が開催される。注連縄、門松など正月飾りや、海老など縁起が良いとされる海産物を販売する市で、深川の富岡八幡宮を皮切りにこれ各地で市が立った。煤払いできれいにした家に、新しい飾り物を付けるという江戸の年中行事は連動していたのだ。
最も規模が大きかったのは、浅草寺の歳の市だった。周辺の駒形、下谷、上野まで人であふれかえったというから、そのにぎわいは霜月の酉の市を上回ったことであろうよ。
浅草寺は通常、明六つ半に開門し、暮六つに閉門したが、歳の市の期間中は暁七つまで門が開いていたという。ちなみに現在、浅草寺で12月17日~19日に開催される羽子板市の前身が、この歳の市である。
餅搗きは、15日頃から市中で行われた。武家や大店(大きな商家)は、人に頼んで搗いてもらった。といっても、和菓子屋に依頼するわけではない。搗いたのは主に鳶(とび)だった。威勢の良い掛け声に人気があったのだ。数人一組で臼と杵(きね)を引きずって、大晦日まで各家を回ったので、引き摺り餅と呼んで江戸庶民を賑やかにさせた。
引き摺り餅に対して、和菓子屋がつくるのを賃餅といった。「餅は餅屋」のたとえに習えば、専門の菓子屋の賃餅の方が質は優れていようものだが、なぜか賃餅は格が落ち、世間体も悪いと考えられていた。この辺が、いかにも縁起と見栄にこだわる江戸の庶民らしいと私は思うが。
「まあ、師走の話しだがこの機会だ。
節分の話しもついでにしておこう」
清左衛門は千歳と弥生に引き続き話しをした。
節分は、「季節の節目」を意味する言葉で、元々は、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指のだよ。旧暦で立春は季節の始まりであるとともに、年の始まり(=正月)でもあったんだ。その前日(=大みそか)の節分は特に重要と考えられ、豆まきをして災厄を払ったのさ。
現在、節分と言えば2月3日(2日の年もある)が定着しているが、江戸時代は年の瀬の行事だったんだよ」
(豆まきについて)
いつから豆をまくようになったかは定かではないが「南北朝時代にはすでに病疫を追い払う追儺(ついな)の風習が入り込み『鬼は外、福は内』と唱えながら豆打ちをしていたことや、公家や武家だけでなく広く民間の行事になっていたことが『臥雲日件録』からもわかる」
もっとも追儺そのものは西暦706(慶雲3)年の大みそかに、すでに行われていたことが『続日本紀』に記されており、それがいつしか、鬼を追い払うのに豆を使うようなったという。一説には魔を滅する魔滅が「豆」に転訛したとも、それがまた「魔目を打つ」に転じたともいう。実際に江戸時代に入ると、「鬼の目」に向けて豆を投じる絵が多く描かれている。
また、豆をまくのは裃を着た年男の役割だった。
以下の日本画であるが
『絵本風俗往来』 『北斎漫画』では酒呑童子などの鬼退治で知られる坂田金時が鬼に豆をぶつけて追い払っている。
さて、最後は江戸庶民の大みそかだ。ここでは年越し蕎麦や除夜の鐘といった、誰もが知る風物詩は置いて、歴史の中に一度は消え去り、平成に入って再び注目された伝説を紹介したい。現在の東京都北区王子にあった「狐火」である。
かつて王子稲荷の門前に広がる田畑に、榎の巨木があった。大晦日の深夜、この木の下に関東に住む数千の狐が集まり稲荷に参詣し、狐たちが灯す火が連なったという。まあ、このような伝説だ。
稲荷はそもそも稲作や農業の神で、狐はその使者とされている。田畑に被害を及ぼすネズミを駆除してくれたからだ。稲荷がやがて商売繁盛の神として信奉されるようになっても、狐は変わらず使者とされ、ゆえに稲荷には狛狐がいる。
狐火の正体は、燐などが自然に発火した現象といわれる。しかし、人々は狐火の数でその年の豊凶を占い、農業や商売に励んだ。素朴な信仰の中に生きる苦労や楽しさが反映されていたのである。
王子の榎は1929年(昭和4)年に伐採され、碑だけが残った。だが、1993(平成5)年、この伝説を子どもたちに伝えようと、地元商店街が中心となって大みそかの深夜、「王子狐の行列」が始まった。狐の面をかぶりお囃子に合わせて練り歩き、新年を祝う。白く塗った顔に、赤い線を2本引いた「狐メイク」の子たちも参加している。私もこの光景が懐かしい。
こうした行事が日本人の根底にある風習や信仰を親から子へと伝える役割を果たしている。日本の年中行事とは、風習や信仰と共にある働くことの尊さ、楽しさ、悲しみを内包しており、忘れ去ってはいけないものだろう。
江戸庶民の師走。清左衛門一家は師走の煤払いを終えた。
近所の住人たちがお互いの労働を労い清左衛門の家に集まった。
餅は勿論、鮮魚や果物、野菜、豆腐、厚揚げ、卵、鶏肉、根菜類など、家にあるものを持ち寄り一緒に飲食を始めた。
集まったのは与平、民夫婦。寅次、多美夫婦、喜平、涼夫婦、涼の娘お里である。
清左衛門は大枚を振る舞い、日本酒や地酒、
深川のどじょうや、川海老、フナや鯉などを千歳ら女房達が奥の台所で調理している。
清左衛門ら男達はお酒を飲みながら、江戸のら街の一年を振り返った。
すると、与平が先月起きた近江屋伊三郎の惨殺事件について語り始めた。
その事件の起きる二日前に近江屋で夫婦喧嘩があったという。
そしてその翌日、斬九郎と伊三郎の女房幸が船宿で密会している現場を目撃したという。
そして事件当日、斬九郎が事件から鋭い目つきをしながら走り去っていく姿を目撃したと言う。
清左衛門は与平の話しを聞いて、斬九郎が
近江屋伊三郎を惨殺した犯人であると断定したのである。
いよいよ、明日が斬九郎を誘きだして命のやりとり、つまり刀剣で決着をつける時だと心を決めたのであった。
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