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第十一章
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睦月の終わりの頃のある日、丘八は駿府城下の居酒屋にいた。江戸で起きた事件の探索の為である。時刻は暮六つであった。
「女将、田楽とマグロの刺身と芋の煮っ転がしと熱燗をお銚子一本で」
「あいよ」
女将はそういうと調理場へ行った。しばらくして、女将が田楽、マグロの刺身、芋の煮っ転がし、お銚子一本を持って来た。
江戸時代の居酒屋で人気があったのは、田楽と芋の煮っ転がしであった。特に田楽は豆腐に串を差し味噌を刷毛で塗った物を食べたという。また、マグロは当時、安く庶民の人気メニューであった。
さて、丘八は日本左衛門の末裔のその後の消息を探索していた。尾張の探索を終え、駿府城下に入り、もう一週間になる。しかし、丘八はこの居酒屋で知り合いになった男からある情報を聞いていた。その情報とは。日本左衛門の末裔がこの城下にいると言う。名前は雲霧仁左衛門と言う。丘八はその雲霧のことを彦次郎から聞き出そうと思っている。「いらっしゃい」
女将が入口の方を見ながら言った。入ってきたのは、彦次郎であった。
「やあ、彦さん」「丘さん、遅くなったね」
「まあ、座んな」「あー」
女将がやって来た。
「何にしましょうか?」
「おでん、マグロの刺身とお銚子一本」
「あいよ」
女将は注文を聞いて、調理場へ向かった。
「で、どうだった。何かいい情報はあるかい」
「もちろんあったよ。雲霧なんだけど今じゃあ50人規模の盗人稼業だよ。それがわかったんだ」
「そんなに残党がいるのか?」
「そうだよ。今どこも仕事がなくてね。江戸もそうだけど。庶民の暮らしはかなり厳しいんだ。江戸の大きい商いをしている両替商を始め米問屋、乾物、呉服屋問屋は、江戸に集まる大名屋敷、そして旗本、御家人などが集まるところは、商いは成り立つが、この駿府においては、どの商いもうまくいっていない。商いとして成り立っているのは、魚の商い位なもんだよ」
「それはひでえゃ」
「探索していて、いろいろわかったよ。雲霧一味が如月の初めに江戸の街に入り込むらしい。この情報は、確かな筋のものからで、まず間違いないと思うよ。ただ大晦日の事件と関わっているかどうかはわからない」
「ありかてえ。それだけの情報があれば、俺も頼まれたお方にいい土産話ができる。彦さん、ありがとうよ」
「丘さん、いいってことよ。また何でも、頼みにおいで。協力させてもらうよ」
「彦さん、ありがと」
そう言って丘八は彦二郎に3両を手渡した。このお金は彦二郎に探索をしてもらったお礼であった。「じゃあ、彦さん、俺は江戸に帰るよ」「分かった。道中気をつけてな」
「ありがとうよ。彦さん」
丘八は店の勘定を済ませて、居酒屋を後にした。
丘八は半月ぶりに江戸の街に帰ったのであった。
さて、現代でも人気のある居酒屋について、皆さんにご説明しよう。私も居酒屋をよく利用する。居酒屋愛好家である。居酒屋と言えば関西では炉端焼きのイメージが強かった。
さて、今回、この小説の執筆に当たり、居酒屋の歴史を調べてみた。
居酒屋の発祥であるが江戸時代は、食文化が飛躍的に発展した時代であった。
よく昔から言われているが、
「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の呑み倒れ」という言葉があるように、居酒屋が現れたのは江戸時代だった。
食文化史研究家・飯野亮一の「居酒屋の誕生」(筑摩書房)によると、1811(文化8)年には、江戸に1808軒の居酒屋(当時の煮売り酒屋)が存在しており、居酒屋は飲食業をリードするまでに発展していたという。なお煮売りとは、飯や副食物とする魚・野菜・豆などを煮て売ることで、その煮売りを兼業した居酒屋が煮売り酒屋であった。
歴史学者・北原進の「百万都市 江戸の生活」によると、当時の江戸の人口は少ないときで約100万人、通常は120万人程度だったという。そのうち、武家の人口は50数万人を占めていた。その背景には、江戸が将軍のお膝元であり、地方の大名たちが常に江戸に参勤していたからだ。
武家以外の一般庶民の数は50万人前後であった。
特に1700年代前半は人口の男女比率が不均衡で、男性が圧倒的に多かった。
実際、1721年の江戸の人口は50万1394人で、男性は32万3285人(64%)。なお1733年は、男性人口が34万人(64%)に対して女性が19万人、1747年は、男性が32万人(63%)、女性が19万人。居酒屋の発祥・発展に影響を及ぼしたのは、こうした社会構造であったという。
江戸の酒屋は独り身や労働者の人たちが気軽に酒が飲める場所で、酒を量り売りし、店先でも飲めたのだ。これを居酒という。
そうした酒屋のなかで、新たなビジネスモデルを使って繁盛した店がある。それが、神田鎌倉河岸(千代田区内神田)にあった豊島屋である。
豊島屋は当時から居酒を提供。1736(元文元)年には酒だけでなく、田楽も安く売り、大繁盛していた。現在も千代田区(神田猿楽町に移転)で酒屋として営業しており、江戸時代に人気を博した白酒も、ひな祭りの時期に期間限定で販売している。
そして1748年から1751年頃にかけて、居酒屋という言葉が使われ始めた。今から275年前である。
当時、飲食を提供する場所としての居酒屋は、酒を主な飲み物として提供する酒屋とは別業種として区別されていた。酒屋から居酒屋へ転業したり、煮売り茶屋から居酒屋へ転業したりと、年月を経て前述の煮売り酒屋という業種が発展したのだ。
参勤交代は現在の単身赴任であり、武士も自炊をしなければならなかった。また、町民の男性もまた自炊が必要であった。長屋に住む独身男性が狭い台所で、しかも火をおこすことはとても面倒な作業だったのだ。
そうしたことから、彼らは気軽に飲食できる酒屋や煮物を売る煮売り茶屋を利用することが多く、結果、酒と食べ物を提供する居酒屋という形態の業種が生まれ、発展していったのだ。
上方より江戸のほうがおいしい酒が飲めた訳は、食文化はもともと、江戸より上方(京都およびその周辺)の方が発展していた。酒も同様である。そのため、伊丹や池田、灘などで作られた酒が江戸まで運ばれ、飲まれていたのだ。これを「下り酒」といい、その中でも、伊丹や灘の酒の名声は高いものであった。
酒は元々、上方から馬で陸送されていた。寛永年間(1624~1644年)には樽回船で運ばれるようになった。その後、正保年間(1644~1684年)には、菱垣廻船(注釈1)で大量に輸送することが可能になりました。さらに1730(享保15)年からは、より速度の速い酒専用のたる回船で運ばれるようになり、多くの酒が上方から江戸へ供給できるようになったのです。
菱垣廻船の画像イメージ
(注釈1)
菱垣廻船は、江戸時代に大坂と江戸を結び、木綿、油、酒、醤油などの日用品を運んだ貨物船である。船体の両舷に菱形の格子状の垣(垣立)が設けられていたことから、この名が付いた。
菱垣廻船は、1619年に堺の商人が大坂から江戸へ物資を輸送したのが始まりとされ、1624年には大坂の泉屋平右衛門が船問屋を開業し、大坂と江戸間の定期輸送が確立された。
菱垣廻船は、弁才船をベースとした堅牢な木造帆船で、船体の側面には、積荷の落下防止と装飾を兼ねて、檜板や竹で編んだ菱組の格子が取り付けられていた。主に食料品や日用品、道具類など、かさばる荷物を運搬していた。
1730年頃に酒荷専用の樽廻船が登場し、菱垣廻船と競合するようになる。樽廻船は酒以外の雑貨も運ぶようになり、輸送速度の速さから次第に菱垣廻船を圧倒した。
17世紀末には江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋が菱垣廻船を支配し、輸送を独占した。しかし、天保の株仲間解散や樽廻船との競争激化により、幕末期には急速に衰退し、明治維新でその歴史に幕を閉じる。
菱垣廻船は、大坂と江戸を結ぶ太平洋側の定期航路で活躍した。江戸の発展と大坂の商業を支える海の物流の要として、重要な役割を担った。
1724年から1731年までの酒の年間平均積載量は、約22万だるに上った。この傾向は長く続き、1795(寛政7)年から1801(享和元)年までの年間平均積載量は約81万だるとなる。1たるは4斗(18l)入りで、1.8lの瓶40本分。
江戸での下り酒の需要が高かった理由のひとつが、味である。
江戸に運ばれたのは、諸白酒。麹米、蒸米とも精白した米で造った酒である。船で輸送されている間に酒は熟成し、味が変化。まろやかで芳醇な香りになっていたという。
出荷元である上方は、江戸まで輸送したたるを江戸で下ろさず、いくつか残したまま上方まで再度運んでいた。酒を熟成させる為だ。なお、上方ではその酒を富士見酒と呼び、称賛した。
このように江戸への輸送時間が美味しい酒を造り、その酒が江戸の人たちを魅了して、酒の味が人々の心まで癒したのだ。酒の味がよく需要が高かったことは、提供する居酒屋の発展にも影響を及ぼしたのだ。当時はすべて熱燗で提供された。勿論、1年間通してである。
慶安年間(1648~1652年)には飲酒量を競う「大酒会」などが盛んに行われ、ときを挟んで、19世紀に入って再び行われるようになった。
その中でも、有名な催しが江戸四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)のひとつである千住で行われた千住酒合戦てある。
この大酒会の記録はさまざまな書籍に残っており、当時の狂歌のスーパースターだった大田南畝も、これについて記述を残している。この酒合戦は、千住の商家・中屋六右衛門の還暦を祝うもので、多様な人たち総勢約100人が参加したという。
江戸文化研究者・田中優子の「江戸はネットワーク」(平凡社)によると、参加者の飲酒量はかなりのものだったらしい。
例えば、62歳男性は3升5合(6.3l)、大長という男性は4升と次の朝に1升5合、ある農民はとうがらし三つをさかなに4升5合、米屋の者は3升7合、小山(栃木県)の者は7升5合など酒を飲んだという。
その他この酒合戦には浅草や馬喰町から駆けつけた者や、芸者や飲食店の女性、江戸の文芸人たち、会津からの旅人なども参加している。
女性はお酒が好きだった。
ここから分かるのは、男女・職業を問わない多様な人たちによる酒を通じた交流や、江戸の人たちの酒好きであろう。こうした人たちが、日常生活の中で気軽に飲める場所が江戸の居酒屋だったのだ。
また、量り売りの酒を自宅に持ち帰って飲む風習もあった。
「女将、田楽とマグロの刺身と芋の煮っ転がしと熱燗をお銚子一本で」
「あいよ」
女将はそういうと調理場へ行った。しばらくして、女将が田楽、マグロの刺身、芋の煮っ転がし、お銚子一本を持って来た。
江戸時代の居酒屋で人気があったのは、田楽と芋の煮っ転がしであった。特に田楽は豆腐に串を差し味噌を刷毛で塗った物を食べたという。また、マグロは当時、安く庶民の人気メニューであった。
さて、丘八は日本左衛門の末裔のその後の消息を探索していた。尾張の探索を終え、駿府城下に入り、もう一週間になる。しかし、丘八はこの居酒屋で知り合いになった男からある情報を聞いていた。その情報とは。日本左衛門の末裔がこの城下にいると言う。名前は雲霧仁左衛門と言う。丘八はその雲霧のことを彦次郎から聞き出そうと思っている。「いらっしゃい」
女将が入口の方を見ながら言った。入ってきたのは、彦次郎であった。
「やあ、彦さん」「丘さん、遅くなったね」
「まあ、座んな」「あー」
女将がやって来た。
「何にしましょうか?」
「おでん、マグロの刺身とお銚子一本」
「あいよ」
女将は注文を聞いて、調理場へ向かった。
「で、どうだった。何かいい情報はあるかい」
「もちろんあったよ。雲霧なんだけど今じゃあ50人規模の盗人稼業だよ。それがわかったんだ」
「そんなに残党がいるのか?」
「そうだよ。今どこも仕事がなくてね。江戸もそうだけど。庶民の暮らしはかなり厳しいんだ。江戸の大きい商いをしている両替商を始め米問屋、乾物、呉服屋問屋は、江戸に集まる大名屋敷、そして旗本、御家人などが集まるところは、商いは成り立つが、この駿府においては、どの商いもうまくいっていない。商いとして成り立っているのは、魚の商い位なもんだよ」
「それはひでえゃ」
「探索していて、いろいろわかったよ。雲霧一味が如月の初めに江戸の街に入り込むらしい。この情報は、確かな筋のものからで、まず間違いないと思うよ。ただ大晦日の事件と関わっているかどうかはわからない」
「ありかてえ。それだけの情報があれば、俺も頼まれたお方にいい土産話ができる。彦さん、ありがとうよ」
「丘さん、いいってことよ。また何でも、頼みにおいで。協力させてもらうよ」
「彦さん、ありがと」
そう言って丘八は彦二郎に3両を手渡した。このお金は彦二郎に探索をしてもらったお礼であった。「じゃあ、彦さん、俺は江戸に帰るよ」「分かった。道中気をつけてな」
「ありがとうよ。彦さん」
丘八は店の勘定を済ませて、居酒屋を後にした。
丘八は半月ぶりに江戸の街に帰ったのであった。
さて、現代でも人気のある居酒屋について、皆さんにご説明しよう。私も居酒屋をよく利用する。居酒屋愛好家である。居酒屋と言えば関西では炉端焼きのイメージが強かった。
さて、今回、この小説の執筆に当たり、居酒屋の歴史を調べてみた。
居酒屋の発祥であるが江戸時代は、食文化が飛躍的に発展した時代であった。
よく昔から言われているが、
「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の呑み倒れ」という言葉があるように、居酒屋が現れたのは江戸時代だった。
食文化史研究家・飯野亮一の「居酒屋の誕生」(筑摩書房)によると、1811(文化8)年には、江戸に1808軒の居酒屋(当時の煮売り酒屋)が存在しており、居酒屋は飲食業をリードするまでに発展していたという。なお煮売りとは、飯や副食物とする魚・野菜・豆などを煮て売ることで、その煮売りを兼業した居酒屋が煮売り酒屋であった。
歴史学者・北原進の「百万都市 江戸の生活」によると、当時の江戸の人口は少ないときで約100万人、通常は120万人程度だったという。そのうち、武家の人口は50数万人を占めていた。その背景には、江戸が将軍のお膝元であり、地方の大名たちが常に江戸に参勤していたからだ。
武家以外の一般庶民の数は50万人前後であった。
特に1700年代前半は人口の男女比率が不均衡で、男性が圧倒的に多かった。
実際、1721年の江戸の人口は50万1394人で、男性は32万3285人(64%)。なお1733年は、男性人口が34万人(64%)に対して女性が19万人、1747年は、男性が32万人(63%)、女性が19万人。居酒屋の発祥・発展に影響を及ぼしたのは、こうした社会構造であったという。
江戸の酒屋は独り身や労働者の人たちが気軽に酒が飲める場所で、酒を量り売りし、店先でも飲めたのだ。これを居酒という。
そうした酒屋のなかで、新たなビジネスモデルを使って繁盛した店がある。それが、神田鎌倉河岸(千代田区内神田)にあった豊島屋である。
豊島屋は当時から居酒を提供。1736(元文元)年には酒だけでなく、田楽も安く売り、大繁盛していた。現在も千代田区(神田猿楽町に移転)で酒屋として営業しており、江戸時代に人気を博した白酒も、ひな祭りの時期に期間限定で販売している。
そして1748年から1751年頃にかけて、居酒屋という言葉が使われ始めた。今から275年前である。
当時、飲食を提供する場所としての居酒屋は、酒を主な飲み物として提供する酒屋とは別業種として区別されていた。酒屋から居酒屋へ転業したり、煮売り茶屋から居酒屋へ転業したりと、年月を経て前述の煮売り酒屋という業種が発展したのだ。
参勤交代は現在の単身赴任であり、武士も自炊をしなければならなかった。また、町民の男性もまた自炊が必要であった。長屋に住む独身男性が狭い台所で、しかも火をおこすことはとても面倒な作業だったのだ。
そうしたことから、彼らは気軽に飲食できる酒屋や煮物を売る煮売り茶屋を利用することが多く、結果、酒と食べ物を提供する居酒屋という形態の業種が生まれ、発展していったのだ。
上方より江戸のほうがおいしい酒が飲めた訳は、食文化はもともと、江戸より上方(京都およびその周辺)の方が発展していた。酒も同様である。そのため、伊丹や池田、灘などで作られた酒が江戸まで運ばれ、飲まれていたのだ。これを「下り酒」といい、その中でも、伊丹や灘の酒の名声は高いものであった。
酒は元々、上方から馬で陸送されていた。寛永年間(1624~1644年)には樽回船で運ばれるようになった。その後、正保年間(1644~1684年)には、菱垣廻船(注釈1)で大量に輸送することが可能になりました。さらに1730(享保15)年からは、より速度の速い酒専用のたる回船で運ばれるようになり、多くの酒が上方から江戸へ供給できるようになったのです。
菱垣廻船の画像イメージ
(注釈1)
菱垣廻船は、江戸時代に大坂と江戸を結び、木綿、油、酒、醤油などの日用品を運んだ貨物船である。船体の両舷に菱形の格子状の垣(垣立)が設けられていたことから、この名が付いた。
菱垣廻船は、1619年に堺の商人が大坂から江戸へ物資を輸送したのが始まりとされ、1624年には大坂の泉屋平右衛門が船問屋を開業し、大坂と江戸間の定期輸送が確立された。
菱垣廻船は、弁才船をベースとした堅牢な木造帆船で、船体の側面には、積荷の落下防止と装飾を兼ねて、檜板や竹で編んだ菱組の格子が取り付けられていた。主に食料品や日用品、道具類など、かさばる荷物を運搬していた。
1730年頃に酒荷専用の樽廻船が登場し、菱垣廻船と競合するようになる。樽廻船は酒以外の雑貨も運ぶようになり、輸送速度の速さから次第に菱垣廻船を圧倒した。
17世紀末には江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋が菱垣廻船を支配し、輸送を独占した。しかし、天保の株仲間解散や樽廻船との競争激化により、幕末期には急速に衰退し、明治維新でその歴史に幕を閉じる。
菱垣廻船は、大坂と江戸を結ぶ太平洋側の定期航路で活躍した。江戸の発展と大坂の商業を支える海の物流の要として、重要な役割を担った。
1724年から1731年までの酒の年間平均積載量は、約22万だるに上った。この傾向は長く続き、1795(寛政7)年から1801(享和元)年までの年間平均積載量は約81万だるとなる。1たるは4斗(18l)入りで、1.8lの瓶40本分。
江戸での下り酒の需要が高かった理由のひとつが、味である。
江戸に運ばれたのは、諸白酒。麹米、蒸米とも精白した米で造った酒である。船で輸送されている間に酒は熟成し、味が変化。まろやかで芳醇な香りになっていたという。
出荷元である上方は、江戸まで輸送したたるを江戸で下ろさず、いくつか残したまま上方まで再度運んでいた。酒を熟成させる為だ。なお、上方ではその酒を富士見酒と呼び、称賛した。
このように江戸への輸送時間が美味しい酒を造り、その酒が江戸の人たちを魅了して、酒の味が人々の心まで癒したのだ。酒の味がよく需要が高かったことは、提供する居酒屋の発展にも影響を及ぼしたのだ。当時はすべて熱燗で提供された。勿論、1年間通してである。
慶安年間(1648~1652年)には飲酒量を競う「大酒会」などが盛んに行われ、ときを挟んで、19世紀に入って再び行われるようになった。
その中でも、有名な催しが江戸四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)のひとつである千住で行われた千住酒合戦てある。
この大酒会の記録はさまざまな書籍に残っており、当時の狂歌のスーパースターだった大田南畝も、これについて記述を残している。この酒合戦は、千住の商家・中屋六右衛門の還暦を祝うもので、多様な人たち総勢約100人が参加したという。
江戸文化研究者・田中優子の「江戸はネットワーク」(平凡社)によると、参加者の飲酒量はかなりのものだったらしい。
例えば、62歳男性は3升5合(6.3l)、大長という男性は4升と次の朝に1升5合、ある農民はとうがらし三つをさかなに4升5合、米屋の者は3升7合、小山(栃木県)の者は7升5合など酒を飲んだという。
その他この酒合戦には浅草や馬喰町から駆けつけた者や、芸者や飲食店の女性、江戸の文芸人たち、会津からの旅人なども参加している。
女性はお酒が好きだった。
ここから分かるのは、男女・職業を問わない多様な人たちによる酒を通じた交流や、江戸の人たちの酒好きであろう。こうした人たちが、日常生活の中で気軽に飲める場所が江戸の居酒屋だったのだ。
また、量り売りの酒を自宅に持ち帰って飲む風習もあった。
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