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日月神示物語 人間に宿る悪を徹底に解剖する!その一
この話はあまりしたくなかった。
というのは、私自身が『悪』であったからだ。
私にはある哲学的思想があった。
「人間、普通に生きるなんてつまらない。勝ち組になってやる!その為には人一倍勉強して高等教育を受けて東大法学部に進学し卒業後は上級国家公務員試験に合格し、高級官僚になり、この国を思い通りに操ってやる!』
そう、この時、私は悪魔に魂を売ったのでした。
私が中学二年生になった時でした。
その為にはどうしても地元の有名な公立高校へ進学する必要があったのです。
しかし、当時その高校に進学するためには内申書の評点が10段階評価で平均値9.5点以上なければ、合格できなかったのです。
私は中学1年の時、年2回の中間テストと期末テストを受けなければならないのに、皮膚病になったために半年学校を休み、期末テストしか受けていなかったのです。
そのために、私の1年生のときの評点は「平均値6.0」だったのです。
しなし、どうしても東京大学法学部に行くためには、地元のその公立高校に合格する必要があったのです。私は中学2年になった時から猛勉強を開始しました。
その努力の甲斐があって2年生の評点は「オール10」3年生の評点も「オール10」だったのです。勿論、その中学校では全校生徒400人中1番だったのでした。
しかし、高校受験の内申書は中学3年間で「平均値は8.0」だったのです。
その為担任の先生からは、高校受験の志望校変更をするように強く勧められました。
その高校は尾道にある有名な進学校でした。
しかし、私は担任の先生の話を聞かずに福山にある江戸時代からある伝統校つまり福山藩の藩校であったその進学校を無理をして、受験をしたのでした。
しかし、内申書の評点が「平均値8.0」ではとても合格することはできません。
当時その高校は新校舎を建設中で一学年の定員は例年なら450名だったのですが、新校舎を建設中であったために3月中旬までに新校舎が完成すれば、例年通りの定員数450名を合格にする。しかし、完成しなければ定員数は350名にするこなとが発表されたのでした。
それでも私は受験をしたのでした。
結果は「補欠の21番でした」
後で知ったのですが補欠の19番まで合格したそうです。
私は三日間、二階の自室に籠り布団の中で一日中、泣いて過ごしたのでした。
結局、滑り留めの私立の男子校に進学することになったのでした。
その高校は広島県東部では最もワルの集まる学校でした。
しかし、私は東京大学法学部を目指して猛勉強を開始します。
担任の先生にお願いし、『大学受験のための特別進学コースを設けてほしい』と申し入れたのです。
しかし、担任の先生の話は次のようなものでした。
「学校教育はみんな、平等です。そのような特別クラスを作ることはできません。もし勉強したいなら予備校でも行って個人的に勉強してください」
というものでした。私は母に頼み、母の従姉弟
が東京大学法学部を卒業し外務省へ入省し、外務省から一人だけイギリスのオックスフォード大学へ進学し、4年間学問を学び、首席で卒業したことを聞かされたのです。その従姉弟は当時ペルー大使でした。
フジモリ大統領の時です。
しかも彼の母親は第五十八代内閣総理大臣の従兄妹だったのです。
私はその話を聞くや否や、またもや、向学心に燃えたのでした。
その日から私の独学が始まったのです。
先ずNHKラジオ番組の英会話を聴いて発音と日常会話の勉強をしました。
蛍雪時代という図書を購入し、毎日勉強をします。そしてZ会の通信教育の添削を開始しました。
そして受験対策用の赤本「東京大学」を購入し猛勉強を開始しました。
従って高校の授業の予習や復習は一切しませんでした。ただ、授業だけは真面目に出席し、真面目に勉強をしました。そのおかげで同学年でいつも1番でした。
私は高校一年の時、同じ中学校卒業のS君と友達になりました。S君は高校で一番喧嘩が強かったのです。彼は柔道の黒帯だったのです。親父さんは土建会社を経営するヤクザだったのです。S君のお陰で私は一躍有名になり、ワルの仲間になることが出来たのです。しかし、勉強は好きでした。
高校二年生の時、17歳ですが、福山駅で女性25歳位の美人に声を掛けられたのでした。
彼女は喫茶店を経営するオーナーの奥さんでした。所謂人妻でした。
彼女に誘われて福山駅南口から徒歩15分位の路地裏にあった同伴喫茶店に入店しました。
料金は飲み物込みで1時間1000円でした。
私と彼女は生ビールを注文して飲みました。
私と彼女はその時肉体関係を持ったのです。
彼女とは高校を卒業するまで関係が続きました。
次に知り合ったのは、通学中の電車の中でした。女子短大生に声を掛けられたのでした。その日は仮病の連絡をお互いの学校に電話し、その日は彼女とデートしました。また、同じ同伴喫茶店に行き、関係を結びました。彼女は私のことが好きだったのですが、私は大学に進学するという目標があったので、彼女とはすぐに別れたのです。
次に知り合ったのはキャバレーに勤める女性でした。後で知ったのですが、彼女はヤクザに貢がされていたのです。私は彼女に誘われるまま、ラブホテルで関係を結んだのでした。
しかし、彼女が自殺したことを地元新聞の三面記事で知ったのでした。覚醒剤中毒が原因だったそうです。
私は付き合っていた女性が死ぬという経験を初めて経験したのでした。
兎に角、私は女性にモテた。何故、こんなにモテたのか分かりません。
私から女性に声を掛けることは一切ありませんでした。すべて女性の方から声を掛けて来たのです。私は身長175cm。武道は空手道。胸板は厚く、また、水泳、マラソンなどスポーツ万能でした。何よりも勉強が出来たのです。
私はある日、S君の紹介で不良少女と交際を始めたのでした。彼女は暴走族のリーダーだったのです。世間でいう所の所謂スケバンです。身長163cm。顔の輪郭は整っていて、鼻筋は通り目は大きく二重瞼。何よりも8頭身美人のゴールデンプロポーションの美貌の持ち主だったのです。私は彼女に一目惚れをしたのです。そうしてお互い愛し合い、いつかは一緒になろうと思っていたのでした。しかし、悲しい別れはある日、突然やってきたのでした。
彼女はいつもノーヘルメットで450ccのバイクを乗り回していたのです。彼女は雨に濡れた路面で急カーブを回りきれずに転倒し、頭を路面に叩きつけられて、頭から脳みそは出て即死したのです。
私は翌日、S君から彼女がバイクの事故で死んだと言うのを聞いたのでした。
私は今度は結婚を考えていた女性を失ったのでした。
私はしばらくの間、彼女の死を受け入れることができなかったのです。
その彼女の死かは一ケ月後から私はまた、猛勉強を開始しした。高校三年生の時には第一志望の東京大学法学部受験を諦めて、公立大学の大阪市立大学商学部を受験することに決めました。というのは、家庭の金銭的事情があったからです。私の家は母子家庭でした。母親と妹、私、そして母方の祖父母と同居していたのです。
母の実家は専業農家でした。祖父は人脈がありましたので、尾道の不動産会社を経営する社長にうまい話があるからといって、不動産取引を手伝うようになったのです。その顧客は全て祖父の紹介でした。祖父は広島県東部では知らない人がいない位の人脈と人望があったのでした。
何よりも祖父のお兄さんの奥さんは池田勇人総理大臣の従兄妹だったのです。また、池田勇人夫人の池田満枝夫人とも従姉妹だったのです。
私は福山出身の宮澤喜一国会議員の奨学金の給付を受けていたのです。中学校の成績優秀者に対して、高校3年間の間、毎月3000円の奨学金を支給すると言うものでした。私はその奨学金を受けることができたのです。福山市では私1人だけでした。
私は当時から恵まれていたのです。当時、私私が通う私立の高校の授業料は1ヵ月3000円でした。という事は、奨学金で授業料を全て払うことができたのです。私は母親に負担をかけることなく高校を卒業しました。
そして大阪市立大学商学部に合格したのです。
大阪市立大学の入学金は、大阪市外の学生は
7500円でした。半期の授業料は6000円でした。日本全国の大学の中で1番授業料と入学金が安かったのです。
またしても、私は恵まれたのでした。
大阪市立大学は名門大学であったために家庭教師のアルバイトがたくさんありました。ほとんどの学生は、家庭教師のアルバイトをしていたのです。
私も家庭教師のアルバイトをしました。
私が家庭教師をした方は同じ大学商学部の先輩で、大阪の北浜で中堅の証券会社を経営する創業者一族だったのです。毎週火曜日と金曜日週2回4時間つまり月8回、延べ時間16時間の報酬は月20000円でした。年2回、6月と12月にボーナスが支給されたのでした。
勿論、私の誕生日の時は誕生会をご自宅で開催していただきました。毎回家庭教師に行ったときには、紅茶とケーキが準備されていて、私はいつもその紅茶を飲みケーキを食べていたのです。
私はまたしても、素晴らしい人々と親しくお付き合いすることができたのでした。
また、母親の小学生時代の友人が高石市に住んでいました。既にご主人が労働災害に遭い未亡人となっておられました。その娘さんが私と同じ学年で神戸女子学院大学に進学していたのです。
私は彼女と交際することになりました。
私は久しぶりに女性と関係を持つことができたのです。
彼女は私に夢中になりました。何故なら私がハンサムだったからです。
普通は神戸女子学院大学の女性たちは、神戸大学の男性と交際をするというのがセオリーでした。しかし、彼女は私を選んだのでした。
私は彼女と交際をして家族ぐるみのお付き合いをしました。
彼女の母親は大阪の難波では、有名な老舗寿司店を経営する一族だったのです。私が行くといつも2階の個室に案内されて最高のお寿司を提供していただきました。すべて無料です。
これも私の母親のお陰でした。
実は私の母親と彼女の母親の間には第二次世界大戦中の時に、大阪の空襲がひどくなった時、広島県松永市今津町にあった薬師寺に集団疎開で住むようになり、近所であったために私の母と交際するようになったのです。
当時は、食料不足で、食べ物がなく、彼女の母親の妹はお腹が空いて歯磨き粉を食べたために、食あたりをして大変難儀をしたそうです。その話を聞いた私の祖父母は彼女の母親姉妹を自宅に招き、一緒に食事を食べるようになったのです。
食事を終えると、お寺に帰って行ったと言うことです。
このことを彼女の母親のお父さんが聞いたために、大層喜ばれたそうです。
そうして、終戦を迎えそれぞれ新しい人生が始まったのでした。
そうして私の母と彼女の母は結婚をして別々の人生を歩んでいたのですが、私が大学へ進学すると同時にまた、こうしてお付き合いをすることになったのです。
私はよく彼女の自宅に寝泊まりをしていましたので、2人の下着姿はよく目にしています。
このような関係が続いていたのですが、またしても彼女と悲しい別れをすることになったのでした。彼女が胃癌になり手遅れだったのです。もっと早く自分の母親に相談をして治療をしていれば間に合っただろうに、と思うと残念でなりません。私が彼女と知り合って、翌年の3月に彼女は亡くなったのです。
私にとっては、結婚をしようと考えていたのに、またしても、最愛の女性を失ったのです。
翌年、今度は先輩の彼女の紹介で大阪本町にある相愛短期女子大学の学生であった女性と知り合い、交際を始めました。彼女は当時19歳。私は21歳でした。私達は恋愛をし、またしても肉体関係を持ったのでした。
そして大学2年生の時に結納を交わしたのでした。
私は今度こそ、幸せな家庭を築くのだと、新たな決意をしたのでした。
そうして8月には就職内定が決まり、10月1日から始まった就職解禁日には、サンスター歯磨株式会社の保養所にいたのです。
そうです。私は青田買いで当時の労働省と大学教育機関と各企業との間の協定を破り、既に就職内定が決まっていたのでした。
私と同じ日に長野県白馬村の保養所にいたのは、私を含めた6人でした。この6人は将来の幹部候補生だったのです。
私たちは一週間の間、サンスター歯磨株式会社の保養所に缶詰になっていたのです。
この研修が終わった後に、下宿に帰った時、まだほとんどの学生が就職が決まっていませんでした。当時は、日本経済にとって冬の時代だったのです。
私は本当に恵まれていたのです。
すべてのことが順調にはかどっていくので、むしろ怖い位でした。本当にこんなに幸せで良いのだろうか、という人生だったのです。
入社して、10月8日の日に、彼女と結婚式を挙げたのです。私は名実ともに世帯を持ったのでした。新婚当初の住まいは、大阪府茨木市大池という阪急京都線茨木市駅近くの2LDKの賃貸マンションでした。家賃は駐車料金込みで53000円でした。
私はサンスター歯磨株式会社兵庫営業所に配属になり、サンスターの営業車を乗り神戸市布引町にある営業所まで通勤したのです。
毎日の通勤ルートは、名神高速道路茨木インターチェンジから西宮北インターチェンジを経由し、阪神高速道路に乗り、阪神高速道路生田川出口で出るのです。そこからは一般道路を走り、布引町にある営業所まで車で10分で到着しました。
これが私の月曜日から金曜日までの通勤ルートでした。土曜日と日曜日は会社の休日でした。
私はサンスター歯磨株式会社で約5年10ケ月在職し、東京支店の栄転という人事異動断ったために、退職せざるを得なくなったのです。
この話についてはまたの機会にお話しいたします。
さて、前置きが長くなりました。
今回のテーマは悪を徹底的に考えてみること、ということです。
抑々この悪とは善の反対又は欠如、深い邪悪さを意味する言葉である。
悪は、一般的な意味では、善の反対又は欠如である。非常に広い概念であることもあるが、日常的な使い方では、より狭い範囲で深い邪悪さを表現することが多い。それは一般的に、複数の可能な形をとると考えられている。例えば、悪と一般的に関連している個人的な道徳的悪又は非個人的な自然的悪(自然災害又は病気の場合のように)の形や、宗教的思想に於いては悪魔的または超自然的や永遠的な形などであると言える。
悪は重大な不道徳を意味することもあるが一般的には、人間の状態を理解する上で何らかの根拠がないわけではなく、そこでは争いや苦しみが悪の真の根源である。
例えばある宗教的文脈では、悪は超自然的な力と表現されてきた。
悪の定義は様々であり、その動機の分析も様々であると言える。
個人的な悪の形態と一般的に関連する要素には、怒り、復讐、恐怖、憎悪、心理的トラウマ、便宜主義、利己主義、無知、破壊または無視を含む不均衡な行動が含まれるのである。
悪は、善とは反対の二元的な敵対的二元論として認識されることがあるものだ。
その場合、善が勝ち、悪は打ち負かされるべきとされる。
仏教の精神的影響力を持つ文化では、善と悪の両方が対立的な二面性の一部として認識されており、それ自体は成仏によって克服されなければならないものとされる。
善と悪に関する哲学的な問題は、善と悪の性質に関するメタ倫理学、どの様に行動すべきかに関する規範倫理学、特定の道徳的問題に関する応用倫理学という3つの主要な研究領域に包含されているのである。
この用語は、行為主体を伴わない事象や状況に適用されるが、この記事で扱う悪の形態は、悪人又はその実行者を想定しているものである。
宗教や哲学の中には、人間を記述する際に悪の存在や有用性を否定するものもあると言うことが出来る。
日本語に於ける「悪」について
日本語における「悪」という言葉は、元々剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。
例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、江戸時代初期に権勢を振るった以心崇伝はその強引な政治手法により「大欲山気根院僭上寺悪国師」と評された。
鎌倉時代末期に於ける悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味でよく使われた。
本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、或いは徴兵した軍隊に於ける連携的な行動の妨げになり、これ故に古代中国に於ける「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となったのである。
一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。
『古事記』に於いて、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪の訓読みは「マカ・マガ」となる)。
これに対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代では、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てていることからも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という構図の図式ということになる。
なお、現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、依然として相違性を含んでいる。
日本の先人の人々は「悪」を「さがなし」と表現し、特に道徳的に逸脱した行為や性格を意味する際に用いた。これは、個人の持つ本性や性格が悪質であることを強調する表現として使われたものである。
読者の皆さんはこの事をよく理解して欲しい。
◉善と悪について、考えて見よう。
この悪は善としばしば対比される。
人間が善悪を意識、判断する場面は様々だが、家庭での躾から、教育、スポーツ、法律など、秩序を必要とする凡ゆる場面で見出せる。生活に即したものとして宗教で、娯楽や伝承として物語の上で取り上げられることも多い。その際は、善を勧め悪を除外すること(勧善懲悪)、善と悪との対決などがしばしば注目される。
善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もある為規範という形で存在するものは、このような混乱を避けるためによく用いられる手段なのである。
◉社会心理学的立場からのアプローチ
◎純粋悪の神話
社会心理学者のロイ・バウマイスターは、一般の人の悪に関する素朴的な理解に基づく過度に誤った悪の認識を「純粋悪の神話」と表現している。
バウマイスターによると、純粋悪の神話には主に8つの特徴があると言うのだ!
①悪とは他人を意図的に傷つけることである
②悪人は人を傷つけることを楽しんでいる
③被害者は潔白で善良な人である
④悪人の加害者は私たちとは違う人間である
⑤悪人は一貫して悪人である
⑥悪とは社会に混乱をもたらすことである
⑦悪人の加害者は利己主義である
⑧悪人の加害者は自制心が劣っている
1番目の特徴は、子供の漫画から戦時中のプロパガンダまで他人を傷つけることを強調されていることである。
2番目の特徴は、実際の現実では殆ど見られることはない。被害者がする説明では悪人が笑っていた、楽しんでいたなどと強調されるが、悪人からの説明ではそういったことが示されることはない。これは、被害者が純粋悪の神話の影響を受けていることが考えられる。
3番目の特徴も現実では殆ど見られるものではない。実際の多くの殺人事件では、加害者と被害者がお互いに挑発しあって、それがエスカレートしていくことで、殺人が生じる場合は多く見られる。勿論善良で潔白な人に対して無差別の暴力は確かに生じてはいるが、それは私達がマスコミから得る情報から考えているよりは稀である。
4番目の特徴は、私達のような人がひどい犯罪を犯すとは考えたくないという欲求が反映されている。具体的にはナチスの医者はまっとうな人間とは思われておらず、また、戦争中の日米双方で相手側は劣等人種と見做していた為に相手を悪魔化することが助長されたという分析もある。
更に子供向けの漫画の悪人は基本的に外国語なまりの英語で喋る。
5番目の特徴は、現実では多く見られるものではなく例外の可能性が高い。映画でも時間の経過とともに悪くなっていった人は見られず、最初から悪人であるとされる。また、現実でもスターリンやヒトラー、ポルポトといった人物に対しても、私たちは「そういったひどく邪悪な人間がどうやってそんな大きな権力を手に入れたのか」と考えるが、「どんな経験によって彼らは悪人になってしまったのか」とは考えない。
6番目の特徴は、1番目の特徴と代替的なもので、悪とは混沌であり平和や調和、そして安定を喪失させたり妨害するものであるというものである。
7番目と8番目の特徴は今までの特徴とは異なり、現実では確かにその傾向が見られて真実に近いが、過度に強調されているという。
◉悪の根本原因にていて、考察したいと思う。
皆さんも、昨今の凶悪犯罪から悪について考えて貰いたい。(蔵屋日唱の目線👁️)
多くの研究が統合されると、悪には4つ(正確には3つ半)の基本的な原因が挙げられる。
それらは道具性、自己中心性に対する脅威、理想主義、サディズムであり、被害者の立場からだと幾つか違いが見られる。
前者2つに関しては、お金を渡したり悪人の自尊心を満たせば暴力などを回避することができるが、理想主義の場合は打つ手が少なく、サディストが相手の場合はどうしようもない。絶対にこのサディストに近づいてはダメである。快楽の為のSMプレイなど論外だ。
◎道具性について
邪悪な行いの多くは悪いことそれ自体を目的としたものではなく、他の目的(金、土地、権力、セックス)を達成する為の単なる手段としてなされている。
この目的を達成するにあたって合法的な手段で達成することが出来ないときに、人は暴力を行うと言える。
例えば、テロリストは自身の要求が投票や法制度を通じて実現することはないとわかっているのでテロを行い、知識社会では知能が低い人は金や他の報酬を手に入れる方法が限られており、悪行に手を染める。
また、暴力に関する研究者は、暴力的な手段は長期的な目標達成には有効でないことを論じてきたが、短期的な観点では暴力は確かに効果的なものであると、考える。これは悪人の勝手な考え方である。
道具性の暴力は、進化前の段階の名残として考えられるものである。
人間を含む社会的な動物では資源分配をめぐる社会的衝突が生じ、支配的で攻撃的な個体であるアルファオスが多くの報酬を得ることができる。
その為に種内攻撃は社会生活に対する適応として生じた可能性がある。しかし、人間は文化を発展させて、争いや紛争を解決する代替の非暴力的な手段(お金、法廷、交渉、妥協、投票)を生み出してきた。最近の調査でも長期的には対人暴力の発生は減少している。ただし、時に私達は攻撃性に後退してしまい、特に文化的な方策が自分にはきちんと機能していないと感じる人の間で攻撃性は生じやすいとされる。
◉自己中心性に対する脅威
かつて暴力の研究に於いては、悪人は自尊心が低いというのが標準的な知見であったが、バウマイスターが実際に文献をチェックしてみると、悪人は寧ろ高い自尊心、時には過度に高い自尊心を持っていたと分析する。
後の研究でも自尊心の低さと攻撃が結びつくことは確認されず、逆にナルシストがより暴力的であるという結果が度々得られた。
ナルシズムと自尊心を分離した場合でも、自尊心の影響は無視できるか、若しくは自尊心はナルシズムの効果を高めて攻撃性に寄与していた。
しかし、後の研究からわかったことは、高い自尊心が暴力を生じさせるのはなく、自身の持つ高い自己像が脅威にさらされたり傷ついた時に暴力が生じることがわかった。つまり、他人からの批判に対して反抗して、自尊心の損失を回避するための戦略として攻撃が行われる。このことは進化的な起源を持つと考えられ、実際にアルファオス(注釈1)では挑戦者を攻撃することで自身の地位を守っているとする。
(注釈1)
アルファオスとは、サルやヒヒ、チンパンジーなど群れで暮らす動物において、群れ内で最も順位が高く、メスやエサなどの資源を優先的に独占できる支配的なオス個体を指す用語である。人間社会では比喩的に、集団の中で主導権を握る男性像を指す言葉としてしばしば使われる。
◉理想主義の側面からのアプローチ
理想主義は幾つかの点で他の根本原因とは異なる。まず挙げられるのは、加害者たちは「自分たちは良いことをしている」という信念に基づいていることである。実際に左翼や右翼の理想主義者たちは、自身が高貴な目標を持ち、それによって暴力的な手段が正当化されるとしばしば信じていた。
具体的な例では、中国やソ連による共産主義の虐殺やナチスドイツによるホロコーストなどが挙げられる。また、理想主義は他の根本原因を隠すことに度々用いられることもある。
◉サディズムという悪の権化について
(蔵屋日唱の目線👁️👁️)
↓
悪の根本原因が3つ半である理由は、サディズムであるためである。悪人がサディストであるというのは前述した純粋悪の神話であるが、実際にサディズムだとみなされるものがいくつか見られる。
殺人犯の回顧録には殺人によって喜びを得たとする記述は殆ど見られないが、一部の人は実際に人を傷つけることを楽しんでいると、言える。
これは、相反過程理論によって説明されるものである。通常、人を傷つけると最初は動揺して強い否定的な反応を起こすが、身体は平衡状態を保とうとして反動として第二の過程を作動させる。
この過程は、最初は弱くて遅いが繰り返し強度が増していき、支配的になってくる。
バンジージャンプやスカイダイビングを楽しむようになる理由もこれのことで説明される。
また、科学的な厳密な研究ではないが、拷問に関する研究がこの理論を支持している。
拷問では相手を殺してしまうことで拷問が失敗する場合があるが、それは新人の拷問人よりもベテランの拷問人の方が相手を殺しやすい。
これは相反過程理論と一致していて、拷問を行うことによる苦痛が減っていき、満足の方がそれを上回ってくるものがいると考えられているからである。
また、近年ではサディズムはサイコパスと関連していることが考えられるようになった。
サイコパスは共感性がないため、他者の苦痛に対して共感による抑制が効かないことが考えられるのである。
ただし、共感性が「皆無」であるということは稀であり、またスペクトラムなグラデーションであること、精神医学的な厳密な診断があるのか、印象からくる単なる決めつけに過ぎないのかには注意が必要である。
◉悪に関する至近原因とは何か?
悪に関する研究に於いて暴力を誘発させるような要因はありふれていることがわかっている。
社会心理学者によれば、批判されること、侮辱されること、気温が高いこと、メディアで暴力を見ること、欲求不満であることなどが、人の攻撃性を増加させることがわかっている。
翻って実際の暴力の発生率は驚くほど低く、それは自制心によるものだと考えられている。
人は色々なことによって攻撃的な衝動を発生させるが、それに対して自制心を用いることで衝動を抑制させている。また人間には少なくとも他の社会的動物以上の自制心の能力を持っていると言えるのである。
以上のことから、多くの場合で悪や暴力の至近原因は、自制心の破綻であると、私は結論付けたのである。
具体的には、アルコールは殆どの領域で自制心に干渉し攻撃の原因として十分に確立されている。また激しい感情は暴力的な衝動の抑制を損ない、メディアの暴力は同様に自制心を弱めることによって攻撃性を高める。
バウマイスターの見解では悪の4つの根本原因を排除するのは困難であるので、至近原因の自制心の強化が現実的なものであるという。
◉中国の倫理哲学的アプローチ
後述する仏教と同様に、儒教と道教には西洋思想にみられるような善悪の対立構造がないが、中国の民間信仰では何か悪い物の影響についてよく言及される。儒教の主要な関心事は知識人や貴人にふさわしい正しい社会的関係・行動にあった。それゆえ「悪」という概念は悪い行動ということになる。道教では、二元論がその中心に据えられているにもかかわらず、道教の中心的な徳に対立する思いやり、節度、謙虚は道教において悪の相似物だと推測できる。
◉西洋哲学アプローチ
◎ニーチェ
フリードリヒ・ニーチェはユダヤ教とキリスト教的道徳を否定し、『善悪の彼岸』・『道徳の系譜』の中で、非-善の本来の機能は弱者の奴隷道徳によって宗教的な悪の概念へと社会的に変容され、主人(強者)に反感を抱く大衆を抑圧した、といったことを主張した。
◉アイン・ランドの考え方について、考察する。
アイン・ランドは『利己主義という気概‥‥エゴイズムを積極的に肯定する』で、「理性は人間の基本的な生存手段だから、理性的存在が生きるのに適したものが善い物である。逆に理性的存在が生きるのを否定・妨害・破壊するものが悪いものである」と書いている。
この考えは『肩をすくめるアトラス』の中で更に練り上げられており、「考えることは人間の唯一の基本的な美徳である。他の全ての徳は考えることから生まれてくる。そして、人間の持つ基本的な悪徳、つまり全ての悪の根源は人が皆実際にはやっているのにやっていると決して認めようとしない名もなき行為、つまり自分の意識を故意に停止すること、考えるまでもなく盲目であることは否定するが実際には見ようとしないことだ。
つまり、単純に無知なのではなく知ることを拒んでいるのだ。
これは自分の心に焦点を当てるのを避け、自分があるものを認識するのを拒んでいる限りそれは存在しないとか、自分が『それは悪い』という評決を下さない限りAはAでないといった暗黙の前提に基づいた判断を避ける心の中の霧を引き起こす行為だ。」とある。
◉スピノザ(注釈2)の善と悪の考え方
かつてバールーフ・デ・スピノザはこう言った:
「1. 善によって、人々にとって有用であると人々が当然知っているものを私が理解できるようになる。
2. 反対に悪によって、人々が善いものを持とうとするのを妨げると人々が当然知っているものを私は理解する」
スピノザは半ば数学的な文体を使い、『エチカ』第4部で述べた定義から証明・説明できると自分が主張している更なる命題について述べている。その命題を以下に記す。
命題8 「善や悪の知識は私たちが意識する限りでの喜び或いは悲しみの気持ちでしかない。」
命題30 「私たちの本性に於いて共有されているものを持つことを通じて悪であるものはあり得ないが、あるものが私たちにとって悪である限りではそのあるものは私たちと相いれない。」
命題64 「悪の知識は不適切な知識である。」
推論「それゆえに人の心の中に適切な知識しかなければ、悪い考えが形成されることはないであろう。」
命題65 「理性の導きに従えば、二つの善い物のうちより善い物を選ぶことになるし、二つの悪いもののうちより悪くない方を選ぶ。」
命題68 「人間が自由に生まれたら、自由である限りその人間はよい考えも悪い考えも持たない。」
以上のニーチェ、ランド、スピノザのような哲学的考察は後述する神学的考察と比較でき、対照をなすが、ニーチェとランドは無神論者でありスピノザはそうではないことが指摘されている。
(注釈2)
バールーフ・デ・スピノザは、オランダの哲学者である。
バールーフ・デ・スピノザは西暦1632年11月24日 ~1677年2月21日迄この世に生存した。
享年44歳。
ラテン語名はベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。
また、デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた人物である。
スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論に強い影響を与え、又は思想的準備の役割を果たした。
生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
また、スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていたのである。筆者の余談ではあるが。
◉心理学的側面からの考察
心理学者カール・ユングの悪についての考え方について、少し触れておきたい。
カール・グスタフ・ユングは『ヨブへの答え』やその他の著作で、悪を「悪魔の暗黒面」だと言っている。人は他者へ寄り添う影を思い描くので、悪は自分の外部にあるものだと信じがちである。ユングはイエスの物語を自らの影に直面する神の話として解釈した。
◉ジンバルドーの悪に関する考え方
西暦2007年にフィリップ・ジンバルドーは、人々は集合的アイデンティティーの結果として邪悪な行動をとり得ると主張した。
この仮説は、彼が以前にスタンフォード監獄実験を経験したことに基づいていて、著書『The Lucifer Effect: Understanding How Good People Turn Evil』で発表されたものである。
◉宗教に於ける悪の概念について
宗教はしばしば戒律で悪を規定する。それに基づいて禁止されている事柄(タブー)は、その始祖や開祖に関するものや、それが発達した文化圏に於ける生活規範をモチーフにしたものなどがある。
中東に於けるゾロアスター教は光(善)と闇(悪)で世界を捉えており、のちの一神教に於ける神と悪魔の対立という概念に影響を与えたとされる。
皆さんもよくご存知の一神教ではユダヤ教の十戒やキリスト教の七つの大罪などが有名である。
◉仏教に於ける悪の考え方
仏教の二元性は第一に苦と悟りの間にある、というのは仏教の内部には善と悪の対立に似たものは直接的に言及されていないからである。しかしブッダの一般的な教えをもとに、仏教哲学の体系内の苦は「悪」に相当すると推測されうる、と言えるのである。
実際にはこれは
①三つの利己的な感情と欲望、憎悪、虚偽;や
②肉体的・言語的行動におけるそれらの現れ、について言及することができる。
とりわけ「悪」は、現世に於ける幸福、より良い生まれ変わり、輪廻からの解脱、ブッダの真正にして完全な悟り(三藐三菩提)を妨害するものを意味するものである。
「無知は全ての悪の根源である」とされるのである。この世に無知程、怖いものはないのだ。
すべての犯罪はこの無知が原因なのである。
「臣民よ、目覚めよ。無知ほどこの世に怖いものはないのぢゃ」
◉ヒンドゥー教に於ける悪についての考え方
ヒンドゥー教に於けるダルマ、つまり秩序や正義の順守を表す概念は世界を善と悪にはっきり二分し、ダルマを打ち立て護持する為には時々戦争がなされる必要があると説明する。
この戦争はダルマユッダと呼ばれる。
この善悪の区別はヒンドゥー教の叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの両方で非常に重要なのであるのだ。
◉イスラームに於ける悪とは、一体何なのか、考えて見たいと、私は思う。
イスラームでは、二元論的な意味で善から独立にして善と対等な基本的・普遍的原理としての絶対的な悪は存在しない、とする。
イスラームに於いては個々の人によって善いと感じられようが悪いと感じられようが全ての物はアッラーに由来すると信じることが本質的だとされているのだ。これはすべてのイスラム教徒が太陽を見て唱える「アッラー」の崇拝する姿を見れば理解出来る。彼らにとっては「アッラー」は絶対神であり、唯一無二の神なのである、と言えるのだ。
これは私が日月神示の中で述べて説いている「太陽は御主神」であるという意味と同じことなのである。
更に申し上げるなら「太陽の黒点」が神さまの神魂であると、断言するものである。
そして、「悪」だと感じられるものは自然に起こること(自然災害や病気)であるかアッラーの命令に背く人間の自由意思によって起こるかのどちらかだとされる。イスラームの考え方では、悪は原因ではなく結果なのである。
「アッラーに背いて悪や悪行がなされると、大カリマー(すなわちシャハーダ)を唱える者は悪人が悪行を成すのを止めることはできなくなる。」とする。
◉ユダヤ教とキリスト教思想について
悪は善ではないものである。
聖書に於いては「悪は一人でいる状態である」と定義される(創世記2:18)。
この意味に於いて悪とは価値観や行動に関して社会に背いて、社会の外部にいることだと看做されうるのである。
悪を擬人化したものである悪魔が善を擬人化したものであるキリストを誘惑している。アリ・シェフェール、1854年
キリスト教弁証者ウィリアム・レーン・クレイグのように、悪を、道徳的悪つまり誰かによって行われる害と、自然悪つまり自然災害や病、その他誰かが意図したものではない原因の結果として起こる害とに分けて考える者もいる。
自然悪は弁神論で特に重要な概念である、というのも自然悪は誰かの自由意思によって起こったというように単純に説明することが出来ないからであると、言えるのだ。
◉キリスト教に於ける悪について、考えて見たい。
キリスト教神学では悪の概念は旧約聖書及び新約聖書から説明される。
旧約聖書では、堕天使の長サタンのような不適切で劣ったものと同じだけ神に反抗するものが悪だと理解されている。
新約聖書ではギリシア語単語「ポネロス」が不適切さを表すのに使われ、「カコス」が人間の領分内での神に対する反抗に言及するのに使われていることを、我々は理解しなければならない。
公式には、カトリック教会では悪の理解はドミニコ会の神学者トマス・アクィナスに依拠する。彼は著書『神学大全』で、悪を善の欠如・欠乏であると定義している。
フランス系アメリカ人の神学者アンリ・ブロシェは、神学的概念としては悪は「不当な実在。俗な言い回しでは、悪は『起こるべきではない』が経験上起きる『なにか』である」と述べている。実に至言であると、私は思う。
◉ユダヤ教に於ける悪についての考え方
ユダヤ教では、「悪とは神を見捨てた結果である(申命記 28:20)」とする。
ユダヤ教ではトーラーに記されたような神の法とミシュナーやタルムードに示された法や儀式に従うことが強調されているのである。
ユダヤ教では教派によっては、悪をサタンのような形で擬人化しない代わりに、人間の心は生来欺瞞へと向かいやすいものであるが人間は自分の選択に関して判断を任されている、と考えられている。
別の教派では、人間は生まれた時点では善へも悪へも方向づけられていないとされる。
ユダヤ教では、サタンは神に反逆しているのではなく寧ろ神の命によって人間を試しているのだとみなされ、悪は上記のキリスト教の教派のように選択の原因であると看做されるている。
「光を作り出し闇を創造し平和を作り災いを想像する者:私はこれら全てを行う主である。」
(イザヤ書 45:7NASB)
幾つかの文化や哲学では、悪は意味や理由がなくとも生まれてくると信じられている(ネオプラトニズムでは、これは不条理な悪と呼ばれる)。
一般的にキリスト教ではこうしたことを信じないが、預言者イザヤは神が全ての原因であることを示している(Isa.45:7)。
◉非三位一体派の考える悪について、少し私の考え方を述べて見たい。
モルモン教神学では、人生とは信仰を試すものであって、人性の内で人間の選択が救済計画の中心をなすとされる。
悪とは人間が神の本性を発見するのを妨げるものであるという。人間は悪に染まらず神に帰還するように選択するべきだと信じられている。
クリスチャン・サイエンスでは、自然の善に対する無理解から生じると信じられている。
自然の善は正しい(魂の)観点から見たときに本性上完全なものであると理解されている。
神の実在に対する誤解によって間違った選択が生じ、それが即ち悪となる。
この為悪の源となる種々の力や悪の源であるような神は否定される。
その代わりに、悪の出現は善の概念を誤解した結果であるとされる。
最も「悪」である人でも悪それ自体を追求しているのではなく、間違った考えから何らかの善を実現しようとして、結果として悪事を働いてしまうのだとクリスチャン・サイエンティスト達は主張している。
◉ゾロアスター教の善と悪の考え方から悪を分析する。
ペルシア人の本来の宗教であるゾロアスター教では、世界は神アフラ・マズダ(オフルマズドとも呼ばれる)と悪霊アンラ・マンユ(アーリマンとも呼ばれる)との戦いの場であるとされる。
善と悪の争いの最終決着は審判の日に起こり、そのときに生きている者は全て炎の橋に導かれ、邪悪な者たちは打ち倒されて永久に復活しないという。
ペルシア人たちの信仰するところによれば、天使や聖人は人々が善への道を歩むのを助ける存在であるとするものである。
悪に関する哲学的問題について、私は命題として以下に記述したのである。
◉次なる命題である。悪は普遍的なのであろうか、ということについて、論説したい。
根本的な問題は、悪の普遍的・超越論的な定義が存在するか否か、つまり、悪は人の社会的・文化的背景によって決定されているに過ぎないのではないかというものである。
単独レイプや集団レイプ、また、殺人のように、悪であると普遍的に考えられている行動が存在するとC・S・ルイスが『人間廃絶』で述べている。
しかしながら、レイプや殺人が社会的文脈によって好んで用いられる場合が多々あるため、C・S・ルイスの主張には疑問が投げかけられているのも事実である。
それでも、レイプという言葉は定義上悪しき行いを指すのに使われることを必要としている、というのはこの概念は他者に対して性的暴力をふるうことを意味しているからだ、と主張する者もいる。
19世紀中頃までは、アメリカ合衆国、及び多くの国々では奴隷制が行われていた。
よくあることではあるが、こういった倫理的境界の侵犯はそこから利益を得るために行われた。
恐らく奴隷制は常に同じだけ、そして客観的に悪であるが、奴隷制を行おうとする人々はそれを正当化しようとしていた、と言えるのである。
第二次世界大戦期のナチスはジェノサイドを正当化したが、ルワンダ虐殺の際、フツのインテラハムウェも同じことをしていたのだ。
しかしこういった残虐行為の実行犯は自らの行為をジェノサイドと呼ぶことを避けた、というのはジェノサイドという言葉によって正確に示される行為の客観的な意味は特定の人間集団を不当に殺すことだからであるが、少なくとも不当に苦しめられた人々はこの行為を悪だと理解する。
悪は文化からの独立であり、行動やその意図と関連し、連動していると普遍主義者たちは考えている。
その為ナチズムやフツのインテラハムウェのイデオロギー的な主導者はジェノサイドの実行を許容したり、それは道徳的に認められると考えたりするが、ジェノサイドは「根本的に」或いは「普遍的に」悪だという信念に基づけばジェノサイドを扇動する人々は本当は悪いということになるのである。
悪事を働くことは常に悪いが悪事を働く者は完全には悪なる存在でも善なる存在でもない、と主張する普遍主義者もいるようである。
例えば棒付き飴を盗んだ人が完全に悪くなるということは寧ろ支持出来ない立場だということになる。
しかし、普遍主義者は、人間は明らかに善である人生や明らかに悪である人生を選択することが出来て大量虐殺を行うような独裁は勿論後者であるとも主張しているのである。
(筆者の目線👁️👁️)
↓
悪の本性に関する考えは以下の四つの相反する立場のうちの一つに落ち着きがちであると言えるのである。
絶対主義 (倫理)では、善悪とは神、神々、自然、道徳律、コモン・センス、その他の根拠によって打ち立てられる不変の概念であると考える。
虚無主義 (倫理)は、善悪というのは無意味な概念で、自然には倫理の構成要素になるものなど存在しないと主張する。
相対主義 (倫理)では、善悪の基準となるのは地域ごとの文化、慣習、固定観念の産物だけだと考える。
普遍主義 (倫理)とは絶対主義者の言う道徳律と相対主義的観点との和解点を見出そうとする試みである。
普遍主義は、道徳律はある程度可変的であるにすぎず、何が本当に善或いは悪であるかは全人類を通じて何が悪であるかを調査することで決定することが出来ると主張する。
サム・ハリスは、普遍的な道徳律は脳生物学が刺激を調べる方法に基づいて物理的にも精神的にも計量可能な幸不幸の単位を用いることで理解することが出来ると述べているのである。
かつて、哲学者のプラトンは、善をなす方法は相対的に少なく、悪を成す方法は限りないと書いている。また、その為に悪を成す方法が我々の生活に大きな影響を及ぼし、他の者の生活に苦しみを与えうるという。この為道徳的規則を策定し、実施する上で重要なのは善を促進することよりも寧ろ悪を防止することだとバーナード・ガートのような哲学者が主張しているのである。
◉悪は有用な概念なので無視あろうか。私は以下の通りその概念について、皆さんと一緒に考えて見たい。日月神示をこの章まで継続して読まれた方なら判る筈だ。
悪い「人間」など存在せず、「行動」だけが悪だと考え得ると主張する学派が存在する。
心理学者・仲裁人のマーシャル・ローゼンバーグは、暴力の起源はまさに「悪」「悪さ」といった概念そのものだと主張している。
私たちが誰かを悪い、或いは悪だとレッテル貼りすると、責め苦を与えたいという欲望がレッテル貼りすることによってもたらされるとローゼンバーグは言う。
これによって私たちが傷つけている人に対して何かを感じなくなることが容易にもなる。
ドイツ人が他の民族に対して通常はしないことをする上でカギとなったナチスドイツに於ける言語の使用について彼は言及している。
彼は悪の概念と、悪いと見做されることに対して罰を与える、罰を与えることを通じた正義‥‥因果応報‥‥を作り出そうとする司法制度とを結びつける。
彼はこのアプローチを悪の概念が存在しない文化で彼が見出したものと比較する。
そういった文化では、人が誰かを傷つけた時、彼らは彼ら自身や彼らの属するコミュニティと相いれなくなったと信じられ、病んでいるとみなされ、彼ら自身や他の人々と相いれるように新しい度量法が持ち出されるのである。
心理学者のアルバート・エリスは論理情動行動療法(英語訳:Rational Emotive Behavioral Therapy)と呼ばれる彼の学派において同様の主張を行っている。
怒りの起源や他者を傷つけたいという欲求はほぼ常に他者に関する黙示的あるいは明示的な種々の哲学的信念に結びついていると彼は言うのである。
更にこういった様々な秘密の或いは公然の信念或いは臆断を持たなければ大抵の場合暴力に訴える傾向は減退すると彼は主張しているのである。
一方、アメリカの重要な精神科医モーガン・スコット・ペックは悪を「好戦的な無知」とみなしているのだ。
ユダヤ教、キリスト教における「罪」の概念は本来人間が「遣り損な」って完成に達しないような過程としての罪である。
この事に多くの人々は少なくともある程度は気づいているが、実際に悪であり好戦的な人々は自分が気づいていることを認めないとペックは主張しているのである。
特に無実の罪を受ける人(しばしば子供や弱い立場の人々)を選んで悪行を成すという結果に至る有害な独善性こそが悪の特徴だとペックは考えている。
ペックが悪人と呼ぶような種類の人々は自分の良心から(自己欺瞞を通じて)逃げ隠れしており、この点でサイコパスにおいて明らかに良心が欠如しているのとは区別されるとペックは考えているのである。
ペックによれば、悪人とはどの様なものであったのであろうか。つい私は考えてしまうのである。
罪から逃れ、自己イメージを完璧なものに保とうという意図をもって自己欺瞞を続けている。
自己欺瞞の結果として他者も欺いている。
自身の罪を非常に狭い範囲の対象に投影し、他者をスケープゴートにする一方で自分を皆とともに正常に見せかける(「彼に対する彼らの不感受性は選択的である」)
一般に、他者をだますのと同じだけ自己欺瞞のために見せかけの愛によって嫌う。
政治的(感情的)力を悪用する(「人間の意志が公然に、あるいは秘密裏に他者に賦課を負わせること」)
高いレベルの社会的地位を保ち、そのために常に嘘をつく。
自身の罪に関して一貫している。悪人は犯した罪の大きさよりもむしろ(破壊性が)持続することによって特徴づけられる。
自分が起こした悪事の被害者の視点に立って考えることができない
批判その他のナルシシズムを傷つけるような行為を受けた時にひそかに耐え忍ぶことができない
ある種の制度も悪である可能性があると彼は考えている、というのはソンミ村虐殺事件とそれが隠蔽しようとされたことに関する彼の議論に示されているのである。この定義によれば、犯罪的テロリズムと国家テロリズムも悪だと考えられるであろう。
◉必要悪という考え方
宗教改革で有名なマルティン・ルターは小さな悪が否定しがたい善となる場合があることを認めた。「あなたの飲み仲間の社会を探し、飲み、遊び、猥談をして楽しみなさい。悪魔が良心的な人に対して何かをする機会を与えないために、悪魔を憎みさげすむのとは別に時には罪を犯しなさい」と彼は書いているのである。
正に人間の本質そのものを見抜いていたようだと、私は思っているのだ。何故なら私自身、悪を肯定しているからである。
政治哲学のある学派では、指導者は善悪に関心を持たず、実用性のみに基づいて行動するべきだと考えられている。政治に対するこのアプローチはニッコロ・マキャヴェッリが唱えたものである。彼は16世紀のイタリアのフィレンツェの著述家で政治家たちに「愛されるよりも恐れられた方がずっと安全である」と助言したのです。
レアルポリティークと呼ばれることもある現実主義や新現実主義の国際関係論に基づくと、政治家は国際政治においては絶対的な道徳・倫理があるという考えをはっきりと否定して、個人の関心、政治的生存、武力外交を重視することを好むべきということになる。
このことはこういった国際関係論を唱える者たちが明らかに非道徳的で危険だとみなしている世界を説明する上でより的確になると彼らは考えている。
政治学における現実主義者達はたいてい、政治的指導者だけに課される「高度な道徳的義務」を主張することで彼らの考え方を正当化していると言える。
この主張の下では、最大の悪とは国家が自身やその国民を守れないことである。マキャヴェッリはこう書いているのだ。
ご紹介しよう。
善だと考えられてはいるが実際にそれに従うと滅亡してしまうような特質がある一方で、悪徳とみなされているがそれを実行すると安全が実現され君主にとって幸福であるような特質が存在する」のだと。あなたはどう思われるますか。
お伺い申し上げます。
蔵屋日唱
というのは、私自身が『悪』であったからだ。
私にはある哲学的思想があった。
「人間、普通に生きるなんてつまらない。勝ち組になってやる!その為には人一倍勉強して高等教育を受けて東大法学部に進学し卒業後は上級国家公務員試験に合格し、高級官僚になり、この国を思い通りに操ってやる!』
そう、この時、私は悪魔に魂を売ったのでした。
私が中学二年生になった時でした。
その為にはどうしても地元の有名な公立高校へ進学する必要があったのです。
しかし、当時その高校に進学するためには内申書の評点が10段階評価で平均値9.5点以上なければ、合格できなかったのです。
私は中学1年の時、年2回の中間テストと期末テストを受けなければならないのに、皮膚病になったために半年学校を休み、期末テストしか受けていなかったのです。
そのために、私の1年生のときの評点は「平均値6.0」だったのです。
しなし、どうしても東京大学法学部に行くためには、地元のその公立高校に合格する必要があったのです。私は中学2年になった時から猛勉強を開始しました。
その努力の甲斐があって2年生の評点は「オール10」3年生の評点も「オール10」だったのです。勿論、その中学校では全校生徒400人中1番だったのでした。
しかし、高校受験の内申書は中学3年間で「平均値は8.0」だったのです。
その為担任の先生からは、高校受験の志望校変更をするように強く勧められました。
その高校は尾道にある有名な進学校でした。
しかし、私は担任の先生の話を聞かずに福山にある江戸時代からある伝統校つまり福山藩の藩校であったその進学校を無理をして、受験をしたのでした。
しかし、内申書の評点が「平均値8.0」ではとても合格することはできません。
当時その高校は新校舎を建設中で一学年の定員は例年なら450名だったのですが、新校舎を建設中であったために3月中旬までに新校舎が完成すれば、例年通りの定員数450名を合格にする。しかし、完成しなければ定員数は350名にするこなとが発表されたのでした。
それでも私は受験をしたのでした。
結果は「補欠の21番でした」
後で知ったのですが補欠の19番まで合格したそうです。
私は三日間、二階の自室に籠り布団の中で一日中、泣いて過ごしたのでした。
結局、滑り留めの私立の男子校に進学することになったのでした。
その高校は広島県東部では最もワルの集まる学校でした。
しかし、私は東京大学法学部を目指して猛勉強を開始します。
担任の先生にお願いし、『大学受験のための特別進学コースを設けてほしい』と申し入れたのです。
しかし、担任の先生の話は次のようなものでした。
「学校教育はみんな、平等です。そのような特別クラスを作ることはできません。もし勉強したいなら予備校でも行って個人的に勉強してください」
というものでした。私は母に頼み、母の従姉弟
が東京大学法学部を卒業し外務省へ入省し、外務省から一人だけイギリスのオックスフォード大学へ進学し、4年間学問を学び、首席で卒業したことを聞かされたのです。その従姉弟は当時ペルー大使でした。
フジモリ大統領の時です。
しかも彼の母親は第五十八代内閣総理大臣の従兄妹だったのです。
私はその話を聞くや否や、またもや、向学心に燃えたのでした。
その日から私の独学が始まったのです。
先ずNHKラジオ番組の英会話を聴いて発音と日常会話の勉強をしました。
蛍雪時代という図書を購入し、毎日勉強をします。そしてZ会の通信教育の添削を開始しました。
そして受験対策用の赤本「東京大学」を購入し猛勉強を開始しました。
従って高校の授業の予習や復習は一切しませんでした。ただ、授業だけは真面目に出席し、真面目に勉強をしました。そのおかげで同学年でいつも1番でした。
私は高校一年の時、同じ中学校卒業のS君と友達になりました。S君は高校で一番喧嘩が強かったのです。彼は柔道の黒帯だったのです。親父さんは土建会社を経営するヤクザだったのです。S君のお陰で私は一躍有名になり、ワルの仲間になることが出来たのです。しかし、勉強は好きでした。
高校二年生の時、17歳ですが、福山駅で女性25歳位の美人に声を掛けられたのでした。
彼女は喫茶店を経営するオーナーの奥さんでした。所謂人妻でした。
彼女に誘われて福山駅南口から徒歩15分位の路地裏にあった同伴喫茶店に入店しました。
料金は飲み物込みで1時間1000円でした。
私と彼女は生ビールを注文して飲みました。
私と彼女はその時肉体関係を持ったのです。
彼女とは高校を卒業するまで関係が続きました。
次に知り合ったのは、通学中の電車の中でした。女子短大生に声を掛けられたのでした。その日は仮病の連絡をお互いの学校に電話し、その日は彼女とデートしました。また、同じ同伴喫茶店に行き、関係を結びました。彼女は私のことが好きだったのですが、私は大学に進学するという目標があったので、彼女とはすぐに別れたのです。
次に知り合ったのはキャバレーに勤める女性でした。後で知ったのですが、彼女はヤクザに貢がされていたのです。私は彼女に誘われるまま、ラブホテルで関係を結んだのでした。
しかし、彼女が自殺したことを地元新聞の三面記事で知ったのでした。覚醒剤中毒が原因だったそうです。
私は付き合っていた女性が死ぬという経験を初めて経験したのでした。
兎に角、私は女性にモテた。何故、こんなにモテたのか分かりません。
私から女性に声を掛けることは一切ありませんでした。すべて女性の方から声を掛けて来たのです。私は身長175cm。武道は空手道。胸板は厚く、また、水泳、マラソンなどスポーツ万能でした。何よりも勉強が出来たのです。
私はある日、S君の紹介で不良少女と交際を始めたのでした。彼女は暴走族のリーダーだったのです。世間でいう所の所謂スケバンです。身長163cm。顔の輪郭は整っていて、鼻筋は通り目は大きく二重瞼。何よりも8頭身美人のゴールデンプロポーションの美貌の持ち主だったのです。私は彼女に一目惚れをしたのです。そうしてお互い愛し合い、いつかは一緒になろうと思っていたのでした。しかし、悲しい別れはある日、突然やってきたのでした。
彼女はいつもノーヘルメットで450ccのバイクを乗り回していたのです。彼女は雨に濡れた路面で急カーブを回りきれずに転倒し、頭を路面に叩きつけられて、頭から脳みそは出て即死したのです。
私は翌日、S君から彼女がバイクの事故で死んだと言うのを聞いたのでした。
私は今度は結婚を考えていた女性を失ったのでした。
私はしばらくの間、彼女の死を受け入れることができなかったのです。
その彼女の死かは一ケ月後から私はまた、猛勉強を開始しした。高校三年生の時には第一志望の東京大学法学部受験を諦めて、公立大学の大阪市立大学商学部を受験することに決めました。というのは、家庭の金銭的事情があったからです。私の家は母子家庭でした。母親と妹、私、そして母方の祖父母と同居していたのです。
母の実家は専業農家でした。祖父は人脈がありましたので、尾道の不動産会社を経営する社長にうまい話があるからといって、不動産取引を手伝うようになったのです。その顧客は全て祖父の紹介でした。祖父は広島県東部では知らない人がいない位の人脈と人望があったのでした。
何よりも祖父のお兄さんの奥さんは池田勇人総理大臣の従兄妹だったのです。また、池田勇人夫人の池田満枝夫人とも従姉妹だったのです。
私は福山出身の宮澤喜一国会議員の奨学金の給付を受けていたのです。中学校の成績優秀者に対して、高校3年間の間、毎月3000円の奨学金を支給すると言うものでした。私はその奨学金を受けることができたのです。福山市では私1人だけでした。
私は当時から恵まれていたのです。当時、私私が通う私立の高校の授業料は1ヵ月3000円でした。という事は、奨学金で授業料を全て払うことができたのです。私は母親に負担をかけることなく高校を卒業しました。
そして大阪市立大学商学部に合格したのです。
大阪市立大学の入学金は、大阪市外の学生は
7500円でした。半期の授業料は6000円でした。日本全国の大学の中で1番授業料と入学金が安かったのです。
またしても、私は恵まれたのでした。
大阪市立大学は名門大学であったために家庭教師のアルバイトがたくさんありました。ほとんどの学生は、家庭教師のアルバイトをしていたのです。
私も家庭教師のアルバイトをしました。
私が家庭教師をした方は同じ大学商学部の先輩で、大阪の北浜で中堅の証券会社を経営する創業者一族だったのです。毎週火曜日と金曜日週2回4時間つまり月8回、延べ時間16時間の報酬は月20000円でした。年2回、6月と12月にボーナスが支給されたのでした。
勿論、私の誕生日の時は誕生会をご自宅で開催していただきました。毎回家庭教師に行ったときには、紅茶とケーキが準備されていて、私はいつもその紅茶を飲みケーキを食べていたのです。
私はまたしても、素晴らしい人々と親しくお付き合いすることができたのでした。
また、母親の小学生時代の友人が高石市に住んでいました。既にご主人が労働災害に遭い未亡人となっておられました。その娘さんが私と同じ学年で神戸女子学院大学に進学していたのです。
私は彼女と交際することになりました。
私は久しぶりに女性と関係を持つことができたのです。
彼女は私に夢中になりました。何故なら私がハンサムだったからです。
普通は神戸女子学院大学の女性たちは、神戸大学の男性と交際をするというのがセオリーでした。しかし、彼女は私を選んだのでした。
私は彼女と交際をして家族ぐるみのお付き合いをしました。
彼女の母親は大阪の難波では、有名な老舗寿司店を経営する一族だったのです。私が行くといつも2階の個室に案内されて最高のお寿司を提供していただきました。すべて無料です。
これも私の母親のお陰でした。
実は私の母親と彼女の母親の間には第二次世界大戦中の時に、大阪の空襲がひどくなった時、広島県松永市今津町にあった薬師寺に集団疎開で住むようになり、近所であったために私の母と交際するようになったのです。
当時は、食料不足で、食べ物がなく、彼女の母親の妹はお腹が空いて歯磨き粉を食べたために、食あたりをして大変難儀をしたそうです。その話を聞いた私の祖父母は彼女の母親姉妹を自宅に招き、一緒に食事を食べるようになったのです。
食事を終えると、お寺に帰って行ったと言うことです。
このことを彼女の母親のお父さんが聞いたために、大層喜ばれたそうです。
そうして、終戦を迎えそれぞれ新しい人生が始まったのでした。
そうして私の母と彼女の母は結婚をして別々の人生を歩んでいたのですが、私が大学へ進学すると同時にまた、こうしてお付き合いをすることになったのです。
私はよく彼女の自宅に寝泊まりをしていましたので、2人の下着姿はよく目にしています。
このような関係が続いていたのですが、またしても彼女と悲しい別れをすることになったのでした。彼女が胃癌になり手遅れだったのです。もっと早く自分の母親に相談をして治療をしていれば間に合っただろうに、と思うと残念でなりません。私が彼女と知り合って、翌年の3月に彼女は亡くなったのです。
私にとっては、結婚をしようと考えていたのに、またしても、最愛の女性を失ったのです。
翌年、今度は先輩の彼女の紹介で大阪本町にある相愛短期女子大学の学生であった女性と知り合い、交際を始めました。彼女は当時19歳。私は21歳でした。私達は恋愛をし、またしても肉体関係を持ったのでした。
そして大学2年生の時に結納を交わしたのでした。
私は今度こそ、幸せな家庭を築くのだと、新たな決意をしたのでした。
そうして8月には就職内定が決まり、10月1日から始まった就職解禁日には、サンスター歯磨株式会社の保養所にいたのです。
そうです。私は青田買いで当時の労働省と大学教育機関と各企業との間の協定を破り、既に就職内定が決まっていたのでした。
私と同じ日に長野県白馬村の保養所にいたのは、私を含めた6人でした。この6人は将来の幹部候補生だったのです。
私たちは一週間の間、サンスター歯磨株式会社の保養所に缶詰になっていたのです。
この研修が終わった後に、下宿に帰った時、まだほとんどの学生が就職が決まっていませんでした。当時は、日本経済にとって冬の時代だったのです。
私は本当に恵まれていたのです。
すべてのことが順調にはかどっていくので、むしろ怖い位でした。本当にこんなに幸せで良いのだろうか、という人生だったのです。
入社して、10月8日の日に、彼女と結婚式を挙げたのです。私は名実ともに世帯を持ったのでした。新婚当初の住まいは、大阪府茨木市大池という阪急京都線茨木市駅近くの2LDKの賃貸マンションでした。家賃は駐車料金込みで53000円でした。
私はサンスター歯磨株式会社兵庫営業所に配属になり、サンスターの営業車を乗り神戸市布引町にある営業所まで通勤したのです。
毎日の通勤ルートは、名神高速道路茨木インターチェンジから西宮北インターチェンジを経由し、阪神高速道路に乗り、阪神高速道路生田川出口で出るのです。そこからは一般道路を走り、布引町にある営業所まで車で10分で到着しました。
これが私の月曜日から金曜日までの通勤ルートでした。土曜日と日曜日は会社の休日でした。
私はサンスター歯磨株式会社で約5年10ケ月在職し、東京支店の栄転という人事異動断ったために、退職せざるを得なくなったのです。
この話についてはまたの機会にお話しいたします。
さて、前置きが長くなりました。
今回のテーマは悪を徹底的に考えてみること、ということです。
抑々この悪とは善の反対又は欠如、深い邪悪さを意味する言葉である。
悪は、一般的な意味では、善の反対又は欠如である。非常に広い概念であることもあるが、日常的な使い方では、より狭い範囲で深い邪悪さを表現することが多い。それは一般的に、複数の可能な形をとると考えられている。例えば、悪と一般的に関連している個人的な道徳的悪又は非個人的な自然的悪(自然災害又は病気の場合のように)の形や、宗教的思想に於いては悪魔的または超自然的や永遠的な形などであると言える。
悪は重大な不道徳を意味することもあるが一般的には、人間の状態を理解する上で何らかの根拠がないわけではなく、そこでは争いや苦しみが悪の真の根源である。
例えばある宗教的文脈では、悪は超自然的な力と表現されてきた。
悪の定義は様々であり、その動機の分析も様々であると言える。
個人的な悪の形態と一般的に関連する要素には、怒り、復讐、恐怖、憎悪、心理的トラウマ、便宜主義、利己主義、無知、破壊または無視を含む不均衡な行動が含まれるのである。
悪は、善とは反対の二元的な敵対的二元論として認識されることがあるものだ。
その場合、善が勝ち、悪は打ち負かされるべきとされる。
仏教の精神的影響力を持つ文化では、善と悪の両方が対立的な二面性の一部として認識されており、それ自体は成仏によって克服されなければならないものとされる。
善と悪に関する哲学的な問題は、善と悪の性質に関するメタ倫理学、どの様に行動すべきかに関する規範倫理学、特定の道徳的問題に関する応用倫理学という3つの主要な研究領域に包含されているのである。
この用語は、行為主体を伴わない事象や状況に適用されるが、この記事で扱う悪の形態は、悪人又はその実行者を想定しているものである。
宗教や哲学の中には、人間を記述する際に悪の存在や有用性を否定するものもあると言うことが出来る。
日本語に於ける「悪」について
日本語における「悪」という言葉は、元々剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。
例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、江戸時代初期に権勢を振るった以心崇伝はその強引な政治手法により「大欲山気根院僭上寺悪国師」と評された。
鎌倉時代末期に於ける悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味でよく使われた。
本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、或いは徴兵した軍隊に於ける連携的な行動の妨げになり、これ故に古代中国に於ける「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となったのである。
一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。
『古事記』に於いて、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪の訓読みは「マカ・マガ」となる)。
これに対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代では、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てていることからも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という構図の図式ということになる。
なお、現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、依然として相違性を含んでいる。
日本の先人の人々は「悪」を「さがなし」と表現し、特に道徳的に逸脱した行為や性格を意味する際に用いた。これは、個人の持つ本性や性格が悪質であることを強調する表現として使われたものである。
読者の皆さんはこの事をよく理解して欲しい。
◉善と悪について、考えて見よう。
この悪は善としばしば対比される。
人間が善悪を意識、判断する場面は様々だが、家庭での躾から、教育、スポーツ、法律など、秩序を必要とする凡ゆる場面で見出せる。生活に即したものとして宗教で、娯楽や伝承として物語の上で取り上げられることも多い。その際は、善を勧め悪を除外すること(勧善懲悪)、善と悪との対決などがしばしば注目される。
善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もある為規範という形で存在するものは、このような混乱を避けるためによく用いられる手段なのである。
◉社会心理学的立場からのアプローチ
◎純粋悪の神話
社会心理学者のロイ・バウマイスターは、一般の人の悪に関する素朴的な理解に基づく過度に誤った悪の認識を「純粋悪の神話」と表現している。
バウマイスターによると、純粋悪の神話には主に8つの特徴があると言うのだ!
①悪とは他人を意図的に傷つけることである
②悪人は人を傷つけることを楽しんでいる
③被害者は潔白で善良な人である
④悪人の加害者は私たちとは違う人間である
⑤悪人は一貫して悪人である
⑥悪とは社会に混乱をもたらすことである
⑦悪人の加害者は利己主義である
⑧悪人の加害者は自制心が劣っている
1番目の特徴は、子供の漫画から戦時中のプロパガンダまで他人を傷つけることを強調されていることである。
2番目の特徴は、実際の現実では殆ど見られることはない。被害者がする説明では悪人が笑っていた、楽しんでいたなどと強調されるが、悪人からの説明ではそういったことが示されることはない。これは、被害者が純粋悪の神話の影響を受けていることが考えられる。
3番目の特徴も現実では殆ど見られるものではない。実際の多くの殺人事件では、加害者と被害者がお互いに挑発しあって、それがエスカレートしていくことで、殺人が生じる場合は多く見られる。勿論善良で潔白な人に対して無差別の暴力は確かに生じてはいるが、それは私達がマスコミから得る情報から考えているよりは稀である。
4番目の特徴は、私達のような人がひどい犯罪を犯すとは考えたくないという欲求が反映されている。具体的にはナチスの医者はまっとうな人間とは思われておらず、また、戦争中の日米双方で相手側は劣等人種と見做していた為に相手を悪魔化することが助長されたという分析もある。
更に子供向けの漫画の悪人は基本的に外国語なまりの英語で喋る。
5番目の特徴は、現実では多く見られるものではなく例外の可能性が高い。映画でも時間の経過とともに悪くなっていった人は見られず、最初から悪人であるとされる。また、現実でもスターリンやヒトラー、ポルポトといった人物に対しても、私たちは「そういったひどく邪悪な人間がどうやってそんな大きな権力を手に入れたのか」と考えるが、「どんな経験によって彼らは悪人になってしまったのか」とは考えない。
6番目の特徴は、1番目の特徴と代替的なもので、悪とは混沌であり平和や調和、そして安定を喪失させたり妨害するものであるというものである。
7番目と8番目の特徴は今までの特徴とは異なり、現実では確かにその傾向が見られて真実に近いが、過度に強調されているという。
◉悪の根本原因にていて、考察したいと思う。
皆さんも、昨今の凶悪犯罪から悪について考えて貰いたい。(蔵屋日唱の目線👁️)
多くの研究が統合されると、悪には4つ(正確には3つ半)の基本的な原因が挙げられる。
それらは道具性、自己中心性に対する脅威、理想主義、サディズムであり、被害者の立場からだと幾つか違いが見られる。
前者2つに関しては、お金を渡したり悪人の自尊心を満たせば暴力などを回避することができるが、理想主義の場合は打つ手が少なく、サディストが相手の場合はどうしようもない。絶対にこのサディストに近づいてはダメである。快楽の為のSMプレイなど論外だ。
◎道具性について
邪悪な行いの多くは悪いことそれ自体を目的としたものではなく、他の目的(金、土地、権力、セックス)を達成する為の単なる手段としてなされている。
この目的を達成するにあたって合法的な手段で達成することが出来ないときに、人は暴力を行うと言える。
例えば、テロリストは自身の要求が投票や法制度を通じて実現することはないとわかっているのでテロを行い、知識社会では知能が低い人は金や他の報酬を手に入れる方法が限られており、悪行に手を染める。
また、暴力に関する研究者は、暴力的な手段は長期的な目標達成には有効でないことを論じてきたが、短期的な観点では暴力は確かに効果的なものであると、考える。これは悪人の勝手な考え方である。
道具性の暴力は、進化前の段階の名残として考えられるものである。
人間を含む社会的な動物では資源分配をめぐる社会的衝突が生じ、支配的で攻撃的な個体であるアルファオスが多くの報酬を得ることができる。
その為に種内攻撃は社会生活に対する適応として生じた可能性がある。しかし、人間は文化を発展させて、争いや紛争を解決する代替の非暴力的な手段(お金、法廷、交渉、妥協、投票)を生み出してきた。最近の調査でも長期的には対人暴力の発生は減少している。ただし、時に私達は攻撃性に後退してしまい、特に文化的な方策が自分にはきちんと機能していないと感じる人の間で攻撃性は生じやすいとされる。
◉自己中心性に対する脅威
かつて暴力の研究に於いては、悪人は自尊心が低いというのが標準的な知見であったが、バウマイスターが実際に文献をチェックしてみると、悪人は寧ろ高い自尊心、時には過度に高い自尊心を持っていたと分析する。
後の研究でも自尊心の低さと攻撃が結びつくことは確認されず、逆にナルシストがより暴力的であるという結果が度々得られた。
ナルシズムと自尊心を分離した場合でも、自尊心の影響は無視できるか、若しくは自尊心はナルシズムの効果を高めて攻撃性に寄与していた。
しかし、後の研究からわかったことは、高い自尊心が暴力を生じさせるのはなく、自身の持つ高い自己像が脅威にさらされたり傷ついた時に暴力が生じることがわかった。つまり、他人からの批判に対して反抗して、自尊心の損失を回避するための戦略として攻撃が行われる。このことは進化的な起源を持つと考えられ、実際にアルファオス(注釈1)では挑戦者を攻撃することで自身の地位を守っているとする。
(注釈1)
アルファオスとは、サルやヒヒ、チンパンジーなど群れで暮らす動物において、群れ内で最も順位が高く、メスやエサなどの資源を優先的に独占できる支配的なオス個体を指す用語である。人間社会では比喩的に、集団の中で主導権を握る男性像を指す言葉としてしばしば使われる。
◉理想主義の側面からのアプローチ
理想主義は幾つかの点で他の根本原因とは異なる。まず挙げられるのは、加害者たちは「自分たちは良いことをしている」という信念に基づいていることである。実際に左翼や右翼の理想主義者たちは、自身が高貴な目標を持ち、それによって暴力的な手段が正当化されるとしばしば信じていた。
具体的な例では、中国やソ連による共産主義の虐殺やナチスドイツによるホロコーストなどが挙げられる。また、理想主義は他の根本原因を隠すことに度々用いられることもある。
◉サディズムという悪の権化について
(蔵屋日唱の目線👁️👁️)
↓
悪の根本原因が3つ半である理由は、サディズムであるためである。悪人がサディストであるというのは前述した純粋悪の神話であるが、実際にサディズムだとみなされるものがいくつか見られる。
殺人犯の回顧録には殺人によって喜びを得たとする記述は殆ど見られないが、一部の人は実際に人を傷つけることを楽しんでいると、言える。
これは、相反過程理論によって説明されるものである。通常、人を傷つけると最初は動揺して強い否定的な反応を起こすが、身体は平衡状態を保とうとして反動として第二の過程を作動させる。
この過程は、最初は弱くて遅いが繰り返し強度が増していき、支配的になってくる。
バンジージャンプやスカイダイビングを楽しむようになる理由もこれのことで説明される。
また、科学的な厳密な研究ではないが、拷問に関する研究がこの理論を支持している。
拷問では相手を殺してしまうことで拷問が失敗する場合があるが、それは新人の拷問人よりもベテランの拷問人の方が相手を殺しやすい。
これは相反過程理論と一致していて、拷問を行うことによる苦痛が減っていき、満足の方がそれを上回ってくるものがいると考えられているからである。
また、近年ではサディズムはサイコパスと関連していることが考えられるようになった。
サイコパスは共感性がないため、他者の苦痛に対して共感による抑制が効かないことが考えられるのである。
ただし、共感性が「皆無」であるということは稀であり、またスペクトラムなグラデーションであること、精神医学的な厳密な診断があるのか、印象からくる単なる決めつけに過ぎないのかには注意が必要である。
◉悪に関する至近原因とは何か?
悪に関する研究に於いて暴力を誘発させるような要因はありふれていることがわかっている。
社会心理学者によれば、批判されること、侮辱されること、気温が高いこと、メディアで暴力を見ること、欲求不満であることなどが、人の攻撃性を増加させることがわかっている。
翻って実際の暴力の発生率は驚くほど低く、それは自制心によるものだと考えられている。
人は色々なことによって攻撃的な衝動を発生させるが、それに対して自制心を用いることで衝動を抑制させている。また人間には少なくとも他の社会的動物以上の自制心の能力を持っていると言えるのである。
以上のことから、多くの場合で悪や暴力の至近原因は、自制心の破綻であると、私は結論付けたのである。
具体的には、アルコールは殆どの領域で自制心に干渉し攻撃の原因として十分に確立されている。また激しい感情は暴力的な衝動の抑制を損ない、メディアの暴力は同様に自制心を弱めることによって攻撃性を高める。
バウマイスターの見解では悪の4つの根本原因を排除するのは困難であるので、至近原因の自制心の強化が現実的なものであるという。
◉中国の倫理哲学的アプローチ
後述する仏教と同様に、儒教と道教には西洋思想にみられるような善悪の対立構造がないが、中国の民間信仰では何か悪い物の影響についてよく言及される。儒教の主要な関心事は知識人や貴人にふさわしい正しい社会的関係・行動にあった。それゆえ「悪」という概念は悪い行動ということになる。道教では、二元論がその中心に据えられているにもかかわらず、道教の中心的な徳に対立する思いやり、節度、謙虚は道教において悪の相似物だと推測できる。
◉西洋哲学アプローチ
◎ニーチェ
フリードリヒ・ニーチェはユダヤ教とキリスト教的道徳を否定し、『善悪の彼岸』・『道徳の系譜』の中で、非-善の本来の機能は弱者の奴隷道徳によって宗教的な悪の概念へと社会的に変容され、主人(強者)に反感を抱く大衆を抑圧した、といったことを主張した。
◉アイン・ランドの考え方について、考察する。
アイン・ランドは『利己主義という気概‥‥エゴイズムを積極的に肯定する』で、「理性は人間の基本的な生存手段だから、理性的存在が生きるのに適したものが善い物である。逆に理性的存在が生きるのを否定・妨害・破壊するものが悪いものである」と書いている。
この考えは『肩をすくめるアトラス』の中で更に練り上げられており、「考えることは人間の唯一の基本的な美徳である。他の全ての徳は考えることから生まれてくる。そして、人間の持つ基本的な悪徳、つまり全ての悪の根源は人が皆実際にはやっているのにやっていると決して認めようとしない名もなき行為、つまり自分の意識を故意に停止すること、考えるまでもなく盲目であることは否定するが実際には見ようとしないことだ。
つまり、単純に無知なのではなく知ることを拒んでいるのだ。
これは自分の心に焦点を当てるのを避け、自分があるものを認識するのを拒んでいる限りそれは存在しないとか、自分が『それは悪い』という評決を下さない限りAはAでないといった暗黙の前提に基づいた判断を避ける心の中の霧を引き起こす行為だ。」とある。
◉スピノザ(注釈2)の善と悪の考え方
かつてバールーフ・デ・スピノザはこう言った:
「1. 善によって、人々にとって有用であると人々が当然知っているものを私が理解できるようになる。
2. 反対に悪によって、人々が善いものを持とうとするのを妨げると人々が当然知っているものを私は理解する」
スピノザは半ば数学的な文体を使い、『エチカ』第4部で述べた定義から証明・説明できると自分が主張している更なる命題について述べている。その命題を以下に記す。
命題8 「善や悪の知識は私たちが意識する限りでの喜び或いは悲しみの気持ちでしかない。」
命題30 「私たちの本性に於いて共有されているものを持つことを通じて悪であるものはあり得ないが、あるものが私たちにとって悪である限りではそのあるものは私たちと相いれない。」
命題64 「悪の知識は不適切な知識である。」
推論「それゆえに人の心の中に適切な知識しかなければ、悪い考えが形成されることはないであろう。」
命題65 「理性の導きに従えば、二つの善い物のうちより善い物を選ぶことになるし、二つの悪いもののうちより悪くない方を選ぶ。」
命題68 「人間が自由に生まれたら、自由である限りその人間はよい考えも悪い考えも持たない。」
以上のニーチェ、ランド、スピノザのような哲学的考察は後述する神学的考察と比較でき、対照をなすが、ニーチェとランドは無神論者でありスピノザはそうではないことが指摘されている。
(注釈2)
バールーフ・デ・スピノザは、オランダの哲学者である。
バールーフ・デ・スピノザは西暦1632年11月24日 ~1677年2月21日迄この世に生存した。
享年44歳。
ラテン語名はベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。
また、デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた人物である。
スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論に強い影響を与え、又は思想的準備の役割を果たした。
生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
また、スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていたのである。筆者の余談ではあるが。
◉心理学的側面からの考察
心理学者カール・ユングの悪についての考え方について、少し触れておきたい。
カール・グスタフ・ユングは『ヨブへの答え』やその他の著作で、悪を「悪魔の暗黒面」だと言っている。人は他者へ寄り添う影を思い描くので、悪は自分の外部にあるものだと信じがちである。ユングはイエスの物語を自らの影に直面する神の話として解釈した。
◉ジンバルドーの悪に関する考え方
西暦2007年にフィリップ・ジンバルドーは、人々は集合的アイデンティティーの結果として邪悪な行動をとり得ると主張した。
この仮説は、彼が以前にスタンフォード監獄実験を経験したことに基づいていて、著書『The Lucifer Effect: Understanding How Good People Turn Evil』で発表されたものである。
◉宗教に於ける悪の概念について
宗教はしばしば戒律で悪を規定する。それに基づいて禁止されている事柄(タブー)は、その始祖や開祖に関するものや、それが発達した文化圏に於ける生活規範をモチーフにしたものなどがある。
中東に於けるゾロアスター教は光(善)と闇(悪)で世界を捉えており、のちの一神教に於ける神と悪魔の対立という概念に影響を与えたとされる。
皆さんもよくご存知の一神教ではユダヤ教の十戒やキリスト教の七つの大罪などが有名である。
◉仏教に於ける悪の考え方
仏教の二元性は第一に苦と悟りの間にある、というのは仏教の内部には善と悪の対立に似たものは直接的に言及されていないからである。しかしブッダの一般的な教えをもとに、仏教哲学の体系内の苦は「悪」に相当すると推測されうる、と言えるのである。
実際にはこれは
①三つの利己的な感情と欲望、憎悪、虚偽;や
②肉体的・言語的行動におけるそれらの現れ、について言及することができる。
とりわけ「悪」は、現世に於ける幸福、より良い生まれ変わり、輪廻からの解脱、ブッダの真正にして完全な悟り(三藐三菩提)を妨害するものを意味するものである。
「無知は全ての悪の根源である」とされるのである。この世に無知程、怖いものはないのだ。
すべての犯罪はこの無知が原因なのである。
「臣民よ、目覚めよ。無知ほどこの世に怖いものはないのぢゃ」
◉ヒンドゥー教に於ける悪についての考え方
ヒンドゥー教に於けるダルマ、つまり秩序や正義の順守を表す概念は世界を善と悪にはっきり二分し、ダルマを打ち立て護持する為には時々戦争がなされる必要があると説明する。
この戦争はダルマユッダと呼ばれる。
この善悪の区別はヒンドゥー教の叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの両方で非常に重要なのであるのだ。
◉イスラームに於ける悪とは、一体何なのか、考えて見たいと、私は思う。
イスラームでは、二元論的な意味で善から独立にして善と対等な基本的・普遍的原理としての絶対的な悪は存在しない、とする。
イスラームに於いては個々の人によって善いと感じられようが悪いと感じられようが全ての物はアッラーに由来すると信じることが本質的だとされているのだ。これはすべてのイスラム教徒が太陽を見て唱える「アッラー」の崇拝する姿を見れば理解出来る。彼らにとっては「アッラー」は絶対神であり、唯一無二の神なのである、と言えるのだ。
これは私が日月神示の中で述べて説いている「太陽は御主神」であるという意味と同じことなのである。
更に申し上げるなら「太陽の黒点」が神さまの神魂であると、断言するものである。
そして、「悪」だと感じられるものは自然に起こること(自然災害や病気)であるかアッラーの命令に背く人間の自由意思によって起こるかのどちらかだとされる。イスラームの考え方では、悪は原因ではなく結果なのである。
「アッラーに背いて悪や悪行がなされると、大カリマー(すなわちシャハーダ)を唱える者は悪人が悪行を成すのを止めることはできなくなる。」とする。
◉ユダヤ教とキリスト教思想について
悪は善ではないものである。
聖書に於いては「悪は一人でいる状態である」と定義される(創世記2:18)。
この意味に於いて悪とは価値観や行動に関して社会に背いて、社会の外部にいることだと看做されうるのである。
悪を擬人化したものである悪魔が善を擬人化したものであるキリストを誘惑している。アリ・シェフェール、1854年
キリスト教弁証者ウィリアム・レーン・クレイグのように、悪を、道徳的悪つまり誰かによって行われる害と、自然悪つまり自然災害や病、その他誰かが意図したものではない原因の結果として起こる害とに分けて考える者もいる。
自然悪は弁神論で特に重要な概念である、というのも自然悪は誰かの自由意思によって起こったというように単純に説明することが出来ないからであると、言えるのだ。
◉キリスト教に於ける悪について、考えて見たい。
キリスト教神学では悪の概念は旧約聖書及び新約聖書から説明される。
旧約聖書では、堕天使の長サタンのような不適切で劣ったものと同じだけ神に反抗するものが悪だと理解されている。
新約聖書ではギリシア語単語「ポネロス」が不適切さを表すのに使われ、「カコス」が人間の領分内での神に対する反抗に言及するのに使われていることを、我々は理解しなければならない。
公式には、カトリック教会では悪の理解はドミニコ会の神学者トマス・アクィナスに依拠する。彼は著書『神学大全』で、悪を善の欠如・欠乏であると定義している。
フランス系アメリカ人の神学者アンリ・ブロシェは、神学的概念としては悪は「不当な実在。俗な言い回しでは、悪は『起こるべきではない』が経験上起きる『なにか』である」と述べている。実に至言であると、私は思う。
◉ユダヤ教に於ける悪についての考え方
ユダヤ教では、「悪とは神を見捨てた結果である(申命記 28:20)」とする。
ユダヤ教ではトーラーに記されたような神の法とミシュナーやタルムードに示された法や儀式に従うことが強調されているのである。
ユダヤ教では教派によっては、悪をサタンのような形で擬人化しない代わりに、人間の心は生来欺瞞へと向かいやすいものであるが人間は自分の選択に関して判断を任されている、と考えられている。
別の教派では、人間は生まれた時点では善へも悪へも方向づけられていないとされる。
ユダヤ教では、サタンは神に反逆しているのではなく寧ろ神の命によって人間を試しているのだとみなされ、悪は上記のキリスト教の教派のように選択の原因であると看做されるている。
「光を作り出し闇を創造し平和を作り災いを想像する者:私はこれら全てを行う主である。」
(イザヤ書 45:7NASB)
幾つかの文化や哲学では、悪は意味や理由がなくとも生まれてくると信じられている(ネオプラトニズムでは、これは不条理な悪と呼ばれる)。
一般的にキリスト教ではこうしたことを信じないが、預言者イザヤは神が全ての原因であることを示している(Isa.45:7)。
◉非三位一体派の考える悪について、少し私の考え方を述べて見たい。
モルモン教神学では、人生とは信仰を試すものであって、人性の内で人間の選択が救済計画の中心をなすとされる。
悪とは人間が神の本性を発見するのを妨げるものであるという。人間は悪に染まらず神に帰還するように選択するべきだと信じられている。
クリスチャン・サイエンスでは、自然の善に対する無理解から生じると信じられている。
自然の善は正しい(魂の)観点から見たときに本性上完全なものであると理解されている。
神の実在に対する誤解によって間違った選択が生じ、それが即ち悪となる。
この為悪の源となる種々の力や悪の源であるような神は否定される。
その代わりに、悪の出現は善の概念を誤解した結果であるとされる。
最も「悪」である人でも悪それ自体を追求しているのではなく、間違った考えから何らかの善を実現しようとして、結果として悪事を働いてしまうのだとクリスチャン・サイエンティスト達は主張している。
◉ゾロアスター教の善と悪の考え方から悪を分析する。
ペルシア人の本来の宗教であるゾロアスター教では、世界は神アフラ・マズダ(オフルマズドとも呼ばれる)と悪霊アンラ・マンユ(アーリマンとも呼ばれる)との戦いの場であるとされる。
善と悪の争いの最終決着は審判の日に起こり、そのときに生きている者は全て炎の橋に導かれ、邪悪な者たちは打ち倒されて永久に復活しないという。
ペルシア人たちの信仰するところによれば、天使や聖人は人々が善への道を歩むのを助ける存在であるとするものである。
悪に関する哲学的問題について、私は命題として以下に記述したのである。
◉次なる命題である。悪は普遍的なのであろうか、ということについて、論説したい。
根本的な問題は、悪の普遍的・超越論的な定義が存在するか否か、つまり、悪は人の社会的・文化的背景によって決定されているに過ぎないのではないかというものである。
単独レイプや集団レイプ、また、殺人のように、悪であると普遍的に考えられている行動が存在するとC・S・ルイスが『人間廃絶』で述べている。
しかしながら、レイプや殺人が社会的文脈によって好んで用いられる場合が多々あるため、C・S・ルイスの主張には疑問が投げかけられているのも事実である。
それでも、レイプという言葉は定義上悪しき行いを指すのに使われることを必要としている、というのはこの概念は他者に対して性的暴力をふるうことを意味しているからだ、と主張する者もいる。
19世紀中頃までは、アメリカ合衆国、及び多くの国々では奴隷制が行われていた。
よくあることではあるが、こういった倫理的境界の侵犯はそこから利益を得るために行われた。
恐らく奴隷制は常に同じだけ、そして客観的に悪であるが、奴隷制を行おうとする人々はそれを正当化しようとしていた、と言えるのである。
第二次世界大戦期のナチスはジェノサイドを正当化したが、ルワンダ虐殺の際、フツのインテラハムウェも同じことをしていたのだ。
しかしこういった残虐行為の実行犯は自らの行為をジェノサイドと呼ぶことを避けた、というのはジェノサイドという言葉によって正確に示される行為の客観的な意味は特定の人間集団を不当に殺すことだからであるが、少なくとも不当に苦しめられた人々はこの行為を悪だと理解する。
悪は文化からの独立であり、行動やその意図と関連し、連動していると普遍主義者たちは考えている。
その為ナチズムやフツのインテラハムウェのイデオロギー的な主導者はジェノサイドの実行を許容したり、それは道徳的に認められると考えたりするが、ジェノサイドは「根本的に」或いは「普遍的に」悪だという信念に基づけばジェノサイドを扇動する人々は本当は悪いということになるのである。
悪事を働くことは常に悪いが悪事を働く者は完全には悪なる存在でも善なる存在でもない、と主張する普遍主義者もいるようである。
例えば棒付き飴を盗んだ人が完全に悪くなるということは寧ろ支持出来ない立場だということになる。
しかし、普遍主義者は、人間は明らかに善である人生や明らかに悪である人生を選択することが出来て大量虐殺を行うような独裁は勿論後者であるとも主張しているのである。
(筆者の目線👁️👁️)
↓
悪の本性に関する考えは以下の四つの相反する立場のうちの一つに落ち着きがちであると言えるのである。
絶対主義 (倫理)では、善悪とは神、神々、自然、道徳律、コモン・センス、その他の根拠によって打ち立てられる不変の概念であると考える。
虚無主義 (倫理)は、善悪というのは無意味な概念で、自然には倫理の構成要素になるものなど存在しないと主張する。
相対主義 (倫理)では、善悪の基準となるのは地域ごとの文化、慣習、固定観念の産物だけだと考える。
普遍主義 (倫理)とは絶対主義者の言う道徳律と相対主義的観点との和解点を見出そうとする試みである。
普遍主義は、道徳律はある程度可変的であるにすぎず、何が本当に善或いは悪であるかは全人類を通じて何が悪であるかを調査することで決定することが出来ると主張する。
サム・ハリスは、普遍的な道徳律は脳生物学が刺激を調べる方法に基づいて物理的にも精神的にも計量可能な幸不幸の単位を用いることで理解することが出来ると述べているのである。
かつて、哲学者のプラトンは、善をなす方法は相対的に少なく、悪を成す方法は限りないと書いている。また、その為に悪を成す方法が我々の生活に大きな影響を及ぼし、他の者の生活に苦しみを与えうるという。この為道徳的規則を策定し、実施する上で重要なのは善を促進することよりも寧ろ悪を防止することだとバーナード・ガートのような哲学者が主張しているのである。
◉悪は有用な概念なので無視あろうか。私は以下の通りその概念について、皆さんと一緒に考えて見たい。日月神示をこの章まで継続して読まれた方なら判る筈だ。
悪い「人間」など存在せず、「行動」だけが悪だと考え得ると主張する学派が存在する。
心理学者・仲裁人のマーシャル・ローゼンバーグは、暴力の起源はまさに「悪」「悪さ」といった概念そのものだと主張している。
私たちが誰かを悪い、或いは悪だとレッテル貼りすると、責め苦を与えたいという欲望がレッテル貼りすることによってもたらされるとローゼンバーグは言う。
これによって私たちが傷つけている人に対して何かを感じなくなることが容易にもなる。
ドイツ人が他の民族に対して通常はしないことをする上でカギとなったナチスドイツに於ける言語の使用について彼は言及している。
彼は悪の概念と、悪いと見做されることに対して罰を与える、罰を与えることを通じた正義‥‥因果応報‥‥を作り出そうとする司法制度とを結びつける。
彼はこのアプローチを悪の概念が存在しない文化で彼が見出したものと比較する。
そういった文化では、人が誰かを傷つけた時、彼らは彼ら自身や彼らの属するコミュニティと相いれなくなったと信じられ、病んでいるとみなされ、彼ら自身や他の人々と相いれるように新しい度量法が持ち出されるのである。
心理学者のアルバート・エリスは論理情動行動療法(英語訳:Rational Emotive Behavioral Therapy)と呼ばれる彼の学派において同様の主張を行っている。
怒りの起源や他者を傷つけたいという欲求はほぼ常に他者に関する黙示的あるいは明示的な種々の哲学的信念に結びついていると彼は言うのである。
更にこういった様々な秘密の或いは公然の信念或いは臆断を持たなければ大抵の場合暴力に訴える傾向は減退すると彼は主張しているのである。
一方、アメリカの重要な精神科医モーガン・スコット・ペックは悪を「好戦的な無知」とみなしているのだ。
ユダヤ教、キリスト教における「罪」の概念は本来人間が「遣り損な」って完成に達しないような過程としての罪である。
この事に多くの人々は少なくともある程度は気づいているが、実際に悪であり好戦的な人々は自分が気づいていることを認めないとペックは主張しているのである。
特に無実の罪を受ける人(しばしば子供や弱い立場の人々)を選んで悪行を成すという結果に至る有害な独善性こそが悪の特徴だとペックは考えている。
ペックが悪人と呼ぶような種類の人々は自分の良心から(自己欺瞞を通じて)逃げ隠れしており、この点でサイコパスにおいて明らかに良心が欠如しているのとは区別されるとペックは考えているのである。
ペックによれば、悪人とはどの様なものであったのであろうか。つい私は考えてしまうのである。
罪から逃れ、自己イメージを完璧なものに保とうという意図をもって自己欺瞞を続けている。
自己欺瞞の結果として他者も欺いている。
自身の罪を非常に狭い範囲の対象に投影し、他者をスケープゴートにする一方で自分を皆とともに正常に見せかける(「彼に対する彼らの不感受性は選択的である」)
一般に、他者をだますのと同じだけ自己欺瞞のために見せかけの愛によって嫌う。
政治的(感情的)力を悪用する(「人間の意志が公然に、あるいは秘密裏に他者に賦課を負わせること」)
高いレベルの社会的地位を保ち、そのために常に嘘をつく。
自身の罪に関して一貫している。悪人は犯した罪の大きさよりもむしろ(破壊性が)持続することによって特徴づけられる。
自分が起こした悪事の被害者の視点に立って考えることができない
批判その他のナルシシズムを傷つけるような行為を受けた時にひそかに耐え忍ぶことができない
ある種の制度も悪である可能性があると彼は考えている、というのはソンミ村虐殺事件とそれが隠蔽しようとされたことに関する彼の議論に示されているのである。この定義によれば、犯罪的テロリズムと国家テロリズムも悪だと考えられるであろう。
◉必要悪という考え方
宗教改革で有名なマルティン・ルターは小さな悪が否定しがたい善となる場合があることを認めた。「あなたの飲み仲間の社会を探し、飲み、遊び、猥談をして楽しみなさい。悪魔が良心的な人に対して何かをする機会を与えないために、悪魔を憎みさげすむのとは別に時には罪を犯しなさい」と彼は書いているのである。
正に人間の本質そのものを見抜いていたようだと、私は思っているのだ。何故なら私自身、悪を肯定しているからである。
政治哲学のある学派では、指導者は善悪に関心を持たず、実用性のみに基づいて行動するべきだと考えられている。政治に対するこのアプローチはニッコロ・マキャヴェッリが唱えたものである。彼は16世紀のイタリアのフィレンツェの著述家で政治家たちに「愛されるよりも恐れられた方がずっと安全である」と助言したのです。
レアルポリティークと呼ばれることもある現実主義や新現実主義の国際関係論に基づくと、政治家は国際政治においては絶対的な道徳・倫理があるという考えをはっきりと否定して、個人の関心、政治的生存、武力外交を重視することを好むべきということになる。
このことはこういった国際関係論を唱える者たちが明らかに非道徳的で危険だとみなしている世界を説明する上でより的確になると彼らは考えている。
政治学における現実主義者達はたいてい、政治的指導者だけに課される「高度な道徳的義務」を主張することで彼らの考え方を正当化していると言える。
この主張の下では、最大の悪とは国家が自身やその国民を守れないことである。マキャヴェッリはこう書いているのだ。
ご紹介しよう。
善だと考えられてはいるが実際にそれに従うと滅亡してしまうような特質がある一方で、悪徳とみなされているがそれを実行すると安全が実現され君主にとって幸福であるような特質が存在する」のだと。あなたはどう思われるますか。
お伺い申し上げます。
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