【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋

文字の大きさ
1 / 18

第一巻

しおりを挟む
 
 
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
 何故、甲斐国なのか?
 それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
 富士山ふじさんは、日本の活火山であり、その標高は3775.56 mである。
 山体の最高地点は3776.12 mで日本最高峰剣ヶ峰の独立峰であり、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。
 また、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)と静岡県(富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町)にまたがっている。
 詳しく述べると山梨県やまなしけんは、日本の中部地方甲信越地方に位置する県である。県庁所在地は甲府市。

 山梨県の南部に富士山、西部に赤石山脈南アルプス、北部に八ヶ岳、東部に奥秩父山地など、標高2,000 m~3,000mを超す山々に囲まれる。
 島国の日本において、海に全く面しない数少ない内陸県であるのだ。
 山梨県の面積は全国32位であるが、その8割を山岳地が占めるため可住地面積は全国45位である。

 周辺地域とは、往来が比較的容易で交通路も整備されている東京都(島嶼部を除く)、神奈川県津久井地区、長野県中・南信地方、静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年の国道140号雁坂トンネル開通により、山岳部の踏破だけでなく車自動やバスでの直接往来が可能となった。関東甲信越広域関東圏の一つであり、国土交通省の関東地方整備局など省庁の地方支部局出先機関では管轄が関東地方とともに包括されることが多い。

 『山梨』の県名は律令制下の甲斐四郡の一つである『山梨郡』に由来し、県名は1871年(明治4年)7月の廃藩置県に於いて旧甲斐国一国が甲府県を経て『山梨県』に改称された経緯がある。

 山梨郡は県庁所在である甲府市が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、明治新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられているのだ。歴史時代小説を執筆するわたしにとって『山梨郡』はわたしの人生の原点なのかもしれないのだ。
 この『山梨郡』は本来は甲斐一国を意味する呼称ではないため、明治時代初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌などでは県域を指す地域呼称として『峡中』が用いられた。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。

 さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
 そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。


武田信玄は、戦国時代(1467年~1615年)に甲斐国現在の山梨県を治めた武将である。
 その圧倒的な強さから『甲斐の虎』と呼ばれ、彼が率いる騎馬武者を中心とした武田軍団は戦国時代では最強と評され恐れられた。武田信玄には軍師•山本勘助の他に板垣 信方いたがき のぶかたという猛者がいた。板垣信方は、武田信虎、晴信信玄の2代に渡り仕えた武将である。また、彼の武勇は武田二十四将、武田四天王の一人と数えられ、家紋は花菱裏花菱、馬標は三日月であった。
 武田信玄は織田信長おだ のぶながでさえ恐れたと言われた武将であり、彼の生涯や逸話は万とある。
また、数多くの名言を残して入るのだ。
 当時武田信玄と改名していたが、信玄と名乗る前は武田晴信であった。
晴信は弱冠21歳でクーデターを起こして家督を継いだのだ。
つまり父親を騙し今川家に追いやったのである。
 また、好敵手である上杉謙信と5度に渡る『川中島の戦い』は戦国時代でも有名な戦の一つである。
 武田信玄は甲斐国を拠点に信濃・駿河を制圧し、上杉謙信や徳川家康と激戦を繰り広げたのである。この戦さの陰に暗躍したのだ軍師•勘助であった。
 徳川家康・織田信長と対立しつつ、天下統一を目指した西上作戦を開始するも道半ばでこの世を去ったのである。
享年52歳である。
 あの織田信長が好んだと言われ舞わったといわれる『敦盛』は
 『桶狭間の戦い』を記述したものであるが織田信長が「人間五十年」=「敦盛の舞」を好んだことが伺いしることが出来る。
『信長公記』によると、「此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、ほらふけ、具足よこせと仰せられ、御物具おんもののぐ召され、たちながら御食みけをまいり、御甲おんかぶとめし候ひて御出陣なさる。
信長の享年は49歳であったが武田信玄は53歳であった。


ー(武田信玄の年譜)ー

(1521年)
 現在の山梨県で戦国大名・武田信虎の長
 男として生まれる。

(1541年)
 クーデターにより父を追い出し家督を継
 ぐ。

(1542年)
同盟関係にあった諏訪へ侵攻

(1548年)
 村上義清との戦で敗北し、大きな損害を受ける。

(1553年)

 上杉謙信との戦・第1次川中島の戦い。

(1554年)

 今川義元・北条氏康と甲相駿三国同盟を
 結ぶ

(1561年)

 第4次川中島の戦い。

(1568年)

 徳川家康の駿府城を攻略。

(1572年)

 西上作戦を開始。三方ヶ原の戦いで徳川
 家康を破る

(1573年)
 病気により死去。

ー(武田信玄の年譜)ー

(1521年)

 現在の山梨県で戦国大名・武田信虎の長
 男として生まれる。

(1541年)
 クーデターにより父を追い出し家督を継ぐ。

(1542年)

 同盟関係にあった諏訪へ侵攻。

(1548年)
 村上義清との戦で敗北し、大きな損害を
 受ける。

(1553年)
 上杉謙信とのいくさ
 第1次川中島の戦い。

(1554年)
 今川義元・北条氏康と甲相駿三国同盟を
 結ぶ。

(1561年)
 上杉謙信とのいくさ
 第4次川中島の戦い。

(1568年)
 信玄動く!
 徳川家康の駿府城を攻略する。

(1572年)
 信玄西上作戦を開始。
 三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る。

(1573年)
 信玄織田方のはなった刺客の火縄銃により撃たれる。これがもとで病を発症しこの世をさった。享年53歳。

ー(武田信玄の生涯)ー

 戦国時代を代表する武将であった武田信玄は、生涯を通じて数々の戦いや政務に取り組み、名将としての地位を築いた。
 21歳という若さで家督を継いだ信玄は、内政と軍事の両面で様々な成果を挙げ、戦国乱世をしたたかに生き抜いた。
その波乱に満ちた人生を振り返って見ると彼の陰には常に軍師である山本勘助がいた。

 さて、山本勘助と知り合う前であるが、信玄と改名する前は晴信と名乗っていた。晴信は、父信虎をクーデーターによって駿河の今川義元の処へ追い出し、名実ともに甲斐国の国主となった。
 話しは前後するが、武田信玄は1521年、甲斐国で戦国大名・武田信虎たけだ のぶとらの長男として生まれた。幼い頃から聡明で武芸にも秀でていた。
父・信虎は、甲斐国内をまとめあげた優れた武将だったが、強引な統治により家臣や民衆の不満も多かった。
 武田信玄は家臣たちと秘密裏に協力し、1541年に父・信虎を駿河国(現在の静岡県)に追放して家督を継ぐことに成功した。
 当時まだ弱冠21歳だったが、既に卓越した指導力と統率力を発揮し、武田家の新たな時代を切り拓いていくことになった。
 
 家督を継いだ武田信玄が最初に着手したのは、隣国・信濃(現在の長野県)への侵攻であった。
 最初の標的は諏訪であった。父・信虎の代には同盟関係にあり、妹の嫁ぎ先でもあったが、父・信虎の追放により関係が悪化した。諏訪から甲斐への侵攻が懸念されていた為信玄は、諏訪攻めを決断した。
軍師•山本勘助も信玄と同じ考え方であった。
 1542年、武田信玄は諏訪へ兵を進め、大名である諏訪頼重すわ よりしげの居城・上原城を落城させると、続いて桑原城を包囲した。
 和睦を装って諏訪頼重を呼び出し、自害に追い込んだ。これにより諏訪を制圧し、信濃侵攻の足がかりを築いたのである。
 信濃には多くの有力大名が存在しており、村上義清むらかみ よしきよ小笠原長時おがさわら ながとき木曾義昌きそ よしまさらとの戦いが続くこととなる。
 
 中でも村上義清との戦いは激しく、1548年の上田原の戦いでは敗北し、重臣を失う大きな損害を受けた。

 こうした中でも外交を駆使し、1554年に駿河国の今川義元いまがわ よしもと、相模国(現在の神奈川県の一部)の北条氏康ほうじょう うじやすと甲相駿三国同盟を結んだ。
 この同盟によって東と南の国境を安定させ、信濃制圧に専念出来る体制を整えたのである。
 
ー(駿河国を治めていた今川義元)ー

 信玄にとって最大の好敵手と言える武将は越後の虎・上杉謙信であった。
 謙信との激戦はあの『川中島の戦い』であった。

 信濃制圧を進める武田信玄の前に立ちはだかったのが、越後国(現在の新潟県)を治める上杉謙信うえすぎ けんしんだった。

 武田信玄に追い詰められた村上義清が上杉謙信を頼って越後国へ逃れたことをきっかけに、上杉謙信は信濃へ出兵。両者の対立が本格化したのである。

 この対立が表面化して表れたのが『川中島の戦い』だ。1553年から1564年の間に、計5度にわたり両軍は対峙した。
 中でも激戦となったのは1561年の『第4次川中島の戦い』だった。

 この合戦では、武田軍が約2万人、上杉軍が約1万3千人を動員した。
 戦国時代でも屈指の規模となった。
 この戦いには、上杉謙信が馬に乗って武田信玄の本陣へ斬り込んだという伝説も残されている。

 上杉謙信が太刀を振るい、武田信玄が軍配でそれを受け止めたという逸話は創作の可能性が高いものの、江戸時代の軍記物などを通して広まり、後世に語り継がれているのだ。

 戦局決着がつかず、最終的に両軍は撤退した。
 以降、武田信玄と上杉謙信は直接的な衝突を避け、それぞれの戦線に力を注ぐようになったのだ。

 両者が顔を合わせた記録は残っていないが、戦国時代を代表する好敵手として今もなお語り継がれている。
 
ー(武田信玄のライバルである上杉謙信)ー

 信玄が更なる勢力を拡大することにより織田信長、徳川家康と対立することになる。

 信濃での覇権を確立した武田信玄は、次なる拡大先に目を向けた。
 1560年の桶狭間の戦いで、同盟関係にあった今川義元が織田信長に討たれ、情勢が大きく変化した。

 武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄し、駿河へと侵攻。駿河国の要地を次々と制圧していった。

 この動きにより、今川家と同盟を結んでいた徳川家康とくがわ いえやすとの対立も避けられなくなった。

 武田信玄は遠江国(現在の静岡県)にも兵を進め、三河国(現在の愛知県)との境で激しい戦いを展開した。

 一方、徳川家康は織田信長との結びつきを強めており、やがて武田信玄は二人の連携勢力と敵対する構図となっていった。
 勢力を拡大していった武田信玄は、戦国の覇者を目指し、京都への進軍を開始した。
所謂「西上作戦」へと突き進んでいくことになる。
 
ー(武田信玄の勢力拡大とともに敵対関係となった徳川家康)ー

 信玄は持病の悪化により西上作戦を断念した。

 京都への進軍の途中、武田信玄は徳川家康と三方ヶ原みかたがはらで激突する。
圧倒的な兵力差のもと家康軍を撃破し、徳川家康自身が命からがら浜松城へ逃げ帰ったというエピソードは、家康の人生に於ける大きな転機として知られている。

 順調に思えた西上作戦だったが、武田信玄の持病が悪化し、中断を余儀なくされる。

 1573年、帰国途中の美濃国(現在の岐阜県)で体調を崩し死去。享年53歳。

 後を継いだのは武田勝頼たけだ かつよりだったが、父のような統率力を発揮することは難しく、武田家は次第に力を失っていくことになる。
 
ー(武田信玄にまつわるエピソード)ー

 戦国最強と評された武田信玄の強さの秘訣や、意外な一面を知れる逸話を紹介する。
生涯の出来事だけでなく、その背景にあるエピソードを知ることで、武田信玄の魅力がより深く感じられる筈だ。

 武田信玄の軍略のベースとなった「風林火山」

風林火山ふうりんかざん」は、武田信玄が軍旗に掲げたと伝わる言葉で、彼の戦略を象徴するフレーズとして広く知られている。
 正確には以下の4つの文章が軍旗に記されており、それらを略したものが「風林火山」である。

疾きこと風の如く、
徐かなること林の如く、
侵掠すること火の如く、
動かざること山の如し。

 中国の兵法書孫子はそんしの一節から引用されたもので、武田信玄はこれを軍略の指針としたのだ。
 その意味は「動くときは風のように素早く、構えるときは林のように静かに、攻めるときは火のように激しく、守るときは山のように動かず」ということだ。
 
 現代でも「風林火山」は、ビジネスやスポーツの戦略論として引用されることが多々ある。
 
 武田信玄の菩薩寺である恵林寺にも「風林火山」の屏風が飾られているのだ。
   
 武田信玄の強さの本質は、戦国最強と評される騎馬隊ではなく、緻密な情報収集に裏付けられた巧みな戦術にあった。
 武田軍で主に情報収集を担ったのが​、「 三ツ者みつもの」や「透波すっぱ」と呼ばれる忍者集団だ。

 当時、三ツ者は敵の情報を調べたり、周囲の敵を偵察したり、敵地に潜入して軍勢や補給路の様子を探るなど、幅広い活動を行っていた。​

 中でも特徴的なのが、女性の巫女で構成された「歩き巫女あるきみこ」という集団である。

 歩き巫女とは、神社に所属せずに旅をしながら、人々の願いごとを聞いて祈祷や占いをして暮らしていた女性のことだ。

 戦国時代は一般人の移動が制限されていたが、歩き巫女は聖職者として何処でも受け入れられ、怪しまれることなく情報収集できたのだ。

 武田信玄は彼女たちの自由に移動できる特性と社会的信用に注目し、諜報技術を習得させて、情報網の一翼を担わせたのだ。
 
 これまで紹介してきた武田信玄の人物像からは想像しにくいような、意外なエピソードも残っている。

 それは、武田信玄と家臣・春月源助しゅんげつ げんすけの間で起きた些細な事件であった。
 武田信玄と春月源助は、主君と家臣という関係を超えた親密な仲だったとされる。
戦国時代には、命を懸けた主従関係がやがて恋愛に発展することもあり、特に若く美しい側近が仕える中で、こうした絆が築かれることもあった。
 ある時、武田信玄が弥七郎やしちろうと密会したことを知った春月源助は、不機嫌になる。
 これを知った春月源助は機嫌を損ねた。恋人の浮気を知ったときの心情は、昔も今も変わらないのかもしれない。
 武田信玄は慌てて釈明の手紙をしたため、「弥七郎とは何もなかった」「もし偽りがあれば神罰を受けてもよい」と、必死に弁明した。

 この手紙は現存しており、東京大学史料編纂所に所蔵されている。
 
ー(武田信玄の意外な一面が垣間見える手紙に関するエピソード)ー
  (武田信玄の名言)
 戦国時代の武将の中でも人気の高い武田信玄は、現代に生きる人々の心にも響く名言を残しているのだ。
ここでは、その中でも特に有名な名言を紹介する。

 「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」

(武田信玄の統治哲学を象徴する言葉)

「人こそが国を守る城であり、石垣であり、堀である。人には情を持って接し、思いやりのないやり方を避けよ」という意味だ。
つまり、どれほど立派な城や石垣を築いても、最終的に国を支えるのは『人材』であるという哲学思想を表している。

 家臣や民を大切にし、恩義をもって接すれば自然と味方になるが、粗末に扱えば敵に回る。戦国時代に於ける人材と信頼の重みを端的に示した名言と言えるであろう。

 「我、人を使うにあらず。その業を使うにあり。」

 この言葉は、「人そのものを使うのではなく、その人が持つ『能力』を活かすことが大切だ」という意味を持つ。

 武田信玄は、家臣や部下の才能を見極め、それぞれの適材適所に配置することで組織を最大限に機能させた戦国武将である。

 誰かを無理に変えようとするのではなく、その人の特性を活かすという信玄の柔軟なリーダーシップが表れている。

 現代の企業経営やチーム作くりにも通じる考え方であり、「人を活かす」ことの重要性を説いた、先見性のある名言と言える。

「為せば成る。為さねば成らぬ成るわざを、成らぬと捨つる人の儚さ。」

 この言葉は、「やればできるのに、やらないまま諦めてしまう人の弱さ」を指摘した名言である。

 努力を重ねれば成し遂げられることでも、最初から無理だと決めつけてあきらめてしまう人間の弱さと向き合った言葉だと言える。

 信玄は実際の戦や政治においても、一見不利な状況でも諦めず、工夫と努力を重ねることで道を切り開いて来た。
 そんな彼の信念が、端的に表現された一言といえる。

武田信玄は世界史的規模からみても傑出した軍事的天才であったといえる。
 今なおこの山梨県人達が時代小説の寵児になっているのは、信玄が自分の士を愛したというよさがあったからであろたう。
 信玄は妙に医療的関心のつよい男であったようだ。傷病兵の為に温泉を指定し、国立の湯治場をつくったりしたのだ。いまでも山梨県の至るところにある信玄の湯などは、その名残りであると言えるだろう。信玄がもしも今生きていれば、山梨県の医師会長にでもなっていただろう。そして悪辣無惨な販売戦略で同業の利益だけは守り抜いたに違いないと、私は思っている。
 その信玄の物主ものぬしに米倉丹後という男がいた。丹後のせがれが彦十郎である。この彦十郎がある合戦で腹に鉄砲玉を受けた。現代医学では急性腹膜炎になった訳である。
 さて、彦十郎は危篤に陥った。
 この彦十郎の直属の上官は、武田家の武将の中でも剛強で知られていた甘利左衛門だった。甘利はさすがに信玄子飼いの武将だけに医療に関心が深く、直ぐにこう言ったという。
 「芦鹿毛あしかげの馬の糞を拾ってこい」と家来に命じたのだ。
 家来は大急ぎで味方の陣地を駆け巡ってみたが、「芦鹿毛あしかげの馬がいなかった。
 いてもあいにく用便していなかったのである。家来は遂に窮したあまり、敵陣まで忍び込んで、やっと竹の皮に一包みほどの糞を持ち帰ったのだ。
 「敵の馬の糞でもよろしうございますか。」
 「ばかもん」と甘利は家来を叱りつけたのだ。
 「糞に敵も味方もあるものか。」
 早速、大椀に糞をいれ、水で捏ねて瀕死の彦十郎に、「妙薬じゃ。飲め。」
と与えた。甘利は大真面目な男である。
 死にかけの男に糞汁を飲ませて喜ぶような大ユーモリストではない。武田家の軍陣医学に「腹痛に芦鹿毛あしかげの糞汁良し」という処方が実際にあったのである。
が、彦十郎は閉口したままだ。
 「私はこれでも侍です。畜生の糞を飲んでもし助かればよい。しかし助からねば、それほどまでして、命が惜しかったか、と言われるのが無念です。」
甘利は彦十郎を叱りつけた。
 「このアホウめが!」
 「薬が少々臭いゆえにそのように言うのであろう。おれがまず飲んでやるから、お前も飲むのじゃ。」
 彦十郎はこの糞汁を飲み、快癒したのである。
 信玄はこの話しを甘利から聞き「喜ぶことおびただしく」と古書にある。
 「甘利、よくぞ致した。あの時もし彦十郎が侍ゆえに糞汁を忌み嫌って飲まずに死んだとすれば、今後それにならう者が出て、あたら妙薬も、無駄になったことであろう。」
 このように信玄という武将はそこまで、部下の体のことを気遣っていた人物であったということである。

 「妙薬は口に苦し。また、腹痛には糞汁を飲むべし。」

武田信玄は北信濃に侵攻した時、北信濃の大名であった村上義清に2度敗戦している。
 村上 義清むらかみ よしきよは、戦国時代の武将である。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衡)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。
彼は文亀元年3月11日(1501年3月29日)に生まれ元亀4年1月1日(1573年2月3日)にこの世を去った。
享年73歳。
主君は上杉謙信である。 

 義清は信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退している。家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主であった。

 義清の生涯は波瀾万丈であったと言えるであろう。
 文亀元年(1501年)3月11日、村上顕国の子として葛尾城に生まれた。永正12年(1515年)3月15日、元服し、右京権亮を称し、諱を義清とする。この頃、父の顕国は支配下にあった小川氏が背いたため隣接地の高坂氏と大日方氏にこれを討たせたと伝えられるが、他の事蹟が明確ではなく、このため家督継承前後の義清の動静も明確ではないのだ。
 永正13年(1516年)3月、従五位下に叙位。佐渡守に任官された。
 永正14年(1517年)に、父より葛尾城を譲られ、永正17年(1520年)に病没した父の後を受けて家督を相続し、当主になった。一方、父の顕国が死去したのは大永6年(1526年)という説もある。
 大永元年(1521年)10月、従四位下に昇叙し、左衛門佐に転任。大永7年(1527年)1月、左近衛少将に転任。天文5年(1536年)1月、正四位上に昇叙。
当時の村上家は、長年対立してきた守護の小笠原氏と婚姻同盟を結ぶ一方、北信濃では越後長尾氏と関係の深い名族井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込み、信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐国の武田氏と抗争を続けていた。村上義清は佐久郡を武田氏に奪われていた。
 天文10年(1541年)5月、武田信虎・諏訪頼重と結び、海野平の戦いにおいて、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)ら滋野一族を駆逐して、小県郡を完全に掌握することに成功したのである。
 
ー(武田信玄との抗争)ー

 天文17年(1548年)、信虎を追放した武田晴信武田信玄の攻勢を受ける。小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。また、村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方は上条織部に討ち取られた。この他に武田方は、甘利虎泰・才間河内守などの家臣を失うことになったのだ。

 天文19年(1550年)、村上義清が高梨政頼と戦っていて本領を留守にした隙に、晴信が小県の要衝砥石城に侵攻してくる。義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、晴信は義清の後詰に戦況不利を判断して退却を開始するが、義清は武田勢を追撃し、大勝をおさめた。後に言う砥石崩れである。この戦いで武田方は足軽大将の横田高松や郡内衆の渡辺雲州を始め、1000名の死傷者を出したという。村上方の死者は193名ほどであったと言われる。武田信玄の敗北であった。
 海野平の戦いにより上野国に亡命していた真田幸綱は、晴信への家督交代後の武田家に仕官し、幸綱は村上勢の武将切り崩し、調略を行う。その結果、天文20年(1551年)には幸綱により砥石城が攻略される。砥石城の足軽大将・矢沢頼綱(幸綱の弟)が幸綱に内通していたためであった。これにより義清の影響力は一気に低下し、天文21年(1552年)の常田の戦いで勝利を収めるも、家臣団の動揺を抑えられなくなった。
 天文22年(1553年)、武田氏に通じていた土豪・大須賀久兵衛尉が謀反し、また室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏した。村上義清は4月9日に葛尾城を一時脱出、再度体勢を整え、4月22日には奪還に成功した。武田晴信は深志城(松本城)に後退し、5月11日には甲府に引き上げた。7月25日に晴信は大軍を率いて甲府を出発した。この時に、光城、上ノ山城、刈谷原城が落とされる。

ー(村上義清が上杉家臣になる。)ー

 天文22年(1553年)8月、村上義清は葛尾城を捨て、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国に落ち延びた。北信濃の独立勢力であった村上氏の没落により、武田氏の勢力が越後長尾氏の本拠春日山城に近い善光寺平にまで及んだ。これにより上杉謙信は武田信玄と川中島の戦いで5度に渡る激戦を繰り広げることとなった。  

 村上義清は根知城主となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となった。国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられている。
 第四次川中島の戦いでは、村上義清は高梨政頼、須田満親と共に雨宮の渡しの守備を担当したとされている。
 元亀4年(1573年)1月1日、村上義清は越後根知城にて病死し、国清が後を継いでいる。享年73。仇敵・信玄の死の5か月前であった。日滝寺に葬られたというが、その墓所については根小屋地内の安福寺とも言われ、魚沼郡赤沢の説もある。坂城町田町の出浦家墓所中には後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。

 天正10年(1582年)に武田勝頼が自害し、甲斐武田氏は滅亡する。義清の嫡男・山浦国清は8月5日に海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰することとなったのであった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

焔と華 ―信長と帰蝶の恋―

歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。 政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。 冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。 戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。 ※全編チャットGPTにて生成しています 加筆修正しています

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

処理中です...