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第十二話 凍てつく世界と、愛の暴走
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翌朝。 オルブライト公爵邸は、死のような静寂に包まれていた。
窓の外では小鳥が囀っているはずなのに、その声は聞こえない。 朝日が差し込んでいるはずなのに、室内の空気は澱んだように重く、そして冷たかった。
「……ん」
アレクシスは、執務室のソファで目を覚ました。 重いまぶたを持ち上げると、視界に入ってきたのは見慣れた天井と、自分に掛けられた毛布だった。
(……昨夜は、そのまま寝てしまったのか)
記憶がゆっくりと蘇る。 王城での査問会。 理不尽な要求。 疲労困憊で帰宅し、リリアナに膝枕をされて……。
「……リリアナ?」
彼は反射的に隣を探した。 いつもなら、彼の目覚めを待っているはずの、愛しい妻の姿がない。 温かい紅茶の香りもしない。
「リリアナ、どこだ? もう起きているのか?」
アレクシスは体を起こし、部屋の中を見回した。 昨夜の残像を探すように。
そして、見てしまった。
執務机の上。 そこに、不自然なほど整然と並べられた品々を。
彼が贈った、ミッドナイトブルーのドレスに合うサファイアのネックレス。 そして、彼が昨日、震える手で買ってきた一輪の白い薔薇。 その横には、封を切られた手紙と、一枚の羊皮紙が置かれていた。
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。 アレクシスは、ふらつく足取りで机に近づいた。 指先が震える。 触れてはいけないものに触れるような恐怖を感じながら、彼はその羊皮紙を手に取った。
『離縁状』
その三文字が、彼の網膜を焼き尽くした。
「……な、んだ……これは……」
喉が渇き、声が掠れる。 その横にあった手紙を開く。 見慣れた、少し癖のある丸文字。 リリアナの字だ。
『公爵様へ』 『夢のような生活をありがとうございました』 『私は疲れました』 『契約は、ここで終了とさせてください』 『さようなら』
文字の滲み。 それは、彼女が泣きながら書いた証拠だった。
「……嘘だ」
アレクシスは呟いた。
「疲れただと? 静かな暮らしがしたいだと?」
昨日の朝、彼女は何と言った? 『一生、貴方のおそばに置いてください』 そう言って、俺の腕の中で笑ったじゃないか。 あの笑顔が嘘だったというのか? あの体温も、あの口付けも、すべて演技だったというのか?
「……ありえない」
アレクシスは、手紙を握りつぶした。 彼女は嘘をついている。 リリアナは、嘘が下手だ。 自分の感情を押し殺して、誰かのために犠牲になろうとする時、彼女はいつも笑って誤魔化そうとする。
昨夜の彼女の様子。 俺が買ってきた萎れかけた薔薇を見て、泣きそうな顔で『ありがとうございます』と言った彼女。 あの時、彼女はすでに決めていたのだ。 俺の前から消えることを。
なぜ? 誰が彼女をそうさせた? 俺が追い詰めたのか? いや、違う。
脳裏に浮かぶ、一人の女の顔。 燃えるような赤髪。 毒のような言葉。
『貴女がいる限り、彼は追い詰められる』
「……エメラルダ……!!」
アレクシスの喉から、獣のような咆哮がほとばしった。
その瞬間。
パキィィィィィィィィンッ!!!
世界が、音を立てて凍りついた。
比喩ではない。 執務室の空気が一瞬にして絶対零度まで低下し、窓ガラスが爆ぜ飛び、壁も床も天井も、すべてが分厚い氷に覆われたのだ。 机の上のインク壺が破裂し、こぼれたインクが空中で凍結して黒い華を咲かせる。
怒り。 絶望。 喪失感。
制御を失ったアレクシスの魔力は、留まるところを知らず、執務室から廊下へ、そして屋敷全体へと奔流となって溢れ出した。
***
「うわぁぁぁぁっ!!」 「寒い! なんだこれ!?」 「きゃぁぁっ! 足が凍るぅぅ!!」
公爵邸はパニックに陥っていた。 一階の厨房では、スープが一瞬でシャーベットになり、燃え盛っていたかまどの火が凍りついた。 廊下を歩いていたメイドたちは、迫りくる冷気の波に悲鳴を上げて逃げ惑う。 美しい庭園の噴水は巨大な氷の彫刻と化し、季節外れの猛吹雪が屋敷を覆い尽くしていく。
「旦那様!! 旦那様、お気を確かに!!」
防寒着を着込んだセバスチャンが、凍りついた執務室の扉を蹴破って飛び込んできた。 彼の眉毛や髭には、すでに霜が降りている。
「……出て行け」
部屋の中央。 吹雪の中心に立つアレクシスが、虚ろな瞳で告げた。 その全身は、青白い燐光のような魔力に包まれている。
「旦那様、これはいけません! このままでは屋敷が崩壊します! それに、奥様が……リリアナ様が戻られた時、寒がられますぞ!」
セバスチャンは必死に叫んだ。 リリアナの名前を出せば、正気に戻るかもしれないという賭けだった。
しかし、その言葉は逆効果だった。
「……戻る?」
アレクシスが、ゆらりとセバスチャンを見た。 その瞳には、光がなかった。 あるのは、底なしの絶望という名の闇だけ。
「……彼女は、もう戻らない」
「えっ?」
「出て行った。……私を守るために、自分を殺して、一人で消えたんだ」
アレクシスの手から、握りつぶされた手紙がハラリと落ちた。 氷の床に落ちたその紙片を、セバスチャンは拾い上げ、目を通した。 そして、すべてを悟ったように息を呑んだ。
「これは……なんということを……」
「私が不甲斐ないからだ。……私が弱かったから、彼女にこんな嘘をつかせてしまった」
アレクシスは自嘲気味に笑った。 その笑顔は、泣くよりも悲痛だった。
「権力も、地位も、魔力も……何の意味もなかった。たった一人の女も守れないなんて……私は、なんて無力なんだ」
彼の目から、涙がこぼれた。 その涙は頬を伝う前に凍りつき、氷の粒となって床に砕け散った。
「……旦那様」
「……全部、壊れてしまえばいい」
アレクシスが呟いた。
「リリアナのいない世界など……存在する価値もない」
ゴゴゴゴゴ……。
屋敷が鳴動を始めた。 アレクシスの魔力がさらに膨れ上がり、屋敷ごと、いや、この街ごと氷河期に叩き落とそうとしている。 暴走だ。 主人の心の崩壊に呼応して、強大すぎる魔力が世界を侵食し始めている。
「おやめください!!」
セバスチャンが叫んだ。
「奥様は、旦那様の幸せを願って身を引かれたのです! それなのに、貴方様が世界を滅ぼしてどうするのですか! そんなことをすれば、奥様の犠牲が無駄になります!」
「……幸せ?」
アレクシスは虚空を見つめた。
「彼女のいない未来に、幸せなどあるものか」
彼はゆっくりと顔を上げた。 その瞳に、微かな理性の光が戻る。 しかし、それは穏やかな理性ではない。 冷徹で、残酷で、目的を遂行するためだけに研ぎ澄まされた、氷の刃のような理性だ。
「……そうだ。原因を排除すればいい」
「はい?」
「リリアナが去った原因。……彼女を追い詰め、脅し、私の元から引き剥がした元凶」
アレクシスの視線が、王城の方角へと向けられた。
「エメラルダ」
その名を口にした瞬間、室内の吹雪がピタリと止んだ。 代わりに、空間が歪むほどの殺気が満ちる。
「あの女が……私のリリアナを奪った」
「だ、旦那様、まさか……」
「セバスチャン」
アレクシスは、手紙を拾い上げ、大切に懐にしまった。 そして、氷でできた剣を虚空から引き抜いた。
「馬を用意しろ。……いや、必要ない」
彼は窓枠に足をかけた。
「私が直接、王城へ行く」
「お待ちください! それは謀反になります! 騎士団総出で止められますぞ!」
「止めたければ止めればいい。……邪魔をする者は、王だろうが神だろうが、すべて凍らせて砕く」
アレクシスは、振り返りもせずに窓から飛び出した。 氷の足場を空中に作り出し、それを蹴って王城へと一直線に翔けていく。 その背中には、もはや公爵としての分別も、臣下としての忠誠心もなかった。 あるのはただ、愛する女を奪われた男の、凄絶な執念だけだった。
***
王都は、異常気象に見舞われていた。 快晴の空から、突如として大粒の雪が降り始め、気温が急降下したのだ。 道行く人々は慌ててコートを羽織り、家路を急いだ。
その雪の中を、一筋の青白い流星が王城へと突き進んでいた。
王城の正門。 数多くの衛兵たちが、異変を察知して槍を構えていた。
「止まれ! 何者だ!」
上空から降り立ったアレクシスを見て、衛兵長が叫んだ。 しかし、相手が筆頭公爵であることに気づき、動揺が走る。
「オ、オルブライト公爵閣下!? な、なぜ武装を……許可なき登城は禁じられております!」
「……開けろ」
アレクシスは、門の前に立ち、静かに命じた。
「閣下、お引き取りください! これ以上進めば、実力行使も辞さない構えです!」
「……そうか」
アレクシスは無表情のまま、片手を上げた。
「なら、消えろ」
カッ!!
閃光と共に、巨大な正門が、厚さ数メートルの氷塊に閉じ込められた。 そして、パリーンという軽快な音と共に、粉々に砕け散った。
「な……っ!?」
衛兵たちは腰を抜かした。 鉄壁を誇る王城の門が、一撃で。
「か、怪物だ……」
アレクシスは、恐怖で動けない衛兵たちの間を、悠然と歩いて抜けた。 彼が歩くたびに、石畳が凍りつき、霜の花が咲いていく。 誰も彼を止められない。 止める勇気を持つ者などいなかった。
彼は王城の中庭を抜け、本丸へと侵入した。 目指す場所は一つ。 エメラルダの私室がある、西の塔だ。
廊下を行く彼を、王宮魔導師団が包囲した。
「公爵閣下! 乱心召されたか!」 「直ちに投降せよ! さもなくば炎の魔法で……」
「……炎?」
アレクシスは冷ややかに笑った。
「私の氷は、絶対零度だ。……炎ごときで溶かせると思うな」
彼が指を鳴らすと、魔導師たちが詠唱を終える前に、全員の杖が凍りつき、手元で破裂した。 さらに、彼らの足元から氷の蔦が伸び、瞬く間に拘束する。
「邪魔だ」
アレクシスは、氷像のようになった魔導師団を無視して、階段を上がっていった。 怒りが、彼の魔力を極限まで高めていた。 普段なら手加減をする相手でも、今の彼には「リリアナを奪った敵の味方」にしか見えない。
そして、ついに彼は西の塔の最上階、エメラルダの部屋の前にたどり着いた。
豪華な彫刻が施された扉。 その向こうに、あの女がいる。
アレクシスは、ノックなどしなかった。 足裏に魔力を込め、扉を蹴り飛ばした。
ドゴォォォォン!!
扉が蝶番ごと吹き飛び、部屋の中に転がった。
「きゃぁぁっ!?」
部屋の中では、エメラルダがお茶を楽しんでいるところだった。 彼女は驚いてティーカップを取り落とし、入り口に立つ侵入者を見た。
「ア、アレクシス……!?」
そこには、全身から冷気を噴き出し、殺意に満ちた瞳をしたアレクシスが立っていた。 その姿は、かつての婚約者候補ではなく、死神そのものだった。
「……よくも、優雅にお茶など飲んでいられるな」
アレクシスは、一歩ずつ部屋に入った。 床の絨毯が、彼の足元から凍りついていく。
「な、なによ! いきなり入ってくるなんて無礼よ! 衛兵! 衛兵はいないの!?」
エメラルダは叫んだが、誰も来ない。 来るはずがない。 城内の戦力は、すでに無力化されているのだから。
「……リリアナは、どこだ」
アレクシスは、エメラルダの目の前まで歩み寄り、剣先を彼女の喉元に突きつけた。
「ひっ……!」
エメラルダは顔面蒼白になり、ソファにへたり込んだ。
「し、知らないわよ! あの子が勝手に出て行ったんでしょう? 離縁状も置いていったって聞いたわ!」
「……貴様が書かせたんだろう」
「私は……アドバイスをしただけよ! 貴方のために身を引くのが愛だって!」
「愛?」
アレクシスは、ギリリと歯噛みした。
「貴様の歪んだ欲望を、愛などという言葉で飾るな! 貴様が彼女に何を吹き込んだか、想像がつくぞ。『お前がいると彼が不幸になる』とでも言ったんだろう!」
図星だったのか、エメラルダは視線を泳がせた。
「……じ、事実じゃない! 貴方は査問会にかけられて、爵位も危うかったのよ? あの子がいなくなれば、私が父上に頼んで……」
「黙れ!!」
アレクシスの怒声が、部屋の空気を震わせた。
「爵位? 名誉? そんなゴミ屑、いくらでもくれてやる! 私が欲しかったのは、リリアナだけだ! 彼女のいない公爵家になど、何の意味もない!」
「な……っ」
エメラルダは絶句した。 彼女には理解できなかったのだ。 権力と地位こそが至上の価値である彼女にとって、アレクシスの言葉は狂人の戯言にしか聞こえなかった。
「……貴方は、狂ってるわ」
「ああ、狂っているさ」
アレクシスは認めた。
「愛する女を奪われて、正気でいられる男がどこにいる」
彼は剣を引いたが、代わりに右手をかざした。 膨大な魔力が収束していく。
「貴様のしたことは万死に値する。……だが、楽には殺さん」
「や、やめて……! 私は王女よ!?」
「リリアナが味わった孤独と寒さを、貴様にも教えてやる」
アレクシスが魔法を放とうとした、その時だった。
「やめよ、アレクシス!!」
威厳ある声が響いた。 入り口に、国王陛下が立っていた。 近衛騎士団を引き連れて。
「陛下……」
「剣を収めよ。これ以上暴れれば、予とて庇いきれんぞ」
国王は、厳しい表情で言ったが、その目にはアレクシスへの理解と、娘への呆れが含まれていた。
「……陛下。娘のしつけがなっていないようですね」
アレクシスは皮肉な笑みを浮かべた。 相手が国王であろうと、一歩も引く気配はない。
「私の妻を追い出し、家庭を崩壊させた責任、どう取っていただくおつもりか」
「……すまなかった」
国王は、頭を下げた。
「父上!?」
エメラルダが叫んだが、国王は彼女を睨みつけた。
「黙りなさい、エメラルダ。お前の嫉妬は見苦しい。……アレクシス公爵への嫌がらせも、リリアナ夫人への脅迫も、すべて報告を受けている」
「で、でも……!」
「お前には、北の塔での謹慎を命じる。頭が冷えるまで出てくるな」
「そ、そんな……!」
国王の裁定に、エメラルダは泣き崩れた。 しかし、アレクシスの怒りは収まらない。
「謹慎程度で許されると?」
「……リリアナ夫人の捜索には、王家の総力を挙げて協力しよう。近衛騎士団も、隠密部隊もすべて使ってよい」
国王は言った。
「アレクシスよ。……まずは彼女を見つけることが先決ではないか? ここでエメラルダを殺しても、夫人は戻らんぞ」
正論だった。 アレクシスは、拳を握りしめ、深く息を吐いた。 殺意を抑え込む。 今は、復讐よりもリリアナだ。 一刻も早く彼女を見つけなければ、彼女が本当にどこかへ消えてしまう。
「……借りは、必ず返していただく」
アレクシスは国王に背を向けた。
「行くぞ。……リリアナを迎えに行く」
彼は窓から飛び出した。 吹雪の中へ。
***
その頃、リリアナは。
王都を離れ、郊外へと続く街道を、一人で歩いていた。 着ているのは、屋敷に来た時と同じ、ボロボロの服と薄いショールだけ。 荷物は小さな鞄一つ。
雪が降っていた。 冷たい風が、容赦なく体温を奪っていく。
「……寒い」
吐く息が白い。 手足の感覚がなくなりかけている。 病み上がりの体に、この寒さは堪えた。
(アレクシス様……)
歩きながら、彼の顔ばかりが浮かぶ。 彼は今頃、目覚めているだろうか。 手紙を読んだだろうか。 怒っているだろうか。それとも、せいせいしているだろうか。
『探さないでください』と書いた。 でも、心のどこかで期待してしまう自分がいる。 もしかしたら、彼は追いかけてきてくれるんじゃないか。 『馬鹿な真似をするな』と、怒りながら抱きしめてくれるんじゃないか。
(……ダメよ、期待しちゃ)
私は首を振った。 これは私が選んだ道だ。 彼の邪魔にならないために、彼の未来を守るために。
ズキリ。
胸が痛む。 寒さのせいか、それとも心の痛みのせいか。 足が重い。 視界が霞んでくる。
「……どこへ行こう」
あてなどなかった。 実家には戻れない。 お金もほとんどない。 ただ、彼の迷惑にならない場所へ。
ふと、街道沿いに小さな古い礼拝堂が見えた。 屋根は崩れかけているが、雨風はしのげそうだ。
「……あそこで、少し休もう」
私はフラフラと礼拝堂へと向かった。 扉を開けると、中は埃っぽかったが、風は入ってこない。 長椅子に腰を下ろし、膝を抱えた。
静かだ。 アレクシス様の屋敷とは違う、孤独な静けさ。
「……会いたい」
膝に顔を埋めて、私は泣いた。 強がっても、離縁状を書いても、私の心は彼を求めて叫んでいる。
「アレクシス様……」
その時だった。
ヒヒィィィン!!
遠くから、馬の嘶きが聞こえた気がした。 風の音だろうか。 いや、違う。 地面を叩く蹄の音。 そして、何かが空気を切り裂く音。
バァァァン!!
礼拝堂の扉が、乱暴に開かれた。 猛吹雪と共に、一人の男が飛び込んできた。
プラチナブロンドの髪。 アイスブルーの瞳。 全身に雪を纏い、肩で息をするその人は。
「……リリアナ!!」
「……え?」
私は目を疑った。 幻覚だろうか。 彼がここにいるはずがない。 だって、私は何も言わずに逃げたのに。
「……見つけた」
アレクシス様は、私を見つけると、よろめくように駆け寄ってきた。 その顔は必死で、怒っていて、そして泣きそうだった。
「ア、アレクシス様……どうして……」
「探さないわけがないだろう!!」
彼は叫ぶと、私を強く、痛いほど強く抱きしめた。 冷え切った私の体に、彼の体温が一気に流れ込んでくる。
「……馬鹿な女だ、お前は! 勝手に決めるな! 勝手に離れるな! 私の許可なく、私の視界から消えるな!」
彼は私の耳元で怒鳴り続けた。 その声は震えていた。
「離縁状だと? あんな紙切れ、認めんぞ! お前は私の妻だ! 死んでも離さん!」
「でも……私がいちゃ、貴方が……」
「私が不幸になる? ふざけるな!」
彼は私の顔を両手で挟み、無理やり上を向かせた。 その瞳は、狂おしいほどの情熱で燃えていた。
「お前がいない世界こそが、私にとっての地獄だ! お前がいるなら、国中の敵など何千人いようと相手にしてやる! だから……」
彼は、私の唇に、今までで一番深く、熱いキスをした。
「……私のそばにいろ。これは命令だ」
王城を襲撃し、国王に啖呵を切り、世界を敵に回してでも私を迎えに来た「氷の公爵」。 その愛の重さに、私はもう、逃げることなどできなかった。
「……はい」
私は彼の胸で泣き崩れた。 外の吹雪はまだ止まないけれど、私の心の中には、温かい灯火が戻っていた。
この再会が、物語のクライマックスに向けた、最後の試練の幕開けだった。 本当の「溺愛」は、ここから始まるのだから。
窓の外では小鳥が囀っているはずなのに、その声は聞こえない。 朝日が差し込んでいるはずなのに、室内の空気は澱んだように重く、そして冷たかった。
「……ん」
アレクシスは、執務室のソファで目を覚ました。 重いまぶたを持ち上げると、視界に入ってきたのは見慣れた天井と、自分に掛けられた毛布だった。
(……昨夜は、そのまま寝てしまったのか)
記憶がゆっくりと蘇る。 王城での査問会。 理不尽な要求。 疲労困憊で帰宅し、リリアナに膝枕をされて……。
「……リリアナ?」
彼は反射的に隣を探した。 いつもなら、彼の目覚めを待っているはずの、愛しい妻の姿がない。 温かい紅茶の香りもしない。
「リリアナ、どこだ? もう起きているのか?」
アレクシスは体を起こし、部屋の中を見回した。 昨夜の残像を探すように。
そして、見てしまった。
執務机の上。 そこに、不自然なほど整然と並べられた品々を。
彼が贈った、ミッドナイトブルーのドレスに合うサファイアのネックレス。 そして、彼が昨日、震える手で買ってきた一輪の白い薔薇。 その横には、封を切られた手紙と、一枚の羊皮紙が置かれていた。
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。 アレクシスは、ふらつく足取りで机に近づいた。 指先が震える。 触れてはいけないものに触れるような恐怖を感じながら、彼はその羊皮紙を手に取った。
『離縁状』
その三文字が、彼の網膜を焼き尽くした。
「……な、んだ……これは……」
喉が渇き、声が掠れる。 その横にあった手紙を開く。 見慣れた、少し癖のある丸文字。 リリアナの字だ。
『公爵様へ』 『夢のような生活をありがとうございました』 『私は疲れました』 『契約は、ここで終了とさせてください』 『さようなら』
文字の滲み。 それは、彼女が泣きながら書いた証拠だった。
「……嘘だ」
アレクシスは呟いた。
「疲れただと? 静かな暮らしがしたいだと?」
昨日の朝、彼女は何と言った? 『一生、貴方のおそばに置いてください』 そう言って、俺の腕の中で笑ったじゃないか。 あの笑顔が嘘だったというのか? あの体温も、あの口付けも、すべて演技だったというのか?
「……ありえない」
アレクシスは、手紙を握りつぶした。 彼女は嘘をついている。 リリアナは、嘘が下手だ。 自分の感情を押し殺して、誰かのために犠牲になろうとする時、彼女はいつも笑って誤魔化そうとする。
昨夜の彼女の様子。 俺が買ってきた萎れかけた薔薇を見て、泣きそうな顔で『ありがとうございます』と言った彼女。 あの時、彼女はすでに決めていたのだ。 俺の前から消えることを。
なぜ? 誰が彼女をそうさせた? 俺が追い詰めたのか? いや、違う。
脳裏に浮かぶ、一人の女の顔。 燃えるような赤髪。 毒のような言葉。
『貴女がいる限り、彼は追い詰められる』
「……エメラルダ……!!」
アレクシスの喉から、獣のような咆哮がほとばしった。
その瞬間。
パキィィィィィィィィンッ!!!
世界が、音を立てて凍りついた。
比喩ではない。 執務室の空気が一瞬にして絶対零度まで低下し、窓ガラスが爆ぜ飛び、壁も床も天井も、すべてが分厚い氷に覆われたのだ。 机の上のインク壺が破裂し、こぼれたインクが空中で凍結して黒い華を咲かせる。
怒り。 絶望。 喪失感。
制御を失ったアレクシスの魔力は、留まるところを知らず、執務室から廊下へ、そして屋敷全体へと奔流となって溢れ出した。
***
「うわぁぁぁぁっ!!」 「寒い! なんだこれ!?」 「きゃぁぁっ! 足が凍るぅぅ!!」
公爵邸はパニックに陥っていた。 一階の厨房では、スープが一瞬でシャーベットになり、燃え盛っていたかまどの火が凍りついた。 廊下を歩いていたメイドたちは、迫りくる冷気の波に悲鳴を上げて逃げ惑う。 美しい庭園の噴水は巨大な氷の彫刻と化し、季節外れの猛吹雪が屋敷を覆い尽くしていく。
「旦那様!! 旦那様、お気を確かに!!」
防寒着を着込んだセバスチャンが、凍りついた執務室の扉を蹴破って飛び込んできた。 彼の眉毛や髭には、すでに霜が降りている。
「……出て行け」
部屋の中央。 吹雪の中心に立つアレクシスが、虚ろな瞳で告げた。 その全身は、青白い燐光のような魔力に包まれている。
「旦那様、これはいけません! このままでは屋敷が崩壊します! それに、奥様が……リリアナ様が戻られた時、寒がられますぞ!」
セバスチャンは必死に叫んだ。 リリアナの名前を出せば、正気に戻るかもしれないという賭けだった。
しかし、その言葉は逆効果だった。
「……戻る?」
アレクシスが、ゆらりとセバスチャンを見た。 その瞳には、光がなかった。 あるのは、底なしの絶望という名の闇だけ。
「……彼女は、もう戻らない」
「えっ?」
「出て行った。……私を守るために、自分を殺して、一人で消えたんだ」
アレクシスの手から、握りつぶされた手紙がハラリと落ちた。 氷の床に落ちたその紙片を、セバスチャンは拾い上げ、目を通した。 そして、すべてを悟ったように息を呑んだ。
「これは……なんということを……」
「私が不甲斐ないからだ。……私が弱かったから、彼女にこんな嘘をつかせてしまった」
アレクシスは自嘲気味に笑った。 その笑顔は、泣くよりも悲痛だった。
「権力も、地位も、魔力も……何の意味もなかった。たった一人の女も守れないなんて……私は、なんて無力なんだ」
彼の目から、涙がこぼれた。 その涙は頬を伝う前に凍りつき、氷の粒となって床に砕け散った。
「……旦那様」
「……全部、壊れてしまえばいい」
アレクシスが呟いた。
「リリアナのいない世界など……存在する価値もない」
ゴゴゴゴゴ……。
屋敷が鳴動を始めた。 アレクシスの魔力がさらに膨れ上がり、屋敷ごと、いや、この街ごと氷河期に叩き落とそうとしている。 暴走だ。 主人の心の崩壊に呼応して、強大すぎる魔力が世界を侵食し始めている。
「おやめください!!」
セバスチャンが叫んだ。
「奥様は、旦那様の幸せを願って身を引かれたのです! それなのに、貴方様が世界を滅ぼしてどうするのですか! そんなことをすれば、奥様の犠牲が無駄になります!」
「……幸せ?」
アレクシスは虚空を見つめた。
「彼女のいない未来に、幸せなどあるものか」
彼はゆっくりと顔を上げた。 その瞳に、微かな理性の光が戻る。 しかし、それは穏やかな理性ではない。 冷徹で、残酷で、目的を遂行するためだけに研ぎ澄まされた、氷の刃のような理性だ。
「……そうだ。原因を排除すればいい」
「はい?」
「リリアナが去った原因。……彼女を追い詰め、脅し、私の元から引き剥がした元凶」
アレクシスの視線が、王城の方角へと向けられた。
「エメラルダ」
その名を口にした瞬間、室内の吹雪がピタリと止んだ。 代わりに、空間が歪むほどの殺気が満ちる。
「あの女が……私のリリアナを奪った」
「だ、旦那様、まさか……」
「セバスチャン」
アレクシスは、手紙を拾い上げ、大切に懐にしまった。 そして、氷でできた剣を虚空から引き抜いた。
「馬を用意しろ。……いや、必要ない」
彼は窓枠に足をかけた。
「私が直接、王城へ行く」
「お待ちください! それは謀反になります! 騎士団総出で止められますぞ!」
「止めたければ止めればいい。……邪魔をする者は、王だろうが神だろうが、すべて凍らせて砕く」
アレクシスは、振り返りもせずに窓から飛び出した。 氷の足場を空中に作り出し、それを蹴って王城へと一直線に翔けていく。 その背中には、もはや公爵としての分別も、臣下としての忠誠心もなかった。 あるのはただ、愛する女を奪われた男の、凄絶な執念だけだった。
***
王都は、異常気象に見舞われていた。 快晴の空から、突如として大粒の雪が降り始め、気温が急降下したのだ。 道行く人々は慌ててコートを羽織り、家路を急いだ。
その雪の中を、一筋の青白い流星が王城へと突き進んでいた。
王城の正門。 数多くの衛兵たちが、異変を察知して槍を構えていた。
「止まれ! 何者だ!」
上空から降り立ったアレクシスを見て、衛兵長が叫んだ。 しかし、相手が筆頭公爵であることに気づき、動揺が走る。
「オ、オルブライト公爵閣下!? な、なぜ武装を……許可なき登城は禁じられております!」
「……開けろ」
アレクシスは、門の前に立ち、静かに命じた。
「閣下、お引き取りください! これ以上進めば、実力行使も辞さない構えです!」
「……そうか」
アレクシスは無表情のまま、片手を上げた。
「なら、消えろ」
カッ!!
閃光と共に、巨大な正門が、厚さ数メートルの氷塊に閉じ込められた。 そして、パリーンという軽快な音と共に、粉々に砕け散った。
「な……っ!?」
衛兵たちは腰を抜かした。 鉄壁を誇る王城の門が、一撃で。
「か、怪物だ……」
アレクシスは、恐怖で動けない衛兵たちの間を、悠然と歩いて抜けた。 彼が歩くたびに、石畳が凍りつき、霜の花が咲いていく。 誰も彼を止められない。 止める勇気を持つ者などいなかった。
彼は王城の中庭を抜け、本丸へと侵入した。 目指す場所は一つ。 エメラルダの私室がある、西の塔だ。
廊下を行く彼を、王宮魔導師団が包囲した。
「公爵閣下! 乱心召されたか!」 「直ちに投降せよ! さもなくば炎の魔法で……」
「……炎?」
アレクシスは冷ややかに笑った。
「私の氷は、絶対零度だ。……炎ごときで溶かせると思うな」
彼が指を鳴らすと、魔導師たちが詠唱を終える前に、全員の杖が凍りつき、手元で破裂した。 さらに、彼らの足元から氷の蔦が伸び、瞬く間に拘束する。
「邪魔だ」
アレクシスは、氷像のようになった魔導師団を無視して、階段を上がっていった。 怒りが、彼の魔力を極限まで高めていた。 普段なら手加減をする相手でも、今の彼には「リリアナを奪った敵の味方」にしか見えない。
そして、ついに彼は西の塔の最上階、エメラルダの部屋の前にたどり着いた。
豪華な彫刻が施された扉。 その向こうに、あの女がいる。
アレクシスは、ノックなどしなかった。 足裏に魔力を込め、扉を蹴り飛ばした。
ドゴォォォォン!!
扉が蝶番ごと吹き飛び、部屋の中に転がった。
「きゃぁぁっ!?」
部屋の中では、エメラルダがお茶を楽しんでいるところだった。 彼女は驚いてティーカップを取り落とし、入り口に立つ侵入者を見た。
「ア、アレクシス……!?」
そこには、全身から冷気を噴き出し、殺意に満ちた瞳をしたアレクシスが立っていた。 その姿は、かつての婚約者候補ではなく、死神そのものだった。
「……よくも、優雅にお茶など飲んでいられるな」
アレクシスは、一歩ずつ部屋に入った。 床の絨毯が、彼の足元から凍りついていく。
「な、なによ! いきなり入ってくるなんて無礼よ! 衛兵! 衛兵はいないの!?」
エメラルダは叫んだが、誰も来ない。 来るはずがない。 城内の戦力は、すでに無力化されているのだから。
「……リリアナは、どこだ」
アレクシスは、エメラルダの目の前まで歩み寄り、剣先を彼女の喉元に突きつけた。
「ひっ……!」
エメラルダは顔面蒼白になり、ソファにへたり込んだ。
「し、知らないわよ! あの子が勝手に出て行ったんでしょう? 離縁状も置いていったって聞いたわ!」
「……貴様が書かせたんだろう」
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「な……っ」
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アレクシスは認めた。
「愛する女を奪われて、正気でいられる男がどこにいる」
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「貴様のしたことは万死に値する。……だが、楽には殺さん」
「や、やめて……! 私は王女よ!?」
「リリアナが味わった孤独と寒さを、貴様にも教えてやる」
アレクシスが魔法を放とうとした、その時だった。
「やめよ、アレクシス!!」
威厳ある声が響いた。 入り口に、国王陛下が立っていた。 近衛騎士団を引き連れて。
「陛下……」
「剣を収めよ。これ以上暴れれば、予とて庇いきれんぞ」
国王は、厳しい表情で言ったが、その目にはアレクシスへの理解と、娘への呆れが含まれていた。
「……陛下。娘のしつけがなっていないようですね」
アレクシスは皮肉な笑みを浮かべた。 相手が国王であろうと、一歩も引く気配はない。
「私の妻を追い出し、家庭を崩壊させた責任、どう取っていただくおつもりか」
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国王は、頭を下げた。
「父上!?」
エメラルダが叫んだが、国王は彼女を睨みつけた。
「黙りなさい、エメラルダ。お前の嫉妬は見苦しい。……アレクシス公爵への嫌がらせも、リリアナ夫人への脅迫も、すべて報告を受けている」
「で、でも……!」
「お前には、北の塔での謹慎を命じる。頭が冷えるまで出てくるな」
「そ、そんな……!」
国王の裁定に、エメラルダは泣き崩れた。 しかし、アレクシスの怒りは収まらない。
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「……リリアナ夫人の捜索には、王家の総力を挙げて協力しよう。近衛騎士団も、隠密部隊もすべて使ってよい」
国王は言った。
「アレクシスよ。……まずは彼女を見つけることが先決ではないか? ここでエメラルダを殺しても、夫人は戻らんぞ」
正論だった。 アレクシスは、拳を握りしめ、深く息を吐いた。 殺意を抑え込む。 今は、復讐よりもリリアナだ。 一刻も早く彼女を見つけなければ、彼女が本当にどこかへ消えてしまう。
「……借りは、必ず返していただく」
アレクシスは国王に背を向けた。
「行くぞ。……リリアナを迎えに行く」
彼は窓から飛び出した。 吹雪の中へ。
***
その頃、リリアナは。
王都を離れ、郊外へと続く街道を、一人で歩いていた。 着ているのは、屋敷に来た時と同じ、ボロボロの服と薄いショールだけ。 荷物は小さな鞄一つ。
雪が降っていた。 冷たい風が、容赦なく体温を奪っていく。
「……寒い」
吐く息が白い。 手足の感覚がなくなりかけている。 病み上がりの体に、この寒さは堪えた。
(アレクシス様……)
歩きながら、彼の顔ばかりが浮かぶ。 彼は今頃、目覚めているだろうか。 手紙を読んだだろうか。 怒っているだろうか。それとも、せいせいしているだろうか。
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(……ダメよ、期待しちゃ)
私は首を振った。 これは私が選んだ道だ。 彼の邪魔にならないために、彼の未来を守るために。
ズキリ。
胸が痛む。 寒さのせいか、それとも心の痛みのせいか。 足が重い。 視界が霞んでくる。
「……どこへ行こう」
あてなどなかった。 実家には戻れない。 お金もほとんどない。 ただ、彼の迷惑にならない場所へ。
ふと、街道沿いに小さな古い礼拝堂が見えた。 屋根は崩れかけているが、雨風はしのげそうだ。
「……あそこで、少し休もう」
私はフラフラと礼拝堂へと向かった。 扉を開けると、中は埃っぽかったが、風は入ってこない。 長椅子に腰を下ろし、膝を抱えた。
静かだ。 アレクシス様の屋敷とは違う、孤独な静けさ。
「……会いたい」
膝に顔を埋めて、私は泣いた。 強がっても、離縁状を書いても、私の心は彼を求めて叫んでいる。
「アレクシス様……」
その時だった。
ヒヒィィィン!!
遠くから、馬の嘶きが聞こえた気がした。 風の音だろうか。 いや、違う。 地面を叩く蹄の音。 そして、何かが空気を切り裂く音。
バァァァン!!
礼拝堂の扉が、乱暴に開かれた。 猛吹雪と共に、一人の男が飛び込んできた。
プラチナブロンドの髪。 アイスブルーの瞳。 全身に雪を纏い、肩で息をするその人は。
「……リリアナ!!」
「……え?」
私は目を疑った。 幻覚だろうか。 彼がここにいるはずがない。 だって、私は何も言わずに逃げたのに。
「……見つけた」
アレクシス様は、私を見つけると、よろめくように駆け寄ってきた。 その顔は必死で、怒っていて、そして泣きそうだった。
「ア、アレクシス様……どうして……」
「探さないわけがないだろう!!」
彼は叫ぶと、私を強く、痛いほど強く抱きしめた。 冷え切った私の体に、彼の体温が一気に流れ込んでくる。
「……馬鹿な女だ、お前は! 勝手に決めるな! 勝手に離れるな! 私の許可なく、私の視界から消えるな!」
彼は私の耳元で怒鳴り続けた。 その声は震えていた。
「離縁状だと? あんな紙切れ、認めんぞ! お前は私の妻だ! 死んでも離さん!」
「でも……私がいちゃ、貴方が……」
「私が不幸になる? ふざけるな!」
彼は私の顔を両手で挟み、無理やり上を向かせた。 その瞳は、狂おしいほどの情熱で燃えていた。
「お前がいない世界こそが、私にとっての地獄だ! お前がいるなら、国中の敵など何千人いようと相手にしてやる! だから……」
彼は、私の唇に、今までで一番深く、熱いキスをした。
「……私のそばにいろ。これは命令だ」
王城を襲撃し、国王に啖呵を切り、世界を敵に回してでも私を迎えに来た「氷の公爵」。 その愛の重さに、私はもう、逃げることなどできなかった。
「……はい」
私は彼の胸で泣き崩れた。 外の吹雪はまだ止まないけれど、私の心の中には、温かい灯火が戻っていた。
この再会が、物語のクライマックスに向けた、最後の試練の幕開けだった。 本当の「溺愛」は、ここから始まるのだから。
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