水母-くらげ-

乾しずく

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水母

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 麻衣子がビールを注ぐのをそばでぼんやり見ていた。はい、とグラスを僕に渡して引っ込んだその白い手を見ていた。まだ飲むのかよ、と黒江が笑い、いいだろ別に、と僕は苦い液体を飲み干す。それはいつのまにか僕の血の温度を上げて、体がまた熱くなる。

 靴下がまだぬれている。
  麻衣子は僕の顔を見てかすかに微笑む。そばにいる人間にわかるかわからないかという微妙な親密さは、麻衣子のひとつの心配りだ。

 麻衣子は決して人前で僕の手を握ったり、親密そうに見せることはない。誰に対しても均等に微笑み、きわどいジョークにもさらりと反応し、誰からも微妙な距離を保つ。

 僕の心の平穏が保たれるように、僕が余計な気を回さなくて済むように、そしてこの場が白けず保たれるように、そういうことを考えている。

「恭一がいるといつも雨だ」黒江が苦笑いした。

「俺のせいじゃない」僕は口を尖らす。

「恭さんがいると、雨多いよね」麻衣子がとりなすように微笑む。

 座の何人かが同意する。

 確かに僕は雨男だと思う。バーベキューとか、キャンプとか、野外でやるサークルのイベントで、雨が降らないことはそうはない。

 麻衣子は言う。

 この雨も恭さんが降らせたと思えば、愛しいものよ。

 僕はそんな気分になれない。

 僕は憂鬱だ。

 タバコの煙も気に食わない。

「綺麗な桜だったけどねぇ」里佳子が言った。

 場所取りは完璧だった。いい塩梅で酔っ払いながらシートの上で交代して確保した花見のスペースは、あっさりと雨で流された。

 そして僕らはあきらめきれなくて、いつもの居酒屋でぐだぐだと飲んでいる。

「やべ」時計を見た黒江が言った。「終電だ」

「泊まっていけや」僕が言った。

 麻衣子がこちらをちら、と伺う。

「だめだよ」黒江はニヤリと笑った。「今日は里佳子ん家」

 里佳子が黒江を殴るまねをした。

「はいはい」僕は肩をすくめた。

 うらやましくはないが、まぶしくはある。

 そういうことが、あっさりと口に出せる黒江も、それにふざけて答える里佳子も。

 僕らにはない。

 

 電車組が帰った後、僕と麻衣子は無言で下宿まで歩いた。

 ふたりきりになった後も、麻衣子は距離を置いて、レインコートを着たまま自転車を押す。

 その距離感が僕には好ましい。

 恥ずかしいとかそういう理由ではない。

 下宿の近くまで来た。本数はないが、このあたりも桜の木が何本か植わっていて、昼間はむせるような空気で覆われる。

 

「桜」麻衣子が見上げた。

 僕も同じように空を見る。

 

 それは桜を散らす雨だった。

 街頭に散らされ、一枚一枚、鱗の様に千切れながら、花びらがたたきつけられる。

 雨が桜を蹂躙するさまに、しばらく僕らは見とれた。

 僕のビニール傘に花びらがへばりつく。

 今日が最後の桜であることを僕は悟った。

 

 麻衣子を見た。

 

 麻衣子のレインコートのフードからのぞいた前髪に、桜の花びらがついていた。

 

 手を伸ばそうとして僕は躊躇い、その手をジーパンにこすりつけた。

 

 麻衣子は決して人前で僕に触れない。

 

 麻衣子が少しでも僕に触れたら、麻衣子の夜を僕は思い出してしまう。

 

 下宿のドアを閉めて、麻衣子がため息をつく。

 麻衣子の部屋の匂いは、麻衣子の匂いだ。

 春のあまったるい、腐ったような匂いは、麻衣子の匂いだ。

「あがってもいい?」

 必ず僕は尋ねる。

「あがってもいい」

 麻衣子は無表情に答える。

 微笑は、消えている。

 ベッドの上に腰掛けて、キャンドルに火をつける。

 電気をつけてはならない。

 電気は麻衣子が嫌う。

 麻衣子は闇が好きだ。

 麻衣子は夜が好きだ。

 昼間の麻衣子は魅力的だ。

 昼間の麻衣子はいつも笑っている。

 誰もが日向の花にたとえる。

 昼間の麻衣子。

 だが麻衣子は昼間の麻衣子を嫌悪している。

 誰もが愛する麻衣子は、麻衣子が憎んでいる麻衣子だ。

 

 麻衣子の貸してくれたバスタオルで髪をぬぐう。柔軟剤が足りなくて強張ったそのタオルの感触が、逆に堅くて心地よい。

 水音がする。

 麻衣子がシャワーを浴びている音なのか、雨の音なのか、それとも両方なのか。

 あらかじめ置いてあったTシャツに着替えて、畳の上に横になる。

 そのまま少しだけまどろむ。

 

 何故かはわからないが、この間麻衣子と見た、あるロックバンドのPVを思い出していた。

 細かいところは忘れてしまったが、曲に合わせてくらげが動いているだけのPVだった。

 無数のくらげが映っている画面を見ながら、麻衣子は、口をあけてぽかんとしていた。

 音楽に聞き惚れていたわけでも、映像に見蕩れていたわけでもない。

 その横顔を見て、麻衣子は綺麗だと思った。

  何も考えない。

 何も感じない。

 くらげのように生きられたらたぶん楽なんだ。

 

 ふと熱を感じて目を覚ます。

 暖炉の燃え残りのような、微妙な熱。

 目を開ける。

 麻衣子が僕の顔を見下ろしていた。

 風呂上りの麻衣子の顔は、一切化粧をしていない。

 薄い眉、白い顔、ぼんやりとした闇の中で、それだけが光っている。

 麻衣子は笑わない。

 むしろ怒っているような顔で、僕の顔を見ている。

 どうしたらいいかわからないような顔で。

「やあ」

 自分の声だと思えないほどしわがれた声が出る。

 麻衣子は目をそらさない。

 僕は麻衣子の目を見る。

 麻衣子の目は黒い膜を何重にも重ねただけの、無機的な工業製品にしか見えない。

 僕は指を動かした。

 

 麻衣子の体を支えているその手にふれた。

 

 手の硬さに少し驚きながら、その指に自分の指を重ねる。

 手は冷たい。

 筋張ったそれを指先で微かに撫で、そのまま自分の手で麻衣子の手を覆ってみた。

 麻衣子の顔が崩れる。

 どうしたらいいかわからないような、苦しそうな表情を見せる。

 僕が麻衣子に触れるのは暗闇でだけ。

 暗闇の中でだけ。

 

「ころして」

 

 麻衣子がつぶやく。

 

 僕は何も言わず、麻衣子の腕を掴んだ。

 麻衣子の体が僕に覆い被さる。

 麻衣子の匂いが部屋いっぱいに広がった。

 

 麻衣子の体は重くて熱い。

 陶器のような顔をしているくせに、麻衣子の体は普通の人の体温より熱かった。

 自分が下になる形で、麻衣子を抱きしめる。

 麻衣子の体は硬くてほどけない。

 それを少しづつ、解いていく。

 麻衣子の結び目があるのは、耳の下、顎の上の少しくぼんだ部分だ。

 麻衣子の匂いのもっとも強い場所。

 その匂いを僕は嗅ぐ。

 麻衣子の情報はそこから僕に伝わる。

 不思議なことだが、一番強く感じる感情は、恐怖だ。

 麻衣子の意識の底が僕を恐れている。

 麻衣子が僕に触れようとしないのは、もしかしたら恐怖なのかもしれない、と思う。

 麻衣子は何かを恐れている。抱かれても抱かれても硬い、冷たい水の底のような麻衣子の体は、きっと僕を憎んでいる。

 何度開いても。

「ころして」

 また閉じてしまう。

 吐息のような空気が、ふらっと揺れた。

 痛みをこらえるようなくぐもった声を、麻衣子が吐いた。

 麻衣子の手が僕の手首を掴む。

 麻衣子を上に乗せたまま、僕は横にずれた。

 柔術の攻防のような、ねばついた動きを繰り返して、いつのまにか僕は麻衣子の上になる。

 麻衣子のワンピースのボタンをはずし、鎖骨の下、乳房の上の微妙な部分を唇で吸った。

 儀式のようにそこに、跡をつける。

 麻衣子が他人に見せない部分を僕は知っている。

 子供じみた示威行為なのはわかっていた。

 だが、そこに印をつけることくらいしか、麻衣子を繋ぐ方法を僕は知らない。

 また、麻衣子が声を吐いた。

 音の形になっていなかった。

 眉をしかめて、苦しそうな顔で、麻衣子は息をしていた。

 この部屋の空気が、吸うたびに肺を蝕んでいくかのような、そんな顔で、麻衣子は部屋の天井を見ていた。

 僕は麻衣子の顔を覗き込んだ。

 麻衣子は僕から目をそらした。

「ころして」

 かすかな声でそう言った。

 僕はそれを聞かないふりをして、麻衣子のワンピースを捲り上げ、手をねじこんだ。

 指先に血のような感触がまとわりつく。

 もしかしたらこの指が刃物で、僕が麻衣子の下腹部を刺してしまったのではないかと、そう思った。

 麻衣子がぎゅっと体にしがみついた。

 重い。

 50キロに満たないその体重よりそれはずっと重く感じられる。

 

 何故行為の最中に麻衣子がその言葉を吐くのか僕は知らない。

「ころして」

 最初は否定した。

 そんなこと言うなよと声をかけても、麻衣子は首をふるだけだった。

「ころして」

 眉をしかめ、つらそうに言う。

「こわい」

 体をまさぐる指を拒否もしないで、そう言う。

「こわい」

 熱にうかされたように。

「こわい」

 麻衣子の体中が水で溢れて、体の中身が溶け出すまで僕は愛撫をやめなかった。

「ころして」

 自傷行為だ。

「ころして」

 乳房の上の赤黒い痣は、リストカットの痕跡と同じなのだ。

 溢れ出るものは血と同じ。

 わかっていても止めることなどできはしない。

 彼女の言葉にどうしようもなく欲情しているから。

 その暗い、黒い、触ることのできない場所を僕は求めているのだ。

 

 彼女の体に触れるのは夜だけ。

 外で彼女に触れてしまったら、

 そこがどこであろうと僕は彼女を襲ってしまうだろう。

 

 過剰な欲望で気が狂いそうな僕と、

 行為自体が罰でしかない彼女と、

 どちらが正常なのか誰にもわからない。

「こ」

 声の途中で唇をふさいだ。

 

 ろして、という言葉が、息と一緒に僕の口の中に入ってくる。

 何故だかとても満ち足りた気持ちになる。

 

 ふと目を開けると、朝だった。

 薄明かりの中で夜がそのまま寝そべっている。

 麻衣子はまだ寝てる。

 僕に背を向けて、規則的な寝息を立てている。

 

 麻衣子の背中に畳の跡が残っていた、

 僕はそれをそっと撫でた。

 光の中でその背中は、

 僕を受け入れた後なのに、

 僕を全力で拒否していた。

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