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早蕨(1)
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早蕨は祖父の代から、蘇芳の養子先である李家に家僕として仕えている。
奴婢ではないが、瀧華国では科挙を受けるためには官吏の推薦が要るうえ、少学を出ていない者はいくら独学で学んでも取り立ててもらえない。
だから幼いころから学問が好きで、父や祖父が安値で市から買ってきた教本を熱心に読んでいた早蕨は、歳もそう違わないのに、たまたま貴族の末端に生まれ、たまたま李家に男児が恵まれなかったために養子に入った若主人が妬ましかった。
それでも初めて対面したときは、根に持った妬ましさも忘れて見入るほど、蘇芳という若者は見目麗しく、涼やかな少年だった。
墨で刷いたようなりりしい眉、濡れ羽色の髪はつややかで、すんなりした背中に流れている。成長途中なせいか、まだ少女にも似た柔らかな雰囲気と上品さが、華奢な全身を包んでいた。
「坊ちゃん、これから拙めの倅が、お世話をさせていただきますので」
頭を下げる父親の横で、早蕨も言われていた通り叩頭する。
「よろしくお使いくださいませ。若様」
十二になったばかりだと聞く蘇芳は、きれいな澄んだ目で早蕨を見た。どくんと、胸が鳴った。
「よろしくね、早蕨」
見た目よりも大人びた低い声が少し意外だった。
そのあと、父親は何かの用事で席を外した。早蕨は若様と二人だけで緊張したが、当時すでに、その辺の同い年の子供よりよほど気が利き、頭の回転も速い子供だった。
大好きな父親の顔を潰さないよう、上手くやってやろうという小賢しい感情もあった。
「早蕨」
「はい、若様」
蘇芳はすんなりした腕を伸ばして庭先の池を指さしていた。
(池がどうしたんだろう)
「おまえ、僕の言うことを何でも聞くの?」
早蕨は戸惑いながらも、自然と頷いていた。子供同士とはいえ、相手は貴族の若様で、自分は李家の家僕だ。
「はい、若様のお言いつけとあれば」
なんでも、と言いかけたとき、蘇芳がぶん、と腕を大きく振った。何かを投げたのだ、と分かったのは庭の池にぽしゃんと小さな波紋が広がったからだ。
池を見て、また蘇芳に視線を戻した。少年はにっこりと、かわいらしく微笑んだ。
「義父上がお使いになっている瑪瑙の文鎮だ。拾っておいで。見つけるまで、家に帰ってはいけないよ」
唖然と池を見やった。池といっても、貴族が小さな舟遊びを楽しんだりもするから、大人にとっても大きく、深い。
早蕨は胃の中がすっと冷えて、代わりに首から上が熱くなるのを感じた。子供心にも切なさと、屈辱を受けた怒りで頭がぐらぐらした。
しかし、結局はどうしようもない。のろのろと立ち上がり、池のある庭に下りるしかない。
季節は初春。大丈夫、風邪はひかないだろう。自分は泳ぎも得意だ。
それでも期待して、思い直してくれやしないかと蘇芳を振り返ると、まるでもう興味をなくしたように部屋に舞い込んだ花弁を指でつまんで眺めていた。
ぐっと奥歯をかみしめて、今度こそ早蕨は池へ歩を進めた。
あれから十一年経ったが、蘇芳の性質は変わらない。
(変わらないどころか、輪をかけて恥知らずな醜聞を振りまいておられる。花蔓館の一件もそうだが……)
「旦那さま。お入りしても?」
「待て、いま開ける」
何かを引きずっているような音。不審に思っていると、やっと扉が開いた。
驚いた。
(使用人より先に戸を開けるなどしたことがないのに)
「旦那様、白湯と熱さましをお持ちしました。洪庵(こうあん)先生もすぐに」
参ります、と言いかけて言葉を止めた。
「お髪をご自分で結われたので? それにこれは……床をどうされたのです」
蘇芳は長い髪を無造作に後ろで束ねていた。上手くできなかったのか、ややほつれていて、組紐も左右で長さが違う。宝飾の冠も外してしまったらしく、印象がずいぶん異なる。心なしか、雰囲気が何というかー。
(なんだろう、柔らかいというか。髪型のせいか? いやに落ち着いた感じのする)
違和感をそのままに、白湯と薬の盆を机に置いた。いつもと机の位置が違う。床についた傷はこれのせいか。
「扉をふさいでおられたので?」
ますます訳が分からず訊くと、蘇芳は気まずそうに目をそらしながら、
「その、まあ、少し一人になりたかったんだ。すまない」
早蕨は無言で主人をじっと見つめた。黙っていると、不思議そうに
「どうした、早蕨」と問いかけてくる。
もう我慢ならず、早蕨は蘇芳の腕に手を添えて奥の寝台のほうへ押した。主人の体に触れるのは憚るべきことだが、今はそんなことは二の次だ。
「蘇芳様、ひとまず横になられてください。すぐに先生が参りますから、それまで絶対安静になさりませ」
目を丸くして自分を見上げてくる主人を有無を言わせず寝台に放り込んで、早蕨は部屋を出た。
一刻も早く、侍医を捕まえて連れてこなければ。
面と向かって名前を呼ばれたのは何年振りかー。回廊を出て洪庵を探しながら、早蕨は首から上が熱くなるのを感じた。何が何やら分からなかった。
奴婢ではないが、瀧華国では科挙を受けるためには官吏の推薦が要るうえ、少学を出ていない者はいくら独学で学んでも取り立ててもらえない。
だから幼いころから学問が好きで、父や祖父が安値で市から買ってきた教本を熱心に読んでいた早蕨は、歳もそう違わないのに、たまたま貴族の末端に生まれ、たまたま李家に男児が恵まれなかったために養子に入った若主人が妬ましかった。
それでも初めて対面したときは、根に持った妬ましさも忘れて見入るほど、蘇芳という若者は見目麗しく、涼やかな少年だった。
墨で刷いたようなりりしい眉、濡れ羽色の髪はつややかで、すんなりした背中に流れている。成長途中なせいか、まだ少女にも似た柔らかな雰囲気と上品さが、華奢な全身を包んでいた。
「坊ちゃん、これから拙めの倅が、お世話をさせていただきますので」
頭を下げる父親の横で、早蕨も言われていた通り叩頭する。
「よろしくお使いくださいませ。若様」
十二になったばかりだと聞く蘇芳は、きれいな澄んだ目で早蕨を見た。どくんと、胸が鳴った。
「よろしくね、早蕨」
見た目よりも大人びた低い声が少し意外だった。
そのあと、父親は何かの用事で席を外した。早蕨は若様と二人だけで緊張したが、当時すでに、その辺の同い年の子供よりよほど気が利き、頭の回転も速い子供だった。
大好きな父親の顔を潰さないよう、上手くやってやろうという小賢しい感情もあった。
「早蕨」
「はい、若様」
蘇芳はすんなりした腕を伸ばして庭先の池を指さしていた。
(池がどうしたんだろう)
「おまえ、僕の言うことを何でも聞くの?」
早蕨は戸惑いながらも、自然と頷いていた。子供同士とはいえ、相手は貴族の若様で、自分は李家の家僕だ。
「はい、若様のお言いつけとあれば」
なんでも、と言いかけたとき、蘇芳がぶん、と腕を大きく振った。何かを投げたのだ、と分かったのは庭の池にぽしゃんと小さな波紋が広がったからだ。
池を見て、また蘇芳に視線を戻した。少年はにっこりと、かわいらしく微笑んだ。
「義父上がお使いになっている瑪瑙の文鎮だ。拾っておいで。見つけるまで、家に帰ってはいけないよ」
唖然と池を見やった。池といっても、貴族が小さな舟遊びを楽しんだりもするから、大人にとっても大きく、深い。
早蕨は胃の中がすっと冷えて、代わりに首から上が熱くなるのを感じた。子供心にも切なさと、屈辱を受けた怒りで頭がぐらぐらした。
しかし、結局はどうしようもない。のろのろと立ち上がり、池のある庭に下りるしかない。
季節は初春。大丈夫、風邪はひかないだろう。自分は泳ぎも得意だ。
それでも期待して、思い直してくれやしないかと蘇芳を振り返ると、まるでもう興味をなくしたように部屋に舞い込んだ花弁を指でつまんで眺めていた。
ぐっと奥歯をかみしめて、今度こそ早蕨は池へ歩を進めた。
あれから十一年経ったが、蘇芳の性質は変わらない。
(変わらないどころか、輪をかけて恥知らずな醜聞を振りまいておられる。花蔓館の一件もそうだが……)
「旦那さま。お入りしても?」
「待て、いま開ける」
何かを引きずっているような音。不審に思っていると、やっと扉が開いた。
驚いた。
(使用人より先に戸を開けるなどしたことがないのに)
「旦那様、白湯と熱さましをお持ちしました。洪庵(こうあん)先生もすぐに」
参ります、と言いかけて言葉を止めた。
「お髪をご自分で結われたので? それにこれは……床をどうされたのです」
蘇芳は長い髪を無造作に後ろで束ねていた。上手くできなかったのか、ややほつれていて、組紐も左右で長さが違う。宝飾の冠も外してしまったらしく、印象がずいぶん異なる。心なしか、雰囲気が何というかー。
(なんだろう、柔らかいというか。髪型のせいか? いやに落ち着いた感じのする)
違和感をそのままに、白湯と薬の盆を机に置いた。いつもと机の位置が違う。床についた傷はこれのせいか。
「扉をふさいでおられたので?」
ますます訳が分からず訊くと、蘇芳は気まずそうに目をそらしながら、
「その、まあ、少し一人になりたかったんだ。すまない」
早蕨は無言で主人をじっと見つめた。黙っていると、不思議そうに
「どうした、早蕨」と問いかけてくる。
もう我慢ならず、早蕨は蘇芳の腕に手を添えて奥の寝台のほうへ押した。主人の体に触れるのは憚るべきことだが、今はそんなことは二の次だ。
「蘇芳様、ひとまず横になられてください。すぐに先生が参りますから、それまで絶対安静になさりませ」
目を丸くして自分を見上げてくる主人を有無を言わせず寝台に放り込んで、早蕨は部屋を出た。
一刻も早く、侍医を捕まえて連れてこなければ。
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