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魔物と加護
しおりを挟む習慣とは恐ろしいもので、トーリは今日も薬草採取に出ていた。
浄化もしなくてはならない――それは分かっている。だがこの地、シーミュ帝国に来て二週間。思うような成果は上がっていなかった。
それに、薬師として生きてきた性なのか、薬を作らずにはいられない。手を動かし、薬草を選り分け、調合する時間がなければ、心が落ち着かなかった。
王国で暮らしていたマシャールの森とは違い、ここは魔物が出没する危険な森だ。
本来なら一人で入るべきではない。
「あんまり遠くまで行くなよ。いつ魔物が出るか、わからないからな」
付き添いのライアンが周囲を警戒しながら言う。
それでもトーリは地面に膝をつき、葉の形を確かめて首を振った。
「……キアヌ草が、ない」
「高地の薬草だろ?この森にあるはずが…」
「わかってる。でも、もうすぐ寒期が来るんだ」
ネオック病が蔓延しやすい季節だ。ラゴ国と陸続きのこの地でも、流行らないとは限らない。
流行ってからでは遅い。だからこそ、今のうちに薬を作っておきたいのだ。
「はぁ……あの時、荒らされなかったら……」
荒らされた家。散らばった薬草は大半が踏まれて使えなくなっていた。だからこうして新たに薬草を探す羽目になったのだ。
ふつふつと怒りが込み上げるのも仕方がない。
ラゴと違い、ここには魔物がいる。薬草採取に時間をかけること自体が、命取りになりかねないが、薬を諦めるともできない。
「……トーリ、気配が──」
ライアンの声が低くなる。
だがトーリは薬草に意識を奪われ、森の奥へと足を進めてしまった。
その時だった。
重い気配。低く唸る声。
振り向いた瞬間、ギロリとした黄色い目がトーリを捉え、大きな前脚が振り上げられる。
──殺される。
咄嗟に両腕を交差させ、歯を食いしばった。が、衝撃は訪れなかった。
嫌な汗を流しながら、恐る恐る目を開ける。
眼前には、今にも噛みつきそうな魔物の顔。
「……ひっ」
喉から小さな悲鳴が漏れた。
こんな距離で魔物を見るのは初めてだ。
前世、動物園のライオンでさえこんな近くで見たことなどない。
比べ物にならない恐怖が背筋を走る。
混乱しながら周囲を見ると、トーリの身体を囲むように、薄く透ける膜が張られていた。
魔物の攻撃は、その膜に阻まれている。
「これって……」
スイハの加護だ──。
魔物が雄叫びを上げる。
グォォォォォオッ!
身を竦めるトーリ。
加護があるとはいえ、魔物が諦める様子はない。獲物を仕留めようと距離を取り、助走をつけている。
「ど、どうしよう……」
縋るように水晶を握りしめた。
こんな所で終わるなんて、嫌だ。
まだ、この森を浄化して――もう一度、スイハと……。
魔物が地を蹴った瞬間。
手の中の水晶が、眩いほどの光を放った。
一瞬で世界が白に染まり、次の瞬間、魔物の姿は砂のように崩れ、粒子となって消え去った。
「……な、にが……」
「トーリ!!」
ライアンが駆け寄ってくる。
気づけば、森を覆っていた瘴気は消え、木々が淡く輝いていた。
「無事か!?」
焦燥を浮かべたライアンに、トーリは呆然としたまま首を縦に振る。
「これは……トーリの、浄化の力か?」
「……たぶん。無我夢中で……自分でも、わからなくて」
その時、強い風が吹き抜けた。
木々がざわめき、空気が一変する。
「次はなんだ……!?」
ライアンが剣に手をかける。
渦巻く風の中心に、深い森を思わせる緑が現れた。
懐かしく、温かい気配。
「ス、イハ……」
名を呼んだ瞬間、胸がきゅっと締めつけられ、そして、思わず笑みがこぼれる。
風が止み、そこに立っていたのは、スイハだった。
「この辺り一帯を浄化できたようだな」
静かな声でそう告げ、スイハは真っ直ぐトーリを見る。
「……体内の魔力が循環し始めた」
誇らしげで、でもどこか歯痒さを滲ませた視線。
「これからは、上手く力をコントロールできるはずだ」
その瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが溢れた。
無事だった安堵、恐怖、そして──会えた喜び。
「スイハ……!」
名前を呼ぶより早く、身体が動いていた。
一歩、二歩と駆け寄るトーリを、スイハは迷いなく受け止める。
強い腕が、しっかりとトーリの背を抱き寄せた。
「──無事で、よかった」
低く抑えた声が、耳元で震える。
抱きしめる力は、決して乱暴ではない。だが、もう二度と離すつもりはないと伝わってくる強さだった。
胸元に額を押しつけると、森と、清らかな風の香りに涙が滲む。
「スイハの力が、守ってくれたから」
トーリの髪に、そっと指が差し込まれる。
「だが……トーリが傷つくかもしれないと考えるだけで、私はっ」
言葉は、最後まで続かなかった。代わりに、抱擁が少しだけ強くなる。
トーリも、スイハの背に腕を回した。幻想ではないと確かめるように、離れないように。
「……会いたかった」
小さく零れた本音。
スイハの身体が、わずかに強張る。
「……私もだ」
短い言葉。
けれど、それだけで十分だった。
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