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第16章 廃太子の「贖罪」
16-1:王立特別研究地区
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アトリエの日常は、ギルバートの帰還によって、その姿を根本から変えられていた。
私のスローライフ(研究室)は、今や「王立特別研究地区」という、物々しい名前で呼ばれるようになっていた。
窓の外は、もう、私の愛した静かな秋の森ではなかった。
カコン、カコン、とリズミカルに響いていたハンスさんたちの斧の音も、マルクが森の獣を追いかける、甲高い、楽しげな声も、もう聞こえない。
代わりに響くのは、カツリ、カツリ、と。
アトリエの周囲を、決められた歩幅で、決められた時間に巡回する、王宮騎士団の、重い軍靴の足音。
馬のいななき。
甲冑(かっちゅう)が擦れ合う、冷たい金属音。
そして、時折聞こえる、野営の準備をする兵士たちの、押し殺したような、低い話し声。
私のハーブ園とアトリエは、今や、数十張の、白い天幕(テント)によって、完全に、包囲されていた。
風に翻る旗には、王家の「剣と盾」の紋章が、銀糸で誇らしげに刺繍されている。
それは、私がこの森で手に入れた、完璧な「日常」と「スローライフ」が、完全に「非日常」に塗り替えられたことを、示す光景だった。
(……うるさい)
私は、実験台の上で、失敗した『ブライト』の中和実験の、どす黒い残骸を、睨みつけながら、舌打ちした。
私の集中が、乱されている。
アトリエの空気は、もはや、乾燥ハーブと、土の匂い、アルコールランプの清浄な匂いだけではなかった。
天幕の隙間から、武器に塗る油の、ツンとした匂い。兵士たちが煮炊きする、豆と、塩漬け肉の、無骨な匂い。そして、馬の汗と、湿った革の匂い。
それら全てが、私の、完璧に調整された「研究環境」を、無慈悲に、侵食していた。
(ハーブ園の、ミント)
私は、窓の外の、あの物々しい騎士たちを、睨みつけた。
ギルバートに厳命させた通り、彼らは、私のハーブ園(かんそくサンプル)を決して踏み荒らしたりはしない。
だが、彼らが、そこに「いる」という事実そのものが、私の神経を、逆撫でした。
私の「聖域(サンクチュアリ)」が、土足で、踏み荒らされている。
「……ソフィア様」
アトリエの隅。
暖炉のそばに置かれた、簡易ベッドの上で、リリアが、毛布にくるまりながら、不安げに、外の様子を伺っていた。
彼女の体調は、日に日に、回復していた。
聖樹の「悲鳴」が、一時的に止まったことで、彼女の精神は、王都にいた頃とは比べ物にならないほど、安定を取り戻しつつある。
私の『抗菌軟膏』で、ボロボロだった足の傷も、ようやく、薄い皮膚が張り始めていた。
だが、彼女は今、王宮の「聖女」という、華やかな檻から逃げ出したと思ったら、今度は、王宮の「騎士団」という、別の、鉄と、鋼鉄の、物々しい檻に、囚われている。
彼女の顔色は、まだ、青白い。
それは、病み上がり、というだけではない。
彼女が、人生で、これほど、多くの「武装した男性」に、囲まれた経験が、なかったからだ。
「……あの人たち、いつまで、ここにいるのでしょうか。……なんだか、王宮の、練兵場みたいで……怖いです」
「さあ。ギルバートが、陛下から『切り札(わたし)を守れ』と、厳命されている限りは、でしょうね」
私は、アルコールランプの火を、消した。
これ以上、実験を続けても、無駄だった。
私の『化学(キレート剤)』は、聖樹に届いた。
だが、それは、リリアの『聖性(翻訳)』という、奇跡的な「偶然」が、あったからだ。
そして、その「薬」は、聖樹の『症状』を、一時的に、和らげたに過ぎない。
(……『ブライト』そのものは、今も、地下で、流れ込み続けている)
(あいつを、どうにかしない限り、また、聖樹は暴走する。村の井戸は、汚染される)
私は、ロイドさんが、まだ王都から届けてくれない、『白金(プラチナ)のるつぼ』のことを思い、深く、深く、溜息を吐いた。
あれがなければ、『ブライト』の、高温融解実験が、できない。
『遠心分離機』がなければ、あの黒い汚泥(サンプル)から、不純物と、本体を、物理的に、分離することすら、できない。
(……資材が、足りない!)
私のスローライフ(研究)は、今や、王国の「軍事機密」として、厳重に、守られている。
それは、安全であると同時に、研究者(わたし)にとっては、致命的な「停滞」を、意味していた。
この、息が詰まるほどの「不自由」の、始まりでもあった。
「ソフィア薬師」
その時、アトリエの扉が開き、あの、見慣れない「騎士団長の礼装(コマンド・ユニフォーム)」を着た、ギルバートが、入ってきた。
彼の顔には、王都での激論と、不眠不休の行軍による、深い疲労が、刻み込まれている。
彼は、もはや「共同研究者」ではなかった。
この森の、全責任を、負わされた「指揮官」だった。
「……作戦会議を行う。君にも、同席してもらう」
「作戦会議?」
私は、眉をひそめた。
「私は、薬師よ。軍事戦略など、専門外だわ。それよりも、聖樹の『ブライト』の濃度が、また、上がり始めている。リリアの『感知』によれば、だけど」
私がそう言うと、ベッドの上のリリアが、ビクッと、肩を震わせた。
「……あ、あの……」
リリアは、指揮官(ギルバート)の、鋭い視線に、怯えながらも、か細い声で、報告した。
「……はい。……今朝から、また、あの、冷たい『気配』が……地下深くで、脈打つのが、分かります。……聖樹様が、また、苦しそうに、震え始めた……」
ギルバートは、その、リリアの「感覚」を、もはや「オカルト」とは、切り捨てなかった。
「分かっている」
彼の声は、低く、硬かった。
「だからこそ、だ。我々は、君の『専門外』の知識を、必要としている」
彼は、私の背後で、怯えて小さくなっているリリアにも、視線を向けた。
「リリア様。……あなたにも、同席をお願いしたい。あなたの、その『感知』能力が、今や、この森の、唯一の『早期警戒システム』なのだから」
「……わ、わたしが……?」
リリアは、王宮の魔術師(ギルバート)から、初めて、その「能力」を、必要とされ、驚きと、戸惑いに、目を見開いていた。
(やれやれ)
私は、実験台の上の『ブライト』のサンプルケースに、分厚い遮光布をかけ、ため息と共に、立ち上がった。
私の、静かな「研究室」は、どうやら、帝国の錬金術師と、王国の騎士団長によって、否応なく、「戦場」の、最前線に、組み込まれてしまったらしい。
私のスローライフ(研究室)は、今や「王立特別研究地区」という、物々しい名前で呼ばれるようになっていた。
窓の外は、もう、私の愛した静かな秋の森ではなかった。
カコン、カコン、とリズミカルに響いていたハンスさんたちの斧の音も、マルクが森の獣を追いかける、甲高い、楽しげな声も、もう聞こえない。
代わりに響くのは、カツリ、カツリ、と。
アトリエの周囲を、決められた歩幅で、決められた時間に巡回する、王宮騎士団の、重い軍靴の足音。
馬のいななき。
甲冑(かっちゅう)が擦れ合う、冷たい金属音。
そして、時折聞こえる、野営の準備をする兵士たちの、押し殺したような、低い話し声。
私のハーブ園とアトリエは、今や、数十張の、白い天幕(テント)によって、完全に、包囲されていた。
風に翻る旗には、王家の「剣と盾」の紋章が、銀糸で誇らしげに刺繍されている。
それは、私がこの森で手に入れた、完璧な「日常」と「スローライフ」が、完全に「非日常」に塗り替えられたことを、示す光景だった。
(……うるさい)
私は、実験台の上で、失敗した『ブライト』の中和実験の、どす黒い残骸を、睨みつけながら、舌打ちした。
私の集中が、乱されている。
アトリエの空気は、もはや、乾燥ハーブと、土の匂い、アルコールランプの清浄な匂いだけではなかった。
天幕の隙間から、武器に塗る油の、ツンとした匂い。兵士たちが煮炊きする、豆と、塩漬け肉の、無骨な匂い。そして、馬の汗と、湿った革の匂い。
それら全てが、私の、完璧に調整された「研究環境」を、無慈悲に、侵食していた。
(ハーブ園の、ミント)
私は、窓の外の、あの物々しい騎士たちを、睨みつけた。
ギルバートに厳命させた通り、彼らは、私のハーブ園(かんそくサンプル)を決して踏み荒らしたりはしない。
だが、彼らが、そこに「いる」という事実そのものが、私の神経を、逆撫でした。
私の「聖域(サンクチュアリ)」が、土足で、踏み荒らされている。
「……ソフィア様」
アトリエの隅。
暖炉のそばに置かれた、簡易ベッドの上で、リリアが、毛布にくるまりながら、不安げに、外の様子を伺っていた。
彼女の体調は、日に日に、回復していた。
聖樹の「悲鳴」が、一時的に止まったことで、彼女の精神は、王都にいた頃とは比べ物にならないほど、安定を取り戻しつつある。
私の『抗菌軟膏』で、ボロボロだった足の傷も、ようやく、薄い皮膚が張り始めていた。
だが、彼女は今、王宮の「聖女」という、華やかな檻から逃げ出したと思ったら、今度は、王宮の「騎士団」という、別の、鉄と、鋼鉄の、物々しい檻に、囚われている。
彼女の顔色は、まだ、青白い。
それは、病み上がり、というだけではない。
彼女が、人生で、これほど、多くの「武装した男性」に、囲まれた経験が、なかったからだ。
「……あの人たち、いつまで、ここにいるのでしょうか。……なんだか、王宮の、練兵場みたいで……怖いです」
「さあ。ギルバートが、陛下から『切り札(わたし)を守れ』と、厳命されている限りは、でしょうね」
私は、アルコールランプの火を、消した。
これ以上、実験を続けても、無駄だった。
私の『化学(キレート剤)』は、聖樹に届いた。
だが、それは、リリアの『聖性(翻訳)』という、奇跡的な「偶然」が、あったからだ。
そして、その「薬」は、聖樹の『症状』を、一時的に、和らげたに過ぎない。
(……『ブライト』そのものは、今も、地下で、流れ込み続けている)
(あいつを、どうにかしない限り、また、聖樹は暴走する。村の井戸は、汚染される)
私は、ロイドさんが、まだ王都から届けてくれない、『白金(プラチナ)のるつぼ』のことを思い、深く、深く、溜息を吐いた。
あれがなければ、『ブライト』の、高温融解実験が、できない。
『遠心分離機』がなければ、あの黒い汚泥(サンプル)から、不純物と、本体を、物理的に、分離することすら、できない。
(……資材が、足りない!)
私のスローライフ(研究)は、今や、王国の「軍事機密」として、厳重に、守られている。
それは、安全であると同時に、研究者(わたし)にとっては、致命的な「停滞」を、意味していた。
この、息が詰まるほどの「不自由」の、始まりでもあった。
「ソフィア薬師」
その時、アトリエの扉が開き、あの、見慣れない「騎士団長の礼装(コマンド・ユニフォーム)」を着た、ギルバートが、入ってきた。
彼の顔には、王都での激論と、不眠不休の行軍による、深い疲労が、刻み込まれている。
彼は、もはや「共同研究者」ではなかった。
この森の、全責任を、負わされた「指揮官」だった。
「……作戦会議を行う。君にも、同席してもらう」
「作戦会議?」
私は、眉をひそめた。
「私は、薬師よ。軍事戦略など、専門外だわ。それよりも、聖樹の『ブライト』の濃度が、また、上がり始めている。リリアの『感知』によれば、だけど」
私がそう言うと、ベッドの上のリリアが、ビクッと、肩を震わせた。
「……あ、あの……」
リリアは、指揮官(ギルバート)の、鋭い視線に、怯えながらも、か細い声で、報告した。
「……はい。……今朝から、また、あの、冷たい『気配』が……地下深くで、脈打つのが、分かります。……聖樹様が、また、苦しそうに、震え始めた……」
ギルバートは、その、リリアの「感覚」を、もはや「オカルト」とは、切り捨てなかった。
「分かっている」
彼の声は、低く、硬かった。
「だからこそ、だ。我々は、君の『専門外』の知識を、必要としている」
彼は、私の背後で、怯えて小さくなっているリリアにも、視線を向けた。
「リリア様。……あなたにも、同席をお願いしたい。あなたの、その『感知』能力が、今や、この森の、唯一の『早期警戒システム』なのだから」
「……わ、わたしが……?」
リリアは、王宮の魔術師(ギルバート)から、初めて、その「能力」を、必要とされ、驚きと、戸惑いに、目を見開いていた。
(やれやれ)
私は、実験台の上の『ブライト』のサンプルケースに、分厚い遮光布をかけ、ため息と共に、立ち上がった。
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