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第六章:流行(王都の熱狂)
6-6:社交界の噂と元婚約者
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王都の社交界では、「Eのコンフィチュール」のブームが最高潮に達し、その噂は、王宮内の王太子であるアズライトと、新婚約者リリアーヌの耳にも、常に届いていた。
王宮のサロンは、以前にも増して重苦しい空気に包まれていた。豪華な調度品も、窓の外の庭園の華やかさも、アズライト王太子の暗い表情の前では、色を失っている。リリアーヌは、彼を慰めようと寄り添っているが、その瞳の奥には、エリアーナの作品への無垢な憧れが隠しきれずに揺らめいていた。
「アズライト様ったら! 皆、私に聞くんです! 『エリアーナ様は、辺境で聖女になったそうですが、王太子殿下は、どうして彼女のような奇跡を捨てたのですか?』って! 私、とても悲しいです……」
リリアーヌは、泣き出しそうな顔で王太子に訴える。彼女自身はエリアーナの作品を心から愛しているが、そのブームが、自分とアズライトの『真実の愛』という物語を、社交界で「愚かな選択」として再評価させていることに、深く苦悩していた。彼女のこの純粋な悲嘆こそが、ブームの火種をさらに燃え上がらせていた。
アズライトは、豪華な肘掛け椅子に深く沈み込み、プライドを抉られるような屈辱で、顔を青ざめさせていた。
(私が捨てた、お菓子作りにしか興味のない冷たい女が、王都の貴族たちの、話題の中心になっているだと……!? 私の権威は、あの女のたった五瓶のジャムに、崩されようとしているのか!)
彼が婚約破棄を宣言した理由は、エリアーナが「王妃教育を疎かにし、お菓子作りに没頭する、冷たい女」だったからだ。しかし、今やその「お菓子作り」こそが、王都で最も熱狂的で、純粋なブームを巻き起こしていた。
「馬鹿な……! あの女は、王家からの『研究費』を湯水のように使って、最高の素材を集めているだけだろう! 辺境の粗野な果物で、奇跡など起こせるはずがない! ただのハッタリだ!」
アズライトは、そう断言したが、その言葉には、確信のない焦りが滲んでいた。彼は、エリアーナが差し出したあの「リンゴのコンフィチュール」の硬質な酸味と、清涼な甘さを、未だに忘れることができないでいたのだ。その味は、彼が王都で食べるどんな菓子よりも、清く、鋭く、彼の五感を覚醒させた。
「しかし、殿下……」
王太子の側近が、恐る恐る口を挟んだ。彼の顔もまた、社交界の重圧で引きつっていた。
「バルト商会が報告してきたのですが……最近、王都の貴族の多くが、『辺境の館への視察』を希望し、バルト商会に殺到しているそうでございます。先週は、侯爵夫人を筆頭に、五つの貴族家が、魔導馬車の手配を強行しようと……」
「視察だと? なぜだ! 王都の華やかな社交界を捨てて、あんな不毛の地へ行く理由がどこにある!」
アズライトは、苛立ちのあまり、テーブルに置かれていた純銀のフォークを、力任せに握りしめた。彼の瞳には、エリアーナが自分の権威を侵食していく光景が映っている。
「彼らは、エリアーナ様が『最高のテロワール』で、次の奇跡的な果物を育てていると信じているようで……。コンフィチュールだけでなく、『生の果実』や、『出来立てのスイーツ』を、現地で味わいたいと。特に、王太子妃となるリリアーヌ様の『泥水』発言が、決定的な後押しとなっているようで……」
アズライトは、その報告を聞き、心臓が冷たくなった。貴族たちが、王都の華やかな社交界を捨てて、追放されたはずの辺境の地へ向かおうとしている。それは、彼の王族としての権威が、エリアーナの『作品』の前に、完全に崩壊していることを意味していた。王都の貴族の価値観が、完全に覆されようとしているのだ。
リリアーヌは、横で、その言葉を聞きながら、そっと目を伏せた。
(エリアーナ様……やっぱり、私、エリアーナ様が憎いなんて思っていません。あんなに美しい作品を作れる人は、世界で一人だけだわ……)
リリアーヌの純粋な憧れと、アズライトのプライドの屈辱。
この二つの感情が、王都から辺境の地へ向かう「人々の波」を、さらに強く押し出していた。
一方、北の辺境では、エリアーナがアトリエの窓から、遠く王都の方向を見つめていた。彼女の顔には、成功への満足感と、そして「面倒なことが起こりそうだ」という、研究者特有の煩わしさが浮かんでいた。
「セバス。王都からの『視察希望者』のリスト、見せてちょうだい」
彼女がバルトの報告書を開くと、そこには侯爵夫人以下の、王都の貴族たちの名が、びっしりと並んでいた。
「ふふ……王都の貴族は、本当に分かりやすいわ。これで、彼らを辺境の地に呼び寄せる『餌』が整った。私のスローライフ(研究)を邪魔するつもりなら、彼らを効率よく捌くための『店』を作るしかないわね。アトリエの隣の、あの使っていない温室を、改装しましょう」
彼女の静かなスローライフは、彼女の意図とは裏腹に、王都の熱狂によって、次の段階である『意に反する多忙』へと、舵を切られようとしていた。
王宮のサロンは、以前にも増して重苦しい空気に包まれていた。豪華な調度品も、窓の外の庭園の華やかさも、アズライト王太子の暗い表情の前では、色を失っている。リリアーヌは、彼を慰めようと寄り添っているが、その瞳の奥には、エリアーナの作品への無垢な憧れが隠しきれずに揺らめいていた。
「アズライト様ったら! 皆、私に聞くんです! 『エリアーナ様は、辺境で聖女になったそうですが、王太子殿下は、どうして彼女のような奇跡を捨てたのですか?』って! 私、とても悲しいです……」
リリアーヌは、泣き出しそうな顔で王太子に訴える。彼女自身はエリアーナの作品を心から愛しているが、そのブームが、自分とアズライトの『真実の愛』という物語を、社交界で「愚かな選択」として再評価させていることに、深く苦悩していた。彼女のこの純粋な悲嘆こそが、ブームの火種をさらに燃え上がらせていた。
アズライトは、豪華な肘掛け椅子に深く沈み込み、プライドを抉られるような屈辱で、顔を青ざめさせていた。
(私が捨てた、お菓子作りにしか興味のない冷たい女が、王都の貴族たちの、話題の中心になっているだと……!? 私の権威は、あの女のたった五瓶のジャムに、崩されようとしているのか!)
彼が婚約破棄を宣言した理由は、エリアーナが「王妃教育を疎かにし、お菓子作りに没頭する、冷たい女」だったからだ。しかし、今やその「お菓子作り」こそが、王都で最も熱狂的で、純粋なブームを巻き起こしていた。
「馬鹿な……! あの女は、王家からの『研究費』を湯水のように使って、最高の素材を集めているだけだろう! 辺境の粗野な果物で、奇跡など起こせるはずがない! ただのハッタリだ!」
アズライトは、そう断言したが、その言葉には、確信のない焦りが滲んでいた。彼は、エリアーナが差し出したあの「リンゴのコンフィチュール」の硬質な酸味と、清涼な甘さを、未だに忘れることができないでいたのだ。その味は、彼が王都で食べるどんな菓子よりも、清く、鋭く、彼の五感を覚醒させた。
「しかし、殿下……」
王太子の側近が、恐る恐る口を挟んだ。彼の顔もまた、社交界の重圧で引きつっていた。
「バルト商会が報告してきたのですが……最近、王都の貴族の多くが、『辺境の館への視察』を希望し、バルト商会に殺到しているそうでございます。先週は、侯爵夫人を筆頭に、五つの貴族家が、魔導馬車の手配を強行しようと……」
「視察だと? なぜだ! 王都の華やかな社交界を捨てて、あんな不毛の地へ行く理由がどこにある!」
アズライトは、苛立ちのあまり、テーブルに置かれていた純銀のフォークを、力任せに握りしめた。彼の瞳には、エリアーナが自分の権威を侵食していく光景が映っている。
「彼らは、エリアーナ様が『最高のテロワール』で、次の奇跡的な果物を育てていると信じているようで……。コンフィチュールだけでなく、『生の果実』や、『出来立てのスイーツ』を、現地で味わいたいと。特に、王太子妃となるリリアーヌ様の『泥水』発言が、決定的な後押しとなっているようで……」
アズライトは、その報告を聞き、心臓が冷たくなった。貴族たちが、王都の華やかな社交界を捨てて、追放されたはずの辺境の地へ向かおうとしている。それは、彼の王族としての権威が、エリアーナの『作品』の前に、完全に崩壊していることを意味していた。王都の貴族の価値観が、完全に覆されようとしているのだ。
リリアーヌは、横で、その言葉を聞きながら、そっと目を伏せた。
(エリアーナ様……やっぱり、私、エリアーナ様が憎いなんて思っていません。あんなに美しい作品を作れる人は、世界で一人だけだわ……)
リリアーヌの純粋な憧れと、アズライトのプライドの屈辱。
この二つの感情が、王都から辺境の地へ向かう「人々の波」を、さらに強く押し出していた。
一方、北の辺境では、エリアーナがアトリエの窓から、遠く王都の方向を見つめていた。彼女の顔には、成功への満足感と、そして「面倒なことが起こりそうだ」という、研究者特有の煩わしさが浮かんでいた。
「セバス。王都からの『視察希望者』のリスト、見せてちょうだい」
彼女がバルトの報告書を開くと、そこには侯爵夫人以下の、王都の貴族たちの名が、びっしりと並んでいた。
「ふふ……王都の貴族は、本当に分かりやすいわ。これで、彼らを辺境の地に呼び寄せる『餌』が整った。私のスローライフ(研究)を邪魔するつもりなら、彼らを効率よく捌くための『店』を作るしかないわね。アトリエの隣の、あの使っていない温室を、改装しましょう」
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