『元悪役令嬢、追放先で奇跡の果樹園(フルーツパーラー)を開店する ~前世パティシエールの技術でスローライフのはずが、王室御用達になってしまい

とびぃ

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第七章:来訪者(天才シェフの衝撃)

7-1:王都の天才シェフ、リュカ

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王都の貴族街の片隅に、『アトリエ・リュカ』という、わずか数席の小さなパティスリーがあった。
ここは、王都で最も予約が取れない、そして最も批評が厳しい店として知られていた。オーナーシェフのリュカ・ヴァランティンは、まだ二十代前半でありながら、王都のパティスリー界の権威である老舗のシェフたちから「天才」と称される、孤高の存在だった。彼の店で出されるタルトやエクレアは、装飾は最小限だが、一口食べれば、素材の香りが口の中で爆発し、その緻密な『風味の構造』に誰もが驚愕した。
リュカは、王都の主流である「バターと砂糖で豪勢に飾る」という伝統的な手法を嫌い、「素材の持つ生命力を、正確な技術で引き出す」という、エリアーナと共通する哲学を持っていた。しかし、その哲学が、彼を深いスランプへと突き落としていた。
(駄目だ。何度やっても、このクリームは『濁る』。一瞬の清涼感の後に、必ず「雑味」が残る……まるで、王都の空気そのものが、私の作品を汚染しているようだ)
リュカは、自分のアトリエ(厨房)で、真っ白な陶器の皿に盛られた、最高級の牛乳から作ったカスタードクリームを見つめていた。彼の店は王都一の清潔さを誇っていたが、それでもなお、彼の厳しい基準から見れば、そのクリームはわずかに黄色みがかっており、舌触りに微細な粘りが残っていた。彼が求めるのは、夜明けの霧のような、完全な『透明感』だ。彼は、この微細なノイズを排除するために、寝食を忘れて研究を続けていた。
「リュカ様、完璧な出来です。これ以上、どうすれば……。王都のどのパティシエも、このレベルに到達できません」
助手のシェフが恐る恐る尋ねるが、リュカは眉をひそめて首を振った。彼の脳裏には、バターの結晶の不均一さ、卵黄の比重の曖昧さ、砂糖の精製過程で混入した微量の塩分など、彼自身が『食材図鑑』なしで感覚的に解析している「不純物のデータ」が溢れていた。
「違う。このクリームには、ノイズが多すぎる。その不純物が、温度の変化で乳化を妨げ、クリームの『清涼感』を奪う。原因は、素材の純度だ。これ以上、王都の流通ルートでは、私の求める純度の素材は手に入らない。私のスランプは、素材の限界であり、「この世界のパティスリーの限界」だ」
彼は、王都の最高の素材を使って限界に挑んでいた。それなのに、自分の求める『極限の純粋性』に到達できない。天才である彼にとって、それは己の哲学の敗北を意味していた。彼は、この解決策を探すために、王立図書館の錬金術の書物まで読み漁っていたが、答えは見つからなかった。
そんな彼の、探求心の渇きが限界に達したその日、バルト商会の行商人が、一本の「Eのコンフィチュール」の小瓶を携えて現れた。バルトは、リュカのアトリエという「神聖な研究室」に入る際、慣れない手つきで深々と頭を下げた。彼の目には、「奇跡の作品」を携行する者としての、誇りと畏敬の念が宿っていた。
「リュカ様。私が命を懸けて探し出した、『奇跡の作品』でございます」
バルトは、以前の傲慢な面影はなく、まるで聖なる秘宝を献上するかのように、恭しくコンフィチュールを差し出した。その小瓶の周囲には、辺境からの長旅を経てもなお、清涼な冷気が微かに凝縮されていた。
リュカは、その小瓶を見た瞬間、背筋に電流が走るのを感じた。
「この光は……!?」
瓶の中のコンフィチュールは、夜明けの光を閉じ込めたような、琥珀色の清涼な輝きを放っている。そして、小瓶の蓋を開ける前から微かに漂ってくるのは、彼が追い求めてきた『一切の雑味のない、桃の単一の香り』だった。その香りは、王都のどの果樹園の桃の香りよりも、冷たく、清潔で、透明だった。
リュカは、手が震えるのを感じながら、滅菌されたスプーンを手に取り、恐る恐る一口、口に運んだ。
その瞬間――彼の頭の中で、カスタードクリームの微細な粘り、バターのわずかな塩気、そして砂糖の濁りなど、彼を悩ませていた全てのノイズが、一瞬で、音を立てて粉砕されるのを感じた。
「……っ、嘘だろ……。これは、光の味だ……」
彼の口の中に広がるのは、純粋性そのものだった。桃の果肉はホロリと崩れ、夜明けの冷気を纏ったシロップが、彼の舌の上で溶け合う。それは、素材と技術が完璧に調和した、彼の理想とする『味覚の構造体』だった。化学的な不安定さ、物理的な抵抗、その全てが、この作品には存在しない。
リュカは、スプーンを握りしめ、興奮で息を荒げた。その表情は、スランプからの脱却という歓喜と、己の限界を遥かに超えた存在への戦慄が入り混じっていた。
「バルト殿、これは一体、誰が、どこで作ったものだ!? この桃の糖度と酸味のバランスは、王都のどの果樹園でもありえない! そして、このシロップの純度は……! 魔法か!? 錬金術か!?」
リュカは、もはやパティシエではなく、真理を求めて錯乱した科学者のようになっていた。
「これは、辺境のクライフェルト領……エリアーナ公爵令嬢の『研究成果』でございます。シェフ、貴方様が追い求める『究極の純粋』は、この辺境の地にございます」
バルトは、誇らしげに答えた。彼の言葉は、リュカの探求心という名のプライドを、根底から打ち砕いた。リュカは、王都の地位や、店の評判など、一切を顧みなかった。彼の頭の中は、ただこの味の「なぜ」、そして「どうやって」を解明したいという、純粋な探求の衝動で満たされた。
彼は、この解決の鍵が、辺境の地で「冷たい女」と蔑まされながらも、真理を追求し続けたエリアーナという女性が握っていることを悟り、辺境への旅を決意した。この瞬間、王都の天才シェフの人生は、辺境の丘へと完全に方向転換したのだった。
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