『Grazie!Firenze』

みりりっとる

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第1夜 バーでの出会い

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長距離のフライトを終えた周藤朱里は無事イタリア フィレンツェへと足を踏み入れた。
 この地を選んだ理由は卒業旅行でイタリアを訪れた時に最も気に入った街だったからだ。
 長時間の移動で浮腫んだ足を奮い立たせ、ホテルへと向かう。とにかく荷物を手放したい。
 ホテルへと向かう道のりも、日本にいた時のあの陰鬱な気持ちはどこへやらといった風で、わくわくとした気持ちが体の内側から溢れてくるようだった。
 凸凹としたイタリア特有の石造りの道路を車を避けながら歩く。
 無事チェックインを済ませると時刻はもうすぐ18時。イタリアではディナーには少し早い時間だ。
 幸い空腹はそれほど感じていなかったが(機内食が多いせいだ)、今日は早めに眠りたいので、バーで1杯飲みながら少しつまんでホテルでゆっくりしよう。
 そう決めた朱里はドゥオモ広場を抜け、路地に入った。
 5分ほどウロウロとした所で、雰囲気の良いバーを見つけた。
 メニューはわからなかったが、旅の恥はかき捨てということでえいや、と入店。
 中に入ると店主らしき男性と女性の店員。カウンターに男性が1人と、テーブルに男女の4人グループ。ゲイカップルがいた。
 テーブル席ももう1席あったが、グループに挟まれるのも気まずいと思いカウンターを選ぶ。

 隣人とは1席開けて座ると、ほっと一息。
 いつまで経ってもメニューが出てこないので、オロオロとしていると店主が「何?」とでも言いたげな顔で眉を上げる。
 『アペロクダサイ』
 付け焼き刃のイタリア語でこれならあるだろと1杯注文。OKと言うと準備に取り掛かった。よし!と思ったのもつかの間。これじゃあ食べ物が注文できないじゃないか…。店員はと探すもグループの客と楽しげに会話している。
 どうしよう、と頭を抱えていると飲み物が届く。綺麗な夕焼け色のドリンクにオレンジが沈む。ふと笑みを浮かべ、1口。
 オレンジとスパイスのほろ苦く、甘いお酒。おいしい。

 朱里が自分の心配を忘れ1人微笑んでいると、隣から英語で声をかけられる。

「1人?」
 ぱっと顔を上げると、不精ではない整えられたサークル型の髭にクリクリとした明るい茶色の瞳。髪はウェーブがかった、長めの黒髪で、日本人の朱里にも一目でイケメンだとわかる若い男がこちらを見て微笑んでいた。

 はっとして「え、ええ。」と英語で返答すると、「良かったら一緒に飲まない?」
 ナンパ?ナンパされてる??
 でもそのキュートな瞳で見られたら断れないよ!
「う、うん…」
 朱里は決してモテるほうではないのだ。イケメンにそんな風に言われたら頷かない女はいない。ましてここは海外で、今は彼氏もいない。(厳密には元婚約者はいるが、もう元なのだ。関係ない)

「ありがとう!僕はルカ。」
 イケメンはルカと名乗ると、クリクリの目を細めにっこりと笑い、手を差し出す。
 「ルカ、よろしく。朱里です。」
 おずおずと言ったように朱里も手を差し出すとルカは更ににっこりと笑みを深めて想像よりも優しい力で、でもしっかりと握手をした。
   彼の指は男性にしては骨っぽくなく細長かったが小さな傷跡が沢山あり人差し指と親指には小さな固いタコがいくつもあった。何をしている人なんだろう?朱里の中に小さな疑問が浮かんだ。
 朱里が思考の海に沈みそうになった時、ルカが再びよろしくと言い、言葉を続けた。
 「えーと朱里は日本人?観光客だよね??」
日本人か尋ねる彼の目は自信が無さげだったが、観光客かと尋ねるときには彼の目はそうに決まってると言った表情を浮かべていた。
 「日本人だよ。ねぇもしかしてさっきの注文聞いてた?」
 さっきの朱里の注文と言ったら観光客丸出しだったに違いない。
 ルカもそう思った様で、クスクスと笑いながらからかう様な声色で「可愛い発音だったよ。」と続けた。
 その弾んだ声は優しく、からかわれたと言うのに朱里は全く嫌な気持ちにならなかった。
 「もう…」
 思わず朱里も笑ってしまう。
 「お腹空いてる?ここのブルスケッタは絶品なんだ!」
 「すごい!何で私が食べ物を探していたの分かったの?」
 「注文の後にキョロキョロしていたし、誰にでも分かるさ。」
 と言うとルカはウィンクをした。あまりにも自然な動作にへーっとなっていると「ここ味は美味いけど、店主は英語が通じないんだ。多分観光客向けじゃない。」と肩を竦めた。店員も仕事しないしね、と今度はスマホを触ってサボる店員を見て困ったような笑顔を浮かべる。
 「ルカは英語がとても上手ね。」実は1言目から感じていたことだ。彼の英語はイタリア訛りが少なく、ゆっくりで、英語が堪能という訳では無い朱里でも理解に難しくない。
 「いや…遅いよ、話すの。でも、頑張ってる。それに、君の英語はわかりやすい。」
 お世辞だったとしても言われて嬉しいことに違いはない。朱里は嬉しくて笑みが零れた。

 ルカがいつの間にやら頼んでくれたブルスケッタは本当に絶品だった。
 厚めに切られたトスカーナ特有の塩の少ない田舎パンはしっかりと焼かれ、縁はきつね色、中心はほのかに白さを残したままの絶妙な焼き加減。
 その上に散らされた具材が強い色彩で目を引く。
 トマトは粗めに刻まれていて、陽をたっぷり浴びたような赤をしている。
 切り口からはじんわりと果汁がにじみ、パンに吸い込まれないよう、オリーブオイルが薄くコーティングされている。
その上で、刻んだバジルの緑が鮮やかに散り、まるで夏の匂いをそのまま乗せたようだ。
ほんの少し、ニンニクをこすりつけた香りが混ざり、鼻先をくすぐる。

ひと口かじると、カリッという音が小さく弾け、それに続いてトマトの瑞々しい酸味が舌に広がる。
その酸味は鋭くなく、みずみずしい甘さが一緒に押し寄せてくる。
噛むたびにパンの香ばしさ、オリーブオイルの果実感、バジルの青い香りが重なって、シンプルなのに何度でも食べたくなる奥行きを作る。
“ただのパンの上にトマトを乗せただけ”とは到底思えないほど、完成された美味しさがあった。

 「おいしい!」
 思わず朱里が声を上げると、ルカは『おいしい?』と更に尋ねた。
 『オイシイ!』
 またしても口から出たのは拙いイタリア語で自分の発音にへらりと朱里が笑うと、ルカはまたからかう様な笑みを浮かべていた。店主はルカを見てニヤリと笑うと、2人は二、三言言葉を交わした。ルカは照れたような笑みを浮かべていた。
 (かなり後になってルカに聞くと『一目惚れか?』『やめろよ!』『照れるなよ』『そんなんじゃないったら』といった会話があったと白状した。)

 「ゴホン…朱里はイタリアにはどれくらいいる予定?」
 慌てたように言葉を紡ぐルカに首を傾げつつも10日間の予定だと伝える。
 「そうなんだ、フィレンツェ以外は?どこに行くの?」
 「実はまだ考えてないんだ。衝動的に旅行に来たから宿も全部フィレンツェで。でもすごく好きな街だから」
 変なやつと思われたかな?と若干の気まずさがあり、恐る恐るルカを見遣ると、想像とは裏腹にルカは嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 「ワオ!それってすごく嬉しい。僕もこの街が好き。生まれも育ちもここだけど、その生活が気に入ってるんだ。」
 朱里は本当に嬉しそうに笑うルカを見て、何だか胸が暖かくなった。自分の暮らす冷たい街を思うと、彼の微笑みはなんだか眩しくもあった。

「ねぇ、聞いてもいい?ルカは普段何の仕事をしているの?」
 握手の時から疑問に思っていたことを2枚目のブルスケッタをつまみながら朱里は尋ねる。
 「革の仕事をしているんだ。」
 思いもよらないルカの返答に朱里は興味津々で身を乗り出した。ルカはその様子に気がつくと照れたように息を吸い込んだ。
 「財布とかベルトとか、小物が多い。大きいブランドじゃないし、工房も古いけど。」
 そこで言葉が止まった。
 朱里が優しく笑って「素敵だね。」と言うと、ルカは一瞬だけ瞬きを忘れたように固まり、その後ゆっくりと頷いた。
「『ありがとう。』嬉しい。」その声は少しだけ恥ずかしそうだった。
 暫くしてルカは自分から続ける。きっと興味を持ってくれたことが嬉しいのだ。
 「僕は手で触って形になるのが好きなんだ。柔らかい革も最初は冷たくて。でも温かい手で触ると少しづつ変わる。自分の形に従ってくれるっていうか…」その言葉を言いながら、ルカは自然と手元を見ていた。作業で鍛えられた指、細かい傷。そのどれもが彼の仕事そのものを物語っているようだった。
 朱里は静かに聞いていた。ルカの話しぶりがあまりにも真っ直ぐで、その奥にある情熱がじんわりと伝わってきたからだ。

 ルカはちょっと照れたように肩を竦め「少し話しすぎたね。」と笑う。
 朱里は首を振る。
 「ううん。もっと聞きたいよ。」
 ルカは驚いたように目を見開き、そのあと、柔らかく、少しだけ甘い笑みを浮かべた。

 その笑顔はブルスケッタよりもアペロよりも、朱里の胸をほんの少し暖かくした。

 その後2人でルカの祖母が熊のような子犬を飼い始めた話や、朱里が大学の卒業旅行でフィレンツェに来た話をしながらブルスケッタを摘んでいると、ブルスケッタは最後のひとつになった。
 「最後のひとつは君が食べて。」
 ルカはそう言うと朱里の方へ皿を押しやった。
 「いいの?」
 勿論食べたいが、思わずルカに問いかける。
 「僕はいつでも食べれるしね。」
 「たしかに。」
 ルカの冗談交じりの遠慮に控えめな優しさを感じた。
 静かなバーの喧騒が、2人の周りだけ少し遠くなったように感じた。
 そして、朱里が1口かじった時、ルカは初対面のはずの朱里の表情を静かに、どこか親しげに見つめていた。
 その目が語る“もう少し一緒にいたい”という控えめで、確かな気持ちにどぎまぎした朱里はほんの少し彼から目を逸らした。耳が熱くなるのを感じた。

 ブルスケッタの皿はすっかり空になり、朱里は最後のひと口をゆっくり噛み締めていた。
アペロも飲み終え、グラスの中の氷はほとんど溶けてしまっていた。

「本当に美味しかった。」
 朱里が小さく微笑みながら言うと、「うん、君と一緒で良かった。」とルカは少し照れくさそうに答えた。

 しばらく2人は座ったまま、店内のざわめきやグラスの音に耳を済ませた。まるでその音がふたりだけの小さな世界を包んでいるようだった。

 ルカは朱里の手元のガラスをちらりと見て、静かに提案する。
 「そろそろ外に出る?夕方の空気が良いよ。」
 朱里が頷くのを見ると、ルカが店員に会計を頼んでくれた。朱里が財布を出そうとするとルカは手でそっと押さえ、首を横に軽く振った。
 「朱里の一人旅のお祝いをさせて。」
 「そんな、悪いよ。」
 「君の可愛い『ありがとう』が聞きたいな。」
 ルカのいたずらっぽい言葉に思わず朱里も笑ってしまう。
 『アリガトウ!』
 朱里の言葉にルカは満足げに笑っていた。
 
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