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79話 狂気の剣士

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 ニースは走りに走り、そろそろ逃げ切ったかと歩を緩めて、裏路地降を歩く。

「嬢ちゃん。悪いな」

 コソ泥にはコソ泥のやり方がある。契約魔術での約束は何でも質問に答えるということだけだ。つまり聞かれなかったら答える必要はなかった。ニースは最後の最後まで生粋の悪なのだ。もっともそれはイリナ姫側も似たようなものだろう、本人の考えはともかく負けたとしてもニースを殺してしまえば契約などなんの意味もなさない。

 イリナ姫に目を付けたのは軽い興味からだったが、結果的には面白い出会いになった。まったくもって久々に愉快な夜だった。これからもやることは変わらない、あの少女がニースを殺すまで、とことん足掻くつもりだった。しばらくは身を隠す必要があるだろう。残虐王に近づいてもいい。

「止まれ」

 背後から声が聞こえてふうと息を吐く、こんな気分に水を差してくれるものだ。追いつかれたわけではない、つけられていたのか偶然か。どちらにせよやることに変わりはない。

「逃げれば殺す」

 適当にあしらおうと思ったニースの足が止まる。全身を恐ろしい戦慄が走り、ぴくりとも動けなかった。敵の魔術かギフトか、すぐさま弾こうとしてそれができないことに気が付く。

 なぜならこれは相手のギフトの効果ではない、ニース自身のギフトが己の命を守るためにやっていることだったからだ。

「選べ。戦うか、それとも降伏するか」

 ──死ぬ。一歩でも動けば次の瞬間、命が絶たれる、そんな実感があった。何の魔術の構築もしていない男が相手であるのに。

 敵対者は馬鹿でかい剣を持つ青年だ。黒髪に緑がかった青の目、暗闇の中で殺意に光る目はとても冷たかった。鋼のごとき研ぎ澄まされた気と相まって、一本の刀剣のような男だった。

 ニースを見る青年の目は何も感じていない。まだ敵だとすら認識されていない。もっと何か別の遠くを見ていると、そんな感覚がした。こんな男の噂はよく聞いたことがあった。

「……魔術師殺し」

 イリナ姫の護衛あり、サウストリアでは戦ってはいけないと言われている者の一人だ。降伏するもの、戦う意思のないものは相手にしない。だがニースに降伏するという選択肢は存在しなかった。それは死を意味する。

 呆れて帰ると言っていたのはブラフだった。ただ単に逃走経路を見越してそれを潰しに回っていただけ。

「神氷の魔術師──お前の噂は聞いた」

 囁くように男は言った。それはいくつかあるニースの呼び名の一つだった。

「強いんだろう? お前は優秀な魔術師なのだろう。相手は一人だ。魔術も構築していない。お前なら勝てるんじゃないか。戦えば逃げられるんじゃないか」

 なんとか手元の暗器に指を伸ばすと。はじめてニースにこの男の目が向いた。ようやく敵と認識された、そんな気がした。それは意地だった、舐められたままでたまるかという。闘志を湧き立たせると青年の顔に楽しげな笑みが浮かんだ。

「教えてくれ。ニース・ラディット。俺はどこまで強いのかを」

 背中から大剣を振り下ろして、構えを取った。こうこうと目を輝かせる、まるで血に飢えた猛獣だった。

 ──死ぬ、死ぬだろうな。

 目の前の剣士からはたとえ四肢もがれても喉元に牙を突き立ててくるという、そんな狂気が感じられた。必ず相打ちにまでは持ち込まれる。そう思わされるだけの威圧があった。あらゆるギフトが死の危険を告げていた。

 この勝負は良くて引き分けだ。戦いの末に勝利などない。死を恐れないものと戦うことほど馬鹿らしいことはなかった。それは逃げでも負けでもない、鉄砲玉なんぞを真っ向から受け止める必要はないということだ。ニースは最終的に勝てばいいという考えの男だ。局所的な戦闘などいくらでも負けても構わない。それが目の前の男は違う、もし今この時、敗れるならば死んでも構わないという覚悟を秘めていた。

 無意識に後退しようとした足を根性で止める。猛獣を前にして背を向けるのは死を意味する。逃げを考えた生半可な覚悟では間違いなく死ぬことになる。死中に活路を見いだしてこそ、はじめて生きる目が出てくる。

「やっぱり神さまってやつはいないんだな」

「貴様のような男を救う神などいるか」

「ふん。そういうことじゃねえよ」

 何の因果か、よりにもよってニースに裁きを与えるのは精霊から愛されない男。忌み子であった。苦笑し、おそらくこれが人生最後かと、全身により強くマナを巡らせた。その時だ──

「エルさん! お手柄です!」

 暗澹とした空気を一つの声が切り裂いた。そして向き合う男たちの間に、建物から飛び降りた少女がふわりと降りたった。ニースにとっては救いの女神様だ、炎の翼をまとって宙を舞い降りたその姿は正真正銘の神々と思うほど美しかった。

「いや、たいしたことじゃない」

 興が削がれたのか張りつめるほどの殺気は消失していた。

「イリナ姫。もう少し自重を」

 護衛たちま追いついてきていた。逃げることはもはや不可能だった。

「俺もここまでか」

 今死ぬことは避けられたが、捕まれば死罪が待っているだろう。例え彼女らに協力してもこれまでに犯した数多くの罪がある。覚悟を決めてどっかりと座り込む。

(糞みたいな人生だったな)

 終わりがくることは常に覚悟していた。未練も後悔も恐れもない。ようやくこの腐りきった人生にも終わりが訪れるわけだ。その引導が目の前の少女によってもたらされたものならば、満足できるような気がした。

「貴方を殺す気はありません」

「なぜ殺さない?」

 剣士も隣の魔術師もそんな情けを持っている相手には思えなかった。事情は察することはできる。この一向のかじ取り役は彼らではなく、イリナ姫であるのだろうと。

「あなたには償いをしてもらいます。いえ、しなければいけません」

「償い?」

「言ったでしょう。私は信じているんです。絶対に諦めなければ絶望はやがて希望へと変わってくれるはずだと。神々は微笑んでくれると。あなたは多くの罪をなした、だららこそこれからは人のために生きて、この地で争いをなくすために協力してください」
 
「馬鹿な。この俺が? 今さら正義の味方ごっこかよ」

「悪党として生まれ、生きた。この情勢が不安定な土地であなたがそうなるしかなかったことも、その境遇にも同情します。しかしまさに今あなたは変わることができるんです。この地を平定して残虐王を倒すのに協力すればすべての罪を赦免すると約束いたしましょう」

 力強い瞳でイリナは手を差し出した。

「これが生き方を変える最後のチャンスです。私の手をとればすべてを変えられる。あなたは今日死に、生まれ変わることができるんです。ニース・ラディット。それでもあなたはまだ逃げるんですか」

 彼女は暗闇にも損なわれない、眩い輝きを放っていた。

(どうやら女神さまってやつはいるらしいぜ。爺さん)

 まさか悪として突き進んだ先で救いの女神さまに会うとは思ってもみなかった。ニースはやれやれと苦笑して両手を上げた。

「降参だ。降参。不利な賭けはしない。それが性分なんでね。協力しますよ」

 伸ばされた手を握り、立ち上がった。

「それじゃあ、これからよろしくお願いします」

 イリナは満面の笑みを浮かべて律儀に頭を下げた。剣士のほうはもはや興味を失っているのか、別の方向を眺めていた。

「エルさん。エルさん」

 少女が袖口を引くと剣士の視線が落された。

「私勝ちましたよ。大大逆転勝利です!」

「ああ、良かったな」

 剣士がぽんぽんと少女の頭を撫でると、彼女は嬉しそうに頬を朱色に染めた。信頼していることが分かる熱い眼差しだった。

 思えばニースはこの時からこの剣士が嫌いだったのだ。
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