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86話 過去
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ぽつん、ぽつんと水滴が跳ねる音だけが室内には響いていた。
そこは高い天窓からわずかに光が差し込むだけの、物静かで薄暗い土蔵だった。湿った空気の中、頼りない天窓のかすかな明かりは朝が来たことを教えてくれる。寝床以外ほとんど何もない部屋で時を刻みを知らせる有難い存在だった。
そんな中に少年が一人、ベッドにうずくまるように身を横たえている。熱に浮かされて苦し気に眠っていることが多かった。時折メイドが食事を運びに顔を見せるだけで、他の者が訪れることはない。生き物らしいものと言えば不衛生な鼠が瞳をぎらつかせて、少年が息絶えるのを醜悪な顔で待ち続けているというだけだった。
そんな劣悪な環境で少年は幼い頃の大半を過ごした。わずかそこだけが生きる場所だった。両親の言いつけで土蔵の外に出ることは許されてはいなかったし、外に出るほどの体力もなかった。彼は魔術を使えない忌み子、その身体には生きるためのマナが欠乏していた。
誰しもができるはずの精霊の恩寵を身体に取り込むことが上手にできなかった。マナは生きるために必要不可欠であり、身体を動こかすことにすら消費する。そのため激しい運動をすることすら命にかかわった。
少年がやることと言えば、もっぱら三つのことだった。一つ目が寝ること。二つ目が本を読むことだった。そこには本だけはたくさんあった。安物の魚油のランプは火を灯すと、黒ずんだ煙と強烈な異臭が漂った。だがそれでも貴重な明かりだった。少年は本を読んで外の広い世界のことを知った。様々なことを学んでいった。むさぼるように知識をためていった。
そして少年が行う三つ目のことが、マナの操作の練習だった。手のひら大の水晶玉にマナが込められて半永久的巡り続けている。水晶の中でパズルのように結びついたそのマナを解きほぐす。無数のパターンが記憶されたそれは一般的な子供が魔術の練習用に使うものだ。
少年はそれを延々と見て見て見続けた。何かにとりつかれたようにそれだけをやり続けた。それだけが存在意義でもあるかのように。何か明確な目的があったわけではない。それしかすることがなかっただけだった。それらだけが少年のすべてだったのだから。
重い病と世界から半ば隔絶された場所、幼い子供が生きていくにあまりに苛酷だった。だが何の因果か少年は生き延びた。そしてその存在はとうとう表沙汰となり、ようやく少年の人生は始まった。
◇◇◇◇◇◇
俺は5歳になって、はれて土蔵の外の世界に出た。ずっと両親から死ぬことを望まれていた、幼い頃の生活は緩やかな殺人と言っても過言ではなかった。だが成長してしまえば実力行使をするのも憚られる、そんな中途半端な覚悟だったのだ。
外に出てからはまずあらゆる病院に通い始めることになった。曲りなりとも息子として認められた以上は病弱では体面が悪い、そういうことだった。だが8歳になるまで数年間病院を渡り歩いたが結局はどこに行っても俺の病を治せる医者はいなかった。マナ欠乏症、それは人種性別を問わずに発症し、数は多くないが世界中で分布を見せる原因不明の奇病だ。
そんな成果のない毎日にも俺は気を落としていたというわけでもなかった。当時の俺は両親からの愛情を知らず、友もおらず、身近だったのは憎しみと苦痛だけだった。常に心は冷めきっていた。生きることにもそれほど執着があったわけでもなく、無口で、にこりと笑うことすらしない少年だった俺は周囲からは不気味な子供だと噂されていた。
だがある日のことだった。それまでとは経路の違う場所に連れて行かれた。そこは特殊な研究をしている病院だと父は言った。世界中から奇病、遺伝病などの患者を受け入れていた。マナ欠乏症が完治したなど聞いたことはなかったが、それでも他にやるべきこともなかったのだろう。
やはりいつものように治療は空振りに終わった。診察のあとのことだ。両親の使いが迎えが来るまでの少し空き時間。俺は暇をつぶすために庭園に足を向けた。そこなら静かに休めるかと思ったのだ。だが不思議なことに妙に多くの人影とすれ違った。
「どこに行った!」
「くそ! また勝手抜け出して」
慌ただしく行きかう白衣を着た研究者たちの姿があった。彼らの様子を他人事として歩みを進めた。やがてたどり着いたのはきちんと手入れされた見事な庭園だった。余計な喧噪とも無縁な場所だろうと、そう思っていたが間違いだった。
「いたぞ!」
研究者の叫びがとどろく。彼らが血眼になって探していたのは一人の少女だった。俺よりも数個は年上で、奇麗な人だった。赤みが混じった美しい金髪を腰の辺りまで伸ばしていて、顔の造形は均整がとれて人形のようだ。だが何より満ち溢れるほど強い生命力、太陽の下で輝かんばかりに楽し気に笑う表情が魅力的だった。
少女は捕まえようと追いすがる研究員の手をすいすいと躱していく。わずかに屈み、ダンスでも踊るようにステップを刻むと、それだけで手がすり抜ける。まるで空気の揺らぎを受けて宙を舞う羽根のように自由自在に動き回る。
「こら! 逃げるんじゃない!」
必死な研究者とは対照的に少女はけらけら笑いながら逃げている。危なげなく手を躱し続けた。服に指一本たりともかすりそうになかった、それほど見事な動きだった。
だがやがて壁際に数人がかりで取り囲まれて、ようやくこの追いかけっこも終わりかと呆気にとられながら眺めていた。
「いい加減にしなさい! もう逃げられないぞ」
取り囲んだ研究者たちは少女の逃げ場がないことを確信していた。だがそうではなかった。彼女は軽やかに壁を蹴るとひとっとび。空中で宙返りしながら空を飛んだ。その姿に俺は思わず見惚れた。
包囲を突破した少女はまたも足早に逃げ去ろうとして。その時、街路樹の横で固まる俺と少女の目と目があって。はじめて彼女は顔色を変えた。
「わ! 退いて退いて!」
慌てたような表情を認識して──がつん、と大きな衝撃が走った。真っ白になった思考、それが正常を取り戻せば温かさと柔らかな感触に気が付いた。先ほどまで逃げ回っていた女の子が心配そうに俺を覗き込んでいた。折り重なって一緒に地面に倒れていたのだ。
「ごめん。大丈夫?」
もう逃げようとはせずに、先に立ちあがると俺に手を差し伸べた。
「少年。悪かったね。怪我はないかい」
息を切らせて研究員たちもやって来た。赤毛の年若い青年だった。彼が少女を捕まえるように肩に手を置くと、他の研究者たちは胸をなでおろして散会していった。
「俺なら大丈夫」
伸ばされた手を取らずに立ち上がると、服の汚れを払う。失礼とも思える態度だったが、少女は「なら良かったと」微笑むだけだった。
「何度も言ってるだろう。外出する時はちゃんと許可を取りなさい」
「えー。そしたらみんな追っかけてこないから面白くないもん」
悪びれもせずに言うと研究者は疲れたように顔を手で覆った。
「ほら行くぞ。セレス」
「はぁい」
彼女は手を引かれて連れられてく。その前に振り返ると、
「じゃあねー」
ひらひらと手を振っていた。変な人だという、それが彼女の第一印象だった。
そこは高い天窓からわずかに光が差し込むだけの、物静かで薄暗い土蔵だった。湿った空気の中、頼りない天窓のかすかな明かりは朝が来たことを教えてくれる。寝床以外ほとんど何もない部屋で時を刻みを知らせる有難い存在だった。
そんな中に少年が一人、ベッドにうずくまるように身を横たえている。熱に浮かされて苦し気に眠っていることが多かった。時折メイドが食事を運びに顔を見せるだけで、他の者が訪れることはない。生き物らしいものと言えば不衛生な鼠が瞳をぎらつかせて、少年が息絶えるのを醜悪な顔で待ち続けているというだけだった。
そんな劣悪な環境で少年は幼い頃の大半を過ごした。わずかそこだけが生きる場所だった。両親の言いつけで土蔵の外に出ることは許されてはいなかったし、外に出るほどの体力もなかった。彼は魔術を使えない忌み子、その身体には生きるためのマナが欠乏していた。
誰しもができるはずの精霊の恩寵を身体に取り込むことが上手にできなかった。マナは生きるために必要不可欠であり、身体を動こかすことにすら消費する。そのため激しい運動をすることすら命にかかわった。
少年がやることと言えば、もっぱら三つのことだった。一つ目が寝ること。二つ目が本を読むことだった。そこには本だけはたくさんあった。安物の魚油のランプは火を灯すと、黒ずんだ煙と強烈な異臭が漂った。だがそれでも貴重な明かりだった。少年は本を読んで外の広い世界のことを知った。様々なことを学んでいった。むさぼるように知識をためていった。
そして少年が行う三つ目のことが、マナの操作の練習だった。手のひら大の水晶玉にマナが込められて半永久的巡り続けている。水晶の中でパズルのように結びついたそのマナを解きほぐす。無数のパターンが記憶されたそれは一般的な子供が魔術の練習用に使うものだ。
少年はそれを延々と見て見て見続けた。何かにとりつかれたようにそれだけをやり続けた。それだけが存在意義でもあるかのように。何か明確な目的があったわけではない。それしかすることがなかっただけだった。それらだけが少年のすべてだったのだから。
重い病と世界から半ば隔絶された場所、幼い子供が生きていくにあまりに苛酷だった。だが何の因果か少年は生き延びた。そしてその存在はとうとう表沙汰となり、ようやく少年の人生は始まった。
◇◇◇◇◇◇
俺は5歳になって、はれて土蔵の外の世界に出た。ずっと両親から死ぬことを望まれていた、幼い頃の生活は緩やかな殺人と言っても過言ではなかった。だが成長してしまえば実力行使をするのも憚られる、そんな中途半端な覚悟だったのだ。
外に出てからはまずあらゆる病院に通い始めることになった。曲りなりとも息子として認められた以上は病弱では体面が悪い、そういうことだった。だが8歳になるまで数年間病院を渡り歩いたが結局はどこに行っても俺の病を治せる医者はいなかった。マナ欠乏症、それは人種性別を問わずに発症し、数は多くないが世界中で分布を見せる原因不明の奇病だ。
そんな成果のない毎日にも俺は気を落としていたというわけでもなかった。当時の俺は両親からの愛情を知らず、友もおらず、身近だったのは憎しみと苦痛だけだった。常に心は冷めきっていた。生きることにもそれほど執着があったわけでもなく、無口で、にこりと笑うことすらしない少年だった俺は周囲からは不気味な子供だと噂されていた。
だがある日のことだった。それまでとは経路の違う場所に連れて行かれた。そこは特殊な研究をしている病院だと父は言った。世界中から奇病、遺伝病などの患者を受け入れていた。マナ欠乏症が完治したなど聞いたことはなかったが、それでも他にやるべきこともなかったのだろう。
やはりいつものように治療は空振りに終わった。診察のあとのことだ。両親の使いが迎えが来るまでの少し空き時間。俺は暇をつぶすために庭園に足を向けた。そこなら静かに休めるかと思ったのだ。だが不思議なことに妙に多くの人影とすれ違った。
「どこに行った!」
「くそ! また勝手抜け出して」
慌ただしく行きかう白衣を着た研究者たちの姿があった。彼らの様子を他人事として歩みを進めた。やがてたどり着いたのはきちんと手入れされた見事な庭園だった。余計な喧噪とも無縁な場所だろうと、そう思っていたが間違いだった。
「いたぞ!」
研究者の叫びがとどろく。彼らが血眼になって探していたのは一人の少女だった。俺よりも数個は年上で、奇麗な人だった。赤みが混じった美しい金髪を腰の辺りまで伸ばしていて、顔の造形は均整がとれて人形のようだ。だが何より満ち溢れるほど強い生命力、太陽の下で輝かんばかりに楽し気に笑う表情が魅力的だった。
少女は捕まえようと追いすがる研究員の手をすいすいと躱していく。わずかに屈み、ダンスでも踊るようにステップを刻むと、それだけで手がすり抜ける。まるで空気の揺らぎを受けて宙を舞う羽根のように自由自在に動き回る。
「こら! 逃げるんじゃない!」
必死な研究者とは対照的に少女はけらけら笑いながら逃げている。危なげなく手を躱し続けた。服に指一本たりともかすりそうになかった、それほど見事な動きだった。
だがやがて壁際に数人がかりで取り囲まれて、ようやくこの追いかけっこも終わりかと呆気にとられながら眺めていた。
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取り囲んだ研究者たちは少女の逃げ場がないことを確信していた。だがそうではなかった。彼女は軽やかに壁を蹴るとひとっとび。空中で宙返りしながら空を飛んだ。その姿に俺は思わず見惚れた。
包囲を突破した少女はまたも足早に逃げ去ろうとして。その時、街路樹の横で固まる俺と少女の目と目があって。はじめて彼女は顔色を変えた。
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「ごめん。大丈夫?」
もう逃げようとはせずに、先に立ちあがると俺に手を差し伸べた。
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息を切らせて研究員たちもやって来た。赤毛の年若い青年だった。彼が少女を捕まえるように肩に手を置くと、他の研究者たちは胸をなでおろして散会していった。
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伸ばされた手を取らずに立ち上がると、服の汚れを払う。失礼とも思える態度だったが、少女は「なら良かったと」微笑むだけだった。
「何度も言ってるだろう。外出する時はちゃんと許可を取りなさい」
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