前世が教師だった少年は辺境で愛される

結衣可

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第12話 春風の約束

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 昼下がりの庭に、春風が吹き抜けた。
 陽光に照らされた花壇は鮮やかで、スノードロップに続いてパンジーやチューリップが咲き誇っている。

「ミカ先生、見て! ほら、こっちの花、昨日より大きくなった!」

 リアムの声が弾む。

「ほんとだ。ちゃんとお日さまの方を向いてるね」

「お花って、太陽が好きなんだね」

「うん。生きてる証拠だよ」

 ミカは膝をついてリアムの帽子を直してやる。
 陽光が髪に反射し、風が頬をなでた。
 その横顔を見つめながら、ダリウスは穏やかな笑みを浮かべる。

 彼の手には湯気の立つ紅茶。
 庭のテーブルに置かれたティーポットからは、ベルフラワーの花びらが浮かぶ香りがした。

「……こうしていると、時間を止めたくなるな」

 ダリウスの言葉に、ミカはふと顔を上げる。

「え?」

「……お前が来てから、この館が生き返ったように明るくなった。リアムの楽しそうに過ごしている。このままこのの穏やかな時間が続けばと思ってな」

 ミカは頬を染めて俯く。

「そんな……僕は何も……」

「いや。お前が笑うだけで、空気が柔らかくなる」

 静かな声に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 リアムが花冠を持って駆け寄ってきた。

「パパにも! はい!」

「……これは、少し小さいな。」

「だってパパの頭、大きいんだもん!」

 ミカが吹き出し、ダリウスも珍しく声を立てて笑った。
 その笑顔があまりにも穏やかで、ミカは今までにない幸福感を感じていた。

 ──しかし、その午後。

 玄関の方から、蹄の音が響いた。
 重い扉が叩かれ、ジェスの声が低く響く。

「旦那様、王都からの使者が参りました」

 その言葉に、場の空気がわずかに張り詰めた。
 ダリウスは紅茶を置き、静かに立ち上がる。

「ミカ、リアムを頼む」

「……はい」

 館の広間には、王家の紋章を刻んだ書簡を持つ男が立っていた。
 甲冑の胸当てには雪獅子の紋。
 帝都直属の伝令だ。

「辺境伯ダリウス・レーヴェンス殿。
 陛下より召喚の勅書をお持ちしました」

「……召喚?」

 封蝋を割り、文を開く。
 そこには、帝都北部の治安および軍備再編に関する会議が開かれる旨、そして“前線経験を有する貴公を陛下自らが望む”と書かれていた。
 ダリウスは静かに文をたたみ、眉間に皺を寄せた。

「……すぐに発たねばならんのか」

「3日以内にご出発を、とございます」

 返す言葉もなく、伝令が頭を下げて去っていく。
 重い扉が閉じた瞬間、館の空気が変わった。
 ジェスが心配そうに口を開く。

「……旦那様」

「心配はいらん。留守は任せる」

「承知いたしました」

 ◇

 その夜、ミカは温室の窓辺で、外に浮かぶ月をぼんやりと見上げていた。
 足音に気づき、振り返る。

「……ダリウス様」

「眠れないのか」

「……はい。王都へ行かれるって、聞きました」

 ダリウスは静かに頷く。

「陛下の命とあれば、従うしかない」

「でも、遠いですよね……」

「王都までは馬で10日ほどだ」


 ミカは唇を噛む。
 その距離の意味を、痛いほど感じた。

「リアムくんが寂しがります」

「……そうだな。だが、あの子のそばにお前がいる」

 そう言いながら、ダリウスはミカの髪に手を伸ばした。
 指先がそっと触れる。

「お前がいれば、リアムは大丈夫だ」

「でも……」

 ミカは顔を上げた。
 灰色の瞳が、月光の下で深く揺れている。

「僕も……寂しいです」

 小さな声。
 ダリウスの胸の奥で何かがきしむ。

「ゆう」

 名を呼ばれた瞬間、ミカの胸が鳴った。
 ダリウスはミカを強く引き寄せ、キスをした。
 そのまま抱き寄せ、ミカの耳元で囁く。

「そんなことを言われては、離れがたくなるだろう?
 ……ゆう、今回は国の治安維持の会議に出席するだけだ。この春が終わるころには戻る。……約束する」

「約束……」

「だから、待っていてくれ」

 その声が低く、やさしく響く。
 ミカはゆっくりと頷いた。

「……はい。待っています」

 その答えにダリウスがそっとミカの頬に触れ、微笑む。
 その仕草は、言葉よりも確かな温度を持っていた。

 もう一度唇を重ねそうになったが、ダリウスは途中で息を止めた。
 理性が、彼を止める。
 今ここで触れたら、離れがたくなるから。

 彼はそっとミカの髪を撫で、代わりに額へ軽くキスを落とした。

「……これが、約束の印だ」

 ミカは目を閉じ、頬を染めた。
 そのまま静かに微笑み、囁く。

「必ず……無事に戻ってきてください。」

 夜風が温室を抜け、花々が揺れた。
 スノードロップが月に照らされ、二人の影を柔らかく包み込む。

 ――春風の約束は、静かに交わされた。

 ◇

 夜明けの光が、館の屋根を白く染めた。
 春の風はまだ冷たく、庭の花びらをそっと揺らしている。

 玄関前の石畳には、馬車が一台。
 従者たちが荷を積み込み、馬の吐く白い息が朝の冷気に溶けていった。

「パパ、ほんとに行くの?」

 リアムの声が、少し震えていた。
 ダリウスは膝をつき、リアムの肩に手を置いた。

「しばらく、王都でお仕事だ」

「……やだ。僕も行く」

「駄目だ。長い旅になる」

 穏やかな声。けれど、どこかに寂しさが滲んでいる。

「でも……」

「大丈夫だ、ミカもジェスもいるだろう。いい子で待てるな?」

「……うん」

 リアムは唇をかみしめ、ぎゅっとダリウスの胸にしがみついた。
 その小さな腕を抱きしめ返しながら、ダリウスは目を閉じる。

「すぐに戻る。約束だ」

「……ほんと?」

「ああ。約束だ」

 ミカは少し離れた場所でその光景を見つめていた。
 朝露が草の上で光り、馬の鞍の金具が冷たくきらめく。

 リアムがジェスに連れられて玄関の中へ戻っていく。
 扉が閉じられ、庭に残ったのは、ミカとダリウス、二人だけだった。

「……寂しがっていましたね」

「仕方ない。まだ幼いからな」

「でも、ダリウス様がちゃんと帰るって言ったから、
 きっと信じて待っています」

 ミカは微笑みながら言った。
 けれどその笑みの奥に、自分でも抑えきれない痛みがあった。

「あなたがいない間、この館を守ります」

「頼もしい言葉だ」

 ダリウスがふっと笑う。
 その灰色の瞳がミカを見た瞬間、笑みがわずかに揺れた。
 何かを言いかけて、やめたような表情。

「ゆう」
 その名を呼ばれた瞬間、胸の奥にあの夜の温もりが蘇る。

「はい」

「……お前がここにいてくれることが、何よりも救いだ。きっとお前がいなければ、安心して、王都に行けることはなかっただろう」

「……はい」

 沈黙が降りた。ミカは想いが溢れすぎて、言葉にならない。
 伝え方がわからない。
 鳥の声すら遠のいて、風の音だけが二人の間を通り抜ける。

 ダリウスは一歩近づき、そのままミカの手を取った。
 大きな掌のぬくもり。
 それだけで、息が詰まりそうになる。

「……もう一度、約束をしよう」

「はい」

「春が終わる前に戻る。どんなことがあっても」

 その声は低く、確信に満ちていた。
 ミカは強く頷いた。

「はい……待っています。ダリウス様」

 ダリウスが微笑む。
 その目に、かすかな情が揺れていた。
 理性と感情が、ぎりぎりでせめぎ合うように。

 そして――

 ダリウスはゆっくりと身をかがめ、ミカの額に口づけを落とした。
 ひんやりとした朝の空気の中、その一瞬だけが、やけに温かかった。

「リアムを、ここを頼む」

「はい……ダリウス様、どうかご無事で」

 馬車の扉が閉じる。
 車輪が石畳を叩く音が響く。
 馬が蹄を鳴らし、ゆっくりと走り出した。

 ミカは玄関前に立ち尽くし、遠ざかる馬車を見送った。
 風が外套の裾を揺らす。

(……どうか、無事に帰ってきてください。)

 目を閉じると、昨夜の声が耳の奥で蘇った。

 ――「待っていてくれ。」

 その言葉に応えるように、ミカは胸の前で両手を組んだ。

「約束ですから」

 風がやさしく頬を撫でる。
 遠くへ行く背中に、見えない糸が確かに繋がっているような気がした。
 やがて馬車の姿が森の向こうに消えると、ミカは深く息を吸った。

 今日からは、自分がこの館を守る番だ。
 リアムを、花々を、ダリウスの帰る場所を。
 胸の奥で小さく呟く。

「――待っています」

 朝日が高く昇り、館の屋根に光が差した。
 風が花々を撫で、遠くで、春を告げる鐘が鳴った。
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