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最終話 未来の約束
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夜が明ける。
石壁の高窓から差し込む淡い光が、禁書庫の埃を金色に浮かび上がらせた。
カミルは目を覚ますと、すぐ傍で規則正しく響く鼓動に気づいた。腕の中にいるのは自分で、抱き寄せているのはセドリックだ。昨夜の記憶が波のように寄せては返し、胸を温かく満たしていく。
「……体調はどうだ?」
低く落とす声は、相変わらず真っ直ぐだ。
「はい、大丈夫です。……ありがとうございます」
そう答えると、彼は安心したように瞼を下ろし、額に短い口づけを落とした。
「そうか。……名残惜しいが、支度しよう」
「……はい」
短い返事に、言葉にできない多くを込める。恐怖の残滓はまだ完全には消えない。それでも“痛みだけではない”ことを昨夜の彼は教えてくれた。ゆっくり、丁寧に。自分の声を聞いてくれる人がいるという事実が、こんなにも心を軽くする。
朝の点検が始まる前、二人は名残惜しさを押し隠して身支度を整えた。扉の取っ手に指をかける直前、セドリックは改めて振り返る。
「昼過ぎには戻る。今日は父上に呼ばれている」
「……はい」
「……縁談の件だが、心配するな」
その一語に、胸の奥がわずかに冷える。カミルは何とか微笑を作った。
「お気をつけて。私は職務に戻ります」
「あぁ、終わったら、ここに帰る」
“帰る”という言い回しに、ふっと胸が温かくなった。
***
午前の図書館は来館者で適度な賑わいがあった。学者が筆を走らせ、貴族の若者が指導教官に叱られ、衛兵の足音が遠くに消える。いつもの風景。――しかし、囁かれる声はいつもより具体的だった。
「ヴァレンティス公子、今日中にも縁談を承諾なさるとか」
「相手は北境を治める侯爵家の令嬢よ。政略としては最善」
「浮ついていると思いきや、とうとう家のために……」
やめてほしい、と喉まで出かかった言葉を呑み込む。
それは私の務めと関係がない――何度も自分に言い聞かせてきた定型句だ。
今日は、胸のどこかで小さく軋む音がした。昨夜、彼が見せた真剣な目と「離さない」という誓いが、囁きに押し流されない杭のように心に残る。
(……信じるって決めたじゃないか)
記録の束を抱え直し、禁書庫の奥へ戻る。厚い扉が閉まると、外のさざめきは遠のき、紙の匂いと自分の呼吸だけが残った。静寂はいつもと同じ、なのに心はふと明るい窓辺を探す。そこに立つ黒髪の青年を、勝手に思い浮かべてしまう。
***
同じ頃、王城の会議室では冷たい声が響いていた。
現宰相――セドリックの父は、机上に並べた案件を整然と片づけ、最後に一枚の書面を差し出す。
「北境侯爵家との縁組。今季の議会前に確定させる」
「お断りする」
即答。椅子の背で指先が固く止まる。
「理由は」
「俺には誓うべき相手がいる」
「あの司書か」
わずかに間を置いたのち、冷たく言い当てられ、セドリックは目を細めた。
「ご存じでしたか」
「遊びなら構わん」
「遊びではない」
「ならば、認められない」
父は書面を指先で押し返す。
「私情で政を乱すな。婚姻は個の幸福だけで決められぬ。お前は次期宰相だ」
「その“次期宰相”が、選びもしない相手と生涯を誓って、どんな顔で国に誠実を説く?」
視線が交錯する。長い沈黙。やがて父は深い息を吐いた。
「……議会までに考え直せ」
「貴方に何を言われようとを改める気はない――俺は、彼を選ぶ」
椅子が床を擦る音がやけに大きく響いた。
***
午後の光が傾きかけた頃、禁書庫の扉が小さく叩かれた。
振り向いたカミルの胸に、音もなく安堵が広がる。セドリックだ。外套は薄く雨に濡れ、息は急いできた証のように少し荒い。
「……遅くなってすまない」
「セドリック様、お帰りなさい」
「あぁ、ただいま。カミル、これを」
セドリックは短く笑い、懐から小さな包みを取り出した。濃紺の布に包まれたそれを開くと、細い鎖に通された指輪が現れる。家紋は刻まれていない。どこの家とも結びつかない、ただの輪。
「印はつけない。家の名も、地位も、ここには要らないから」
鎖が掌で細く光る。
「受け取ってくれるか。俺が誰を選ぶのか、まずはお前にだけきちんと示したい」
喉がきゅっと締まる。今にも涙があふれそうだ。
「……セドリック様、でも」
「心配するなと言ったろ?父上には断った。今日、正式に」
「そんな……」
「俺の決定だ。当然反発もあるだろう。噂も増える。――それでも、俺はお前と生きていくと決めたんだ」
彼は一歩近づき、鎖をそっと持ち上げる。
「お前の職務は尊重する。守秘義務も、ここで生きる選択も。だから、これは公に掲げなくていい。見せるのは、必要な時だけだ」
「必要な時……」
「この国は婚姻の形式は自由だが、俺はお前との婚姻を確かなものにするために“誓約書”を提出するつもりだ。――もちろん、禁書庫の管理に支障が出ない手順で進めるから、カミルの仕事に支障はない。ただ、提出の時はこの指輪を身に付けて、一緒に来てほしい」
次々と示される具体が、単なる衝動ではないことを語っていた。カミルは胸の奥がじんわり温まるのを感じる。
「……はい、セドリック様」
「それから。騎士の件は、近衛の監督下で審理に入る。禁書庫と館内居住区への接近は禁止、衛兵の巡回を増やした。もう二度と、あいつはここへ来られない」
安堵が波のように押し寄せ、膝から力が抜けそうになる。セドリックはすぐ支え、苦笑いを浮かべた。
「怖くなったら、これを握れ」
彼は指輪の鎖をカミルの掌に載せた。金属はひんやりしているのに、不思議と心は暖かい。
「カミル、俺はもうお前に決めた。だから、お前の為になんでもしよう」
「……あなたは、いつもそうですね。強引で、真っ直ぐで」
「嫌か?」
「……いいえ。いいえ、セドリック様、本当に嬉しいのです」
鎖をそっと首に回し、襟の内側に隠す。肌に当たる冷たさが、確かな実感になって残る。
カミルは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。昨夜から胸の奥に積もったものが、少しずつ形を変えていく。
「セドリック様」
「ん?」
「私は――ここを離れられません。禁書庫も、知識も、ここで守り続けたい。……それでも、あなたの隣にいてよろしいのなら」
「いてくれ、カミル」
食い気味に返ってくる。
「お前が怖いなら、公に出る時は俺が盾になる、心配しなくていい。それから、お前の意志も規則も尊重したい。生活を共にすることは難しいかもしれないが、会える時間をできる限り増やそう」
「……本当に?そこまでしてくださるのですか」
「そうだ。」
沈黙が落ちる。
カミルは視線を落とし、セドリックの袖をぎゅっと掴んだ。
「……で、では、私からもひとつだけ」
「何だ」
「あなたのように上手く言えませんけれど――セドリック様、……あの、あ、愛しています!」
セドリックは息を飲み、それからゆっくり笑った。
「あぁ、嬉しいよ、カミル」
カミルは恥ずかしさに顔を上げられなかった。
そんなカミルを強く引き寄せ、腕の中にしっかり抱き込むと、耳元で囁いた。
「愛しい俺のカミル、このまま押し倒してしまいたいよ」
「!?」
からかう響きの奥に、まぎれもない誠実がある。
カミルは真っ赤な顔をして、セドリックの胸に顔をうずめた。
恐怖は消えない。過去も消えない。けれど、それらはもう“今”を覆い尽くすほど大きくはない。
この人となら、この自分が抱えてきたもの全てを包み込んで、前を向ける気がした。
***
ある朝、セドリックは封筒を持ってきた。王家の紋章が蝋で封じられた、公式文書。
「予備審査が通った。“誓約書”は法の範囲内で受理される見込みだ。安心してくれ。公開は――」
「公開は最小限にお願いします」
「分かった。そうしよう」
封筒を閉じ、二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
鐘が鳴るわけでも、旗がはためくわけでもない。それでも、二人の未来が着実に道を延ばしていく。
「……ありがとうございます、セドリック様」
自然にこぼれた言葉に、彼は首を振る。
「礼を言うのは俺だ。――お前が、俺を信じてくれたことに」
胸の奥で、あの小さな輪が微かに触れ合い、音を立てた気がした。
カミルは襟の内側に指を入れ、鎖を確認する。そこにある冷たさは、今や確かな温もりの印だ。
「セドリック様、これからも、ずっと隣にいてください」
「ああ、カミル。何があっても離さない」
オルフェリス王国の静かな朝。
紙の匂いと光に満たされた図書館の片隅で、二人は未来へと続く小さな誓いを重ねた。
――これからも隣に、という約束を。
石壁の高窓から差し込む淡い光が、禁書庫の埃を金色に浮かび上がらせた。
カミルは目を覚ますと、すぐ傍で規則正しく響く鼓動に気づいた。腕の中にいるのは自分で、抱き寄せているのはセドリックだ。昨夜の記憶が波のように寄せては返し、胸を温かく満たしていく。
「……体調はどうだ?」
低く落とす声は、相変わらず真っ直ぐだ。
「はい、大丈夫です。……ありがとうございます」
そう答えると、彼は安心したように瞼を下ろし、額に短い口づけを落とした。
「そうか。……名残惜しいが、支度しよう」
「……はい」
短い返事に、言葉にできない多くを込める。恐怖の残滓はまだ完全には消えない。それでも“痛みだけではない”ことを昨夜の彼は教えてくれた。ゆっくり、丁寧に。自分の声を聞いてくれる人がいるという事実が、こんなにも心を軽くする。
朝の点検が始まる前、二人は名残惜しさを押し隠して身支度を整えた。扉の取っ手に指をかける直前、セドリックは改めて振り返る。
「昼過ぎには戻る。今日は父上に呼ばれている」
「……はい」
「……縁談の件だが、心配するな」
その一語に、胸の奥がわずかに冷える。カミルは何とか微笑を作った。
「お気をつけて。私は職務に戻ります」
「あぁ、終わったら、ここに帰る」
“帰る”という言い回しに、ふっと胸が温かくなった。
***
午前の図書館は来館者で適度な賑わいがあった。学者が筆を走らせ、貴族の若者が指導教官に叱られ、衛兵の足音が遠くに消える。いつもの風景。――しかし、囁かれる声はいつもより具体的だった。
「ヴァレンティス公子、今日中にも縁談を承諾なさるとか」
「相手は北境を治める侯爵家の令嬢よ。政略としては最善」
「浮ついていると思いきや、とうとう家のために……」
やめてほしい、と喉まで出かかった言葉を呑み込む。
それは私の務めと関係がない――何度も自分に言い聞かせてきた定型句だ。
今日は、胸のどこかで小さく軋む音がした。昨夜、彼が見せた真剣な目と「離さない」という誓いが、囁きに押し流されない杭のように心に残る。
(……信じるって決めたじゃないか)
記録の束を抱え直し、禁書庫の奥へ戻る。厚い扉が閉まると、外のさざめきは遠のき、紙の匂いと自分の呼吸だけが残った。静寂はいつもと同じ、なのに心はふと明るい窓辺を探す。そこに立つ黒髪の青年を、勝手に思い浮かべてしまう。
***
同じ頃、王城の会議室では冷たい声が響いていた。
現宰相――セドリックの父は、机上に並べた案件を整然と片づけ、最後に一枚の書面を差し出す。
「北境侯爵家との縁組。今季の議会前に確定させる」
「お断りする」
即答。椅子の背で指先が固く止まる。
「理由は」
「俺には誓うべき相手がいる」
「あの司書か」
わずかに間を置いたのち、冷たく言い当てられ、セドリックは目を細めた。
「ご存じでしたか」
「遊びなら構わん」
「遊びではない」
「ならば、認められない」
父は書面を指先で押し返す。
「私情で政を乱すな。婚姻は個の幸福だけで決められぬ。お前は次期宰相だ」
「その“次期宰相”が、選びもしない相手と生涯を誓って、どんな顔で国に誠実を説く?」
視線が交錯する。長い沈黙。やがて父は深い息を吐いた。
「……議会までに考え直せ」
「貴方に何を言われようとを改める気はない――俺は、彼を選ぶ」
椅子が床を擦る音がやけに大きく響いた。
***
午後の光が傾きかけた頃、禁書庫の扉が小さく叩かれた。
振り向いたカミルの胸に、音もなく安堵が広がる。セドリックだ。外套は薄く雨に濡れ、息は急いできた証のように少し荒い。
「……遅くなってすまない」
「セドリック様、お帰りなさい」
「あぁ、ただいま。カミル、これを」
セドリックは短く笑い、懐から小さな包みを取り出した。濃紺の布に包まれたそれを開くと、細い鎖に通された指輪が現れる。家紋は刻まれていない。どこの家とも結びつかない、ただの輪。
「印はつけない。家の名も、地位も、ここには要らないから」
鎖が掌で細く光る。
「受け取ってくれるか。俺が誰を選ぶのか、まずはお前にだけきちんと示したい」
喉がきゅっと締まる。今にも涙があふれそうだ。
「……セドリック様、でも」
「心配するなと言ったろ?父上には断った。今日、正式に」
「そんな……」
「俺の決定だ。当然反発もあるだろう。噂も増える。――それでも、俺はお前と生きていくと決めたんだ」
彼は一歩近づき、鎖をそっと持ち上げる。
「お前の職務は尊重する。守秘義務も、ここで生きる選択も。だから、これは公に掲げなくていい。見せるのは、必要な時だけだ」
「必要な時……」
「この国は婚姻の形式は自由だが、俺はお前との婚姻を確かなものにするために“誓約書”を提出するつもりだ。――もちろん、禁書庫の管理に支障が出ない手順で進めるから、カミルの仕事に支障はない。ただ、提出の時はこの指輪を身に付けて、一緒に来てほしい」
次々と示される具体が、単なる衝動ではないことを語っていた。カミルは胸の奥がじんわり温まるのを感じる。
「……はい、セドリック様」
「それから。騎士の件は、近衛の監督下で審理に入る。禁書庫と館内居住区への接近は禁止、衛兵の巡回を増やした。もう二度と、あいつはここへ来られない」
安堵が波のように押し寄せ、膝から力が抜けそうになる。セドリックはすぐ支え、苦笑いを浮かべた。
「怖くなったら、これを握れ」
彼は指輪の鎖をカミルの掌に載せた。金属はひんやりしているのに、不思議と心は暖かい。
「カミル、俺はもうお前に決めた。だから、お前の為になんでもしよう」
「……あなたは、いつもそうですね。強引で、真っ直ぐで」
「嫌か?」
「……いいえ。いいえ、セドリック様、本当に嬉しいのです」
鎖をそっと首に回し、襟の内側に隠す。肌に当たる冷たさが、確かな実感になって残る。
カミルは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。昨夜から胸の奥に積もったものが、少しずつ形を変えていく。
「セドリック様」
「ん?」
「私は――ここを離れられません。禁書庫も、知識も、ここで守り続けたい。……それでも、あなたの隣にいてよろしいのなら」
「いてくれ、カミル」
食い気味に返ってくる。
「お前が怖いなら、公に出る時は俺が盾になる、心配しなくていい。それから、お前の意志も規則も尊重したい。生活を共にすることは難しいかもしれないが、会える時間をできる限り増やそう」
「……本当に?そこまでしてくださるのですか」
「そうだ。」
沈黙が落ちる。
カミルは視線を落とし、セドリックの袖をぎゅっと掴んだ。
「……で、では、私からもひとつだけ」
「何だ」
「あなたのように上手く言えませんけれど――セドリック様、……あの、あ、愛しています!」
セドリックは息を飲み、それからゆっくり笑った。
「あぁ、嬉しいよ、カミル」
カミルは恥ずかしさに顔を上げられなかった。
そんなカミルを強く引き寄せ、腕の中にしっかり抱き込むと、耳元で囁いた。
「愛しい俺のカミル、このまま押し倒してしまいたいよ」
「!?」
からかう響きの奥に、まぎれもない誠実がある。
カミルは真っ赤な顔をして、セドリックの胸に顔をうずめた。
恐怖は消えない。過去も消えない。けれど、それらはもう“今”を覆い尽くすほど大きくはない。
この人となら、この自分が抱えてきたもの全てを包み込んで、前を向ける気がした。
***
ある朝、セドリックは封筒を持ってきた。王家の紋章が蝋で封じられた、公式文書。
「予備審査が通った。“誓約書”は法の範囲内で受理される見込みだ。安心してくれ。公開は――」
「公開は最小限にお願いします」
「分かった。そうしよう」
封筒を閉じ、二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
鐘が鳴るわけでも、旗がはためくわけでもない。それでも、二人の未来が着実に道を延ばしていく。
「……ありがとうございます、セドリック様」
自然にこぼれた言葉に、彼は首を振る。
「礼を言うのは俺だ。――お前が、俺を信じてくれたことに」
胸の奥で、あの小さな輪が微かに触れ合い、音を立てた気がした。
カミルは襟の内側に指を入れ、鎖を確認する。そこにある冷たさは、今や確かな温もりの印だ。
「セドリック様、これからも、ずっと隣にいてください」
「ああ、カミル。何があっても離さない」
オルフェリス王国の静かな朝。
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