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第九話
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どれくらい眠っていただろうか。
目を覚ますと、部屋は美しい茜色に染まっていた。
腕の中には、すぅすぅと穏やかな寝息を立てる栞がいる。夕陽に照らされたその寝顔は、まるで幼子のように無垢で、俺は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
もう、俺の知らない香水の匂いはしない。
代わりに、俺の部屋の柔軟剤と、シャンプーと、そして栞自身の甘い匂いが混じり合って、心を安らげる香りを放っている。
俺はこの匂いを、一生かけて守っていくのだと、強く心に誓った。
そっと額にキスを落とすと、栞の長い睫毛がぴくりと震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
「……ん……みなと……?」
「起きたか。おはよう、寝坊助さん」
「……おはよう……」
まだ夢の中にいるような、とろりとした声で挨拶を返す彼女が、どうしようもなく愛おしい。
俺たちはどちらからともなく微笑み合い、もう一度、深く唇を重ねた。
それは、挨拶代わりの、ひどく優しいキスだった。
「……腹、減ったな」
静寂を破ったのは、俺の腹の虫だった。
途端に、栞が「ふふっ」と吹き出す。
「本当だ。湊、昔からいいところでお腹鳴るよね」
「うるせえよ」
軽口を叩き合いながら、ベッドから起き上がる。
当たり前の会話、当たり前の日常。その一つ一つが、失われた四年間を埋めていくように、俺たちの間に積み重なっていく。
「何か作るよ。冷蔵庫、何かあったか?」
「……卵と、ネギと、賞味期限切れ間近の豆腐くらいしか」
「……買い出し、行こっか」
二人で顔を見合わせて笑い合った。
クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替え、アパートのドアを開ける。
繋いだ手に、もうためらいはない。
夕暮れの商店街を、ごく普通の恋人同士のように、並んで歩く。八百屋の親父さんの威勢のいい声。惣菜屋から漂う、香ばしい匂い。そのすべてが、俺たちの新しい門出を祝福してくれているようだった。
スーパーの中、カートを押しながら食材を見て回る。
「栞、何食べたい?」
「んー……湊の作る、生姜焼きが食べたいな」
「……覚えてたのかよ、そんなの」
「当たり前でしょ。私の好物だもん」
少しだけ得意げに笑う彼女の顔を見ていると、胸がぎゅうっと締め付けられる。
忘れていたわけじゃない。忘れたふりをしていただけだ。
この笑顔も、声も、仕草も、全部、俺の心の奥底に大切にしまってあった宝物だったんだ。
その時だった。
栞が手にしていたスマホが、ブブッ、と短く震えた。
画面に表示された名前に、彼女の表情がこわばる。元カレからの着信だった。
俺は咄嗟に「俺が出る」と言いかけた。だが、それよりも早く、栞は自らの指で、画面の赤いボタンをスライドさせた。
そして、そのまま迷いなく電源を長押しし、画面の光を消し去った。
「……いいのか?」
「……うん」
彼女は、俺の目をまっすぐに見て、微笑んだ。
それは、無理をした笑顔じゃない。憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
「もう、大丈夫だから。……私には、湊がいるから」
その言葉だけで、十分だった。
俺は黙って、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。
もう、この女は大丈夫だ。俺がいなくても、きっと一人で強く生きていける。
でも、俺が、こいつの隣にいたいんだ。
部屋に戻り、二人で並んでキッチンに立つ。
俺が豚肉を炒め、栞がキャベツを刻む。トントン、という小気味よい包丁の音と、ジュウ、という肉の焼ける音が、心地よいハーモニーを奏でていた。
四年前も、こうやって、何度も一緒に料理をした。
あの頃と何も変わらない光景が、今ここにある。その奇跡に、少しだけ泣きそうになった。
ローテーブルに並べられた、ほかほかの生姜焼きと、炊きたてのご飯。
向かい合って、手を合わせる。
「いただきます」
「……うん、おいしい! この味!」
「当たり前だろ。誰が作ったと思ってんだ」
満面の笑みでご飯を頬張る栞を見ているだけで、腹がいっぱいになる。
食後、俺が淹れたコーヒーを飲みながら、栞がぽつりと呟いた。
「……これから、どうしようかな。仕事も、家も……」
「焦んなよ。ゆっくり考えればいい」
「でも……」
「俺がいるだろ」
俺はコーヒーカップを置き、彼女の前に跪くように座り直した。
そして、その小さな両手を取る。
「だから、ちゃんと、言わせてくれ」
栞が、息を呑むのが分かった。
俺は、四年間ずっと言えなかった言葉を、まっすぐに、彼女の瞳に届けた。
「栞。俺と、もう一度、付き合ってください」
俺の言葉に、栞の大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
でも、それは悲しみの涙じゃない。
「……はい」
しゃくり上げながらも、彼女は、世界で一番優しい声で、そう答えてくれた。
「……喜んで」
俺たちは、ようやく本当の意味で、恋人同士になった。
失われた時間を取り戻すための、長くて、甘い旅が、今、始まったのだ。
【了】
目を覚ますと、部屋は美しい茜色に染まっていた。
腕の中には、すぅすぅと穏やかな寝息を立てる栞がいる。夕陽に照らされたその寝顔は、まるで幼子のように無垢で、俺は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
もう、俺の知らない香水の匂いはしない。
代わりに、俺の部屋の柔軟剤と、シャンプーと、そして栞自身の甘い匂いが混じり合って、心を安らげる香りを放っている。
俺はこの匂いを、一生かけて守っていくのだと、強く心に誓った。
そっと額にキスを落とすと、栞の長い睫毛がぴくりと震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
「……ん……みなと……?」
「起きたか。おはよう、寝坊助さん」
「……おはよう……」
まだ夢の中にいるような、とろりとした声で挨拶を返す彼女が、どうしようもなく愛おしい。
俺たちはどちらからともなく微笑み合い、もう一度、深く唇を重ねた。
それは、挨拶代わりの、ひどく優しいキスだった。
「……腹、減ったな」
静寂を破ったのは、俺の腹の虫だった。
途端に、栞が「ふふっ」と吹き出す。
「本当だ。湊、昔からいいところでお腹鳴るよね」
「うるせえよ」
軽口を叩き合いながら、ベッドから起き上がる。
当たり前の会話、当たり前の日常。その一つ一つが、失われた四年間を埋めていくように、俺たちの間に積み重なっていく。
「何か作るよ。冷蔵庫、何かあったか?」
「……卵と、ネギと、賞味期限切れ間近の豆腐くらいしか」
「……買い出し、行こっか」
二人で顔を見合わせて笑い合った。
クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替え、アパートのドアを開ける。
繋いだ手に、もうためらいはない。
夕暮れの商店街を、ごく普通の恋人同士のように、並んで歩く。八百屋の親父さんの威勢のいい声。惣菜屋から漂う、香ばしい匂い。そのすべてが、俺たちの新しい門出を祝福してくれているようだった。
スーパーの中、カートを押しながら食材を見て回る。
「栞、何食べたい?」
「んー……湊の作る、生姜焼きが食べたいな」
「……覚えてたのかよ、そんなの」
「当たり前でしょ。私の好物だもん」
少しだけ得意げに笑う彼女の顔を見ていると、胸がぎゅうっと締め付けられる。
忘れていたわけじゃない。忘れたふりをしていただけだ。
この笑顔も、声も、仕草も、全部、俺の心の奥底に大切にしまってあった宝物だったんだ。
その時だった。
栞が手にしていたスマホが、ブブッ、と短く震えた。
画面に表示された名前に、彼女の表情がこわばる。元カレからの着信だった。
俺は咄嗟に「俺が出る」と言いかけた。だが、それよりも早く、栞は自らの指で、画面の赤いボタンをスライドさせた。
そして、そのまま迷いなく電源を長押しし、画面の光を消し去った。
「……いいのか?」
「……うん」
彼女は、俺の目をまっすぐに見て、微笑んだ。
それは、無理をした笑顔じゃない。憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
「もう、大丈夫だから。……私には、湊がいるから」
その言葉だけで、十分だった。
俺は黙って、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。
もう、この女は大丈夫だ。俺がいなくても、きっと一人で強く生きていける。
でも、俺が、こいつの隣にいたいんだ。
部屋に戻り、二人で並んでキッチンに立つ。
俺が豚肉を炒め、栞がキャベツを刻む。トントン、という小気味よい包丁の音と、ジュウ、という肉の焼ける音が、心地よいハーモニーを奏でていた。
四年前も、こうやって、何度も一緒に料理をした。
あの頃と何も変わらない光景が、今ここにある。その奇跡に、少しだけ泣きそうになった。
ローテーブルに並べられた、ほかほかの生姜焼きと、炊きたてのご飯。
向かい合って、手を合わせる。
「いただきます」
「……うん、おいしい! この味!」
「当たり前だろ。誰が作ったと思ってんだ」
満面の笑みでご飯を頬張る栞を見ているだけで、腹がいっぱいになる。
食後、俺が淹れたコーヒーを飲みながら、栞がぽつりと呟いた。
「……これから、どうしようかな。仕事も、家も……」
「焦んなよ。ゆっくり考えればいい」
「でも……」
「俺がいるだろ」
俺はコーヒーカップを置き、彼女の前に跪くように座り直した。
そして、その小さな両手を取る。
「だから、ちゃんと、言わせてくれ」
栞が、息を呑むのが分かった。
俺は、四年間ずっと言えなかった言葉を、まっすぐに、彼女の瞳に届けた。
「栞。俺と、もう一度、付き合ってください」
俺の言葉に、栞の大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
でも、それは悲しみの涙じゃない。
「……はい」
しゃくり上げながらも、彼女は、世界で一番優しい声で、そう答えてくれた。
「……喜んで」
俺たちは、ようやく本当の意味で、恋人同士になった。
失われた時間を取り戻すための、長くて、甘い旅が、今、始まったのだ。
【了】
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